昨日も少し書いたけれど、わたしはずっと生意気だった。
だが、ある集団において生意気でいられるためには、一定の条件が必要だ。
その人が相対的に年少者で、責任がないこと。
周囲の年長者・責任者がその生意気を許すこと。
たとえばその人が七十代だって、「老人会」に参加したばかりの若手なら、生意気でいられる。こんなやり方は古くさい、きょうびの「老人」は、こんな古くさいやり方には馴染まない、といって、八十代の中堅とか、九十代の古参とかに楯突くこともできる。
十六歳だって、ボーイスカウトや小学生相手のキャンプのリーダーを努めるときは、生意気なことを言う小学生の話に、黙って耳を傾けてやらなければならない。
こう考えていくと、ずっと生意気でいられたわたしは、大変周囲の人に恵まれていたのだし、それを良いことに好き放題やってきたのだと思う。よくまあ周囲が我慢してくれたものだ。
もしそういう人たちが、わたしの「生意気」な意見を、ひとつひとつ理論と経験の蓄積でもって論破していたらどうなっていただろう。もしかしたら、じきに恥をかくことを恐れるあまり、自分の意見を作ることすらしなくなっていったかもしれない。
少なくとも、自分で自分が生意気であったことに気がつき、自分の態度の誤りに気づき、さらには未熟な部分に気がつき、時間をかけながらそれを少しずつ修正してこれたのも、おそらく周囲の人が我慢してくれたからだ。
大目に見る、我慢する、言葉を換えていえば、ある程度までは放っておく、と言ってもいいかもしれない。おそらくそんなやり方では失敗するだろうとわかっていて、けれどもわたしのやりたいようにやらせてくれて、現に失敗してしまったようなこともあったにちがいない。「それ見たことか」と言いたいようなときもあっただろう。だが、ありがたいことに、わたしはどれだけ失敗しても、周囲の人からそんなふうに言われたことだけはなかった。
だから、次第に生意気であることが許されなくなってきたいま、わたしも年少の人、自分より経験の少ない人に対して、「そうなると思っていた」とだけは言うまいと固く心に誓っている。
ただ、教える側に回ってみれば、目の前で失敗へと至るプロセスを逐一見せられるのは辛いものだ。
よく、最近の親は過保護で、何でもかんでも親が手を出す、という言い方があるが、親が手を出すことと、過保護のあいだにはあまり関係はないように思う。たとえば二つぐらいの子が、靴をはこうとするのを見たことがある人ならわかると思うが、実際、靴を一足はくのに、いったいどのくらい時間がかかるかと思うぐらいだ。それをじっと見ているのは、おそろしいほどの忍耐力が必要で、たいていは待ちきれなくて手を出してしまうのである。だからそんなとき、修行だ、と思ってそれに耐えるか(笑)、そうでなければ一応目の届く範囲で、何かほかのことをしていた方がいいように思う。おそらく何でも手を出す親は、いろんな理由でその余裕がないのだ。
わたしの周囲の人たちは、わたしが失敗するプロセスを逐一見守ってくれていたのか、というと、どうもそうではなかったような気がする。それぞれに自分自身の課題や仕事を持ちながら、そのひとつとしてわたしの面倒を見てくれていた。おそらくわたしを育てるという仕事は、その人たちにとって、それほどのプライオリティがあるものではなかったろう。だからこそ、好き放題にさせてくれたのだろうし、わたしの方も勝手に育つこともできたのだ。
そんなふうに考えていくと、育てる-育てられるという関係は、全身全霊をかけて向き合うものではないように思えてくる。何にせよ、育てられる側には、自分が育ちたい、というか、いまのままではいたくない、いられない、という強力な動機が不可欠で、そんなものを持っている子なら、放っておいても勝手に育つのだ。話を聞いてほしがるときに、ふんふんと聞いてやり、ときどき、様子を見てやるぐらいで充分のような気がする。なにしろこのわたしがそれで何とかここまで来れたのだから。問題は、自分が育ちたいという動機を欠いている人、自分はこのままでいたい、このままの自分をそのまま認めてほしい、自分を認めてくれない世間が悪い、というタイプなのだが、これはまたちがう話になっていくので、またいつか。
だが、ある集団において生意気でいられるためには、一定の条件が必要だ。
その人が相対的に年少者で、責任がないこと。
周囲の年長者・責任者がその生意気を許すこと。
たとえばその人が七十代だって、「老人会」に参加したばかりの若手なら、生意気でいられる。こんなやり方は古くさい、きょうびの「老人」は、こんな古くさいやり方には馴染まない、といって、八十代の中堅とか、九十代の古参とかに楯突くこともできる。
十六歳だって、ボーイスカウトや小学生相手のキャンプのリーダーを努めるときは、生意気なことを言う小学生の話に、黙って耳を傾けてやらなければならない。
こう考えていくと、ずっと生意気でいられたわたしは、大変周囲の人に恵まれていたのだし、それを良いことに好き放題やってきたのだと思う。よくまあ周囲が我慢してくれたものだ。
もしそういう人たちが、わたしの「生意気」な意見を、ひとつひとつ理論と経験の蓄積でもって論破していたらどうなっていただろう。もしかしたら、じきに恥をかくことを恐れるあまり、自分の意見を作ることすらしなくなっていったかもしれない。
少なくとも、自分で自分が生意気であったことに気がつき、自分の態度の誤りに気づき、さらには未熟な部分に気がつき、時間をかけながらそれを少しずつ修正してこれたのも、おそらく周囲の人が我慢してくれたからだ。
大目に見る、我慢する、言葉を換えていえば、ある程度までは放っておく、と言ってもいいかもしれない。おそらくそんなやり方では失敗するだろうとわかっていて、けれどもわたしのやりたいようにやらせてくれて、現に失敗してしまったようなこともあったにちがいない。「それ見たことか」と言いたいようなときもあっただろう。だが、ありがたいことに、わたしはどれだけ失敗しても、周囲の人からそんなふうに言われたことだけはなかった。
だから、次第に生意気であることが許されなくなってきたいま、わたしも年少の人、自分より経験の少ない人に対して、「そうなると思っていた」とだけは言うまいと固く心に誓っている。
ただ、教える側に回ってみれば、目の前で失敗へと至るプロセスを逐一見せられるのは辛いものだ。
よく、最近の親は過保護で、何でもかんでも親が手を出す、という言い方があるが、親が手を出すことと、過保護のあいだにはあまり関係はないように思う。たとえば二つぐらいの子が、靴をはこうとするのを見たことがある人ならわかると思うが、実際、靴を一足はくのに、いったいどのくらい時間がかかるかと思うぐらいだ。それをじっと見ているのは、おそろしいほどの忍耐力が必要で、たいていは待ちきれなくて手を出してしまうのである。だからそんなとき、修行だ、と思ってそれに耐えるか(笑)、そうでなければ一応目の届く範囲で、何かほかのことをしていた方がいいように思う。おそらく何でも手を出す親は、いろんな理由でその余裕がないのだ。
わたしの周囲の人たちは、わたしが失敗するプロセスを逐一見守ってくれていたのか、というと、どうもそうではなかったような気がする。それぞれに自分自身の課題や仕事を持ちながら、そのひとつとしてわたしの面倒を見てくれていた。おそらくわたしを育てるという仕事は、その人たちにとって、それほどのプライオリティがあるものではなかったろう。だからこそ、好き放題にさせてくれたのだろうし、わたしの方も勝手に育つこともできたのだ。
そんなふうに考えていくと、育てる-育てられるという関係は、全身全霊をかけて向き合うものではないように思えてくる。何にせよ、育てられる側には、自分が育ちたい、というか、いまのままではいたくない、いられない、という強力な動機が不可欠で、そんなものを持っている子なら、放っておいても勝手に育つのだ。話を聞いてほしがるときに、ふんふんと聞いてやり、ときどき、様子を見てやるぐらいで充分のような気がする。なにしろこのわたしがそれで何とかここまで来れたのだから。問題は、自分が育ちたいという動機を欠いている人、自分はこのままでいたい、このままの自分をそのまま認めてほしい、自分を認めてくれない世間が悪い、というタイプなのだが、これはまたちがう話になっていくので、またいつか。