陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

選挙って何だっけ

2009-08-30 23:03:03 | weblog
毛穴の詰まったような顔、という言い方をしてわかってもらえるだろうか。

ペナントレースも終盤戦にさしかかり、優勝チームを追いかけている二番手のチームが、ある日のゲームで敗色濃厚、最終回の攻撃でバッターボックスに立つ選手の顔がアップになる。妙に顔色が悪く、脂っぽく、しかも毛穴の詰まったような顔になっている。そんな選手は絶対に打てない。

試験前の受験生でも、たまにそんな顔になっている子がいるし、オリンピックでもそんな顔を見かける。おそらく「ばくち打ち」というのも、そんな顔をしているのではあるまいか。

緊張というのともちょっとちがう、とにかく毛穴が詰まって、呼吸はおそらく浅くなり、血液の循環も悪くなっているんだろうなあ、という顔だ。おそらくそうなってしまうと自分の身体を思い通り動かすこともできず、頭も普段通りに働くことはないだろう。

昨日、駅前で衆議院選挙の候補者が街頭演説をしているのを見かけた。見事なまでに毛穴の詰まった顔をして、割れてかすれた声を張り上げて、自分の名前ばかり繰りかえしていた。だが、その人は、いわゆる「追い風に乗っている」側の人で、おそらく当選するのはその人であろうという評判だったのだ。

それを見ながら、たとえ「当確」と目されていても、実際のところ、候補者には結果が出るまではわからないのだ、ということがよくわかった。どれだけ前評判が高くても、「追い風」だの何だのと言われようとも、当選するかどうかわからないからこそ、そこまで追い込まれ、煮詰まった顔になっていたのだろう。

街頭演説すれば、人は立ち止まったり、立ち止まらなかったりする。宣伝カーの窓から手を振れば、手を振り返す人もいれば、無視して通り過ぎる人もいる。やかましいと露骨に顔をしかめる人もいるかもしれない。

自分は当選するのか、落選するのか。

民意というのはいったい何なのだろう。
人びとのまなざしや、表情から読みとろうとすればするほど、候補者はいよいよわからなくなり、追いつめられていくのかもしれない。握手をして、握り返した相手の力のこめ具合に、自分への支持を読みとろうにも、候補者は気まぐれだ。別の候補者が街頭に立てば、そちらの候補者と握手するかもしれない。

以前は選挙といえば、宣伝カーで自分の名前を繰りかえすことしかしない候補者が不思議だった。なぜ政治にたいするビジョンなり、政策なりを訴えないのだろうかと。

だが、政策で支持・不支持が決まるなら、そもそも選挙運動をするまでもないのだ。あるいは、政党の支持・不支持で各候補者の当選・落選が決まるのであれば。

現実の選挙はどうなるかわからない。個々の人びとが一体誰を選ぶのか、誰にもそれはわからない。だからこそ、名前をひたすら繰りかえし、考えなくても(あるいは、何も考えないで)その名前を書いてもらえるように、なおも繰りかえし、お願いを続けるのだろう。

選挙って何なのだろう。