陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『生きていたパスカル』の話

2009-08-31 23:06:28 | weblog
イタリアの劇作家ルイージ・ピランデッロの小説に『生きていたパスカル』という本がある。パスカルといっても、フランスの数学者でもあり哲学者でもあったブレーズ・パスカルとは直接の関係はない。

主人公はイタリアの田舎町に住むマッティーア・パスカルという人物である。
彼の父親は、その村に大きなオリーヴ畠や農園や家作を持つ地主だった。もっとも、土地の古老は、彼がその元手にしたのは、若い頃、賭け事で儲けた金である、若き日の父親に身ぐるみ剥がれたイギリス船の船長は、そのまま自殺してしまったのだ、と噂するのだった。

だが、主人公が五歳ときにこの父親は亡くなってしまう。残された母親と主人公と弟は、それでも気ままに日を過ごしていたが、主人公が成人するころには、財産の管理をしていた執事にすっかり財産を奪われてしまっていた。

貧乏になった主人公は、同じく貧しい土地の娘の元に転がり込むようにして、夫婦生活を送っている。義母というのがまた小うるさい女。主人公の母親をいびり倒し、それを見かねた伯母が母親を引き取った。主人公は地元の図書館に勤めながら、義母と嫁に責められながら日を送っている。

ある日伯母から小金をこっそりもらったのを幸い、すっかり家族に嫌気がさして家出したマッティーアは、モンテカルロに向かう。そこで思いがけなく八万二千リラという大金を手に入れる。この金を元手に、人手に渡った地所を買い戻し…と考えているとき、自分の村で自殺死体が発見され、自分と断定された記事を新聞で読む。

自由の身になった、と考えたマッティーアは、名前も改め、ローマの下宿でひっそりと暮らすようになる。ところがそこの下宿屋は、降霊術にはまっている老人、先頃亡くなった上の姉の娘婿、一家を切り盛りしている娘、気の狂った娘婿の弟、加えて老人にお金を奪われ、娘婿とどうやら関係のあるらしいオールドミスの下宿人と、なかなか入り組んだ人間関係で、マッティーアも次第にそれにからめとられていく。

なかでも、働き者の娘に好意を寄せられ、マッティーアの心も動く。けれども、マッティーアは法律上は死んだ人間だから、いかなる関係も築くことはできない。娘をその境遇から引き上げてやりたいとも思うのだが、戸籍がなく、過去を偽ったままでは、結婚するどころか家を構えることさえできない。いずれにしても不幸は眼に見えているからと、身を引き、自分は自殺したことを装って、村に戻る。

村に戻ってみると、自分の元妻は、自分の旧友と結婚している。結局そこすらも彼の居場所はなかった。彼は、母親を引き取ってくれた伯母さんの元に身を寄せ、亡くなった母が最後を過ごしたベッドで寝、家出前に勤めていた図書館にふたたび舞い戻る。大昔から修道院に集められた古い本を相手に、同じように大昔から図書館で働いている老人と、霊廟のような場所で日々を送るようになる。ときどき、訪れる人もない、自分の名が記された墓に詣りながら。

自分に起こった一切を老人の助けを借りながら書いた、というのが、この本である、という体裁を取っている。邦題は『生きていたパスカル』だが原題は "Il Fu Mattia Pascal"、すなわち「故マッティーア・パスカル」である。
 私たち(※マッティーアと図書館で働くドン・エリージョ)は長いあいだ、私の事件についていっしょに議論してきた。そして私は、このような事件からどんな収穫をひきだすことができるか、私にはどうしてもわからないと、何べんも彼に言ってきたものだった。

「とにかく、こういうことでしょうかな」と、彼はそれにたいして言うのだ。「つまり、法律のもとを離れても、また幸、不幸を問わず、われわれがわれわれである、その固有の特殊性から抜け出しては、われわれは、ねえ、パスカル君、生きてはゆけない――とね」

 しかし私がそこで彼の注意を喚起させるのは、私が法律のもとにも、また私自身の特殊性にも、まったく復帰してはいないということである。私の妻はポミーノ(※主人公の旧友)の妻であり、私が私にとって何ものであるのか、私にはまるで言えそうもない。
(ピランデッロ『生きていたパスカル』米川良夫訳 福武文庫)
そうして主人公が自分の墓に詣でる場面でこの作品は終わる。

とまあこういう話なのだが、この本を読んで何よりも感じるのは、社会から何かの拍子にはみ出てしまった人間は、生きることはもちろん、死ぬことすらできず、いったんはみ出してしまうと、もはや元に戻ることさえできない、ということである。

図書館で本を借りるにしても、レンタルビデオ屋でDVDを借りるにしても、古本屋で本を売るにしても、定期券を買うにしても、銀行で口座を開くにしても、わたしたちは必ずIDカードの提示を求められる。社員証や運転免許証、保険証、パスポート、そうしたものがなければそういうことは何一つできない。生まれたときに交付された出生証明書で社会の一員として登録され、以降つねに「わたしが誰であるか」は、それを参照されるのである。

ところで、わたしがこの本のことを最初に知ったのは、松本清張の小説『生けるパスカル』でだった。かなり詳細に作品が紹介されているのだが、最後の場面がどういうわけかハッピーエンドになっているのだ。

確かにこの作品を下敷きにして犯行計画を立てる人物を主人公にしているのだから、ハッピーエンドにならなくては、そもそもの小説が成り立たないのかもしれない。だが、原作では主人公は「故マッティーア・パスカル」として、すでに死んでしまった作家たちの残した書籍に埋もれて、生と死のはざまで生きている。死を待つだけの日々を、ハッピーエンドと強弁するのはいかがなものか、と思うのである。

自分が自分であること。
それを証明してくれるのは、自分以外の人である。親がまず届け出をし、そこから社会システムの一員として認知される。それがなければ、「自分」は何者でもない。
何らかのエラーが起こり、システムから弾き出されてしまうと、もはやその人抜きで、社会は動き出してしまう。そうなると、たとえ戸籍が回復されたとしても、その人の居場所はなくなってしまい、死ぬことすらできなくなってしまうのだ。

この話を明日ももう少し。