日中は暑かったが、日が落ちてから、今日ははっとするほど涼しい風が吹いていた。もう立秋も過ぎていたのだ。立秋というと、この歌を思い出す。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
古今集のなかでも最も有名な歌のひとつだろう。あまりに人口に膾炙されすぎ、あえて取り上げるのも気恥ずかしさを感じるほどなのだが、わたしはこの歌に思い出があるのだ。
高校一年のときだった。週二時間の古文の授業を受け持ったのは、非常勤講師の女性だった。当時「おばさん」とばかり思っていたのだが、いま思えば、子供が小学校に上がったぐらいの年代、いまのわたしと同じか、若いぐらいの人だったのだろう。
何かの解釈をめぐってだったか、それとは関係のない話だったか忘れてしまったが、四月の授業が始まって回数も重ねないうちに、わたしはこの人のことをひどくつまらない先生だと結論を出した。
国語は実際、ほんとうに良い先生がたくさんいた学校だった。その前の年に教わった退官も間近の先生は、授業すべて録音しておきたいと思うような、中身の濃い授業を毎回してくださる先生だったし、現国の先生の話は、毎回、世の中にはこんなにおもしろい本があるのだと胸がわくわくするような講義をしてくれていた。そんななかに混じって、教科書を読み上げ、文法事項をいくつか指摘し、現代語に訳すという授業は、逆にひどく異質だったのだ。この人はこんな薄っぺらい、紙きれのような知識で教壇に立つのか、といった、義憤めいた気持ちがわたしの側にあったのだろう。
そう思う自分がいったいどれほどのものだったか、当時を振り返ると、そんな不遜なことを考えていた自分が恥ずかしくてたまらなくなるのだが、当時のわたしにとっては、自分は棚にあげて、その先生の「薄さ」が許し難いものに思えたのだった。そこでわたしは授業を聞かないことにした。
聞いていないことをデモンストレーションするべく、授業中は堂々とほかの本を広げて読むのである。とはいえそれで悪い点を取るのはくやしいので、中学の時から使っていた小西甚一の『古文研究法』で、家に帰って文法を一生懸命勉強した。
試験の答案が返ってきたとき、「勉強しない割には成績はいいのね」と小さい声でその先生から嫌みを言われ、やった、と胸の内で小さくガッツポーズをしたものだ。だが、考えてみれば文法なんてものをまじめにやったのはその一年だけ、結局それで受験まで乗り切ったのだから、意地を張るというのもいいところがあるのかもしれない。
その先生から見れば、さぞかし嫌みな生徒だったことだろう。だが、一度も注意されなかったのは、おそらく先生の側に、自分が非常勤だからという引け目があったにちがいなかった。そんなふうにイヤミを言うのが精一杯で、二学期からはそれさえも言わなくなっていた。
そんなふうに授業は聞かないことにしていた古文だったが、その先生が、教科書に載っていた藤原敏行の「秋来ぬと…」をとりあげて、こんな話をしていたのが耳に入ってきたことがある。
その先生が、子供の保育園のお迎えにいったときのこと。夏のさなかだったにもかかわらず、吹く風に秋を感じた、そのときにこの歌を思いだしたという。でも、周囲のほかのお母さん連中に言ったところで誰もわかってくれない、こんなことがわかるのは自分だけなんだ、と思った、という内容の話だった。
こんなに有名な歌を思い出すぐらいで、「自分だけ」もへったくれもないもんだ、と高校生のわたしは思ったのだったが、一方で、周囲の人に言ってもわかってもらえない、と思って、飲み込んでしまう、という気持ちは、ものすごくよくわかった。
自分の内に湧き上がった、もろい、ほんの一瞬でこわれてしまうあぶくのような感覚、なんだかそれはとても大切なもののように思える。だからそれをつなぎとめておきたい。言葉にして公然化し、誰かと共有したい。なのにその相手がいない。その願いも、それがかなわない寂しさも、わたしにはあまりに身近なものだったのだ(と、いまのわたしならそう説明するだろう)。
だが、一瞬感じた親近感も、長続きすることはなかった。やはりその先生はどこまでいってもその先生で、授業はつまらなく、解釈は薄っぺらく、その一瞬を除けば、まともに授業を聞いた記憶もない。いまとなってはその先生の名前も顔も覚えていないし、申し訳ないことをしたと思う反面、自分が教える経験をしてみれば、生徒からのそういう評価を受けとめて、そういう異議申し立てに応えるような授業をすべきだったのだろう、とも思う。
それでも、自分の感じたことを口にしようものなら、周囲から完全に浮いてしまうだろう、そう思って飲み込んでしまう経験は、それからのちも何度かくり返した。そうしながら、口にされない自分の感じたことを、いまここにいない人に向けて伝えるために、頭の中や、文章にして、言葉を組み立てていく、という回路を自分の中に作っていくようになった。
いま、目の前に伝えたいその人がいなくても、「いない」という存在の仕方で、そこにいることができる人がいる。その人に、伝えることは可能なのだ。そうすることで、あぶくはあぶくではなくなる。
人は千年以上、夏の日差しのなかをよぎる、その年最初の秋の風に驚いてきたのだ。日向をさっとかすめる雲の翳りを。
もうすぐ、夏は行ってしまう。
行ってしまう、ということで、夏は、いまがまだ夏であることを教えてくれる。
ちょうど、不在の人が、不在であることによってその存在を意識させるように。
「つまらない先生」のたった一度の、ほんの一言が、いつまでも記憶に残っていくように。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
古今集のなかでも最も有名な歌のひとつだろう。あまりに人口に膾炙されすぎ、あえて取り上げるのも気恥ずかしさを感じるほどなのだが、わたしはこの歌に思い出があるのだ。
高校一年のときだった。週二時間の古文の授業を受け持ったのは、非常勤講師の女性だった。当時「おばさん」とばかり思っていたのだが、いま思えば、子供が小学校に上がったぐらいの年代、いまのわたしと同じか、若いぐらいの人だったのだろう。
何かの解釈をめぐってだったか、それとは関係のない話だったか忘れてしまったが、四月の授業が始まって回数も重ねないうちに、わたしはこの人のことをひどくつまらない先生だと結論を出した。
国語は実際、ほんとうに良い先生がたくさんいた学校だった。その前の年に教わった退官も間近の先生は、授業すべて録音しておきたいと思うような、中身の濃い授業を毎回してくださる先生だったし、現国の先生の話は、毎回、世の中にはこんなにおもしろい本があるのだと胸がわくわくするような講義をしてくれていた。そんななかに混じって、教科書を読み上げ、文法事項をいくつか指摘し、現代語に訳すという授業は、逆にひどく異質だったのだ。この人はこんな薄っぺらい、紙きれのような知識で教壇に立つのか、といった、義憤めいた気持ちがわたしの側にあったのだろう。
そう思う自分がいったいどれほどのものだったか、当時を振り返ると、そんな不遜なことを考えていた自分が恥ずかしくてたまらなくなるのだが、当時のわたしにとっては、自分は棚にあげて、その先生の「薄さ」が許し難いものに思えたのだった。そこでわたしは授業を聞かないことにした。
聞いていないことをデモンストレーションするべく、授業中は堂々とほかの本を広げて読むのである。とはいえそれで悪い点を取るのはくやしいので、中学の時から使っていた小西甚一の『古文研究法』で、家に帰って文法を一生懸命勉強した。
試験の答案が返ってきたとき、「勉強しない割には成績はいいのね」と小さい声でその先生から嫌みを言われ、やった、と胸の内で小さくガッツポーズをしたものだ。だが、考えてみれば文法なんてものをまじめにやったのはその一年だけ、結局それで受験まで乗り切ったのだから、意地を張るというのもいいところがあるのかもしれない。
その先生から見れば、さぞかし嫌みな生徒だったことだろう。だが、一度も注意されなかったのは、おそらく先生の側に、自分が非常勤だからという引け目があったにちがいなかった。そんなふうにイヤミを言うのが精一杯で、二学期からはそれさえも言わなくなっていた。
そんなふうに授業は聞かないことにしていた古文だったが、その先生が、教科書に載っていた藤原敏行の「秋来ぬと…」をとりあげて、こんな話をしていたのが耳に入ってきたことがある。
その先生が、子供の保育園のお迎えにいったときのこと。夏のさなかだったにもかかわらず、吹く風に秋を感じた、そのときにこの歌を思いだしたという。でも、周囲のほかのお母さん連中に言ったところで誰もわかってくれない、こんなことがわかるのは自分だけなんだ、と思った、という内容の話だった。
こんなに有名な歌を思い出すぐらいで、「自分だけ」もへったくれもないもんだ、と高校生のわたしは思ったのだったが、一方で、周囲の人に言ってもわかってもらえない、と思って、飲み込んでしまう、という気持ちは、ものすごくよくわかった。
自分の内に湧き上がった、もろい、ほんの一瞬でこわれてしまうあぶくのような感覚、なんだかそれはとても大切なもののように思える。だからそれをつなぎとめておきたい。言葉にして公然化し、誰かと共有したい。なのにその相手がいない。その願いも、それがかなわない寂しさも、わたしにはあまりに身近なものだったのだ(と、いまのわたしならそう説明するだろう)。
だが、一瞬感じた親近感も、長続きすることはなかった。やはりその先生はどこまでいってもその先生で、授業はつまらなく、解釈は薄っぺらく、その一瞬を除けば、まともに授業を聞いた記憶もない。いまとなってはその先生の名前も顔も覚えていないし、申し訳ないことをしたと思う反面、自分が教える経験をしてみれば、生徒からのそういう評価を受けとめて、そういう異議申し立てに応えるような授業をすべきだったのだろう、とも思う。
それでも、自分の感じたことを口にしようものなら、周囲から完全に浮いてしまうだろう、そう思って飲み込んでしまう経験は、それからのちも何度かくり返した。そうしながら、口にされない自分の感じたことを、いまここにいない人に向けて伝えるために、頭の中や、文章にして、言葉を組み立てていく、という回路を自分の中に作っていくようになった。
いま、目の前に伝えたいその人がいなくても、「いない」という存在の仕方で、そこにいることができる人がいる。その人に、伝えることは可能なのだ。そうすることで、あぶくはあぶくではなくなる。
人は千年以上、夏の日差しのなかをよぎる、その年最初の秋の風に驚いてきたのだ。日向をさっとかすめる雲の翳りを。
もうすぐ、夏は行ってしまう。
行ってしまう、ということで、夏は、いまがまだ夏であることを教えてくれる。
ちょうど、不在の人が、不在であることによってその存在を意識させるように。
「つまらない先生」のたった一度の、ほんの一言が、いつまでも記憶に残っていくように。