陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

なんで気持ちが悪いのだろう

2009-08-04 23:37:40 | weblog
『女主人』から話はずいぶん離れてきたが、もう少し、剥製の話。

昨日リンクした質問の一方にあったのだが、わたしのペットだから、剥製にしようが自分の勝手ではないか、と言う人に対しては、おそらくわたしたちの多くは、ちょっとそれはちがうんじゃないか、と思うのではあるまいか。

確かに「わたしのイヌ」「うちのネコ」という言い方はする。だが、その所有格が意味するところは、イヌやネコの体を「わたし」が所有している、という意味ではなく、そのイヌやネコに対する責任は、自分にある、という意味で「わたしの」「ぼくの」と言っているのだ。イヌの体は、たとえその飼い主が自分であったとしても、あくまでそのイヌのものだと思っている。

だが、そのイヌが死んでしまったら、どうだろう。イヌの命がないいま、飼い主である自分のものだ、と思えるだろうか。自分の経験を振り返ってみれば、むしろ、生きているときより、自分の手の届かないものになったような、みだりに手を触れてはならないもののような気がしたのを思い出す。つまり、死ぬまでは「うちのネコ」であっても、死んでしまったら、もはや「うちのネコ」ではなくなり、「うち」とは別の世界に属する存在になったように思われたのだ。

キンギョが死んだことを「星になった」という言い方で表現しているのも見たことがある。これも同じことで、ペットはわたしたちの世界から離れた、とする考え方だ。

遺体はわたしたちの側に残っていても、ペットをペットとしていた「何ものか」は、わたしたちの世界を離れてしまった。だから、その遺体も、どういうやり方をするにせよ、懇ろに弔ってやって、わたしたちの世界から切り離し、送り出してやろうと考えるのだろう。

自分のペットを剥製にしようとする人に対する違和感は、本来なら自分のものではないものを、自分の思うままにしようとしていること、言葉を換えれば、冒涜に対する違和感ではあるまいか。

くだんの「女主人」が恐ろしいのは、単なる殺人者ならば、相手の命を奪うだけだが、ペットやねらいを定めた若い男性を剥製にすることによって、完全に自分のものにしようとしているからなのだろう。

これをもっと丹念に書いていけば、ローレンス・ブロックの『サイコ』や、トーマス・ハリスの『羊たちの沈黙』のような、サイコ・ホラーになる。けれど、ロアルド・ダールはそれをちらりと匂わすだけに留めて、独特の苦い舌触りと不気味さのある短篇にしあげている。それでも、わたしたちが無意識のうちに、見ないようにしている暗闇に、一瞬光を浴びせるものであることには変わりない。