陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

報道の読み方 その6.

2006-10-27 22:34:29 | 
6.報道をどう読むか

昨今、マス・メディアの報道のありかたを批判する声が高まっています。

確かに、さまざまな事件の取り上げ方を見ても、そのやり方はどうなんだろう、と思うものも少なくないし、第一回で取り上げた、出産中に意識不明に陥って亡くなられた妊婦さんの報道のように、別の観点から見ると、まったくちがう出来事になってしまうようなこともあります。

けれども、これもすべてマス・メディアが悪いのだ、という見方を、わたしはしようとは思いません。

そもそも記述というものは、ある出来事が起こってから、先行する出来事を探し出し、そのふたつを結びつける、恣意的な解釈であるからです。
そうして、それは「原因」と「結果」をつないで物語を作ることによってしか、出来事を認識できない、わたしたちの思考のクセに起因しているものだからです。

あらゆる記述は、かならず「結果論」です。
そうして、そのなかにはかならず「原因」、つまり「犯人」が含まれています。

あらゆる記述がそうであるということをまず知ったうえで、わたしたちはそのつぎのことを考えていかなければならないのだと思うのです。

出来事を知ったわたしたちは、それが悲惨であればあるほど、正義感が強く刺激されて「いったい誰が悪いんだ?」という方向に意識は進んでいきます。そうして、報道を見ると、そこには原因がありますから、容易に「犯人」を見つけることができる。

そうして、犯人を糾弾し、そんなヤツがいるからこんなことが起こるのだ、そんなヤツは共同体から追い出してしまえ、という発想をするようになります。


こうしたことは、いまに始まったことではない。
昔から人間の集団は、その集団が危機に瀕したとき、集団の内部にいる「誰か」を排除することで、集団を再生し、浄化し、結束を強めてきたという歴史があります。

けれども、現代の消費社会によって、そうした排除の構造は、いっそう促進されているのではないか。

一方で、アイデンティティを持つことは重要である、と言われながら、「自分らしくある」「自分が認められる」場面というのは、消費行動以外ではなかなかむずかしい。

絶え間なく消費を呼びかける広告(TVにしても新聞・雑誌にしても、広告があふれています)を見ながら、わたしたちは互いに互いを模倣しあい、一方で、「差別化」し、自分が選択しないものを排除するということを日常的にやっていきます。微妙な差異によって一方が他方を排除する、そうして、自分が排除される側ではないことを、つねに確認し続けていなければ、落ち着かない状態に追いやられています。

そうした意味で、いまのわたしたちは、スケープゴートを必要としているのかもしれません。

マス・メディアは毎日毎日、さまざまな「事件」を報道します。
事件Aでは、A’という犯人を明らかにし、それが下火になると、事件Bでは、B’という犯人を告げ、さらに数日すると事件Cでは……、と報道していきます。

わたしたちは、そうした犯人を糾弾し、排除しながら、自分が排除される側ではなく、する側、集団の一員であることを確認しているのかもしれません。
ちょうど、教室でいじめられている子に向かって「こういう理由があるんだから、いじめられて当然」と思っているクラスメイトのように。
けれど、事件Dでの犯人D’が自分ではない、という保障はどこにもないのです。

マス・メディアが悪い、と犯人をもうひとり作ってしまっても、そんなことをしても意味がありません。
ならば、どうしたらいいのか。
今村仁司はこのように言います。

個々人は、互いに、異者である。異者を同一性の文法にのせて、「秩序のなかでの他者」に作りかえることが、人間社会の余儀ない作法である。異者が「同一性枠内での他者」に切り換えられる(…)としても、だれでも自己の内部に、完全には同一化されざる異者をかかえている。
…自己の内部の異者に気づくことからはじめるのが、排除と差別の回路を断つ第一歩である。自分の内部の異者を見ることは反省の努力である、そこでこそ理性の能力が試される。社会の文脈で、犠牲者の位置に立つ覚悟性も、自己内反省のたえざる反復に支えられる。認識の努力と倫理の実践とは、ここでは不可分のことである。天性無垢の人なら難なくやりとげることを、われわれ凡庸な人間は、認識と反省という理性の力をかりなくてはならない。思想という無力なものが、なお口にされなくてはならない理由あるいはその存在理由は、まさにここにあるだろう。
今村仁司『近代性の構造』(講談社メチエ)

あらゆる記述は「原因」-「結果」からなるものであり、そのなかに「犯人」が描かれているのだ、ということをわきまえて読む。「事実」というものは、記述者の解釈にほかならないのだということを知る。集団の中の異者を探し出し、排除するのではなく、ひとりひとりが異者でありながら集団を形成しているのだ、という認識に立つ。
そうして、不幸な出来事が起きてしまえば、それを「自分の問題」として考えていく。
そのために、報道を読む。そういうものとして読む。

それが報道の読み方ではあるまいか、とわたしは考えるのです。

(この項終わり:後日、たぶん、来週の月曜日あたりに手を入れた形でサイトにアップします)