陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

Happyな話

2006-10-06 22:25:13 | weblog
Happyな話

その昔、とある事情から八歳のアメリカ人の女の子と映画を見に行ったことがある。「とある事情」というのもずいぶん大仰な言い方で、要は一種のベビーシッターを頼まれたのである。

見に行ったのは、ディズニーの〈美女と野獣〉で、子供向け長編アニメ、といっても、冒頭部分、主人公のベルが歌うメインテーマに、村人たちがワンフレーズずつからみながら、主人公のひととなりや置かれた情況を紹介していく、黄金時代のミュージカル映画そのままの展開が楽しくて、すっかり夢中になってしまった。

ともかく、父親を助けるために、ベルは見るも恐ろしい(というか、バッファローとライオンを足したような「野獣」は、そんなに恐ろしくはないのだが)野獣の下に留まることになる。
野獣は、実は呪いをかけられた青年領主で、人間の姿に戻るためには、女性に愛されなければならない。狷介な性質と、自分の容姿を恥じる気持ちがわざわいして、なかなかベルに自然に接することができないのだが、キャンドルやポット、目覚まし時計などに姿を変えられた家来たちの活躍で、ベルと野獣は次第に心を通わすようになる。

ある日、野獣はベルに聞く。
"Are you happy with me?"(君はわたしといて幸せか)

すると、わたしの隣にいた8歳児は、スクリーン上のベルが木に片手を伸ばしているのと同じように、手を前に伸ばして、
"Yes..." と、ベルより先に答えたのだった。

あんまりかわいくて思わず笑ってしまいそうになったのだが、いやいや、そんなことをしてはいけない、と目をスクリーンに戻し、ここまで感情移入できるっていうのはすごいなぁ、と思ったのだった。

それにしても、"with me" はあまりつかないけれど、アメリカ人はよく"Are you happy?" と聞くような気がする。
これは「あなたは幸せですか?」と、街頭の宗教団体よろしく聞いてくる、というより、楽しんでる? 気分は上々? ぐらいのニュアンスで聞かれることが多い。
さらによく耳にするフレーズとして"You look so happy."というのがあるのだけれど、これも「あなたは幸せそうに見えます」というより、日本語でいう「楽しそうだね、何かいいことあったの?」ぐらいのニュアンスのような気がする。

ともかく、アメリカ人にとって、ハッピーというのは、きわめて重要なことばであり、ハッピーであるかないかは、かなり重要なことであるようだ。

ただ、日本人であるこちらとしてみれば、"Are you happy?" と聞かれると、ああ、そんなこと聞かれてもなぁ、みたいに思ってしまう。
幸せ、というほど、大げさなものではなくて……でも、まあいいか、So-so, などというと、角が立つし、というわけで、アイ・アム・ハピー、などと答えてしまい、ああ、実感とどうしたってずれるなぁ、といった感情を抱いてしまうのである。

ところが、相手が自分のために何か世話を焼いてくれて、どう? わたしがやったことは役に立った? という流れでも、やはり"Are you happy?" と聞いてくるのだ。わたしの努力は、あなたを幸福にしているだろうか、ということなのだ。
先ほどあげた〈美女と野獣〉も、やはりそういう側面がある。
野獣の側は、懸命にベルをもてなしているのだ。
彼女を楽しませようと、豪華な晩餐会を開き、壁一面、天井に届くほどの本棚いっぱいの本を贈ったりもする。
わたしはあなたのために尽くす、こうしたわたしといてあなたは幸せか、と聞いているのだ。

ところで、アメリカ人は、幸せになるために、自分たちの国を作った。
こういうと変に聞こえるかもしれないが、このことはちゃんとアメリカの独立宣言に記されている。
『独立宣言』には、後のアメリカを理解する上での重要な考え方がいくつか出てくるが、まず、「人間はすべて平等に創られた」という観念。それから、神によっていくつかの権利を与えられているのであって、その中には〈life, liberty and the pursuit of happiness〉(※生命、自由、幸福の追求)と、“幸福の追求”は3番目に出てくる。
加藤恭子 マーシャ・ロズマン『ことばで探るアメリカ』ちくま文庫

幸福の追求が「個人に保障された権利である」というのも、考えようによってはしんどい話のように、わたしなどには思えてしまう。つまり、ひっくりかえせば、自分を幸福にするために、努力を続け、幸福を追求していくのが、その個人にとっては義務である、とも考えられるからだ。

そこでの幸福は、努力の結果、獲得される「果実」であって、果報は寝て待て式に、ぼやっとしていることは許されない。
そんなことをしていれば、なぜ、もっと自分を幸福にするよう努力しないのか、と怒られそうだ。

もちろん、みんながみんなそうではないだろう。
それでも、たとえば「さっきまで何してた?」と聞かれて、ぼーっとしていた、という返事は不可能なのである。だいたい、「ぼーっとする」にあたる言葉がない。"Just relaxing." (ただ、リラックスしていただけ)が一番近いかと思うけれど、「リラックスする」というのは「ぼーっとする」にくらべると、ずいぶん積極的なニュアンスがあるように思える。

本を読んでいた、音楽を聴いていた、○○をしていた、という答えを相手は期待している。そこで「特に何もしていなかった」などと答えようものなら、それはなぜか、と聞かれたり、あるいは何か言いたくない理由があるのだろうか、と勘ぐられた経験さえ、わたしにはあるのだ。

もちろんどちらがいい、などと単純に比較することはできないけれど、ハッピーか、とすぐ聞かれるたびに、わたしはつい、ハッピーかハッピーでないかがそんなに大きな問題なんだろうか、と思ってしまうのだ。
ハッピーになるために、何かをしている。それは、何かをした結果、ハッピーというゴールに到着できるのではなく、その「何かをしている」状態のうちに、その人が「ハッピー」さを見つけられれば、それでよいのだと思うのである。

おそらく野獣は、自分がベルを喜ばせようと努力した、その努力で、わたしはあなたを幸福にできたであろうか、と聞いたのだと思う。けれども、同時に、"with me" のなかには、「わたしとともにいることが」あなたに幸福という状態をもたらしているであろうか、とも聞いている。

そうして、おそらくそれに"Yes" と答えたベルは、あなたはわたしを幸福にしてくれていますよ、というより、あなたとともにいることが、わたしにとって幸福な状態をもたらしてくれているのですよ、と答えたのだろうと思う。

誰かとともにある幸せ、というのは、相手が「幸福の追求」を自分のためにしてくれることではなく、時間と空間を共有し、そこになにものかをともに生みだせる、ということなのだと思う。

たとえそれがどんな場所であっても。
ファミリーレストランで、傷だらけのコップでまずい泥水のようなコーヒーをすすろうと、「コーヒーまずいね」と言い合うことだって、それが幸福であると思える場面は確かにある。けれども、それは懸命に追求した結果、というよりも、相手と自分とのあいだに、奇跡のように、生みだされるものであるようにわたしには思える。