陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ものの値段の話

2006-10-29 22:28:42 | weblog
ものの値段の話

先日、母親が電話でこんな話をしていた。

弟は小さい頃、ウルトラマンだかなんだかのビニール製の怪獣の人形を、それはそれはたくさん持っていた。当時、わたしなどよりずっと甘やかされていた弟は(これは姉のひがみではなかったように思う)、何かあるたび、どこかへ行くたびに人形を買ってもらい、ウルトラマンシリーズは全部制覇し、やがてもっとマイナーなシリーズに移っていったように思う。

同時に弟は怪獣図鑑の類も大量に持っていて、さまざまな怪獣の身長・体重ばかりでなく、その特徴も教えてくれた。メトロン星人は木造アパートに住んでいた、とか、「タッコング」というタコの化け物のような怪獣は「IQが2億」あった、とか、――ああ、ほんとうにどうしてわたしはこんな愚にもつかないことだけは忘れないんだろう――そういう何がなんだかよくわからないような豆知識を、弟はわたしのところへ来ては、読んで聞かせてくれていた。

小学校に入って何年かたつうち、怪獣の人形もかえりみられることもなくなり、やがて段ボール箱ごと、押入の奧に仕舞いこまれることになる。何かの拍子に押入の奧をごそごそしていたわたしは、偶然、その箱を探り当ててしまい、ふたを開くと、小さな弟が一緒に抱いて寝ていたグロテスクな怪獣たちが、古びることも壊れることも知らず、つやつやとしたビニール素材独特の質感で、当時のまま出てきたのだった。

ものというのは、悲しいものだ。
情況は変わっても、ものは変わらない。
その変わらなさが、悲しい。

のちに何度かそう思うことになる初めての体験を、わたしは怪獣相手にしたのである。
まったく結構な初体験である。

それはともかく、母親の話によると、やがてそれは「邪魔でしょうがないから」全部ゴミの日に出してしまったのだそうだ。塩化ビニールの人形たちは、さぞや大量のダイオキシンを発生したことだろう。

ところが母が悔やんでいるのは、ダイオキシンの発生に自らが関与したことではなく、どこからか、それがかなりの金額で売れものるらしいと聞きつけたからなのである。

ああ、残念だった、捨てずにとっておけば良かった。ああいうのに、マニアみたいな人がいて、そういう人はいくら払ってもいいんだってよ……。

捨てちゃったんでしょ、しょうがないじゃん、あきらめなよ、とすげなく言う娘に対し、ああ、なんで捨てたんだろう、そんなことならアンタの本や雑誌を捨てるんだった、となおもくどくどと続ける母なのだった(もしかしたら、お金に困っているのだろうか……)。

実際に「マニアみたいな人」が高い金額を払って買い求めているようなレアものは、きっと実家にはなかっただろうとは思うのだけれど、それにしても、ものの値段というのは、実によくわからないものだ、と改めて思ったのだった。
30年ほど前に作った原価がいくらもしないような怪獣の人形一体が、集めている人にとっては、おそらくはかりしれない、「いくら払っても惜しくない」ような価値を持つのだろう。

別に、そういう人のことをとやかく言うつもりはない。
こんなふうに見られたいから集めている、というのではなく(「シャネルをコレクションしているワタシってなんてお金持ちなのかしら」と思ってる人の発想って、ずいぶん貧乏くさいとわたしは思う)、ほんとうにその人がそれが好きで、所有していることで心からの喜びが得られるものであるのなら、それが線路の枕木だろうが(わたしは枕木を宝物にしている人を知っている)、サインを求めたプロレスラーのポケットから落ちたコンビニのレシートであろうが(それを宝物にしている人も知っている)、冷蔵庫に貼っているために、あちこち染みのできた詩のプリントアウトだろうが(これを宝物にしているのはわたし)、十分に理解できる。

他人から見ればまったく無価値なものでも、その人にとってはまぎれもなくそれが宝物なのだ。そこに汲めどもつきぬほどの意味を見いだすことができ、所有する喜び、そのものとともに生きる喜びがそこにあるのなら、その人にとってそれは幸せなことである。

ただ、それとは別個に、やっぱりものの価値というのは、どこまでいってもよくわからない、と思ってしまう。

ふだん、わたしたちは189円のリンゴには、189円の価値があると思っているし、220円の食パンには220円の価値があると思っている。あまりそういう買い物をしているときに、価値だの価格だのということは考えない。それは、わたしたちはここで価値=価格であると受け容れているからなのだろう。

それでも、たとえこうした見慣れたものであっても、この「価値」と「価格」のあいだに裂け目が生じるようなことがある。
以前、雪が積もった日にスーパーに行ったら、ほうれん草がひと束350円、とか、キャベツ一個500円とか、尋常ではない値段がついていて、いったいこれはどういうことなんだ、と思ってしまう。
少なくとも、スーパーが仕入れた段階では、雪が降っていなかったはずなのに。つまり、それは、翌日の入荷がどうなるかわからないことを見越して、設定された価格だということなのだろう。けれども、その数字にどこまで根拠があるのだろうか。

こういうことを考えると、わたしたちがふだん漠然と思い描いている、ほうれん草ひと束百円~二百円、というのも、どこまで根拠がある数字なのか、よくわからなくなってくる。

さらに、食料品や生活必需品を離れると、ますますその裂け目は拡がっていく。
百均で売っている一本百円の化粧水と、デパートの化粧品売り場(わたしは未だかつてそういうところで買い物をしたことがないのだが――だって、臭くありません?)で売っている二万円の化粧水は、いったいどうちがうのだろう。そうして、どうしてどちらも同じように売れるようなことが起こるのだろう。

たぶん、その二万円の化粧水を使っている人は、わたしは直接には知らないので話を聞いたわけではないのだが、おそらくそこに価値を見出しているから、それを買い、さらに買い、使い続けているのだろう。そうして、その価値を、日々実感しているのだろう。

けれども、成分一覧表を百円のものと見比べたりはしないはずだ。
というのも、その差たるや、極めて微々たるものにちがいないからだ(その「極めて微々たる成分の違い」が決定的な効果となってあらわれる、と信じている人のことをとやかく言うつもりももちろんないのだが)。

おそらく、二万円の化粧水の価値は、極めて微量の、ナントカカントカ酸が入っているから、というよりも「二万円」という価格にあるにちがいない。「二万円」だから、価値があるのだ。

ところが、ブランド品を持つ人の多くは、そんなことは認めたがらないだろう。
おそらくは「ものがいいから」「一生ものだから」と理由づけているのではあるまいか。
なら、一生使い続けるのか、というと、そんなことをする人ばかりではないのである。
ひとつ持っている人は、つぎのモデルが出るたびに、新しいものがほしくなる。新型モデル、またつぎのモデル。
生まれ変わりを信じているのならそれも結構なことだけれど、残念ながら、ヴィトンは来世には持っていけない。

たぶん、ブランド品に価値があるのは、高いから、価値があるのだ。
その価格が、価値を決めているのだ。
そうして、それを買う人は、自分がそれを買える人間である、と認めてほしい、という気持ちが、少なからずあるように思う。

なんだかな、と思うのである。
価格が価値を決めるというのは、やっぱりどこか転倒してはいないだろうか。

もしかしたら、わたしが単に価値のわからない人間なのかもしれないのだけれど、そういうものの価値なら、わからなくてもまあいいか、と思うのである。
そうじゃない、ほんとうにエルメスが好きなんだ、というのなら、一生使い続ければいい。おそらくそうやって使い続けるうちに、ものと人間のあいだにも、やはり絆が生まれるはずだ。そのときどきの歴史が刻まれ、思いがこめられていくはずだ。

母親も、単なる場所ふさぎが宝箱だったかもしれない、と後悔していたようだったが、もし、実際に手元にあったら、売る気にはなれないような気がする。
怪獣の人形ひとつひとつに、小さかった弟の記憶は結びついているし、その記憶はやはり値段なんかつけてほしくないものにちがいない。
もはや手元にないものだからこそ、ああ、取っておけばよかった、もったいないことをした、と言っているのではあるまいか。

ところで、わたしはつい最近、3035円のDream Theater の"The Number of the beast" を買ったのである。こんな音楽を3035円で自分のものにできるなんて、夢みたいなのである。この一枚のおかげで、どれだけ至福の時を過ごしていることか。
ただ、その間、魂を抜かれて、ぼけーっと聞く以外、何にも手につかないのが、悩みではあるが。