犬の話
最近、自転車の前カゴに犬を乗せて(というか、入れて)走っている人をたまに見かける。
多くはポメラニアンなどの小型犬なのだが、なかには前カゴのふちに足を踏ん張って、あたかも船の舳先の船首像のように、毛を風になびかせながら、きりっとした顔(かどうかは知らないが)をしている犬もいたりして、信号待ちをしているときに目などが合うと、やぁ、と挨拶してみたくなる。
ただ、犬というのは、自転車に乗る(乗せる、あるいは入れる)ものではなくて、自転車と並んで走るものではないのだろうか、という気がしてしまうのだけれど、この風を感じている犬の凛々しい顔を見ていると、まぁそれもいいか、という気になってしまう。
ただ、わたしは犬はそれほど好きではない、というか、吠えかかられる犬は、ちょっと怖い。いまは放し飼いにされている犬など見ることもないけれど、昔はそこの家に用があって門を開けると、いきなり犬が走ってくる、という家などもあった。
小さいころ、近所の子が大型犬に噛まれて大けがをした、という事件があって、そこの近くを通りかかるたびに、うるさいくらいに、あそこの犬に気をつけなさい、と母親から言われたのだった。その事件以来、犬は庭の奧のほうに繋がれているらしく、姿を見ることはなかったのだが、それでも大型犬らしい、野太い吠え声が聞こえてくると、自然と胸はドキドキしてくるのだった。のちに英語のことわざで「吠える犬は噛まない」(A barking dog never bites.)というのを習ったときに、そうでもなかったな、とその犬のことを思い出したものだ。
大学にいるころ、しばらく住んでいたアパートの隣が犬を三匹飼っていた。アパート全体と同じくらいの敷地の庭の広い家だったのだが、庭も荒れ放題なら、家のガラス窓も犬の泥足のあとだらけ、玄関のドアはベニヤ板がささくれて、家の中にも平気で入っていくらしく、アパートの二階の窓から見える範囲では、荒れはてた家だった。
中年のおばさんと、そのお母さんらしいおばあさんの二人は、家の奧でごくひっそりと暮らしているようだったが、犬のほうは一日中わんわんと鳴きっぱなし、うるさいというような生やさしいものではなかった。
ある晩、塀のすぐ向こう、部屋のほぼ真下で吠えているのがどうしても腹に据えかねて、思い立って冷蔵庫から氷を取りだして、三、四個、つぎつぎにぶつけてやった(証拠隠滅を図ったのである)。驚いた犬がキャンキャン鳴きながら逃げていったので、味をしめたわたしは、今度はもっと大きな氷をぶつけてやろうと考えたのを覚えている。
アパートの住人が出していたゴミを荒らしたことも、再三ならずあった。管理人に苦情を言ったら、すでに管理人も何度となくそこの家には苦情を言いに行っていたらしい。そればかりでなく、市役所の方からも、何度となく注意が行っているらしかった。
管理人は「価値観の差、ゆうたらええんでしょうかねぇ。ほんまにいろんな人がいたはりますわ。なにゆうても、ちぃとも聞いてくれはらへんのです」と曖昧に言っていたけれど、いささか奇妙な人たちではあったらしい。気をつけてみれば、散歩に連れて行くでもなく、エサも、庭に転がっている、あちこちへこんだ大きなアルミナベに、残飯をどさっと入れているのを食べさせているらしかった。
とにかく犬がやかましく、結局そのせいもあってそこは十ヶ月ほどで出たのだけれど、寝るときは毎晩耳栓をして寝ていたほどだった。つぎの場所で、犬の声がしないというのは、こんなに気持ちが落ち着くものなのか、と、改めて実感したのをよく覚えている。昼間、ほとんどいなかったとはいえ、よく十ヶ月も辛抱したものだ。
数年後、外国人と話をしていて、たまたま犬の話になった。
わたしが氷をぶつけた話をしたところ、彼も、隣の犬に悩まされたという。
彼は夜、耳栓をする代わりに、別の方法を取った。
量り売りの肉屋で、挽肉を少しずつ買ったのだという。そうして、彼がときどき飲んでいた睡眠薬を砕いて挽肉に混ぜ、肉団子にして食べさせていたのだという。
最初は量が多すぎて、二日ほどずっと寝ていたらしい。それから量を加減したのだ、と。
そうしているうちに、肉屋がある日、この挽肉はどうするのか、と聞いてきたのだそうだ。
彼が自分が何に使っているか話したところ、その肉屋はこう言ったという。
「外人さん、あんた、二、三日、温泉でも行ってきや。帰ったら、あんじょうしてやっとるから」
その「あんじょう」が、さすがに恐ろしくて、彼はもうその肉屋には行かなくなったのだという。
わたしもその話は妙に怖かった。
犬を「始末」する、肉屋の親爺。
市場の片隅にそんな肉屋があるのかもしれない。やかましく鳴く犬に悩まされている人に、そっとアリバイを作るよう示唆してくれる肉屋が。
最近、自転車の前カゴに犬を乗せて(というか、入れて)走っている人をたまに見かける。
多くはポメラニアンなどの小型犬なのだが、なかには前カゴのふちに足を踏ん張って、あたかも船の舳先の船首像のように、毛を風になびかせながら、きりっとした顔(かどうかは知らないが)をしている犬もいたりして、信号待ちをしているときに目などが合うと、やぁ、と挨拶してみたくなる。
ただ、犬というのは、自転車に乗る(乗せる、あるいは入れる)ものではなくて、自転車と並んで走るものではないのだろうか、という気がしてしまうのだけれど、この風を感じている犬の凛々しい顔を見ていると、まぁそれもいいか、という気になってしまう。
ただ、わたしは犬はそれほど好きではない、というか、吠えかかられる犬は、ちょっと怖い。いまは放し飼いにされている犬など見ることもないけれど、昔はそこの家に用があって門を開けると、いきなり犬が走ってくる、という家などもあった。
小さいころ、近所の子が大型犬に噛まれて大けがをした、という事件があって、そこの近くを通りかかるたびに、うるさいくらいに、あそこの犬に気をつけなさい、と母親から言われたのだった。その事件以来、犬は庭の奧のほうに繋がれているらしく、姿を見ることはなかったのだが、それでも大型犬らしい、野太い吠え声が聞こえてくると、自然と胸はドキドキしてくるのだった。のちに英語のことわざで「吠える犬は噛まない」(A barking dog never bites.)というのを習ったときに、そうでもなかったな、とその犬のことを思い出したものだ。
大学にいるころ、しばらく住んでいたアパートの隣が犬を三匹飼っていた。アパート全体と同じくらいの敷地の庭の広い家だったのだが、庭も荒れ放題なら、家のガラス窓も犬の泥足のあとだらけ、玄関のドアはベニヤ板がささくれて、家の中にも平気で入っていくらしく、アパートの二階の窓から見える範囲では、荒れはてた家だった。
中年のおばさんと、そのお母さんらしいおばあさんの二人は、家の奧でごくひっそりと暮らしているようだったが、犬のほうは一日中わんわんと鳴きっぱなし、うるさいというような生やさしいものではなかった。
ある晩、塀のすぐ向こう、部屋のほぼ真下で吠えているのがどうしても腹に据えかねて、思い立って冷蔵庫から氷を取りだして、三、四個、つぎつぎにぶつけてやった(証拠隠滅を図ったのである)。驚いた犬がキャンキャン鳴きながら逃げていったので、味をしめたわたしは、今度はもっと大きな氷をぶつけてやろうと考えたのを覚えている。
アパートの住人が出していたゴミを荒らしたことも、再三ならずあった。管理人に苦情を言ったら、すでに管理人も何度となくそこの家には苦情を言いに行っていたらしい。そればかりでなく、市役所の方からも、何度となく注意が行っているらしかった。
管理人は「価値観の差、ゆうたらええんでしょうかねぇ。ほんまにいろんな人がいたはりますわ。なにゆうても、ちぃとも聞いてくれはらへんのです」と曖昧に言っていたけれど、いささか奇妙な人たちではあったらしい。気をつけてみれば、散歩に連れて行くでもなく、エサも、庭に転がっている、あちこちへこんだ大きなアルミナベに、残飯をどさっと入れているのを食べさせているらしかった。
とにかく犬がやかましく、結局そのせいもあってそこは十ヶ月ほどで出たのだけれど、寝るときは毎晩耳栓をして寝ていたほどだった。つぎの場所で、犬の声がしないというのは、こんなに気持ちが落ち着くものなのか、と、改めて実感したのをよく覚えている。昼間、ほとんどいなかったとはいえ、よく十ヶ月も辛抱したものだ。
数年後、外国人と話をしていて、たまたま犬の話になった。
わたしが氷をぶつけた話をしたところ、彼も、隣の犬に悩まされたという。
彼は夜、耳栓をする代わりに、別の方法を取った。
量り売りの肉屋で、挽肉を少しずつ買ったのだという。そうして、彼がときどき飲んでいた睡眠薬を砕いて挽肉に混ぜ、肉団子にして食べさせていたのだという。
最初は量が多すぎて、二日ほどずっと寝ていたらしい。それから量を加減したのだ、と。
そうしているうちに、肉屋がある日、この挽肉はどうするのか、と聞いてきたのだそうだ。
彼が自分が何に使っているか話したところ、その肉屋はこう言ったという。
「外人さん、あんた、二、三日、温泉でも行ってきや。帰ったら、あんじょうしてやっとるから」
その「あんじょう」が、さすがに恐ろしくて、彼はもうその肉屋には行かなくなったのだという。
わたしもその話は妙に怖かった。
犬を「始末」する、肉屋の親爺。
市場の片隅にそんな肉屋があるのかもしれない。やかましく鳴く犬に悩まされている人に、そっとアリバイを作るよう示唆してくれる肉屋が。