十六夜の話
わたしが住んでいる地域は、夜中でもあたりは明るく、夜空が暗くなるということがない。
星といっても見えるのはふたつかみっつぐらいなのだが、中秋の名月を明けて、十六夜となった今晩も、まだ丸いくっきりとした月が、月の周りを黄色に染めて、あたりを明るく照らしていた。
昔、夜がまだ暗かった頃であれば、満月はどれほど明るかったろう、と思う。
少し前、地元のプラネタリウムに行ったことがある。
プラネタリウムといってもシンプルなもので、ちょうど学校の教室ぐらいの大きさの部屋の天井に、白い布がドームの形に張ってある。真ん中に投影機があって、椅子がそこを取り囲むように配置してある。この木製の椅子は、背もたれの部分が120度くらいまで傾くようになっていて、身体を預ければ、天井の「星」がよく見えるという仕組みだ。
投影が始まってすぐ、真っ暗な夜空に、無数の星が浮かびあがった。まさに「ミルキー・ウェイ」という言葉がふさわしいように、天の川の白い帯も南北に走っている。そうして、あちこちでいくつも星が流れているのだった。
「これが200年前ぐらいまでの夜空です」と言われた。
それから一段階、空が明るくなって、見える星の数も半減した。
「これがだいたい百年前」
さらに明るくなって、天の川もはっきりしなくなるのが五十年前。
「そうして、三十年ぐらい前から、このあたりの夜はこんなに明るくなりました」
そうなると、天球は、もはや闇とは呼べない。セピア色と呼んだらいいのか、「薄暗い」としか呼びようのない空には、星が三つほど。
「この西の空、太陽が沈むとすぐ見えてくる、大きな星はわかりますか。これが木星です。宵の明星と呼ばれる金星は、もうこのあたりでは見ることができません」
これでは星の観察はできないので、200年前の空に戻します、とふたたびドームの背景は真っ黒になったのだけれど、夜が明るいことは知ってはいても、実際にそこまで明るくなっているとは知らなかったわたしは、たいそう驚いてしまったのだった。
このあいだ、防犯のチラシをもらった。
それには「この界隈で夜暗い箇所」というのが地図でチェックしてあった。
「この区間は街灯の数も少なく人通りも少ないため、夜間の一人歩きは避けましょう」という場所に、いくつか印がつけてあったのだが、これだけ夜が明るくなっても、そんな箇所はまだまだなくならないらしく、こういう場所にもさらに大きな街灯が増えたりすると、いったい夜はどこまで明るくなっていくのだろう、と、ちょっと思ってしまった。
確かに「防犯」ということを考えれば、夜は明るい方がいいのかもしれない。
けれども、ただひたすら街灯を増やし、通りから暗い場所を一掃すれば、それで犯罪がなくなるというものでもないような気がする。
夜間の犯罪発生率が抑えられるのなら、星が見えないことぐらい、たいしたことではない、という考え方ももちろんできるわけだが、その両者のあいだにそこまでの因果関係があるのだろうか、という気もするのだ。
明るい月を見れば、ひとくちに夜空といっても、季節によって、それぞれにちがいがあることがわかる。
今日のように、月の周りに黄色い色が滲みだして見えるようなときもあれば、冬の中天に、刃物ですぱっと切り落としたような半月がかかっていることもある。
春の夜のうるんだような月の下に見る桜は、この世のものとも思えないほどに美しい。
小説を読むときに、情景描写を飛ばして、筋だけを拾って読む、という人がいる。最近はそういう人が増えたのか、情景描写もどんどん減っていく傾向にある。
確かに19世紀の、1ページ以上にわたって服だの髪の毛の様子だのの描写が延々と続くのは、さすがに読んでいると飽きてもくるが、実はそういう部分を丁寧に読むか、読まないかで、小説を読む楽しみが決まってくる、というのもまた確かなのだ。
日々の生活というのは、ルーティンとして過ごしていけば、何も見ず、何も聞かず、何も感じないままで生きていける。
筋を追うだけの読み方をする小説のように、出来事だけを追いかけて、必要のないものに気がつかない「効率的な」生き方も、確かに、アリだ。
それでも、月を見、星を見ることに喜びを見いだすような生き方もある。
「星空」とはとうてい言えなくなってしまった夜空だけれど、それでもまだ十六夜の美しさは愛でることができる。
こうしたささやかな喜びを、できるものなら奪わないでほしいものだ。
わたしが住んでいる地域は、夜中でもあたりは明るく、夜空が暗くなるということがない。
星といっても見えるのはふたつかみっつぐらいなのだが、中秋の名月を明けて、十六夜となった今晩も、まだ丸いくっきりとした月が、月の周りを黄色に染めて、あたりを明るく照らしていた。
昔、夜がまだ暗かった頃であれば、満月はどれほど明るかったろう、と思う。
少し前、地元のプラネタリウムに行ったことがある。
プラネタリウムといってもシンプルなもので、ちょうど学校の教室ぐらいの大きさの部屋の天井に、白い布がドームの形に張ってある。真ん中に投影機があって、椅子がそこを取り囲むように配置してある。この木製の椅子は、背もたれの部分が120度くらいまで傾くようになっていて、身体を預ければ、天井の「星」がよく見えるという仕組みだ。
投影が始まってすぐ、真っ暗な夜空に、無数の星が浮かびあがった。まさに「ミルキー・ウェイ」という言葉がふさわしいように、天の川の白い帯も南北に走っている。そうして、あちこちでいくつも星が流れているのだった。
「これが200年前ぐらいまでの夜空です」と言われた。
それから一段階、空が明るくなって、見える星の数も半減した。
「これがだいたい百年前」
さらに明るくなって、天の川もはっきりしなくなるのが五十年前。
「そうして、三十年ぐらい前から、このあたりの夜はこんなに明るくなりました」
そうなると、天球は、もはや闇とは呼べない。セピア色と呼んだらいいのか、「薄暗い」としか呼びようのない空には、星が三つほど。
「この西の空、太陽が沈むとすぐ見えてくる、大きな星はわかりますか。これが木星です。宵の明星と呼ばれる金星は、もうこのあたりでは見ることができません」
これでは星の観察はできないので、200年前の空に戻します、とふたたびドームの背景は真っ黒になったのだけれど、夜が明るいことは知ってはいても、実際にそこまで明るくなっているとは知らなかったわたしは、たいそう驚いてしまったのだった。
このあいだ、防犯のチラシをもらった。
それには「この界隈で夜暗い箇所」というのが地図でチェックしてあった。
「この区間は街灯の数も少なく人通りも少ないため、夜間の一人歩きは避けましょう」という場所に、いくつか印がつけてあったのだが、これだけ夜が明るくなっても、そんな箇所はまだまだなくならないらしく、こういう場所にもさらに大きな街灯が増えたりすると、いったい夜はどこまで明るくなっていくのだろう、と、ちょっと思ってしまった。
確かに「防犯」ということを考えれば、夜は明るい方がいいのかもしれない。
けれども、ただひたすら街灯を増やし、通りから暗い場所を一掃すれば、それで犯罪がなくなるというものでもないような気がする。
夜間の犯罪発生率が抑えられるのなら、星が見えないことぐらい、たいしたことではない、という考え方ももちろんできるわけだが、その両者のあいだにそこまでの因果関係があるのだろうか、という気もするのだ。
明るい月を見れば、ひとくちに夜空といっても、季節によって、それぞれにちがいがあることがわかる。
今日のように、月の周りに黄色い色が滲みだして見えるようなときもあれば、冬の中天に、刃物ですぱっと切り落としたような半月がかかっていることもある。
春の夜のうるんだような月の下に見る桜は、この世のものとも思えないほどに美しい。
小説を読むときに、情景描写を飛ばして、筋だけを拾って読む、という人がいる。最近はそういう人が増えたのか、情景描写もどんどん減っていく傾向にある。
確かに19世紀の、1ページ以上にわたって服だの髪の毛の様子だのの描写が延々と続くのは、さすがに読んでいると飽きてもくるが、実はそういう部分を丁寧に読むか、読まないかで、小説を読む楽しみが決まってくる、というのもまた確かなのだ。
日々の生活というのは、ルーティンとして過ごしていけば、何も見ず、何も聞かず、何も感じないままで生きていける。
筋を追うだけの読み方をする小説のように、出来事だけを追いかけて、必要のないものに気がつかない「効率的な」生き方も、確かに、アリだ。
それでも、月を見、星を見ることに喜びを見いだすような生き方もある。
「星空」とはとうてい言えなくなってしまった夜空だけれど、それでもまだ十六夜の美しさは愛でることができる。
こうしたささやかな喜びを、できるものなら奪わないでほしいものだ。