陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~あのころわたしが読んだ本 その3

2006-10-13 22:19:14 | weblog
3.ホームズの日々

人生を変えた本、というと、大仰な話なのだけれど、もしかしたらわたしの人生を変えたのはコナン・ドイルの『バスカビル家の犬』ではあるまいか。

あまりこれを読んだらいい、などということは言わない母だったのだが、小学校二年生の時に、ホームズはおもしろいよ、と、その本を選んでくれたのだった。

子供向きにリライトしたもので、江戸川乱歩の少年探偵団を意識したのか、ワトソンが少年だったのである。そうしてそのワトソン少年が、ダートムーアの底なし沼のすぐ近くのバスカビル家に行くのである。

作中に挿入される黒い犬の伝説、そうして、大きな岩に横たわってこときれている若い女と悪逆非道の領主の挿絵。
夢中になる、などというような、生やさしいものではなかった。
わたしが歩いているのは、アスファルトで舗装された歩道などではなく、沼地のほとりのぬかるんだ泥地だったし、沼の瘴気を感じ、通りの渡れば捕虫網を持って走っているステープルトンがいるはずで、ランドセルを背負ったわたしは、ワトソン少年なのだった。

ワトソン少年が出てきたのは『バスカビル家の犬』ただ一冊で、あとは大人のワトソンだったが、もちろんどれも夢中になった。『まだらの紐』だの『ぶな屋敷』だの、『赤毛連盟』を読んで、外国には赤い髪の人がいるのか、と感心し(のちに自分が思っていた色とずいぶんちがっているのを知るのだが)、『踊る人形』でアルファベットを覚えたのだった。
そうして、『バスカビル家の犬』のつぎに取りつかれたのが『緋色の研究』である。
この作品ではモルモン教の教団が大きな役割を果たすのだけれど、これは一夫多妻で、モルモン教徒同士でしか結婚ができない。そうして、その掟に背くと殺されるという制裁が待っている。なんと恐ろしい宗教なのであろうか、と思ってしまったのだった。
のちに自転車で走っているのが同じモルモン教徒だと知って、ひどく変な気がした。

何よりも引かれたのが、ホームズはステッキ一本見るだけで、持ち主の社会的地位から、性格、嗜好や現在の心理状態まで見抜いてしまう点だった。
ものごとはよく見れば、おどろくほどたくさんのことが見えてくるのだ。
そうして家でさかんに「この靴に泥はねがついていることを考えると、お姉ちゃんは公園をつっきって帰ってきたね」などと言って、うるさがられたりしたものだった。

ホームズのシリーズをわたしはいったい何度読み返したことだろう。
やがて、すでに犯人がわかっている推理小説など、読み返すこともなくなるのだけれど、わたしは繰りかえし読んで、飽きることを知らなかった。
その空気に浸るだけで幸せだった。

そのころ、近所に空き巣が入るという事件があった。
そこの家の人は和文タイプを仕事にしていて、家の前を通ると、よく独特のタイプを打つ音が聞こえた。外からでも聞こえるほど、大きな音だったのである。
家の前にパトカーやらワゴン車やらが停まっていて、見るだけで胸が高鳴った。なんとかして中が見えないものだろうか、と、背伸びをして覗いたりもしたのだろう。

家の前に、暗い顔をして、そのタイプをいつも叩いている女の人が立っていた。
やがて、空き巣というのはほんとうは空き巣ではなかったらしい、という噂が流れた。「狂言」という言葉を、わたしは意味がわからなくて、辞書でひいたことを覚えている。
どうやら狂言だったらしい、そこの娘さんがいろいろあって……。
もっと知りたくて、どういうこと? と聞いたら、そんなことを知りたがるものではありません、と怒られた。

せっかくの事件なのに、何がなんだかわからないなんて。
こんなはずではない。そう思って、そこの家の周りをうろうろしていたのを母親に見つかったのだろう、これだけ言ってもわからないのか、と、正座をさせられて長い時間説教を喰らったのだった。

推理小説はね、お話なの。ほんとうは、人が殺されたり、ものが盗まれたりすることは、おもしろいことでも、楽しいことでもないの。
お話だから、楽しいの。お話と、実際の世の中はちがうのよ。

それまで物語の世界は、自分がいるところとずっと地続きのはずだった。
たとえ魔法や鬼が出てきても、わたしが住んでいるところからちょっと先に行けば、その世界に入れるはずだった。
そうではないのだ、ということを、わたしはシャーロック・ホームズを読むことで、逆に、知っていったのだった。

(この項つづく)