陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~あのころわたしが読んだ本 その1.

2006-10-11 22:35:19 | weblog
1.公園の魔女

かすかな記憶をたどっていくと、最初の「行きつけの本屋」は、アーケードのある商店街の一角だった。
木の本棚がそびえる薄暗い店の中に入ってすぐ、台に平積みにされている絵本が、目の前にせまってくる。ちょうど胸のあたりにくる台の下は引き出しになっていて、その中にも本がいっぱい入っているのだろうか、と考えたような気がする。おそらくそのぐらいの身長のころから、本屋というのは自分にとってお気に入りの場所だった。

のちによく聞かされたのだけれど、母親に連れられて出かけるたびに、一冊、まず読んで、読んでいない絵本を買っていた、という。
ところがわたしの記憶ではそうではなくて、「白雪姫」や「シンデレラ」の、カラフルなディズニーアニメを絵本にしたものがほしかったのだけれど、そういう本は買ってもらえなかったのだ。最初はまだカタカナが読めなくて、そのきれいな本はものすごくおもしろそうなのに、何が書いてあるかわからなくて、悔しい思いをしたのは、ミッキーマウスだったのか、シンデレラだったのか。

そんなときによく買ってもらっていたのは、平台に置かれた本ではなくて、くるくるまわる本差しに数冊ずつ入っている本だった。ボール紙を張り合わせた、分厚いけれど、ページ数の少ない短い本文に、あまり芸術的とはいいがたい派手な色の挿絵がついた、ごく安い、昔話やイソップやグリムの絵本だったのだろうと思う。

家には福音館や岩波などから出ている、母親の言う「ちゃんとした」絵本、芸術的な挿絵と有名な作家の手による絵本もあった。
ところがこういう本がわたしのところに「おりてきた」のは、本屋に置いてあるその分厚くて安っぽい絵本のほとんどを読み終わって後になる。
そのおさがりの「立派な絵本」を見たわたしはおどろいた。

『カチカチ山』では、狸の策略で、おじいさんはおばあさんを食べてしまう!
「流しの下の骨を見ろ」と言い捨てて、おばあさんに化けたタヌキは本性を現し、山へ帰っていくのだ!
未だに「あわもちくったし、ばあじるくった、ながしのしたのほねをみろ」というフレーズは、脳裏に刻まれている。

これはもう、驚いた。
それまで読んでいた本では、タヌキもおばあさんにケガをさせるだけだったし、最後はおぼれかけたタヌキは涙を流して謝り、ウサギも許してやるのだ。

そればかりではない。『おおかみと七ひきのこやぎ』では、最後におおかみを井戸に落としたあと、「おおかみしんだ! おおかみしんだ!」といってぐるぐる踊り回るのだ。

わたしはめまいがしそうだった。
子供向けにリライトした、漂白したような本から抜け落ちている、一種強烈な、あえて言うなら「悪」の感覚に、身のうちがふるえるほど惹かれたのである。
たちまち夢中になってしまったのだ。


こうした話のなかに「魔女」が出てくる話があった。グリムの童話かなにかの絵本だったと思うのだが、もしかしたら日本の昔話の「やまんば」だったのかもしれない。ともかく、ふだんはふつうの様子をしているのだが、一転、おそろしい魔法を使ったり、髪をふりみだしてものすごい速さで山をかけまわる「魔女」か「やまんば」かの絵を見て、わたしははっとしたのだ。

このころ、数軒先に少しこわいおばさんが住んでいた。
どういう理由だったか、配布物かなにかを持っていくのだったか、ときどき「お使い」ということで、そこの家に何かを持っていかされるのだ。

うちと同じ並びにあるそこの家は、わが家と同じ間取りの古い小さな平屋だったのだけれど、ヒマラヤスギの植え込みの奧の家は薄暗く、そこに背中が曲がって、白髪をうしろで小さな髷に結っていたおばあさんと、娘であるおばさんが住んでいた。わたしたちは「○○のおばあさん」「○○のおばさん」と呼んでいたのだけれど、実際はいったいいくつぐらいだったのだろう、もしかしたら「おばあさん」のほうもそれほどの歳でもなく、娘の「おばさん」のほうは二十代だったのかもしれない。あごに大きなほくろがあって、そこから黒い毛が三本、飛び出していた。

玄関で「ごめんください」と呼ぶ。
家のなかから誰が出てくるか、ドキドキしながら待つ。
ゴトゴト音がして、そっと小さなおばあさんが出てくると、ほんとうにホッとした。
そうではなくて、中からドタドタと走ってくる音がすると、それだけで身はすくむ。くるりと向きを変えて逃げ出したいのを、じっと耐える。やおら、ガラッと引き戸が開いて、
「何?」と、怒鳴られる。
「これ、お願いします」といって差し出すと、ひったくるように取り上げて中に入っていくときもあれば、
一転、笑顔になったかと思うと、はだしのまま玄関におりてきて、わたしの後ろにまわりこみ、「よく来たなあ、上がっておいで」といって、うしろからのしかかられるように抱きしめられることもある。
「何しに来た」と言ったあと、こちらをものすごく怖い目でにらんでくることもある。憎々しげに曲がった口元からは、よく聞き取れない声でひっきりなしに何か毒づいているようだ。

つまり、つぎの態度の予測がつかないのだった。
わたしが母親と出向いたときは、まったくふつうの応対をしているのだが、一度などは、母がよそを向いている隙に、にらみつけられたこともある。

そのおばさんが何であんなに怖い顔でわたしをにらむのかわからなくて、にもかかわらず、時には抱きしめたり、お菓子をくれることもあり、いったいあれはなんなのだろう、とずっと頭を悩ませていた。
絵本を見て、なぞがとけたのだ。
魔法使いのおばあさんなら、あるいはやまんばなら、それも納得がいく。
お菓子をくれたり抱きしめたりしようとするのも、すべてたくらみがあるからだ。

わたしは当時でさえ、ほんとうに「魔法使い」だとは思ってなかったのだと思う。それでもつぎの行動の予測がつかないそのおばさんに、なんとか説明づけたい、納得したいと思っていたのだろう。

ところが、以来、いよいよそのおばさんのことが怖くてたまらなくなった。
滅多に家から出ない、ひとりでは買い物にも行かないような人だったけれど、たまに家の前で掃除をしているのを遠くからでも見てしまうと、Uターンしてあたりをしばらくぶらぶらし、それから姿がないのを確かめてから家に帰るというぐらいだった。

ときどき、夕方の公園でそのおばさんを見かけることもあった。
犬を散歩させているわけでもなく、子供がいるわけでもない、ぽつねんとベンチに座っていたかどうかするのを見つけて、わたしは胸をドキドキさせながら、見つからないように走って帰った。きっとさらっていく子供を物色しているにちがいない、と思ったからだ。

いま思うに、おそらく精神的に多少不安定な人だったのだろう。
それでも、気分によっては、自分が持つことのなかった子供に、なんとかしてふれたかったのだろう。
おそらく「魔女」だの「やまんば」だのということは、母親にさえ言っていなかったはずだから、その人が知っていたとは思わない。それでも、わたしが怖がっていることは、おそらく気づいていたのではなかったか。
その人はどんな思いで子供たちを見ていたのだろう。
暮れていく公園のベンチに座っている「魔女」の長く伸びた影、というのは、大人になったわたしの捏造した記憶なのかもしれないが。

(この項つづく)