本日の高知新聞朝刊に、フォーラム「現代に変革の風を京都から」ということで記事が掲載されていました。
この記事の中で興味深いものがありました。
自分が知らなかっただけのことですが、1866年の1月23日、寺田屋で伏見奉行
の捕り方が龍馬を襲撃して殺害、もしくは、捕縛しようとした寺田屋事件が発生しましたが、この事件の2日前に薩長同盟が成立しています。
ということは、幕府は、薩長同盟が成立していたことは知っていたのではないかと思われます。
ただ、偶然に薩長同盟の2日後に龍馬を襲ったわけではないと推察します。
坂本龍馬記念館学芸員の方の記事の中で、「龍馬は捕縛できなくても、薩長同盟にかかわる書類を奪うことで十分目的を達していたことが分かりました」という記事が掲載されています。
京都の町には密偵があちらこちらにいて、龍馬の動きを探っていたのだろうと思われます。
ということは、龍馬は幕府側の敵として常に命を狙われていたはずだとも思えます。
大政奉還の1ヶ月後に龍馬と慎太郎が近江屋で暗殺されたのは偶然ではなくて、幕府側が龍馬の暗殺のタイミングを見計らって、暗殺が実行されたのではないかと推察します。
寺田屋の襲撃の時と同じ失敗を繰り返さないためには、大人数の捕り方で取り囲むのではなくて、殺害の気配を消して、少人数で、龍馬が一人でいるところを襲撃したのではないかと推察します。
龍馬とともに中岡慎太郎がいっしょにいたのは予想外だったのかも知れません。
大政奉還に関しても、これもタイミングよかったというべきでしょう。新聞の記事によると、徳川最後の将軍、慶喜の実母は皇族の有栖川吉子で、天皇の血を引く慶喜が大政奉還をするべきだと考えていたようです。
そういう時期に大政奉還が実現されたということは、タイミングがよかったというべきか、歴史的必然だったのかも知れません。
個人的な推察ですが、龍馬・慎太郎の暗殺の下手人と黒幕は実は、分かっているのではないかと思います。
それに関する資料も誰かが保管していて、世に出していないだけなのかも知れません。
来年は、『龍馬伝』が放送になります。
来年には、龍馬・慎太郎暗殺に関する新たな資料が世に出る可能性はあるだろうと思います。
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この記事の中で興味深いものがありました。
自分が知らなかっただけのことですが、1866年の1月23日、寺田屋で伏見奉行
の捕り方が龍馬を襲撃して殺害、もしくは、捕縛しようとした寺田屋事件が発生しましたが、この事件の2日前に薩長同盟が成立しています。
ということは、幕府は、薩長同盟が成立していたことは知っていたのではないかと思われます。
ただ、偶然に薩長同盟の2日後に龍馬を襲ったわけではないと推察します。
坂本龍馬記念館学芸員の方の記事の中で、「龍馬は捕縛できなくても、薩長同盟にかかわる書類を奪うことで十分目的を達していたことが分かりました」という記事が掲載されています。
京都の町には密偵があちらこちらにいて、龍馬の動きを探っていたのだろうと思われます。
ということは、龍馬は幕府側の敵として常に命を狙われていたはずだとも思えます。
大政奉還の1ヶ月後に龍馬と慎太郎が近江屋で暗殺されたのは偶然ではなくて、幕府側が龍馬の暗殺のタイミングを見計らって、暗殺が実行されたのではないかと推察します。
寺田屋の襲撃の時と同じ失敗を繰り返さないためには、大人数の捕り方で取り囲むのではなくて、殺害の気配を消して、少人数で、龍馬が一人でいるところを襲撃したのではないかと推察します。
龍馬とともに中岡慎太郎がいっしょにいたのは予想外だったのかも知れません。
大政奉還に関しても、これもタイミングよかったというべきでしょう。新聞の記事によると、徳川最後の将軍、慶喜の実母は皇族の有栖川吉子で、天皇の血を引く慶喜が大政奉還をするべきだと考えていたようです。
そういう時期に大政奉還が実現されたということは、タイミングがよかったというべきか、歴史的必然だったのかも知れません。
個人的な推察ですが、龍馬・慎太郎の暗殺の下手人と黒幕は実は、分かっているのではないかと思います。
それに関する資料も誰かが保管していて、世に出していないだけなのかも知れません。
来年は、『龍馬伝』が放送になります。
来年には、龍馬・慎太郎暗殺に関する新たな資料が世に出る可能性はあるだろうと思います。
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