今日のテーマは、「曖昧な時間」です。
曖昧とは、はっきりしないこと、まぎらわしく確かでないこと。(広辞苑より)
曖昧模糊、曖昧屋と曖昧はネガティブな意味合いが強いようです。
人は、曖昧な表現や態度を否定しがちです。
男だったら、はっきりしなさい。
とよく言われたような、感じたようなことがありました。
では、何故「曖昧」について語らず、「曖昧な時間」としたのか。
曖昧は、広辞苑で説明の通り、はっきりしないことです。
「曖昧な時間」、「曖昧な空間」は私達にとって大事な時間であり、空間と考えます。
出し物が終わり、後は何々をするだけの感じですと余韻を楽しめない。
優れた美術館の建物や庭は、一流の人が建てたり、設計・維持をしておられます。
優れた美術を観たあと、気づかれない程度に美意識の感動を、
一般社会までの帰り道の助走のような場(建物、庭)でクールダウンすることです。
優れた音楽会が終わった後、建物中に静かに流れている音楽のことです。
家でいう、縁側のような曖昧な空間で、人がよもやま話をする時間のことです。
物事は、スケジュール通りで、切ったように進まない。
曖昧な時間は余韻のようなものです。
美味しいものを引き立てる漬物だったり、お茶だったりします。
この曖昧な時間や空間のとり方が、一つの文化だと思えるのです。
つまり、おもてなしだと思えるのです。
外国のホテルの周りには、
さりげなく椅子とテーブルが裏庭や玄関に置いてあります。
内でもない、外でもない空間です。
レストランの外にあるテーブルと椅子がそうです。
私達は、酒を飲んで酔っ払います。楽しい時間を過ごします。
その後のことです。
静かに熱いお茶を飲んだり、ぼんやりした灯りの下で明日への準備をします。
国際会議でも同じようなことがあります。
激しい議論を戦わせた後に、
握手をしてそれぞれの組織に帰って行くまでの「間」のことです。
激しく言いあった相手を、もう一度リスペクトする時間です。
私は、こんな工夫をしたい。
飽くまで、主体ではない気づかれないような工夫です。
曖昧な時間や空間を作りだしたい。
それぞれの人が、各人各様の考えを持ち、行動します。
誰もが癒される「場」を作りたい。
子どもが出たり入ったりして、お母さんに話しかける場であり、
子どもが危険なことをしていないか見ることができる空間のことです。
それでいながら、秘密の会話も交わせる場作りです。
紙と木でできた障子であり、屏風のような衝立のことです。
日本家屋には、このような設計がされており、連綿と受け継がれています。
採光の工夫であったり、屋外の音を楽しむ中庭のことです。
「曖昧な時間」について思うことを書いてみました。
手袋を はめてはずして 温もりの
2016年9月12日