故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

最後までプロフェッショナル

2015-10-31 02:50:48 | プロジェクトエンジニアー
山国川の魚遡上用階段堰


やはり、厳しい道の選択になりました。

60歳を過ぎると小遣い程度の給料で働くしか道はありません。
給料がすべてではありません。単なる意気込みと取っていただきたいのです。

楽な仕事ではない方を選びます。
楽な仕事は、必要ありません。
やるなら誰もができないような仕事がしたいのです。
夏から、身体をいじめてきました。
このためだったのです。
草取りを、ボランティアのような気持ちでやったのではありません。

鼻たれ爺が、毎夜天狗となって飛び回りたかったのです。
鮭は、毎年川を遡上します。
子孫を残した後は、朽ちて次世代の糧となるのが定めです。

そんな風に生きたいのです。

気持ちだけでは到底無理なことです。
身体が付いてきて初めてできることです。
できないかもしれません。
やるからには、ちゃんとやりたいのです。

妻に、外国でなければどこにでも行きますよ。と言われました。
あなた一人で行ってくれますか。とは言われませんでした。

再就職の2回目の面接で、宣言しました。
「最後まで、プロフェッショナル」でやりたいと。
私は、もう後には引けなくなりました。
さて、どう判断されますことやら。

明日は、お世話になった建築会社の方たちとゴルフです。
迷惑をかけないように、フェアウェーだけを狙って打ちましょう。
習い始めて半年の妻が、私のフォームをチェックし、アドバイスをくれます。
ありがたいではありませんか。
どんなに眼鏡を変えても、打った球が追いかけられないのですから。

もぐらどん 許しておくれ ダフリとファ

2015年10月31日


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大人たちの本気

2015-10-30 08:09:53 | よもやま話
  先輩の家の庭に咲いていた「大文字」です。

   
懐かしのフォークソングを聞きました。

オリジナルの歌をジャズやシャンソン風ににアレンジしていました。
新鮮でした。

作詞家が、ラジオのゲストとして出演されていました。好きな歌を3曲選びました。
作詞家としてみたそれぞれの歌を話されていました。
選んだ曲は、「大阪で生まれた女」、「なごり雪」と「津軽海峡・冬景色」の3曲でした。

大阪で生まれた女は大阪を「よう出ていかん」といってたのが、
「東京に出ていくと決めた」と歌う場面では、標準語になっていたと解説されました。

なごり雪では、男性の気持ちを女性が歌う試みをされたとも。
「去年よりずっときれいになった」は、女の人には伝えていないだろうとも。

津軽海峡の歌は、阿久悠というプロフェッショナルが書いた完璧な詩だと解説されました。
五感に訴える計算しつくされた歌詞であると。

今日のテーマは、「大人たちの本気」です。

歌手の方々は、売れた歌を長く歌い続けられます。
それで人生が変わったとも言えるようなヒット曲です。
カルメン・マキさんの歌声を久しぶりにライブ放送で聞きました。
「時には母のない子のように」。
それなりに歳を重ねていました。
若い時に聞いた歌声とは違いました。
しかし、今の方が滲みるように入ってきました。

確かに、若い人は元気で勢いがあります。
しかし、「本気度」から言えば、今少し年寄りの方に分があるように思います。
歌詞の意味が分かっているからでしょうか。
そりゃ、若い人の声は透き通るようで美しい。

大人たちは、もう失敗できないと知っています。
やり直す時間がないからでしょうか。
世の中のことを知っているからでしょうか。

フォークソングを歌っている歌手たちは、
昔のヒットソングだけでは生きていけないのです。
映像に出る彼らは、いつも同じ歌を歌っているように見えます。
大事に歌っているように私には聞こえます。
もう、歌えないかもしれないとも見えます。

若い人に、「本気でことに当たれ」と言う暇もないのが実情です。
若い人もライバルです。蹴落とすことはしません。
ライバルではあるが、教え子でもあります。
大事に育てなければなりません。

私は、もう少し働きます。
若い人のチャンスを奪っているかもしれません。
それだけに変なことは出来ないのです。
最高の仕事をしなければなりません。
そうでなければ申し訳ない。

大人は本気なのです。
毎日が精一杯なのです。
自分一人だけのことを考えて生きていけないのです。

私は、とうに「親離れ、子離れ」は卒業しました。
これからは、自分の生きざまを磨きたいのです。
若い人に、越えられるものなら越えてみろと言いいたいのです。
できるだけ高いハードルでいたいのです。

できるでしょうか。


ぴょんぴょんと 少し軽めの 重い靴

2015年10月30日

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設備業者の営業

2015-10-29 07:47:53 | プロジェクトエンジニアー
    
食品会社の修理費は、年間売り上げの約1%と言われる。
純利3-5%の中での割合は、大きいとも言えます。

プロジェクト(工場建設、改造)にかけられる金額は、
年間売り上げより小さい数字となります。
それ以上の場合は、よほど強いNB(ナショナルブランド=定番商品)がなければなりません。
3年度までに単年度黒字、5-6年で累積黒字とならなければ
その投資は経営を圧迫することになります。

そのような食品会社に物やエンジニアリングを売る業者の営業について
書きたいと思います。

プロジェクトの受注率は、1/3は必要です。
3回見積もって、1回受注できなければ、見積もり倒れとなります。
見積もりに要する時間は、プロジェクト全体(受注)の時間数の約10%です。

メーカーの見積もり件数に対する受注率は約5%です。
設備業者の訪問件数に対する受注率が5%では少しきついようです。
設備業者(建築、空調、電気、ユーティリティーなど)の見積もりは、設計などの
技術者が関わらなければなりません。
メーカーは営業だけで見積もりができる場合が多いのです。
設備業者の営業は、出来るだけ無競争で受注したいのです。
しかし、ほとんどの場合、複数社からの引き合いとなります。

設備業者の営業は、訪問件数は増やしたいのです。
そして、見積もりの受注率を上げたいのです。
Know-howを提案することも多く、安く見積もりした業者にKnow-howだけ
持って行かれる場合も多いのです。

営業は、失注したりするととたんに訪問しなくなります。
ほとんどがルート営業であるにも関わらずです。
所謂、Know-howだけ取られたことで、「やきもちを焼く」のです。
どんどん遠のき、久しぶりに訪問しても「何しに来たの」となります。

20件訪問して、1件から受注するのが平均だと覚悟するとしたら、
いつでも行ける顧客数を確保することが営業マンの強みとなります。
確率の高い見積もりをすることが、会社から求められます。

ではどうするか。
無償のチェックをするのです。機械の状態がわからなければ提案もできないのです。
無償だと誰でも見せてくれます。

無理難題も引き受けるのです。自分の力で、ソリューションを提案するのです。
(詳細は、2014年12日1日投稿記事、「あんたは、馬鹿か鈍いのか」を参照してください)

不得意なことでも挑戦するのです。それが、学ぶことの第一歩です。
(詳細は、2014年11月18日投稿記事、「痩せた土地と柿の実」を参照してください)

Know-howを獲られたからと言って、やきもちを焼かないことです。
Know-howを正しく使えるのは、苦労してひねり出した者だけです。
(詳細は、2014年7月16日投稿記事、「Know-howは果てなし」を参照してください)

営業にとって、無駄こそ最大の営業活動だからです。
会社から効率的な営業活動を求められます。
インターネットで通販型の営業は、10年間は持つかもしれません。
その先の営業は、やはり足で稼ぐしかないのです。
10~20年は使ってもらうものを売るのですから、
そのくらいの覚悟と努力が必要なのです。

見積もりの受注確度を上げるには、
何でも社内に持ち帰らずその場で取捨選択することです。
それには、普段の研鑚が不可欠です。頼るのは自分しかいないのです。

営業段階で、エンディングストーリー(竣工、代金回収、顧客満足度)が描けるようになると、
顧客にも、社内にも説得力があります。

それができれば、顧客は生涯あなたを手放せなくなります。
頼りがいがあり、社外の何でも相談できる強力な助っ人になれるのです。

チャンスは、無理難題と思えるような場面に落ちているのです。
誰も近づこうとしないからです。

どうしまひょ 屏風の虎を くくれとさ

2015年10月29日

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大いに笑う

2015-10-28 18:18:36 | よもやま話
  
約20年間、パン工場の建設に関わってきました。
その間、お世話になった空調業者の方といつもの中野の店でいっぱいやりました。
歴代お世話になりました方々が5人も来てくださいました。

若い監督や営業の方が今や中堅どころになられました。
忘れずにいてくださったことが、なにより嬉しかったのです。
若い設計士や営業の方に大いに文句を言ったりもしました。
恨みとも思わず逆に感謝されました。
私も、業者の方たちも何しろ一生懸命でした。

昔話に花が咲いたり、現在の苦労話を聞かせていただきました。
ここでも小言こうべいでした。上機嫌でご帰還した次第です。

今日の主題は、「大いに笑う」です。
笑うことで、健康でいられる(病気にならなくて長生きをすること)とラジオで聞きました。
医学的根拠は、解明されていないようです。

会いたくても会えなかった方々と会うことができました。
福岡で、沖縄で、東京で退職後の3週間は大変忙しかったのです。
どこでも歓迎してくださいました。すっかり酒漬けになりました。
仕事の話はそこそこで、馬鹿を言いあい笑うのでした。
笑いの種は、会う人すべてが持っておられました。
その種に水を注し、その人柄に光を当てて、花が咲くほど盛り上がるのでした。
私は、人が好きでたまりません。特に愚直なまでに正直な人が好きです。

お前本当に馬鹿だね。と言いあいます。

我慢することは何もありません。
ひたすら相手を尊敬します。
どの人にも事情があります。
大事にしていることがあります。
得意なことがあります。

一生懸命やればやるほど、人間味が出てそこが面白いのです。
面白いから興味が湧いてくるのです。
馬鹿さ加減が浮き彫りにされてきます。そこが可笑しいのです。
笑って食べれば、どんな料理も美味しいのです。
酒は、その人柄のエッセンスを抽出します。
人への興味はつきません。

笑いとは、私にとって人生そのものです。
辛いことも真剣に向き合えば、笑いに変わるのです。
哀しいことも過ぎてしまえば、笑いの種です。
笑いは、その人を称賛する近道なのです。

まずは、にっこりから始めましょう。

100グラム 体重減った 尻振った

2015年10月28日

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愛犬ジン

2015-10-27 07:33:12 | 思い出話
ジンの若かりし頃です。

   
16年前にもらわれっ子の子犬が来ました。
長女がジンと名付けました。
昨日、末娘からジンが危篤の報せを受け、見舞いに帰ります。
去る日曜日に会ったときは、ジンはベランダで日向ぼっこをしていました。
痩せこけていました。

長男が、犬が飼いたいと言い出しました。
ペットショップで、血統書つきの犬を買うほどの余裕はありませんでした。
磯子区の蓄犬センターで、殺処分前の犬をくれると言う長女の情報を元に、
かみさんと長男が行きました。選にもれ、当たりませんでした。
長男は泣いていました。かみさんはくじ運がないと評判でした。
Co-opで米を当てて使い果たしたのだとも。

三回目の挑戦は、長女と長男で行きました。
三匹姉弟の一番下の雄の子犬をもらってきました。
袋に入れて、バスに乗って連れて帰ったとか。

顔はゴールデンレトリバー、お尻はイングリッシュコギーのハーフでした。
ブリーダーの掛け合わせの失敗作なのでしょう。

この子は、いきなり「王子」様になりました。
不登校の娘の慰め役、弟のいない長男の付き人、
夫と危機を迎えたかみさんの良き話し相手になったのでした。
私が帰ると、唯一玄関まで飛び跳ねるように出迎えてくれました。

皆が出かけたあと最後に鍵を閉めて出ようとすると、さみしくて遠吠えをしました。
なかなか出かけられませんでした。
私の眼鏡のつる(プラスチック製)をちぎるように破壊しました。
背が届く出っ張りは、ことごとく歯型が付きました。
伸びてくる歯がかゆくてしかたがなかったのです。

ジンは家族の序列をいち早く見抜きました。
誰が一番偉いのか、怖いのか。ジン自身は、お尻から2番目でした。
孫の序列には、戸惑ったようでした。
最初は、当然自分より下でした。初孫の遊び相手がこの犬だったのでした。
遠慮なくのしかかるものですから、迷惑な顔をしていました。動くぬいぐるみでした。
孫が泣くと、周りをうろうろして心配顔でした。

レバー式のドアノブに伸びあがって前足をかけて、ドアを開ける技を覚えました。
閉めることはできませんでした。
冬には、所狭しとリビングにたむろしている家族からブーイングでした。

この子には、大いに救われました。
気に入られようと、家族が抜け駆けのようにおかずを与えました。
みるみる太ったのでした。
2歳の頃まで、大きなゴルデンやハスキー犬に遊んでもらっていました。
相手共々よだれでべとべとでした。
身体が火照ってくると、思い出したかのように公園の池に飛び込みました。
どぶのような泥を付けて、たいそう臭いました。
他の犬の飼い主は遠ざけてしまい、遊びもジ・エンドでした。

私達夫婦の部屋に寝ておりました。二人と一匹の鼾でうるさかったそうです。
ジンは寝言も言いました。フォンフォンと夜中に空吠えをしていました。

ジンが三歳の時に、海の中にそっと抱えて浸けてあげました。
自然と犬かきで泳ぎ始め、病みつきになりました。

末娘が中学生になり、子供達は自分たちのことで忙しくなりました。
夫婦とジンでよく海や山へ出かけました。
かみさんが散歩に行くと海岸線を歩き始めました。
私はたき火の番でした。ジンは、かみさんのお供で付いていったかと思うと
帰って来ました。あっちに行ったり、こっちに帰ったりを繰り返していました。
見かねて二人で行動をするようになりました。これが良かった。
遠ざかっていた夫婦の会話がもどり、家族のことを互いに話すようになりました。

ジンは家族の要でした。

子どもの時期を終えると、気に入った犬としか遊ばなくなりました。
自分より大きな犬が来ると、「僕は見えませんよ」という素振りをするようになりました。

もうすぐ16歳です。人間の年齢になおすとかなりの老齢です。
紙おむつを洗濯はさみで留めてもらっています。待てもお手ももうしません。

かみさんは、いろんなところを掃いた後に、まとめて掃いたものを集めるタイプでした。
掃き終わった端から、ジンが走ってきてゴミですべりまき散らしていました。
かみさんは笑い怒りながら、また掃いていました。

ジンは大事な家族です。

今は、家に残った長男と末娘の二人が面倒を見ています。
ここ数年、さみしくて遠吠えをするようになりました。
「気にしい」の末娘は窓を閉めありとあらゆる防音をしていました。
虐待をしているのではないかと近所の人に注意されたそうです。

最後まで見とってあげたいのです。

むつみごと ジンが仲裁 笑いやめ

2015年10月27日

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