故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

私の路線

2015-02-28 05:25:41 | よもやま話
 
かつて、広島の河には、たくさんの家がせり出すように建っていました


静かな朝です。
寒い朝です。

カシミヤのマフラーを付け、毛糸の帽子を被り
靴下を履き、レッグウオーマーを巻きました。
準備万端ですが、やはり薄ら寒いのです。

妻が、広島へ帰郷したからでしょうか。

風呂も沸かしましたが、なかなか入る気がしません。
ご飯を炊く気にもなりません。妙な感じです。
いつもの私らしくありません。

気を取り直して書いています。

人気のブログを覗いてみました。
いわゆる、know-how ものでした。
野菜の作り方や、趣味の雑学が分かりやすく
ためになるように書かれていました。
人気の秘密は、これだなと思いました。
毎日300人以上の人がアクセスして、読んでいるブログでした。

かつて、エンジニアリング会社に勤めていた頃、
5時過ぎに趣味人が集まり、自分の十八番を披露する会がありました。
玄人裸足の一芸は、集まった人を唸らせるものがありました。
乾きもので、一杯やりながら、持ち回りでその手の話を聞くのは
有意義でした。持ち回りのネタが尽きる頃に、その会は散会しました。

私の路線は、違います。
Know-howを披露するほどネタ持ちではありません。
趣味人でも勉強家でもありません。
一発芸の感動屋の私です。
人が営む生活の中に、必然性が生み出すユーモアを拾うのが
私の姿勢です。

一緒に仕事をしている40歳の方がいます。
昨年のプロジェクトでは、指示通りの仕事ぶりでした。
勘所がつかめたのか、着眼点が広がっていました。
要領も、閃きも深くなっていました。
頭の良い方です。根性は折紙付きです。
最初に会ったときは、不満のオンパレードでした。
この頃は、嬉々として仕事をやっているように見えます。
責任の範囲が広がったのでしょう。自覚の問題です。
せっかく、時間を費やすのですから面白いと感じた方が
本人にも、良いのです。

私は、表情を読み取ることが好きです。
言外の言葉を発するのが、表情です。
神楽のようにお面をかぶっていたら解らないかもしれません。
今度は、声のトーンや前後の話振りで判断するようになるでしょう。

興味津々。
今日も、なんらかの事件が私の周りで起こります。
必然性が織りなすドラマが好きです。

2015年2月28日
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「みてる」という方言

2015-02-27 06:22:33 | よもやま話
しゃきしゃき食感がたまらない、のらぼう菜

広島の方言に残る言葉が、古語に近いと感じたのは、
古文を習い始めた高校生の頃です。

福岡弁では、東京弁で言う「行く」が「来る」になる。
あんた天神に行くと?私も来るけん、待っときんしゃい。

もうみてたけん、新しいのを買うてくるけん、辛抱しときんさい。
が広島弁。「みてる」は無くなる、底をつくことを意味します。

福岡(九州)弁は、相手が中心となる話し言葉です。
目的の場所へ近づくことが、「来る」になります。
英語でも目的地に近づくことを''come''と言います。
美しい言葉です。

だから、あの時の絶頂感は、目的に近づく''come''となるらしい。
神が到来したのかと錯覚するなかれ。

のらぼう菜に会ったのは、三多摩に来てからです。
家庭菜園のプロフェッショナルである先輩から教えて頂きました。
広島菜とも、野沢菜とも違う食感でした。
厚めで、歯ごたえがありしかも甘いのです。
我が家でも植えました。
お腹空かしの鳥に若芽をつつかれ、一時は瀕死状態でした。
春には、小ぶりながらもあの食感を楽しめそうです。

私は、沖縄に行くと必ず食べるものがあります。
沖縄そばと島豆腐です。
天然塩をにがりに使った豆腐は、
酒のつまみに小腹がすいている時にちょうど良いのです。
沖縄そばは、ぼそぼそした麺と、昆布だしのスープが好きです。

蓄えが乏しいし、仕事における賞味期限も限られています。
勤めを辞めても、わずかな収入が必要です。
これまで頑張った知見を活かし、興味があることを延ばして何かをやります。
日本でも、外国でも活躍の場はあるはずです。

前向きであれば、みてるということはありません。
みてても良いのです。また継ぎ足せば。
「来る」のような素敵な日本語を正しく使いたいのです。

2015年2月27日
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お酒の飲み方

2015-02-26 04:38:16 | よもやま話
  仕事後の独酌 

  
南千住、山谷涙橋に世界長という酒屋さんがありました。

朝6時開店でした。
手配師たちが帰ったあと、仕事にあぶれた人たちが集まってきました。
当時、一杯110円のコップ酒が多く売れました。
らっきょ数粒と梅干一粒は、10円でした。
一升瓶から直接コップに注ぎました。受け皿はなしでも摺り切り一杯。
美味しそうに口を近づけながら飲まれました。

私は、この町に溶け込むように働いていました。
教授に学校を辞めた方が良いと言われていました。

  いつしか路上に宴席が出来ました 


哀しいような、お祭り騒ぎでした。
毎日決まって、日本酒を6杯飲まれる建具師の方がおられました。
ある日、近くのカウンターバーでお酒をご馳走になりました。
親分さんの手には、根性焼きの跡が手のあちこちに残っていました。
開口健さんの「日本三文オペラ」を読んだのは、その頃だったでしょうか。

  時には野菜も食べた方が良い


私は、午前中は山谷で働き、午後は銀座で働いていました。
松屋裏の酒屋さんで、酒の配達をしていました。
エレベーターで乗り合わせたこれから飲みに行かれる紳士たちもいました。
こちらでビールと言えば小瓶でした。いったいいくらで売られていたのでしょう。
夜7時、お姉さんたちは客待ち顔でテーブルにトランプを広げていました。
山谷に較べ、ゆっくり時間が流れている感じでした。

私は、どちらも2ケ月で辞めました。
どちらにも私の居場所を見つけることはできませんでした。

その後、故郷に帰り家業である蜜柑の仕事をしました。
蜜柑の行商を手伝っていました。お袋は何も聞かずに、喜んでいました。
親父に大学を辞めたいと言い出せないまま、
阿蘇外輪山の牧場に住み込みで働くことにしました。

時おり降る雪は、ほほに突き刺さりました。
一頭、子牛が行方不明になりました。
私は、暗闇の中を探して歩きました。
隣の牧場まで歩く途中、寒い中じっとしている親牛の目が、
懐中電灯の光に反射しました。
隣の牧場の知り合いは、そんなこと放っておけと言われました。
子牛の価値は低かったのでした。
その子牛は、私の知らぬ間に、麓に連れて行かれて売られたのでした。

3月になり、牧場も辞めて、大学に帰りました。
教授に詫びを入れ、復学しました。

その後も酒を飲みました。
田中小実昌という作家は、新宿裏通りのカウンターバーで、
輪ゴムを噛みながらウイスキーを飲むと聞きました。

今は、家で飲む酒も、時おり友人と飲む酒も同じように落ち着いています。
これからも医者に止められるまで、飲むでしょう。
時おり、自分の所業を振り返りながら飲むのです。

酒は裏切らない。酒に振り回されない飲み方をしたいと思います。

2015年2月26日
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選択基準

2015-02-25 06:35:08 | 思い出話
  選ぶ側の理由と選ばれる側の意気込み 

これから就職活動が本格化します。

私は、就職活動で4つの会社を受験しました。
私達の時代は、卒業見込みの前年10月だったように記憶しています。
今は、前年春からのようです。
もうすぐ、リクルート服を着た若者達をたくさん見ることになりそうです。

金属会社を2社、食品機械メーカーを2社受験しました。
卒業も怪しい、卒論も追い込みの10月の多忙な時期に一月を費やしました。
一つは、金属の鉱石を掘削する財閥系の会社、もう一つはチタンを精錬する
会社でした。二社とも面接で落ちました。
私の勉学に取り組む姿勢は惨憺たるもので、
技術者として頭で勝負できませんでした。

食品機械メーカーの面接一社目。
最終面接をしてくださった社長は、一日続いたしかも午後遅くの面接で
疲れていました。靴を脱ぎ、靴下の湿気を取っておられました。
テーブルの下に見えました。
どんな職種を希望するかの問いに、現場に出たいと答えました。
社長の目が開きました。靴を履きなおしました。
ほどなく合格の通知が来ました。

食品機械メーカー二社目。
その日は、朝から歯が痛かったのです。
午前中に形だけの筆記試験が終わりました。
午後は3人ずつ面接でした。歯が痛かったので、
鬼のような形相だったかもしれません。
総務部長が、山登りが好きだという私に対し、足を見せてほしいと言われました。
ズボンをめくり、睨み付け乍らふくらはぎを見ていただきました。
こちらも、合格通知が来ました。総務部長は山が好きでした。後で分かりました。

どちらの会社も、私の頭の程度には触れませんでした。
やる気のほどを見ていただけました。
どちらの会社も現場に出たいと言う私の意気込みを評価してくれたようです。
私は、社会に出て学生時代の不勉強をのろいながら、いろんな方に師事しました。
追いつけるまでには、未だに至っておりません。

もし、私が面接官だったら、受験者に問いたいことがあります。
貴方の30年後のイメージを教えてほしいと。
会社に入って何がしたい、何ができるではないのです。
どう生きたいのか聞きたいのです。
そんな先のことは、誰にも分かるはずがありません。
自分が、今大事にしていることの延長上に30年後があるはずです。
若い人に大事にして頂きたいことは、生き様です。
努力の結果は後から付いてきます。
若い時に、あれこれ悩む必要はないのです。無我夢中で良いのです。
冷静になって、進路変更も良しなのです。

狭いベランダにようやく芽を出し、栄養不足の土地で伸びてくれる野菜たちに
勇気をもらい感謝します。

2015年2月25日
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我が家の雛人形

2015-02-24 05:28:25 | よもやま話
昨日は、4月上旬の天気でした

昨日は、コートをとっても汗ばむほどでした。
もうすぐ、ひな祭りです。

小学校の低学年の頃、初めて五段飾りのひな人形を見ました。
我が家にはテレビも無い頃の話です。
緋毛氈の敷物の上に座り、小さき友と飽かずに眺めたものです。

今年の冬は、寒い方ではなかったでしょうか。
水仙は、12月には咲きませんでした。
2月になってから、梅の前に咲いてくれました。

ベランダに鮮やかな彩りの植物がありました。
冬を迎える前に植えた苺です。
見ようによっては、ひな人形に見えなくもないのです。
葉の半分が枯れたように見えます。
きっと、苺の葉全体が凍結する前に一部枯れたのでしょう。
生きる知恵のようにも感じます。

娘が三人います。
どの子も個性豊かです。
次女は、長女の挑戦を見ながら育ちました。
親から怒られることは何か学んだのでした。
要領が良いようで、挑戦しない分不器用でした。
やっと、自分の足で歩くことを始めました。

三女は、写真の少なさを嘆いていました。
おまけに生まれた子供と感じたかもしれません。
今や、我が家の要です。
合間の長男(次女と三女の間)のお姉ちゃんのようです。
しっかりしてきました。
褒めてもプレッシャーになるので、そっと応援しています。

もうすぐ春です。
何かわくわくするような気持ちになるから不思議です。

2015年2月24日
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