故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

わくわく

2020-03-31 19:56:51 | よもやま話

孫に「たんぽぽの目」(タイトル)を送りました。
こんなしたり顔ではいけません。
にこやかに。それが素敵でしょう。


満開の梅の上に雪が降った。
春の雪は融けるのも早い。
なにくそと、梅はさらに輝きを放ったように見える。

今日のタイトルは、「わくわく」です。
「わくわく」とは、
期待・喜びなどで心がはずみ、興奮ぎみで落ち着かないさま。
(広辞苑より)
どんな気持ちだったか思い出そうとしています。
何かに挑戦し、その結果が待ち遠しい。
こんな気持ちで毎日過ごせたらよいな。
そこで、このタイトルを選びました。

挑戦とは、なんだったのか。
何にも知らないから、やることがすべて挑戦だった。
少しできても、ぬるま湯につかり続けることはできなかった。
第一、そんな気も起らなかった。

たくさん、やったじゃないか。
今になって、ぬるま湯から抜け出せない。
したがって、「わくわく」もない。
死を直前にして、ああすればよかったとたくさん思うことだろう。
読もうと思った本も、字が小さくて面倒だ。
字が大きい本は重い。
寝そべって読もうにも、背筋が弱くて頭を持ち上げられない。
挑戦出来ない理由を数えるのだけは得意になった。

困ったものだ。
これではならぬと、文章を書くことにした。
今の私には、大きな挑戦です。
来訪者がいるので、部屋を片付けた。
必要な書類を探すために、書類棚を整理した。
読もうと思っていた本が現れた。
過去の書類を読み込んだ。
こんな自分がいたんだと感心した。

少しずつ、できるかなと思い始めた。
やりたかったことを思い出した。
敢えて書き始めたことで、収穫があった。
「わくわく」を思い出せそうである。

わくわくと 老梅なれど 芽つむぐ

(投稿後)
私達は経験者故、挑戦する前に渡ることをやめてしまいがちです。
経験と言い訳をはき違えているような気がします。
そう、やんなはれ。

2020年3月31日
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無力感

2020-03-30 07:23:23 | よもやま話

絵のタイトルは、「損して得した」です。
電柱がなければ、花火の全容を見られたのです。
全容は見られなかったけど、見えない部分を想像できた。


広辞苑には、憧れとこだわりがあった。
結婚祝いに何がよいかと職場の代表者に聞かれ、広辞苑を希望しいただいた。
広辞苑を手にした最初である。
電子辞書は、3台目である。
高いほど、画面が大きく、文字入力に選択性(広辞苑でアルファベット入力ができる)がある。
毎日使うものだから、高価でも便利なものがよい。

今日のタイトルは、「無力感」です。
兄弟は、仲が良い時もあれば、そうでない時もある。
親子の場合、親離れ子離れが話題となる。
兄弟間では、永久に長幼が引き継がれる。
人望がない兄弟とは付き合いたくはないが、逃げられないのである。
兄弟は、他人の始まりと言われる所以である。

今日のタイトルは、「無力感」です。
意味は、
自分の力の無さを意識しての失望感。
(広辞苑より)

幼いころ、両親が離婚し新しい母(養母)に育てられた。
実母に会いたいけど、養母に遠慮し、封印した。
普通なら、「無力感」に襲われ、境遇を恨む。
実母は、子どもを残し駆け落ちをした。
後から、実母を「よくやった」と尊敬する。
こんな話を聞いた。

人それぞれ、生まれた境遇は違う。
出自(出どころ。うまれ。出生と同時に血縁に基づいて制度的に認知・規定される系譜上の帰属
:広辞苑より)のことである。
「みんな貧乏が悪いんや」と思いがちである。
何かの時に、行き当たる壁は常に経済的なことにつながる。
4歳までに「親孝行」は終わりを告げる。
5歳からは、個人として育つ。
動物の世界では、当たり前のことである。
そんな風に考えたい。

私は、母に倣い子どもたちを文章で呼ぶときは「さん」づけにしている。
会話するときは、いつもの「ちゃん」づけであったり呼び捨てである。
再婚で家を出ることになり、よかった。
子供たちから独立できたし、子どもたちも親から独立できた。
「無力感」を出自のせいにする。
境遇のせいにする限り、望みはない。

喰始(たべはじめ)さんは、多くのエンターテナーを育てた。
ダメ出しはするが、台詞の工夫はすべて出演者(若者)に任せる。
出演者が工夫して、自力で笑いを取る毎日がワハハ本舗と言われた。
自分の知恵と努力で勝ち上がれる。
しかし、こうも言った。
60代は70代のため、70代は80代のためにあると。
年配者が、今日を楽しもうと前向きな姿を見せることが使命ではないか。
みんな、そうしている。
そうしているはずである。

酒がある 飲んで飲まれて 頑張るか

2020年3月30日
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友の友

2020-03-29 00:55:09 | よもやま話

絵のタイトルは、「見事はおいしい」です。
「見事」は、「見事」。
我人生すべてで判断するしかありません。


剪定が終わり、ゴルフに行った。
朝(8時スタート)のラウンドはまだ寒く(1℃)、手を揉みながらのプレーになった。
桜が咲くころには、快適ラウンドになるだろう。

今日のタイトルは、「友の友」です。
お好み焼きの師匠が、広島カープを愛するラーメン屋が近くにあると教えてくれた。
ゴルフのあと、訪ねた。ラーメン激戦区にある店である。
スープがまだ残っていると、この日最後のラーメンを作ってくれた。
師匠の名を出すと、カープの話で盛り上がった。
師匠の店で、月一回広島県人会がある。
皆さん、日頃から広島弁を封じて過ごしていると聞いた。
戊申戦争後に辛酸をなめて今日まで生き抜いた人々の真っただ中で、広島弁は使いにくい。
この辺りの人は、大阪より西に行くことも少なく、山口と広島の違いは分かりにくい。
広島県人が北関東と東北の地理に疎いのに似ている。
店で食べたラーメンは、細麺で、塩分を控えめのスープで懐かしい味がした。

会社勤めの頃は、仲間と飲んでいた。
社内、関連会社や顧客のいわゆる仕事仲間であった。
仕事仲間と言えば聞こえは良いが、今思うと閉鎖的であった。
広島県人の友人がいると、先輩がゴルフ仲間を紹介してくれた。
ばりばりの広島弁の友人が、自分が勤める会社の名前を教えてくれた。
友人の会社の上司(役員)が、私の中学の同窓生で、出張で上京した折新橋で飲んだ。
先輩が酒席で広島弁を話す友人を紹介してくれなかったら、
中学の同窓生と東京で飲むことはなかったであろう。

先輩に倣い、私も会社の友人を先輩に紹介した。
もう、10年以上先輩と一緒に飲んでいる。
野毛や中野、新橋と安い飲み屋が多い界隈でやっている。
友人たちを移住した我が家に呼んで、地域の友人たちともやっている。
信頼する友の友は、友である。なんの警戒心もない。
友人がどんなに立派な肩書であろうが、安い店に行き割り勘である。

友の友と飲む場合は、会社の上司の悪口は話題にならない。
お互いに興味がある話を、聞いたり話したりする。
技術畑の友通しが飲む場合は、最先端の技術の話だったり、工夫の極みの話だったりする。
お互い仕事が違うので、仕事の話はしない。
いたって気楽に趣味の話も出てくる。
飲み会としては、最高でけっして悪酔いをすることがない。
一通り話したからと言っても、話題は尽きない。
固定化した人員の会社勤めの旦那より、
子供の成長にあわせ常に組み合わせが違うかみさんは、柔軟で強いと言える。

友の友は、柵(しがらみ)にとらわれない。
言ってみれば、人望があるかないか。
面白いか、そうでないか。
興味が湧くか、湧かないか。
友に信頼を置いているから、何の警戒も心配も必要ない。
兄弟、会社関係者や近所と違い、気に入らなければ深く付き合わなければよいのである。

人望が 長の条件 昔から

2020年3月29日
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剪定と人間模様

2020-03-24 01:46:05 | よもやま話

昭和記念公園で見たヒマラヤ杉の「雄姿」(タイトル)です。
伸びた木は、公園では雄姿ですが空き家では厄介者です。


今日のタイトルは、「剪定と人間模様」です。
空き家の伸びきった木の剪定をしました。

横浜の自宅には子供たちが住んでいます。
彼らにとって、庭の木の剪定は難しい。
危険だからでもないし、道具が無いからでもありません。
切った木を決められた日(ウィークデー)にゴミ捨て場に捨てることだったのです。
私は、新品の剪定用鋸をリュックサックに入れて帰りました。
庭に穴を掘るのが、私の仕事です。息子は、伐れる鋸で喜んで剪定をしていました。
伐った枝を短めにして穴まで運ぶ。息子にとって、剪定のハードルが下がった瞬間です。

私も捨て場を確保してから剪定を始めます。
初めは、塹壕次はクリーンセンター、今回は地域の友人の山でした。
枝を落とすのは手鋸だけです。それも新品の鋸を使います。
チェーンソーも持っていますが使いません。
チェーンソーは両手で使わなければなりません。足場を作らなければならないし危険です。
脚立は、3本脚のものを使います。二本足は、木肌で滑ったりして安定しません。
右利きが使えるスペースを確保し、落とす方向の反対側から脚立に乗りアプローチします。
木の枝が予期せぬ方向に倒れても、逃げる用意ができる場所です。
伐る順番は、落とす側の枝からにしています。
木は、360度自由に枝を伸ばします。
落す方向と反対側に広がった枝は、落とす側と反対側に切れ目を入れて押し倒します。
生木の枝は、手の力でむしれます。乾いたらしなり簡単には折れません。
ここまでが、剪定の作法です。

剪定をしていると、通りがかりの人と会話ができます。
オープンスペースで仕事をする気楽さもあり、会話を楽しめます。
今日は寒いから畑に出ない年寄りが、身体がなまらないように散歩しています。
ゴルフ好きの定年者は、こんな寒い日は身体を鍛えるための散歩はしません。
年寄りは、暇ゆえにいろんな話をしていきます。
「よお働くな、奥さんも働き金がたまってしょうがあんめい」とばあちゃんが笑っています。
「貯まりすぎて困っているから、あなたの家の蔵を貸してください」と
冗談で返そうとしたら、ばあちゃんはすでに歩き去っていました。
犬の散歩で通りがかった若い女性は、2日続きでそんなにやったのかと感心しています。
また、他のお年寄りは空き家の元の持ち主も喜んでいるだろうと言う。
現在の持ち主は、見て見ぬ振りです。お礼も言わない。
持ち主の心の負担が少なくなればと勝手に思っています。

木の根は今まで通り、水分を吸い上げ栄養を送っています。
樹液が伐った所からこぼれ少し可哀そうです。
屋根まで伸びて瓦を落とすあんたが悪いと勝手に決めている。
やっと、移住4年目にして気がかりであった空き家の木の剪定ができました。
葉が伸び日陰ができたら、木に名札をつけ鳥の巣箱を取り付ける計画です。
剪定は、面白い。それだけです。

空き家策 隠すことより 見える化だ

2020年3月24日
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危ない橋、フェイク記事

2020-03-22 09:55:00 | よもやま話

絵のタイトルは、「永観堂」です。
オホホ、ウフフです。


この記事を書き始めて、3日目になります。
書こうと思ったきっかけは、ブログで生活する人がいると言う報道を観た時です。
人が読みたいと思わせる記事を書き続けるのが使命です。
ブログに添付した広告も一緒に開かれて、カウントされ収入になる。

今日のタイトルは、「危ない橋、フェイク記事」です。
このようなブロガーをやっつけてやろうと書き始めたわけではありません。
犯罪すれすれの記事を書く。ゴシップに便乗したり、ないことをあることのように書く。
インターネットで飛ばせば、書き人知らずとなる。誰かが追随し、書き人は隠れてしまう。
人が傷ついたって、読者数が優先される。
読者数を伸ばすために、さらに過激になる。
自分は注目されていると勘違いしている。
深く掘り下げることはできない。
毎日発信するために、関連記事の切り取り貼り付けの繰り返しでできた記事である。
もっともらしく、それらしくがモットーである。
どこかのお偉いさんが、引用する言葉に似ている。
さも、自分がひねり出したと言わんばかりに胸を張っている。
多くの人が、無責任に読み継いでいく。
いつしか、嘘が蔓延し、多くの人が傷ついていく。
中には、世の中から抹消される人だって出てくる。

なんでも正直に書く。
それは、日記であって記事ではない。
自分なりの感想を記事に込めて欲しい。
インスタでは、写真だけで記事はない。
それが、かえって良い場合もある。
ごちゃごちゃの個人の感想は不要と言うことだろう。

生物学の博士(福岡伸一氏)が、次のような興味深いことを言った。
生命体は 機械ではない。
部品の一部が 損なわれても、生物は 動的平衡を保つことができる。
つまり、生命体の何かが失われても他のものが補完して動的平衡を保つことがある。

私の周りでおこっていることを列挙します。
まずは、私たちのお年頃のこと。
物忘れが激しくなり、嘘の上塗りが難しくなってきました。
よって、本当のことを言うように心がけている。
本当のことだけでは面白くない。味付け程度の誇張が欲しい。

SNSで記事を読み、「いいね」を押す。
応援しているよ。とんでもない、開けましたよのサインに過ぎない。
「いいね」の後に、無責任な応援メッセージが続く。
そして、傷口をなめ合うように応信が続く。
SNSで発信される記事のうち、見たい、読みたい記事は1/10である。

お店ランキングを調べて、点数が高そうな(評価がよい)店に行く。
お得なクーポンも付いている。
お店ランキングを管理するサイトに有料登録すると、いつしかお店のポイントが「0.5」上がった。
サイトを運営している方々は、皆さんの評価の集計をしたに過ぎないと胸を張る。
サイト側は、クーポンの強要なんてしていないと言われる。
新しいお店の記事を書く人が来た。良い点数をくれたわりに、二度と来られない。
美味しいも、その人次第。食べて見なきゃわからない。
三つ子の魂、百まで。お母さんが、美味しいものを作って食べさせた。
そんな子供は、味覚も発達している。
何よりも、お母さんが工夫して美味しく食べさせてくれた。
その記憶が、三つ子の魂となる。

SNSで発信して、お客数を増やしたらと言われる。
物珍しさで来られるお客さんのお試し単価は低い。
お客さんの都合で来られるから、ピークカットができない。
100食限定販売を始めた店がある。働く人の時短になったと聞いた。

個人情報を出さないと買えない、中古販売業者があった。
案の定、毎日のように広告が配信されてきた。

電話で、実態のない会社から、「お得な情報」を聞かされる。
大いに引っ張って、最後には「ごめん」と言って断ることにしている。
すべて断る。よろめかない。電力乗り換え、通信乗り換えなど、百社は断った。
営業の時、忙しい合間を見て見積書を作る。見積もりの受注率は5%。それでも頑張った。
靴底を減らして歩き、アフリカの裸足の方々に靴を売る。今や伝説のような昔話となった。

世の中には、溢れるように情報が飛び交っている。
正しい情報は何なのか。選択する能力も時間もない。
私が国際的なメーカーに勤務している頃、コピー機を作る会社が次々に受注した。
機械が、そろそろ壊れ始める頃(5-10年後)には、コピー機メーカーはなかった。
世の中には、知ってか知らずか悪事を働く輩がいる。
応援する人がいる時は、悪事ではなかった。
長い歴史の中には、すべて消え去っている。

私は嘆かない。
何かを失っても、何かが補完してくれ動的平衡は保たれる。
何かが無いから、世の中は正常ではなくなるなんて思わない。

手がしびれ 近くをさすり 元通り
(鹿児島の方で、優れたリハビリの先生がいると聞いた。
機能しなくなった神経回路を迂回する神経に刺激を与え続け、元通り動くようになった。)

2020年3月22日
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