故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

まどろむ朝(Part2)

2016-08-31 05:43:32 | よもやま話

大笑い。
もう止まりません。
こんな時こそ、底抜けの素敵な笑顔です。
桃畑の一瞬のできごとでした。


何々しなけりゃは、もう病です。
そう思いたいこの頃です。
何かするわけでもなく、だらだらと時間を過ごす。
おしゃべりをするわけでもなく、ただ音楽を聞いたりする。
寝顔を見て、つついてみたり。

昨夜は、玄関に入り込んだコオロギがやかましく鳴いていました。
妻は、いつまでも聞こえないと耳を澄ませていました。

今日のテーマは、「まどろむ朝(Part2)」です。
「微睡む(まどろむ)」と書きます。
例によって、意味は。
うとうとと眠る。少しの間眠る。
源氏物語(桐壺)「つゆまどまれず、明かしかねさせ給う」
と広辞苑に出ていました。
きっと、誰かを待っていて、一睡もできなかったのでしょう。
早く、縁側でまどろみながら、あの世とこっちを行ったり来たりしたいものです。
まどろむ朝は、二度寝のぐっすりもあり、すっかり気分が晴れるものです。

ユーミンの「12月の雨」を思い出します。
雨音に気づいて 遅く起きた朝は
まだベッドの中で 半分眠りたい
ストーブをつけたら くもったガラス窓
手のひらでこすると ぼんやり冬景色

もう42年前のリリースです。
この歌詞とメロディーに痺れたのは、それから30年も経った頃でした。
冬の雨はことさらに寒さを募らせます。
出たくない寝床からやっと出てストーブを点ける。
曇りガラスの向こうから待っていた人が現れる予感がするというもの。

なになにしなけりゃと、あくせく働いてきました。
これからも続くことは解っていました。
そんな時、誰か来るんじゃないかと過去を振り返りました。
甘酸っぱいものがこみ上げてきたものです。

誰にもある幻想のような「まどろむ朝」です。

タバコ吸い 千円減った 妻ほめる

2016年8月31日

2015年11月11日投稿記事「まどろむ朝」を参照ください。

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片づけ

2016-08-30 07:36:57 | よもやま話

今日のタイトルは、「片づけ」です。
玄関が雑然としている。
台所が汚れている。
人を迎えるのに、玄関が雑然としていては、ふさわしくありません。
台所が汚れていると、せっかくの料理も味以前のことになります。

リフォームが始まります。
台所もその対象エリアなので片付けました。
台所に置いていなくても良いものがたくさんありました。
それをリフォーム対象ではない場所に移動しました。
あいまいな必要なものから、本当に今使うものを台所に戻していくでしょう。
いつかは使うものの整理は、名前を付けて分かるようにして収納しましょう。

台風が来る。巨大で、今までにない進路で来る。
この際と、玄関に置いてあったほとんど不要なものを納屋に移動しました。
風で飛ばされてはならないと、へちまやゴーヤの実も採りました。

どちらも、すっきりしました。
日々の生活で本当に必要なものは、そんなにありません。
いつかは使う品々の整理こそ大切です。
物置こそ、その人の人生観が顕われるのでしょう。
次は物置です。
使えるものと使えないものを、まず整理をしなければなりません。
未だに各部屋を占拠している使わないもの(一年以上使わないものは、不要)を
勇気を持って捨てます。
使うかもしれないものは、直ぐに見つかるように外部に名前をつけましょう。
ものが混じらないように一品づつ名前をつけましょう。
そして取り出しやすくしましょう。

少しづつ、また大胆にやればできるでしょう。
すっきりした台所で、妻は楽しそうに料理を作っています。
すっきりした玄関わきに椅子を並べて、妻と一緒にお茶を飲みました。
縁側のようなあいまいな空間(内でもない、外でもない不思議な空間)となりました。
地域の人の家を訪ねることが多いこの頃です。
入りやすい家はあるものです。
入りにくい家もあります。
それは、その家の人の心もちを反映しているのかなと考えたりします。

山ほどの やることあって 一休み

2016年8月30日
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常に真剣

2016-08-28 06:04:03 | よもやま話

今日のタイトルは、「常に真剣」です。
剣道において、何故に竹刀を使った稽古が始まったのでしょう。
空手において、何故に寸止めの稽古を進めたのでしょう。
事業を始める前に、何故にシミュレーションをするのでしょう。
ゲームで戦うことで、何故に悲惨なリアリティー溢れるこさえ方をするのでしょう。

すべて、架空のことであり本当のことではありません。
古くは、貴重な人財を稽古で失いたくなかった。
殺し合いをするばかりでは、心も失われてしまう。

すべてのことが、リセットできるといつの日か気付かぬうちに考えるようになる。
リアリティーがないトークは飽きられてしまう。
事実は、小説よりも奇なり。
頭で考えた痛みなんて、張り手一発に遠くかすんでしまいます。
私は、嘘のような本当のこと、本当のことのようで嘘八百を毎日書いています。
しかし読まれなければ伝わらない。
ここに私の工夫があります。
出来るだけ旬の話題に取り組みたい。
リアリティーを出していきたい。
かと言って、自分の生活の写し物では面白くない。
では何か。

私は、「常に真剣」でありたいと考えています。
毎日書くことは、今自分が考えられる最大で最深のことを
えぐっていければと考えています。
嘘であろうと、本当のことであろうと、
真剣に描(書)いたことは、どこかで琴線に触れます。
私のブログを読まれる方は、毎日読まれています。
今日は、どんな馬鹿なことを書きおったかと読まれています。
昨日面白かったから、今日も読むか。てなもんです。
昨日も今日も同じようなことを書いているな。
試しに読んだ過去の記事も似たようなものだな。
一人の生きざまなんて、そんなに幅があるものではありません。
絵の具は、一色だけど、薄めたり他の色と合わせたりすると何色にもなります。
その時だけの色となります。

これが真剣だと思います。
毎日絞り出す知恵が本物だと感じます。
身体も精神も衰えてきます。あるいは強靭になります。
明日は、今日よりも良いものをと職人は頑張っています。
同じ感覚です。
毎日真剣でありたいは、願望です。
そうはいかないのが常です。
しかし、書かなければ伝わらない。

私は、自分が過去に書いたものを読みます。
読者は、何を読んでいるのかリサーチも兼ねてです。
読まれるものは、「真剣さ」です。
どうしてそう思ったか。何に感動したか。
読者は、真剣さを求めておられます。
切りあうような真剣さです。

指がちょっと切れただけでも、気にしているうちは痛いのです。
それ以上に真剣に仕事をこなそうとすると、痛みは感じなくなります。
不思議ですが、これも真実です。
だから、アスリートは次の難題に取り組めるのだと思います。

昨日まで正しかったことが、誰かの発案や事故などで、
今日は間違ったことになる世の中です。
自分が書いたことに責任を持つこともいつも考えていなければならないことです。
長々と書いてきましたが、「常に真剣」は願望でした。

逆上がり 頭丸めて ほらできた

2016年8月28日
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空き家事情

2016-08-27 18:53:37 | プロジェクトエンジニアー

今日は、「空き家事情」について書きます。
空き家を借りるとイメージします。
都会の人は、きれいに片付けられた家や部屋を想像します。
田舎の人は、生活道具はそのまま、家の補修はないままを空き家と考えます。
先祖代々が住んできた家です。仏壇や思い出は、そのままです。
ここに大きな思い違いが生じます。

仮に空き家を不動産会社に売るとします。
リフォームをしたら、元値の倍になってしまいます。
解体するにも費用はかかります。
更地にしても売れる保証がありません。
第一、先祖代々の品物を預かる場所がありません。
相続者は、田舎の家より大きな家に住んでないことが多いのです。

私は、そのような空き家の一つを借りました。
家に残っていた衣類、食器類、収納や電気製品を片付けるのに
2か月かかりました。家に付属の農地も借りました。
荒れ地に生えていた竹や雑草類を手で開墾しました。
なんとか種まきに間に合わせたかったので急ぎました。
1か月かかりました。

落とし穴に気付きました。
持ち主の方に集めておいた思い出の品々を見て頂きました。
結果、お持ち帰りになったのはダンボール1つにもなりませんでした。
必要ないから今まで放置されていたのです。
第一、この土地に住んでない人には、
先祖代々残した物の価値が解らなかったのでしょう。
あとは捨ててくださいと言われました。

私は、集える場所を作るために空き家(カフェ)を
もう一軒借りることにしました。
一軒のカフェが出来ると周りの空き家が気になり始めます。
周りの空き家もきれいに片付けることにしました。
もしかしたら、民泊に使えるかもしれないと考えています。

田舎には、スペースがいっぱいあります。
だけど、縁側のような内と外のあいまいなスペースはありません。
役所にも、商工会議所にも町内(公民館など)にも
会議室や集えるところがあります。
しかし、それはすべて使用目的と使える人が決まっています。
稼動率など関係ありません。目的以外では使いにくいのです。

もう一つの落とし穴にも気づきました。
空き家を迎賓館に変える作業は、案外楽しいのです。
他人の家をきれいに片付けるなんて、地域の人にはできないことです。

私は、かつてこんな経験をしました。
サービス(25人)と営業(15人)用の机が
併せて10席になったことがありました。
常に外に出て仕事をしている業種です。
早いもの順に席に座りました。常に隣の席は違う人になりました。
案外、新鮮でした。
普段話をしないセクションの人や業種の人と話しができました。

私が、いまやっていることは仕組み作りです。
内と外のあいまいなスペースを作ることです。
何かを始めると、誰もが「何のために」と聞かれます。
スペースを作るためと説明しても、なかなか理解していただけません。
だから、経験していただくのです。
外(都会)からの目線で内(田舎)を見てください。
そうして良いところと直さなければならないところを教えてと言われます。
案外、田舎はセクショナリズムに侵されているようです。
昨日の会社は、合併されて価値観が違う会社と一緒になっていくのです。
この地域だけ、いつまでも同じ体制とはいかないようです。

私は、汗を流します。それが仕事だからです。

縁側で 誰かれ集い 花が咲く

2016年8月27日

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亡き妻の命日

2016-08-26 07:29:12 | よもやま話


亡き妻にそっくりね。
とお義姉さんからいただきました置物です。


今こうして、この地にいるなんて想像もできなかった。
妻を亡くして呆然と数か月を過ごした記憶があります。
亡くした直後は、時間が経つのが遅かった。

周りの善意に助けられました。
どのように毎日を過ごしたのか、記憶があいまいです。

仮の墓地に落ち着き、仏壇を揃え家族はほっとしました。

子どもたちも動揺は隠せませんでした。
家族のすべてのベクトルは、亡き妻に収束されていました。
お互いにそれに気づきましたが、遅かった。
子どもたちとの会話をどうしたものか、途方にくれました。
子どもたちは、成長していました。これで助けられました。
どちらからともなく話し始め、会話ができるようになりました。

職場を変わり、家を出て単身生活をするようになりました。
家族がちいさくなりましたが助け合うようになりました。
今年も妻の命日に家族で会えます。

亡き妻が 家族合わせる 蝉しぐれ  

2016年8月26日

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