故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

仕掛けがいっぱい

2014-06-27 05:05:31 | プロジェクトエンジニアー

001

プロジェクトは後半戦である。
前半戦は、ひたすら仕掛けを作り続けるのである。
物語の脚本作りと似たような作業の連続である。
大きなフレーム(工程)ワークを作り、大事なことを漏らさないように大きく網(基本構想)を編み、投げ入れる。
それぞれの登場人物(基本計画)に役割(ブロックフロー)を与えていきあらすじ(物の流れ)を確認する。あらすじに、薬味(仕事のつながり)を加えることも忘れないように入れていく。登場人物(基本計画)に笑いや泣き(基本設計)の動きを加えていくのである。
フレームワークにあっているか、打ち合わせ(モチーフの確認)を重ねていく。登場人物に個性(仕様書)をつけていく。個性が生きるよう、仕掛け(将来おこるであろう事柄の予想)をつくるのが楽しい時期である。

仕掛けの工夫が生きるのは、後半戦(工事)である。
後半戦は、ひたすら演じるのである。シナリオにそって、俳優(監督や業者)達は良い演技(工事)ができているか確認作業(プロジェクト遂行)の連続となる。

久しぶりの演技で、登ったり下りたり(説明)、叫んだり(業者との交渉)を始めたばかりである。脚が毎晩つるのである。つっては目が覚めるのである。

俳優たちがシナリオ通りにうまく動いてくれるよう演技指導もしなければならない。俳優たちから、こうしたら良いのではないかと提案(シナリオ変更)を迫られることもある。
仕掛けが生きるのがこの時期である。ト書きのような仕掛け(予想)である。用意していた効果音や小道具(仕掛の練り込み)が演技を光らせる工夫となり、威力を発揮するのである。物語は始まってしまった。あと半分は、ひたすらシナリオ通りに演じきるのみである。

プロジェクトはシナリオ(前半戦)作りに70%の労力を使う。あとは、体力勝負の劇作りに奔走して残った30%の労力を惜しみなく使い切ることである。時間軸は、逆転し30%の期間に凝縮した作業が前半戦である。後半戦は、期間こそ長い(70%)のであるが、なにしろ一粒の汗も残さずかきつくすことである。前半戦に練りに練った仕掛けがいきるのはこれからである。
仕掛け(予想)の良しあしで、釣果(仕上がり)は大きく変化する。

長い永い終わりの見えないような劇作りの後半戦は始まったばかりである。場面ごと、コマどりのような地道な演技をつなぎ合わせていくのが工事である。
体力勝負の後半戦は、苦しくて楽しい時期なのである。

2014年6月27日

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パキスタン

2014-06-20 06:14:54 | 思い出話

2_0001 Back of Iwataya in Fukuoka

初めての海外渡航は、30年前のことでした。
パキスタンのパーボイルプラントに入れた機械の運転指導でした。米を籾のうちにアルファー化して、長粒種の弱点である歩留まりと精米の品質とその後の貯蔵性を向上させるプロセスがパーボイルプラントです。
まず、空港の税関でつまずきました。
インボイス(持ち込み荷物の価値を申告する書類)に書かれている評価と空港職員が査定した評価に大きな開きがあったのです。4倍の関税を私が拒否したため、荷物は空港預かりとなりました。電子部品が多く入っていたのです。日本では数百円の物が、10倍の評価になったものと思います。翌朝、再交渉に行きました。結局、空港職員のいうままに払いました。14万円でした。
どう巻きに大切に保管していた予備金から出しました。

問題はそこからでした。荷物は保税倉庫に保管されていました。
長い列に並び、許可の印を受け取るまで2時間かかりました。
案内してくれた空港職員はいつしかいなくなり、また空港へ戻りました。
空港と倉庫の距離がおよそ1Km。炎天下の中、大きな自分の荷物を引きずりながら怒って歩く私でした。ポーターの親方が、配下に「お客だ」と指示していました。
大汗をかいている私は、拒否しました。
空港でマネージャーに文句を言い、再度案内人を付けてもらいました。倉庫までの道にまたポーターが現れました。手を振って拒否しました。ポーターの値段を知らなかったからでした。
結局、7人の異なる部署の許可印をすべてもらい、荷物にたどり着いたのが夕方でした。案内人がいなくなること2度。たんびに空港まで荷物をがらがら引きながら歩く日本人に、いつしかポーターの親方も、「あれには近づくな。」と指示していました。

お金が無くなったと空港のマネージャーに文句を言い、安いホテルを紹介してもらいました。前日、トランジットで宿泊したホテルの1/4の価格でした。払った100ルピーのおつり83ルピーをホテルのカウンターでたたくようにカウントする日本人を笑いながらレセプションの男はみていました。合っていました。OKとにやりと照れ隠しに笑う私でした。日本人が滞在する現地のサイトに電話がつながったのが、交換手に頼んで6時間後でした。電話に出た日本人の責任者は、アフガニスタンに行ったんじゃないかと心配したと冗談をいっていました。
翌日、消えた私をカラチの代理店のMr.Goriがホテルに迎えに来ました。
通常、1週間はかかる通関をお前は1日でやってのけたと感心していました。
豪勢な大いに辛くて食べられない昼食をご馳走になりました。翌日、ラホールに向かう飛行機でもこぼれる紙コップにクレームをつけたら、ジュースを1本プレゼントしてもらいました。無事に着陸したら、後部座席にいた外国人の団体が揶揄するように、拍手をして喜んでいました。

やっと4日目にしてサイトに行き、荷物を届け仕事を始めました。翌日は、現地の生水を飲みさっそく下痢になりました。2ケ月間辛い食べ物は、ずっと胃に留まらなかったのでした。
パキスタンで市場に行き、ぶどうを買いました。何を買うにしても値段交渉でした。
来いよと目でサインを送る売り手の誘いに乗り、交渉をずいぶん楽しませてもらいました。電池を買いに、ドライバーと一緒に電気店に行った時のこと。どんな電池が欲しいのかという店主に切れた電池を見せました。受け取った店主は、同じタイプの電池をかごから取り出してこれだなと私に渡しました。私が渡した切れた電池は、かごに悠然と投げ入れられました。だめだめと他の電池を要求しました。今度は、箱に入った台湾製の電池を持ってきました。裸売りなのでまた断りました。次にやっとラップした韓国製の電池が出てきました。その次は日本製だなと思いながら、韓国製で手を打ちました。これまた、かの地の面白い現実でした。笑わせてくれると感心したものでした。
私は、サイトのマネージャーであった日本人から10,000円で短波を受信できるラジオを買いました。帰国した2ケ月後に故障し、使えませんでした。パキスタン人のほうがよっぽど正直だと思ったものでした。

各プロセスに一人ずつパキスタン人の責任者をつけ、試運転を開始しました。うまく運転できているときは、俺がやっているからねと自慢げに二の腕の筋肉を盛り上がらせるのでした。うまくいかない時は、どこかに行っていませんでした。お前、駄目じゃないかと怒る日本人のマネージャーが滑稽に見えたものでした。俺は日本語を知っているという、以前からいるパキスタン人がいました。知っている日本語は何だと聞くと、「チョットマテ。」でした。ははあ、この日本人は、やらせては違うと何度も繰り返したのだなと想像できました。6mmの鉄板を、金のみで切っていました。ガスのトーチは、補充されないガスのボンベと共に倉庫に眠っていました。驚くような毎日でした。パキスタンを去る日には、また来たいと思ったものでした。いまだに行っておりません。
 

現場で働いていたパキスタン人のほうが、よっぽど英語が上手でした。ドライバーに頼んで、近くの小学校を訪ねたことがありました。窓越しに、英語を大きな声で発音する子供達を見ました。小学校低学年の子供達でした。パキスタンは自国に産業が少ないため、金持ち国である中東に出稼ぎに早くから出ているのでした。国際感覚とは、何かと考え始めた最初ではないかと思います。 

2014年6月20日

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広島の河

2014-06-19 06:35:39 | 思い出話

 

001_7

夏の暑い日、従兄弟たちがやってきました。
父が長男の家だったので、従兄弟たちは遊びに来て、夏休み中滞在しました。
お盆になると、おじさんやおばさんも合流し、子供たちと一緒に帰っていきました。 

中学生だったか、高校生だったか忘れましたが、 

おばさん達や子供たちと海に遊びに行きました。 

おばさん達は、シュミーズのまま泳ぎだしたのでした。 

驚いた私は、メガネをしたまま飛び込んでしまいました。 

無残にも、メガネはとれて海の底へと沈んで行きました。 

おばさん達に大笑いされました。 

せっかくの絶景も見逃し、メガネはなくすで、大いにしょげたのを覚えております。
 

時はたって、浪人の最後の年、うら若き女性と広島の平和公園でボートに乗りました。友人から、「お前はめがねをしない方が良い。」なんて聞いていたものですから、その女性にメガネを預けてボートを漕いでおりました。 

楽しいときが過ぎて、ボートを降りるころになりました。 

女性がメガネを返してくれました。女性に、やさしく手を差し出しながらサポート しました。拍子で、めがねがポチャリ。ああ沈んでいくのが見えました。
二度目でした。
 

ええいとボート小屋の主人に頼んで、潜って取りに行くことを宣言しました。12月でした。ズボンを脱いで、飛び込もうとしたら主人が止めました。その当時から、ふんどしでした。これを上に付けろとガラパンを渡してくれました。 

河の水は冷たかった。広島の河はきれいになったとは言え泥だらけでした。女性に水中メガネを買ってくるように頼みました。どこにも売ってませんでした。潜ること1時間、駄目でした。明日くると主人に言い残して女性を送ることにしました。ズボン一枚では、女性と二人で歩くゆうぐれの街は酷でした。
私は、ズボンの前が
突っ張って歩けませんでした。
おばさん達が見ていたら、大笑いだったでしょうね。 

広島の河での苦い思い出です。もちろん、その出会いも実りませんでした。
 

19歳頃のことでしょうか。面白い人間でした。その女性に和傘を贈ったのを覚えています。浪人最後の一振りとでも言って渡したのでしょうか。見目麗しきその女性も今はおばあちゃんです。
眼鏡は、翌日河底の泥の中から拾い出しました。
 

2014年 6月19日

 

 

 

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人生最良の日

2014-06-19 06:15:38 | 思い出話

 

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本日は、私の最良の一日の出来ごとについてお話したいと思います。 

仲人さんは、私が山登りの途中でお世話になった1300年続く古刹の住職でした。 

「新郎は、近年の若者には珍しい熱血漢で、優秀な努力家です。寺を訪ねる時は、必ず広い境内をくまなく掃除をしてくれたり傷んだ箇所を直してくれたり今時珍しい好青年です。」  

「新婦は、イギリスに留学され、語学堪能な才媛でして、かつ家庭的で奥深しい女性です。」 

仲人さんは大汗をかきながら続けます。 

「これからは、二人力を合わせて良き家庭を築いて行きます。皆さまこれからも末長 く二人の将来を見守ってください。」 

とまあ、仲人さんは、宴の口火を切られたのであります。

 

新婦の両親はさぞや安心されたことと思います。

 

友人にお願いした司会者が第一来賓の大学教授を指名しました。  

新朗はTNK大学の私の研究室を卒業しました。この男は、農工の「工」の字を間違えて入学したのです。「農耕」と勘違いして入ってきました。やっとこさ卒業出来ました。あの当たりにいる友人たちの助けを借りてやっと卒業できたのです。 

教授にはたてつくとんでもない学生でした。私の研究室に預かるにあたっては、大いに悩んだほどの問題学生でした。社会に出て仕事もし、今回のようにすばらしい女性と結婚できるなんて想像だにしておりませんでした。 

 

中略。

 

第一来賓の教授の話は、出席している私側の面々には大いに受け大爆笑でした。
 

第二来賓が登場です。札幌営業所所長のKさんです。 

新朗はこの2月に札幌営業所に転勤してまいりました。いやあ飲んだら暴れるは、麻雀をすれば我々の小遣いを根こそぎ巻き上げるとんでもないやつです。こんな新朗を引き受けるにあたり、私の心労は増すばかりでございます。
死んじゃうんじゃないかと妻が心配しております。

 

第三来賓は、前所属のプラント営業部部長Tさんです。 

いやあKさん、よくぞ引き取ってくださいました。我々も彼の仕事ぶり、特に夜の行動が問題でして、とんでもないやつでした。やっと出せたかと課員ともどもほっとしております。

 

第四来賓は大学の先輩Sさんです。 

新郎が引越してきた寮でのことです。私は料理が得意だと言うのでみておりました。なんと、卵の中身を捨てて殻をがらがらフライパンで炒めておりました。Sさんいい女がいます。と見るとロン毛の男です。農学部と工学部だけで女はすくないのですがひどい間違いをするやつでした。 

剣道部で一緒だったんですが、すり足がどうしても出来なくて、ドッタンバッタン といつまでもやっておりました。酒は、飲むは暴れるはで、我々もほとほと困ったやつでした。

 

おいおい、そりゃ事実だから仕方がないけどもう少し遠慮というものがあるだろう。と私は思ったものでした。
 

あーあ、新婦も仲人さんまで大笑いです。 

その上新婦側の来賓も心配風もどこえやら、大爆笑につぐ大爆笑です。
 

俺にも言わせろと、司会者がとめるにも関わらず酔っ払いたちがここぞとばかりやっつけてくれました。今日は言いたい放題とひな壇で抵抗できないことをいいことにサンドバック状態でした。私は、ただただ飲むだけでした。
 

人生最悪の結婚式でした。
 

そんな、人生最良の日を迎えた私でした。
案の定、その後の家庭生活は波乱万丈でした。
 

それでも、亡き妻は挿絵のように4人の可愛い子豚を産んでくれました。ありがとう。
 

2014年 6月19日 

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働く意味

2014-06-18 04:07:12 | プロジェクトエンジニアー

001_2

腰痛が回復し、1ケ月振りに仕事に復帰した。
一日中、拘束されるのはやはりきついと感じるものである。
1月も、「疲れたら休むの生活」を経験したので、反動ともいえる。昨日より、今日と身体は順応していくものである。
忘れていた心配事が、蘇ってくるのである。
あれはどうした、これはまだかと気になり始めるのである。
働く意味は、責任感を感じることでもある。お金の代償だけとは言えない。関わる仕事をまともにやり抜きたいという意欲が出てくるのである。それには、言いたくないことも伝えなければならない。

「雨、雨、ふれふれ」とのんきにあじさいを眺めた。

責任も、義務もない油断ばかりの生活も魅力的である。
物事を感性だけで見ることは、心の洗濯であり休息だと改めて感じる。働くことは悪くない。少しのプレッシャーを跳ね除ける勇気と知恵を楽しめるからである。同じ目的を持つ友人たちとプロジェクトを遂行するには、一人だけ怠ける訳にはいかないのである。
また頑張ってみようという機会をつかむことが、働く意味とも言える。

2014年6月

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