日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ディリープレミアムアイスバー

2011-09-30 19:31:07 | マーケティング
「ディリープレミアム・アイスバー」というタイトルで、驚かれた方もいらっしゃるかもしれない。
そして「?????」という方も、多いのではないだろうか?
実は、今月新しい「ディリープレミアム・アイスバー」が発売されている。
そもそも「ディリープレミアム・アイスバーって?」と思われている方もいらっしゃるかもしれない。

私が言っている「ディリープレミアム・アイスバー」というのは、3年ほど前に森永が発売し、ヒットした「パルム」というアイスクリームバーのことだ。
実は、この「ディリープレミアム・アイスバー」という市場は、この「パルム」という商品しかなかった。
もしかしたらあったのかもしれないのだが、ヒットすること無く終わってしまっていた様に思う。
それだけ「パルム」が強かったと言うコトになるのだが、だからと言って何か特徴的な「アイスクリームバー」という訳では無い。
至ってシンプルな「チョコレートアイスバー」だ。
にも関わらず、この市場ではほぼ独占と言って良い状態が続いていたのだ。

そこへやっと今月になってから、明治が「チョコレートアイスクリームバー」という商品を発売したのだ。
価格そのものは、驚く程高い訳では無い。
「パルム」も「チョコレートアイスクリームバー」も、だいたいコンビニで単価130円程度で販売されている。
ただ、どちらの商品も厳選された素材を使い、それなりのこだわりを持って作っているようだ。
違いを挙げるなら、明治は20代男性を対象としている点。
森永は家族で楽しめる「ディリープレミアム」というアプローチだ。
それを表す様に、森永の「パルム」はファミリーパックと呼ばれる「箱売り」が中心。
一方、明治はコンビニで男性が買いやすい様に個別売りとなっている。

私が疑問だったのは、企業の大小関係なく、コンビニ発の「がんばった自分にチョッとご褒美、贅沢感=ディリープレミアム」に合わせた商品がなかなか出なかったのは、なぜだろう?
コスト的な問題なのか?開発の難しさなのか?マーケットの対象がつかみきれずにいたのだろうか?
商品そのものが、とてもシンプルなモノなだけに、今更ながら不思議に感じるのだ。

コンビニではすっかり定着した感のある「チョッと自分に褒美、贅沢感」と言う市場に、参入する企業が増えてくるのか?注目したい。

生活文化を知る難しさ

2011-09-29 11:08:39 | ビジネス
朝の新聞チェックをしていたら、興味深い記事があった。
大正製薬、「リポビタン」の欧州展開断念 市場分析失敗(紹介記事はasahi.com)

ご存じの様にドリンク剤の「リポビタン」は、その市場を創り出したロングセラー商品であり、ヒット商品でもある。
実際、ドラッグストアーに行けば、1コーナー設けてありドリンク剤の百花繚乱状態。
最近ではカロリーオフや女性用だけではなく、子供用と言うのも登場し、たかがドリンク剤と侮っていると、その飲用目的の多さに驚くコトもある。

しかし、海外に目を転じると・・・と言うのが、今回の問題だ。
私の知っている海外と言っても、20年ほど前に仕事で行った香港が最後なので、今の外国のスーパーマーケットやドラッグストアーに、どのような商品が置いてあるのは知らない。
まぁ、日本人が海外旅行に出かけて現地のスーパーマーケットやドラッグストアーに、足を運ぶと言う方は余り多くは無いと思うが、私の中ではドリンク剤のイメージが無いのだ。

その様な売り場が無い、と言うコトもあるが、欧米人が「ドリンク剤を飲む」というイメージが無い。
「ドリンク剤を飲んでまで、仕事に励む」というイメージそのものが無いのだ。
「仕事に励む」と言うよりも、「無理をしてまでがんばる」というイメージが無い、と言った方が正しいかもしれない。

一方、アジアに目を向けると、そのイメージが湧いてくる。
何となくだが「無理をしてもがんばる」という感覚があるのは、アジア特に東アジアの人たちのようなイメージがある。
アジア人の勤勉さ、真面目さと言うコトもあるのかもしれないが、「生活文化の違い」という方が合っている様な気がする。
良い・悪いではなく、生活感の違い・生活文化の違いというコトだ。

その違いを上手に読み取れず、市場からの撤退、だと思う。
逆に言えば、欧州で他社(=地元企業の)のドリンク剤がヒットしたから、大丈夫だろうと言う期待値の高い思い込みがあった、と言うコトなのでは?

この記事を読んで、思い出したコトがある。
それは、日本に過去何度か進出しながら撤退をしている「バーガー・キング」だ。
現在は、東京など首都圏を中心に展開をしている様だが、バーガーキングが撤退を繰り返した大きな理由は「日本人向けでは無かった」という点があった。
バンズだけではなくハンバーガーそのものの大きさや、味付けなど、余り日本人向きでは無かった。
もしかしたら、今でも試行錯誤の状態でいるかもしれない。

マーケティングの難しさは、数字では無いトコロまで読み取るコトだと、改めて知る記事だった。




テレビ番組が無くなる日・・・

2011-09-28 12:46:06 | ビジネス
今日、新聞の下に掲載されている書籍広告に、ややセンセーショナルなタイトルの本があった。
「テレビは余命7年」という本だ。
近所の書店で見かけたコトが無いので、本そのものは読んでいない。
読んでいないのだが、そのタイトルのセンセーショナルさと著者がホイチョイ・プロダクションズらしい、と言う点でとても興味が湧く。
と言っても著者名は「指南役」となっている。

この指南役として登場しているホイチョイ・プロダクションズだが、現在40代後半以上の方にとっては、懐かしい名前だと思う。
名前は知らなくても、少なからず影響を受けた方は、多いのではないだろうか?
バブル真っ盛りの頃、「私をスキーに連れてって」という映画があった。
それを企画したのが、ホイチョイ・プロダクションズだったのだ。
ほかにも、マンガ「ビックコミックスピリッツ」で「気まぐれコンセプト(通称:気まコン)」を長期連載しているはずだ。
10数年前まで、「スピリッツ」を読んでいた頃は、仕事のタネ(=発想にピント)として使わせてもらった記憶がある。

元々は、大手広告代理店などに勤務するサラリーマンが、学生時代の友人たちと始めた「サークル」の様な集団だったと思う。
その後、一つのプロダクションとなったようだ。
そんな彼らだからこそ、テレビそのものが大好きで、テレビ番組に携わる様なコトも多かったはずだ。
その彼らが「余命7年」と、言い切ってしまうことに、今のテレビ番組の問題を感じるコトがある。

そして、NHKの受信契約の解約が後を絶たない様だ。
「受信契約の解約」というのは、NHKだけの問題というよりも「テレビ局全体」の問題のような気がする。
なぜなら「受信契約を解約する=テレビそのものを見ない」というコトだからだ。
NHKの番組がおもしろくないから解約するのでは無い。
NHK・民放関係なく「(テレビを)見たいと思わない」から、受信契約を解約するのだ。
拙ブログに時折コメントをくださるマーケターの大西宏さんは、9月26日付のブログで、薄型テレビの付加価値をあげようとするとたどり着くことと言うエントリをされているが、受像器としてのテレビはまだ何とかなると思う。
なぜなら、受像器としてのテレビはBSやCSなどの見たい専門チャンネルを受信するツールとしての役割があるからだ。

一方、テレビ番組はその受像器に対する「コンテンツ」を提供している。
いくら画像や音響が良くても、「コンテンツ」として魅力がなければ、どうしようも無い。
「魅力的な番組を作りたくても、経費の問題で作れない」と言うコトを時折聞くのだが、「魅力的な番組とは?」と言うところから、考え直していく必要があるのでは?
「テレビっ子」と呼ばれた私たち世代は、テレビがおもしろくない、と言うコトに残念な気がしているのだから。


トヨタの「軽自動車」って、魅力的?

2011-09-27 10:09:41 | ビジネス
トヨタ自動車が、昨日「軽自動車」を発表した。
「トヨタ初の軽『ピクシススペース』発売。価格は112万円から」(紹介記事は日経新聞)

トヨタ自動車の「軽自動車」と言っても、ダイハツのOEM車ということらしい。
であれば、なぜトヨタが「軽自動車」を発売する必要があったのだろう?
確かに、新車の売り上げが伸びない中で、軽自動車は順調に推移していると言う話を聞く。
だからこそ、商品ラインナップの充実と自動車市場の占有率を高めるために、軽自動車市場へ乗り出したのだろうか?

記事にある様に「主婦層や高齢者向け」と言うのは分かるし、新車の市場が拡がらない状況では、「売れるモノは、軽でも売りたい」という販売店からの要望も分かる。
分かるのだが「トヨタの軽自動車」って、魅力があるのだろうか?

トヨタが軽自動車を発売する数年前に、日産も軽自動車を発売している。
日産の場合、スズキからのOEM車だが「日産らしさ」を出すために、細かな部分でスズキとの違いを出している。
何より、これまで日産が顧客として取り込めなかった「若い女性・子育てママ」を取り込むための「軽自動車」市場への参入だったと、記憶している。
もちろん、トヨタも「トヨタらしさ」を出すために、いろいろな細かな違いはあるのだと思うし、それが無くては「トヨタが軽自動車を発売する」意味が無い。
無いと思うのだが、トヨタは日産と違い「若い女性・子育てママ」を対象とした小型車が充実している様に思う。
実際、春に嫌になるほどCMを見た「パッソ」などは、女子大生くらいの女性を購買層とした車だった。
「技術の日産」で長い間クルマ作りをしてきた日産に対して、「ファミリーカーのトヨタ」という発想でクルマ作りをしてきたトヨタは、元々幅広いユーザーを対象としていたと思う。結果、トヨタ車ユーザーは、幅広かったのではないだろうか。

何となくだが、「軽自動車市場」を充実させるコトはあっても、自動車全体の市場を拡げることにはならない様な気がするのだ。
記事を何度読んでも、「トヨタが作る軽自動車」が、魅力的に感じられないのは私だけだろうか?

季節の機微を感じるコト

2011-09-26 12:21:30 | ビジネス
今日、富士山で初冠雪を観測した、と言うニュースがあった。
昨年より1日、例年より6日ほど早い初冠雪らしい。

今年は、季節が進むのが早いように感じる。
梅雨入りも確か2週間ほど早かった様に思う。
当然、梅雨明けも早かった。
そして、今月襲った2回の台風が、秋を運んできたようだ。
特に、台風15号の後は昼間でも大汗をかく様なコトはなく、朝夕はチョット上着を羽織りたい位の肌寒さを感じる。
昨年の今頃は半袖を着ていても暑く、エアコン全開状態で生活をしていた方も多かったのではないだろうか?

ところで、今年の「中秋の名月」が例年よりも10日ほど早かったコトに、気づかれた方はいらっしゃるだろうか?
毎年記録を取っている訳では無いので確かではないのだが、私の中での「中秋の名月」というのは、9月の20日頃。
丁度お彼岸の頃なのだ。
それが、今年は12日だった。
約1週間ほど早かったコトになる。
とすれば、季節の移りが早いのも何となく納得してしまうのだ。

ビジネスをする上で、このような「季節の機微を感じるコト」が重要なのか?と、思われる方も多いと思う。
あくまでも私感だが、「季節の機微を感じるコト」は仕事をする上で、大切な感覚だと思っている。
たとえば、「季節の移り変わりが少し早い」と感じれば、店頭に並べる商品やディスプレーも、それに合わせる必要がある。
逆に、残暑が厳しいのに「お盆が明けたから、シチューのテレビCM」と言うのでは、テレビを見ている方が「そんなCM見たくない」と、不快感を呼んでしまう。
季節色の強いテレビCMは、その前のシーズンで作るか、海外で撮影するしか方法は無いにしても、放映するタイミングというものは、やはりその商品の季節を感じてからだと思う。

「快適さを求めて」極力暑さ寒さを排除した生活をしてきたが、少なくとも四季のある日本では、季節感を感じるコトができなければ、的外れな商品提案・マーケティングとなってしまうのだ。
マーケティングは、数字だけで計れるモノではない。
その意味でも、「季節の機微を感じる」ことは大切な感覚だと思う。

伝える難しさ、解釈の違い

2011-09-25 21:14:05 | 徒然
先週あった「福島産花火の打ち上げ中止」については、花火大会を催した市長自らが福島や関係企業に謝罪をするコトで、ひとまず収まったと言うカタチとなった。
このコトだけではなく、福岡であった「福島県産物産の販売中止」の問題などを含め、「フクシマ事故」被害地以外の地域では、「福島」という名前だけで戦々恐々とする事態が続いている様に感じている。

先日ある雑誌を読んでいたら、「フクシマ事故」発生以来、枝野さん(当時官房長官)が繰り返していた「直ちに健康被害はありません」という言葉が要因、だと指摘する内容があった。
「直ちに健康被害はありません」=「いつかは健康被害がある」と受け止められた、と言うのだ。
この記事を読んで「そんな解釈があったのか・・・」と、驚いたのだ。
私は「健康被害はあるかもしれないし、無いかもしれない」と、受け止めていたからだ。
言い換えれば「将来のコトは分からない」と、解釈をしていたのだった。
それが「いつかは健康被害=病気(それも、不治の病・がん)になる」と言うことまで結びつくとは、思いもよらなかった。
しつこく言わせていただくが、「がん」は悲劇的不治の病では無いし、「がん治療」そのものは日進月歩で、早期発見の技術開発やがんそのものの研究も驚くほど進んでいる。

確かに、被害地・福島の子供たちや「フクシマ事故」収束のために作業をしている方々は、「がん」と言う病気のリスクは遙かに高いと思う。
だからこそ、定期的な健康診断=がん検診が必要で、早い対処が望まれると考えている。
だが、その福島県から遠く離れた地域で大騒ぎをするのは、過剰な反応の様に感じていたのだ。
なぜなら、そもそも「放射能」は私たちの生活の場に、たくさんあるからだ。
たとえ「医療被曝が怖い」という理由で、がん検診を受診しなくても、がんになるリスクはあるのだ。

昨年「乳がん」という病気になり、主治医からは「医師としていえるのは、あくまでも統計的なことなだけで、あなた(=私)にがんが再発するのか?と問われれば、分からない」といわれている。
それと同じことが「直ちに健康被害はない」という言葉にも、いえるのではないだろうか?
「がん」という病気だけではなく、人には病気と言うモノがついて回る。
「絶対病気にならない」などという確証は、元々無いはずなのだ。
であれば「直ちに、健康被害が発生する訳では無い」というその言葉の意味を、「いつか健康被害が起きるのだ」と、戦々恐々する様な解釈をし、騒ぎ立てることの方が遙かに社会的ストレスとなっているのではないだろうか。

メディア的には、不安を煽る様な内容の方がセールス的にはよいのかもしれないが、伝える難しさだけではなく、解釈の仕方一つで社会が大きなストレスを溜め、ヒステリックになてしまう・・・そのことに、メディアが気がついているのだろうか。

PC、タブレット、スマートフォン・・・通信機器が溢れるのか?

2011-09-24 20:36:14 | ビジネス
Yahooのトピックスに、アマゾンが来週なにやら発表をする、とあった。
トピックスの記事にもある様に、おそらく発表されるのは「Android搭載のタブレット端末」だろう。

タブレット端末と言えば、つい先日ソニーも発売をした。
実際、商品を見ていないし、たとえ見たところでその性能や使い勝手と言ったことが、分かるとは思えないほどの「IT音痴」なので、「そうか・・・」と言う程度。
シャープが昨年発売した「ガラパゴス」の販売中止を発表したコトも話題になったが、中止のプレスリリースをよく読むと「電子書籍市場からの撤退」では無く、「直販の撤退」というコトであって、むしろタブレット端末に対しては積極的に投資をしていきたい、とも受け取れる内容だった。

この連休中、用事があり家電量販店に出かけるコトがあった。
たまたま通りすがったPC売り場で、女性が「私が買ったパソコンなんて、20万以上したのに、今のパソコンは半値以下で私のモノよりも高性能。何だかな~って感じ」と話していた。
確かに、私が初めて買ったPCと今のPCとでは、価格も随分と安くなり(たぶん1/3程度)、遙かに高性能で軽量化された。
使い勝手という点では、雲泥の差がある。

ただ、ここ数年のというかi-phone 登場以来、ものすごい勢いで進んだ感のある通信機器の進化に、驚きだけでは無いある種の懸念を持っている。
それは「通信機器が家中に溢れる」と言うコトだ。
「別に問題無いんじゃ無い」と言われると思うのだが、溢れる通信機器を操作する人間が、どれほどその通信機器と上手に付き合うことができるのか?と言う点と、似たような通信機器を複数持つ意味はどこにあるのか?と言うコトなのだ。

と言うのも「通信」で得られる情報は、スマートフォンであってもPCやタブレット端末であっても、その内容は限らたほぼ同じ内容のモノだ。
もちろん、使うツールに応じてカスタマイズをし、上手に使いこなしている方も多いとは思う。
でも、「どのツールで情報を得るのか?」という違いだけで、その内容は同じ、と言う点を忘れてしまっては意味が無いのでは?
大切なコトは、情報を得るコトではなく、その情報を読み取り、考えると言うコトだと思うのだ。

紙に始まった情報の伝達は、ラジオや無線を経て、テレビへと移っていった。
テレビの登場は「映像伝達」という意味で、社会的影響が大きかった。
それが、PCやタブレット端末、スマートフォンの登場で、メディアの主役が個人へと移っていった。
だからこそ、ツールではなく情報の中身や情報を読み取るコトが大切なのでは?
と同時に、コミュニケーションのあり方も、溢れる通信機器を前に考える必要があると感じている。

この商品のマーケットはどの世代だろう?

2011-09-22 14:10:19 | マーケティング
当たり前の様に、ほぼ毎日の様にスーパーへは買い物に行く。
マーケターとはいえ、一生活者なのだ。
その中で、時々「この商品の購買対象となる世代は?」と、考える時がある。
と言うより、そんなことは度々ある。
特に、新商品が登場するとマーケターの悲しい性(?)と言うべきか、思わず商品を手に取ってしまう。多くの場合、それはレジかごへ直行する。

今日も、そんな商品を見た。
見たのだが、手に取っただけでレジかごへは直行しなかった。
理由は「6本パック缶コーヒー」だったからだ。
「6本パック缶コーヒー」に、シングルCDが「おまけ」としてついていたのだ。
それも、今流行のAKB48のCDではない。
80年代にヒットした、日本の歌謡曲(当時「J-POP」という言葉は無かったと記憶している)だ。
いくつか確認(暇だと思わないでください、これも仕事のうちですから)したところ、AKB48を仕掛けた秋元康さんが手がけた「おニャン子クラブ」があったり、大江千里さんや浅香唯さんなど、ある年代以上の人たちにとっては「懐かしすぎる位懐かしい」ラインナップだった。

おそらく、著作権など一部切れたものをおまけとしてつけているのだと思うのだが、果たしてこの商品を誰が購入するのだろう?と、考えてしまったのだ。
もちろん、購入対象として考えられるのは、80年代を10代後半~20代前半と言う年齢で過ごした、現在の40代後半~50代前半なのだと思う。
その人たちが、対象だわかっていても「むぅぅぅ~、このおまけどうよ!」と考えてしまうのだ。

その理由が、「6本パック」という点だ。
コンビニなどでよく見かける、缶入り飲料やペットボトル飲料のおまけなどは、「コレクションをする(最近では「コンプリートする」と言うらしいが)」という楽しみがある。
何より、買う商品の数は1本という単位だ。
その分、気軽に購入できると言うメリットがある。
ところが6本パック、と言うことになると複数パックを買うことにやや抵抗があるのではないだろうか?
「大人買い」をするにしても、おまけ1個につき缶コーヒーを6本買わなくてはならない。
このご時世、それほどの「大人買い」をする人がいるだろうか?
「AKB48」の総選挙投票のために、相当数のCDを購入したと言うファンがいたが、そのような意味合いのモノでも無い。
と、考えるとこのキャンペーンの意図するトコロがわからない。

「1個のおまけで6本売る」と言う、単純明快なキャンペーンなのか?
私の考えすぎなのか?

ちなみにこの商品は「サントリー・ボス」の6本パックのキャンペーンで、調べてみると、すでに8月からスタートしていたようだ。
時代を感じさせる、おもしろくユニークなCMをサントリーは作るが、今回のキャンペーンは・・・な感じがするのは私だけだろうか?



電力の原価は、いくらなのだろう?

2011-09-20 20:26:12 | 徒然
一部新聞社のWEBサイトに、東京電力が現在停止中の原発を再稼働させないと、電気料金の値上げが必要、だと言う内容の記事が掲載されている。

このような内容の記事が掲載されるのは、今回が初めてではない。
「フクシマ事故」から2ヶ月ほど経った頃にも、「原発の代わりに火力発電を稼働させると、1,000円ほど電気料金を値上げる必要がある」という内容の記事があった。
このときにも、拙ブログでは「本当に、そうなの?」という疑問を呈したことがあったのだが、今回も同じように疑問を感じている。

今回の記事と前回の記事の内容の大きな違いは、「企業年金の減額支給」や「従業員の給与カット」などが盛り込まれた点だろう。
「従業員の給与カット」については、ある一定期間を過ぎれば元に戻すと言う考えがある様だが、事故で被災した人たちは、生活基盤そのものを失う状態にあるとすれば、一定期間を過ぎれば元に戻すと言う発想は、受け入れられないだろう。
少なくとも、東京電力以外の人たちはそう考えるのではないだろうか?

ところで、このような「原発ありき」の電気料金の話が出るたびに思うのだが、「電力の原価はいくら?」という疑問がある。
ご存じの様に、電気料金には様々なモノが加わっている。
火力発電所を動かすための石油や原発を動かすためのウランの購入だけではなく、様々な交付金もその電気代に含まれている。
最近では、「太陽光発電」の売電に伴う費用も含まれる様になってきた。
それらの費用を電気料金に含むことが悪い、と言うのではない。
問題なのは、電力会社自体が様々なリスクを電気料金に被せているのでは?と言う気がする点だ。

「リスクを回避するための費用負担」を、利用者に負担させるのが悪いと言い切れるモノではないが、電力会社の様に独占企業の場合、いとも簡単に受益者負担とばかりに被せている様な気がするのだ。
それが「1,000円の値上げ」だったり、今回の「収支が厳し」という言葉に繋がっている様な印象を与えてしまうのだ。

もう一つは、「原発ありき」でモノごとを考えてはいるのでは?と言う点だ。
今回の「フクシマ事故」のようなことが起きれば、その賠償は途方もない額となる。
それだけの「リスク」を含めた「原発稼働の電気代」なのか?と言う点が、説明不足のような気がする。
もちろんその場合、「減原発稼働の電気代」との比較シュミレーションを提示してもらわなくては、私たちにはわからない。
それだけではなく、今年の様な「節電の夏」の使用電力の場合は、どのようになるのか?と言うことも提示する必要があると思う。

これまで、「生活に絶対必要なものだから、値上げは仕方ない」と、受け入れてきた生活者が「本当にそうなの?」という疑問を持ち始めたことに、電力会社は気がつかなくてはいけないのではないだろうか?


不安の正体を知ること

2011-09-19 18:43:41 | 徒然
昨夜、我が家の近くの町で花火大会があったらしく、ド~ン、ド~ンと音がしていた(紹介記事は中日新聞)。
その花火大会について、今日新聞各社のWEBサイトに記事が掲載されていた。
それが福島産花火の打ち上げ中止 「放射能の恐れ」愛知・日進と言う記事だ(紹介記事はasahi.com)。

この記事を読んで思い出したのは、つい先日あった福岡での被災地復興を支援する物産展で、福島の物産販売の中止に至った経緯だ。
その前には、京都の「大文字焼」でも同じようなことがあった。

おそらく多くの人は、京都の「大文字焼」の時には「そんなことあるはず無いでしょ」と、思っていたと思う。
それがイザ!自分たちの所へとなると、急に不安になり「放射能をばらまくのか」的な反応をしたのではないだろうか?
とすれば、「なぜ、放射能の恐れ」で福島産の物産や花火を中止しなくてはならないのだろう?
おそらく「放射能が怖い」のではなく、「がんになったら」という不安なのではないだろうか?
と言うのも、「ヒロシマ・ナガサキ」の様な「原爆症」が、物産品や花火で起きるとは考えにくい。
やはり「がんになったらどうしよう」という不安から、このような反応が起きている様な気がするのだ。

ところで、私たちがどれだけ「がん」という病気を知っているのだろうか?
実のところ、殆ど知らないのではないだろうか?
私たちが知っている「がん」というのは、テレビや映画などのドラマで知る「ある種の悲劇的不治の病」というイメージだけなのではないだろうか?
実際には、2人に1人が罹患し、3人に1人が亡くなる、と言ういわば「国民的病気」なのだ。
そしてそのリスクの高さから言えば、放射能よりもタバコの方が遙かに高い。
と同時に、早期で発見できれば、多くのがんは8割以上完治が可能だと言われている。
そのため、キチンと検診を受けることで、治療できる病気だとも言われている。
問題なのは、検診率が高い欧米ではがん死亡率が減少傾向にあるにもかかわらず、検診率が2割程度の日本は、がん死亡率が増加傾向にある、と言うことなのだ。

むしろ、タバコを吸いながら「福島県産のモノは怖い」と怖がる方が、本末転倒なのだ。
「福島県産=放射能が怖い」ではなく、「がんになるのが怖い」というのであれば、タバコを吸わず(受動喫煙下で生活をしない)、バランスのとれた食生活と適度な運動を心がけ、キチンと検診を受ける、そのことが最善の方法なのだ。
それでも「がん」になる可能性は“0”ではない。
なぜなら、私たちの体の中では毎日のように「がん細胞」は生まれ、「免疫細胞」が退治し、それでも「退治しきれない」場合があるからだ。

「怖い」正体を明らかにせず、闇雲に「放射能に汚染されている地域(のモノ)だから」と怖がることは、決して得策だと思えないのだ。