日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ゴルバチョフ氏の訃報に思う

2022-08-31 15:57:17 | 徒然

昨日の、京セラ名誉会長・稲盛和夫さんの訃報に続き、今朝、ゴルバチョフ氏の訃報が報じられた。
現在の30代未満の方々にとって、ゴルバチョフ氏の名前は、「歴史の中」という感じなのかもしれない。
というのも、東西冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」が崩されたのが、1989年11月だからだ。
このことをきっかけに、いわゆる「東欧諸国」の社会主義国家は、次々と崩壊していくこととなる。
それだけではなく、巨大な権力を持っていた「ソビエト連邦」という国の、崩壊でもあった。

この時のソ連邦の指導者が、ゴルバチョフ氏であり、ゴルバチョフ氏であったからこそ起きた、「ソ連邦の崩壊」だったのかもしれない。
西側諸国からは、「東西冷戦を止めた人物」として高い評価を受けているが、現在のロシア国民からは決して高い評価を受けてはいない。
特にプーチン氏が掲げる「大ロシア的」発想が、ロシア国内で支持されるようになると、「ソ連邦を崩壊させた政治力の無い指導者」という評価になってしまうようだ。
毎日新聞:平和構築の功労者か、社会主義の破壊者か ゴルバチョフ元ソ連大統領

ただ、ソ連邦がロシアという国になり、社会主義国家で無くなったことで、ロシアの著しい経済発展ができたというのは事実だろう。
特に2000年代、「経済発展が期待できる国」として「BRICs」と呼ばれることとなったことは、ロシア経済そのものへの発展が国内外から期待され、国としても勢いがあった。
その勢いの乗れた人達は、ロシア国内外から類を見ないほどの「富裕者」となり、そのようなチャンスに恵まれないどころか、かかわることがなかった多くの人たちにとっては、ロシアの経済発展とは無縁であり、結果として「経済格差」が生まれる事となったのも事実だろう。
今現在、ゴルバチョフに否定的なロシア国民の多くは、この「経済格差」によって、以前よりも厳しい生活を余儀なくされている人たちでもある。

ソ連邦からロシアへと代わり、ロシア国内で「富裕層」が誕生したのが、ロシアの地下資源(=欧州向けの天然ガスや石油)があったからだ。
ゴルバチョフ氏の後を引き継いだエリツェン大統領は、その陽気な雰囲気(という印象しか個人的には無い)で民衆の気持ちを掴み、目覚ましい経済発展の中で「社会主義よりも自由主義社会のほうがよいな~」という、雰囲気をつくることに成功したような気がしている。
エリツェン氏は、ゴルバチョフ氏に引いたレールに上手く乗ることがでた大統領だったのでは?という、気がしている。

そのエリツェン氏に健康問題が浮上し始めた頃から表舞台に出てきたのが、プーチン氏だ。
プーチン氏は、ゴルバチョフ氏やエリツェン氏とは逆の「引き締め」によって、民衆を掴むことができたように思う。
そこには、開いてしまった経済格差社会の不満を吸収することで、「ソ連邦」とは違う「大ロシア」という思想に共感する社会を創り出しているようにも思えるのだ。
当然「大ロシア=旧ソビエト連邦」の再構築、ということになれば、旧ソ連邦から独立した国々を併合し、ロシアの配下に収める必要がある。
そんな中、一人警告を発し続けていたのが、ゴルバチョフ氏でありプーチン氏のブレーキ役の期待を西側諸国もしていたのでは、ないだろうか?

そのゴルバチョフ氏が亡くなられたことで、西側諸国とロシアとの関係改善を目指すことが、より難しくなったような気がしている。
ゴルバチョフ氏の思い描いていた「ロシアの平和」が、また遠のいたように思えるのだ。


経営者としてだけではない、稲盛和夫京セラ名誉会長

2022-08-30 19:14:42 | アラカルト

今日の午後、京セラの名誉会長の稲盛和夫さんの訃報が、報じられた。
老衰とのことだ。

この訃報を受け、多くのメディアは「経営者・稲盛和夫」という視点で、稲盛氏の功績を伝えている。
確かに、稲盛氏の「アメーバー経営」という考えは、「京セラ」という京都の小さな企業を現在のような大企業へと発展させることになった。
それだけではなく、破綻した日本航空の再建でも、その手腕を発揮されたことは、記憶に新しい。
いわゆる、ビジネス本と言われる経営に関する著書も多かったので、読まれた方も多いのでは?
その類まれな経営センスは、現在のパナソニックを創業した、松下幸之助氏と同様に「経営の神様」のような方であった、と言っても過言ではないかもしれない。

ただ、稲盛氏を経営・ビジネスという一面だけで功績をたたえる、ということには違和感がある。
というのも、稲盛氏は私財を投じ「稲盛財団」を立ち上げ、今では「(自然科学分野の)ノーベル賞の登竜門」とすら言われる「京都賞」を設立。
受賞者の中には、iPS細胞の山中伸弥教授、がんの免疫チェックポイント阻害剤・オブジーボの本庶佑教授、青色LEDの赤崎功さん等が、ノーベル賞を受賞する前に京都賞を受賞している。
それほど、世界では高い評価を受けている賞でもあるのだ。
それだけではない。
京都の大学に通う学生たちをボランティアとして運営の一部に参加させることで、応募した学生たちは世界のトップクラスの研究者や芸術家と直接触れ合う機会を設けられている。
未来の研究者、芸術家たちに大きな刺激を与え、次世代の育成にも心を砕いている。

他にも、InaRISと呼ばれる基礎科学研究や「ミュージック・デイ」という、社会啓発を目的とした教育・文化支援を行っている。
「ミュージック・デイ」に関しては、同じ京都に本社があるロームが、長期ネーミングライツ契約をしている「ロームシアター」が会場となっているのも、京都らしいという気がする。
ちなみに、ロームの創業者が大音楽好きであったことから「ロームミュージックファンデーション」という、基金を設立し毎年若い日本の音楽家たちが安心をして海外で学べるようなプログラムを提供している。
この奨学金を得て、若い日本の音楽家たちが海外の著名な音楽コンクールで入賞をしたりしている。

あくまでも個人的な思いなのだが、稲盛氏の功績はこのような文化・社会活動なのでは?という、気がしている。
「経営」という点だけであれば、稲盛氏よりも儲けがうまい経営者はいるかもしれないし、今後出てくる可能性はあると思う。
ただ、稲盛氏のように私財を投じて財団をつくり、科学分野にとどまらず様々な文化や社会に目を向け、「社会が豊かになるために」という志を持った経営者が、出てくるのか?と考えると、難しいのではないだろうか?





数字だけでは見えないもの、重要なのは内容

2022-08-27 22:04:03 | アラカルト

連日、「高止まり傾向の新型コロナ陽性者」という、報道になっている。
既に、米国のように「症状のある人や濃厚接触と思われる人に対する検査を止めている」国もあるので、今現在「日本が陽性者世界最多」ということ自体、どうなのか?という気がしてくる。
「日本と同様の対象検査をしている国々で最多」という言葉が、必要なのでは?
Reuters:米国における新型コロナウイルスの感染状況(最終更新日2022年7月15日)

と同時に、何故米国が日本と同様の検査体制を止めたのか?という理由を知る必要があると思う。
何故このような「検査体制を止めた理由を知る必要があるのか?」というと、8月24日、政府が「感染者の全数把握を見直す」と発表したからだ。
NHK:新型コロナ「全数把握」見直しへ 理由は?変更点は?

理由として挙げられるのが「医療機関の負担軽減」だ。
陽性者=感染者が増えてきたため、政府が運用するデータ管理システム「ハーシス」に入力するのに手間がかかりすぎ、医療現場の大きな負担をかけている、ということのようだ。
確かに、陽性者が増えれば、入力するデータ件数も当然増える。
その理由はわからないではないが、見直す理由として「どうなの?」という気がしてくる。
「全数把握を維持しながら、余分な項目入力を止める」という、発想はないの?ということなのだ。
そもそも、患者さんと接する医療者がこれらのデータを入力する必要があるのだろうか?ということも、疑問に感じる部分もある。
データ入力だけなら、事務スタッフの方がされても良いのでは?
それこそ、データ入力を専門にしている派遣社員の方が、決まった項目に入力するだけなら速いのでは?という、気がしてくるのだ。
もちろん、今以上の感染対策が必要となるが、それが逆に患者さんだけではなく病院全体の安心ととなっていくのでは?

そんな中、YouTubeに名古屋の放送局・CBCが制作した「新型コロナ」による死亡者数に疑問を呈している内容が、Upされていた。
YouTube:新型コロナ第7波 愛知県の死者数400人超、しかしコロナ肺炎での死者数はゼロの実態を解説 

数字のトリックというか、データの数字だけではなく、その内容までしっかり知らないと、データで得られた情報が歪曲されてしまうのでは?という、ことを実感するような内容だ。
「新型コロナ死亡者数≠新型コロナで亡くなった人数」というのは、一見おかしなことだ。
しかしその内容を見てみると、他の病気で亡くなった方にPCR検査をしたところ新型コロナに感染していた、ということが判明した、ということなのだ。
このような、問題は以前山梨県(だったと記憶している)で「重症者が0だったのに、死亡者数がいるのはおかしい」という指摘があったのと、同じ話になる。
とすると、政府が定めている「新型コロナによる死亡者数」というのは、「新型コロナ」の感染が認められた時2年数か月前と違う理由で亡くなられた人が、相当数含まれているということになる。
これでは、データとして比較できる内容ではないデータを、同じ条件で比較しようとしている、ということになる。

状況把握の第一原則となるのは、同じ内容のデータを分析・比較することだ。
そこにズレが生じていると、データそのものの意味がなくなってしまう。
このような「データ分析の当たり前」を踏まえた上で、今後どうしていくのか?という検討が必要だと思うのだが・・・。


「強さ」ばかりを求める社会は、息苦しいのでは?

2022-08-26 20:24:51 | ビジネス

Huffpostに「強さばかりを求める社会の落とし穴」のような記事があった。
Huffpost:もう「強さ」だけで戦わなくていい。「弱さ」を生かす社会の作り方

日本よりも米国のほうが、「強い=正しい」という社会通念のようなものが強いようにも思えるのだが、日本の場合バブル崩壊後このような傾向が強まってきているような気がしている。
例えば、「経済的格差、学歴の格差、社会的ステータス」等だ。
そこに「考えの違い」や「身体的なこと」等が加わり、「大多数vs少数」という構図ができ、「大多数=強い」ということにもなってしまっている気がしている。
そのため、少数の意見や考えは蔑ろにされる傾向にある。
少数の人たちからすれば、それは「生きづらさ」へと繋がっていく問題ともなっている。

その「少数」ということに関しても、常に自分が大多数側にいるわけではない。
時と場合によっては、自分が少数になってしまうこともある。
自分が少数になる事を恐れるあまり、自分の考えや意見を押し殺している、という人も潜在的には多いのでは?という、気がしている。

話は変わるが、20年位前に盛んに言われた言葉の一つに「ユニバーサル(デザインやサービス)」があった。
「ユニバーサル」が示す方向性は、「様々なハンディがある人達が求める快適さ」という考えが基本にあった。
それは「ハンディがある人」だけではなく、「ハンディの無い人」にとっても快適さを提供する、ということにも繋がっている、という考えがあった。
その「ユニバーサル」という考えが、果たして定着しているのか?というと、疑問に感じるところがある。
むしろ、この20年の間で「強さ」がより強調されるようになった、という気がしている。
それが、ある一定数の人たちが持つ「生きづらさ」なのでは?という、ことなのだ。

その「生きづらさとは何か?」と、考えていくとそれは「弱さ」というところにも繋がっていく。
しかし「弱い」ということの視点を変えると、「問題の提起」ということにもなっている。
その「問題」は、より多くの人が「心地よい」とか「便利である」と感じられるような、社会の豊かさへと繋がる問題という場合が多いのだ。
それを一言で表すと「ユニバーサル」ということだったのでは、ないだろうか?

令和という時代になってから言われる言葉の一つに、「風の時代」というがある。
「風になびく若木のような柔軟性の時代」ともとれる。
四角四面の鋼のような強さは、一つの穴が開くともろく崩れ去ってしまうことがある。
とすれば、強さばかりが強調される社会は、どこか脆さを持っている社会でもあるのでは?
弱さを含んだ多様性の中から生まれる新しい価値観や創造性は、「弱い」のではなく「やさしさや変化に対応できる柔軟さ」なのかもしれない。
そのような価値観を持てるか否か、ということが問われ始めている気がする。


地域活性化に一役買う?タレントさんたち

2022-08-25 19:35:17 | ビジネス

お盆で帰省中、何故かローカルな話題でタレントのきゃりーぱみゅぱみゅさんが、取り上げられていた。
PRTIMES:きゃりーぱみゅぱみゅ初ライブを行った鳥取県で、米子市の中心市街地再活性化事業を応援!再開発の中心エリア「角盤町商店街」を伝的訪問!

きゃりーさんが米子に来られていたのは、お盆の頃ではなく7月上旬だったようだが、お盆の頃は「きゃりーさんが来た〇〇」という話題のニュースだったようだ。
ただ、鳥取県でライブを行ったから地域活性化事業を応援!ということになるのか、不思議な気がしたのだ。

そして今日、朝日新聞のWebサイトを見ていたら、お笑いトリオ「ロバート」の秋山さんが、鳥取市の応援団長に就任(?)したという動画がUpされていた。
朝日新聞:ロバート秋山さん、「稼げ~っ!」と市長にエール 学ラン姿で絶叫

こちらは、公演予定がありそのPRも兼ねていたのかもしれないが、「稼げ~っ!」というのは、なんともダイレクトな「地域活性化」の応援だ。
ただ、このようにタレントさんが所属する事務所の意向なのか?このような動きが、少しづつ起きているような気がしている。
独居老人の父の様子見の為に帰省する度、米子市や鳥取県、あるいは山陰に縁もゆかりもないようなタレントさんが、きゃりーさんやローバト秋山さんのようなカタチで「地方活性化」の話題作りとして登場するようになっているような気がするときがある。
例えば、吉本興業は大阪市と「地域活性化プロジェクト」を平成29年に立ち上げている。
その実績から「よしもと住みます芸人 (注意:PDFファイル)」というプロジェクトへと発展し、群馬県の昭和村と包括的連携協定を結ぶまでになっている。
このように、タレントさんたちが縁もゆかりもない地域のPRに一役買うようになってきているのだ。

タレントさんの活動とは違うが、サザンオールスターズや福山雅治さんが所属する、アミューズは昨年山梨県へ本社機能を移している。
もちろん、全てを山梨に移したわけではないが、本社機能の「管理部門」を移転させている。
「管理部門」の移転は、東京でなくてもオンライン等で仕事ができるのであれば、経費削減という目的だったのでは?と考えられる。

アミューズの件は、違う意味合いだとしても、アミューズほどのエンターティメント企業が地方に移転する、ということはエポックメイキング的な意味があったような気がするし、吉本興業のように積極的に地方との結びつきを持とうとしているエンターティメント企業もある。
「東京が面白くない」ということではないと思う。
ただ、地方に行くことが「都落ち」ではなくなってきている、という業界の意識の変化なのでは?ということなのだ。

問題なのは、それを迎え入れる側の意識と事業計画だろう。
「事業計画」というと、大げさな表現だが、タレントさんが来て「〇〇を応援しています!」という、一過性のアピールで終わってしまっては意味がない。
「タレントさんが来た」ことで、注目されたことを活性化のチャンスととらえ、そのチャンスをどう活かすのか?という、ことが求められているということなのだ。
アピールだけで終わるのか、チャンスを活かすことができるのか?は、その自治体の意識に掛かっている。







状況判断力は?「新型コロナ禍」での入国者引き上げ

2022-08-23 21:12:14 | アラカルト

日経新聞のWebサイトを見ていたら、「政府の状況判断力は大丈夫なのか?」と、心配しそうになる記事があった。
日経新聞:入国者、1日5万人に引き上げへ、新たな新型コロナ対策で

ご存じの方も多いと思うのだが、「新型コロナ」の感染拡大が止まらず、第7波の現在は「世界最多」の記録更新状態が続いている。
もちろん、諸外国の中には日本のような検査を行っているとは限らないにしても、「世界最多」という数字の衝撃はとても大きかったはずだ。
それも、都市部だけではなくこれまで感染者が少ないといわれていた地方での感染拡大が、顕著になりつつある。
その理由として、「お盆休みで都市部から地方へ人が移動したから」という指摘もあるくらいだ。
GW中に「制限のない人の移動」を行っても、それほど感染者が増えなかったということを踏まえての、お盆休みの「制限のない人の移動」ということになったはずだが、人の思惑通りではなかったということかもしれない。

人の思惑通りではないにせよ、現状は「感染拡大の真っ最中」である、ということには変わりない。
にもかかわらず、何故この時期に「海外からの入国者を5万人に増やすのか?」という意図が分からないのだ。
「5万人」という数字だけでは、現在の状況が分かりにくいのだが、現在の入国者数は1日当たり2万人だ。
倍以上の海外からの入国者を増やす、というだけではなく、「日本人帰国者と同様にする」という、内容にもなっている。
「日本人と同様にする=厚労省で決めた安全地域からの帰国者に対して、待機日を設けない。ワクチン接種証明書の提示不要」という内容になる。厚労省HP:日本入国時の検疫措置 

国内の移動に対しては、現在国内で行われている「新しい生活様式」に従って、ということになるようだが、何故、今なのだろう?
理由として挙げられているのが、「PCR検査の体制の見直し」があるようだ。
春頃だっただろうか?「濃厚接触者=みなし感染者とする」というようなお達しがあった気がする。
それから、徐々に「極力、医療機関に行かないで、自宅療養をしてください」になったように思う。
今日になり、医療機関の崩壊寸前(というより、崩壊しているという指摘もあるようだ)という状況を変える為に、これまで行ってきた「県線者数の全数把握の見直し」という提言が、全国知事会から提案されるようになった。
他にも濃厚接触者の自宅待機日数の見直し等がありながらも、いまだに感染症2類相当という状況を続けている。
このチグハグな政府の方針があったうえで、入国者数の引き上げということになりそうなのだ。

政府や専門家委員会等は、一体「新型コロナ」に対してどう対処していきたいのだろう?
元々、政府の対応等に疑問を持ってはいたが、感染症の2類相当と「新しい生活様式」を維持しつつ、海外からの入国者数を現在の倍に引き上げる、というのは「日本発新型コロナ感染者感染者を世界にまき散らす」というリスクもある、ということは考えないのだろうか?
いつまでこの「新型コロナ対策迷走」は続くのだろう?


「応援したくなる企業」という考え

2022-08-22 17:54:08 | マーケティング

先週半ば過ぎには、お盆休みそのものは終了し、帰省から帰っていたのだが毎日の暑さで、体力も気力も低下中で失礼をさせていただいていた。
それでも、夏の甲子園の決勝が終わり、大人の夏休み終了という気持ちの切り替えをしなくては!という状況だ。

週末、新聞に掲載されている書籍案内を見ていて目に留まった本があった。
ファンに愛され、売れ続ける秘訣」というタイトルの本だ。
そしてこのタイトルを見たとき、随分前に発刊された「『応援したくなるような企業』の時代」という本を思い出したのだ。
どちらの本も、「マーケティングが通用しなくなる」という趣旨のサブタイトルがついているのだが、マーケティングが通用しなくなるのではなく、「How-To」しか述べる事ができないマーケティングが通用しない、という意味だと考えている。

というのも、「ファンをつくる」、「応援してもらえる」為には、企業が必要なこととは何か?と考えると「生活者の声を聴く」という、マーケティングの当たり前な考え方にたどりつくからだ。
以前、拙ブログGoogleは100%を目指さない、という趣旨のエントリをした。
100%を目指さない代わりに、ユーザーが自由に参加できる「余白」をつくることで、製品づくりにユーザー参加を可能とさせている。
それが、結果としてGoogleユーザーを増やし、そのユーザーが固定化することでGoogleファンを作り出すことに成功しているのだ。

上述した通り「生活者の声を聴く」ことが、応援したくなる企業の要点となるのだが、その為には何が必要なのか?と、いうことを考える必要があると思う。
それは「フェアであること」だと、考えている。
例えば、今日決勝が行われた高校野球のファンはとても多い。
野球ファンではなく「高校野球ファン」という意味だ。
そして「高校野球ファン」の多くは、地元とか特定の高校を応援しているわけではない。
大会を通して、一生懸命なプレーを見せてくれた球児たちを応援しているのだ。
「一生懸命にプレーをする」という意味の中には、「フェアである」という意味も含まれているはずだ。
日本人が特に好きな(?)「自己犠牲」とか「チームの為」という点も含まれているはずだが、いくらチームの為と言っても「隠し玉でアウトを取る」ような行為があると、一斉に非難の的となる。
その多くは、球児に対してではなく監督や学校に向けられるのだが、非難される理由は「フェアではない」からだろう。

と同時に「自分と相手」という関係の心理的距離間もまた、重要になっていく。
「フェアである」ということから、その企業姿勢に対して「信頼」を感じ、自分の思いが伝わったと感じれば、その心理的距離間はぐっと縮まる。
「信頼関係」が築かれる、ということだ。
その築かれた信頼関係が崩れたとき、多くの人は「裏切られた」という気持ちになり、親しみは無関心へと変わっていく。
このような気持ちの変化がある、ということを理解しなくては「ファン」をつくり出すことはできないはずだ。

「ファンだから予想できない」のではない。
「ファンをつくる=応援をしたくなる企業になる」ということは、企業活動にとって当たり前の「生活者の声を聴き、フェアであり続ける事」なのだ。


面白い取り組みだからこそ、プラスアルファのサポートが欲しい

2022-08-14 21:41:23 | ビジネス

お盆休みで、実家に帰省している。
そのため、エントリができたり・できなかったりになるので、ご容赦いただきたい。

朝日新聞のWebサイトを見ていたら、「面白い取り組みだな~」という記事があった。
朝日新聞:住宅建材で余った木材、DIYにどうぞ「残材BANK」広がる 

「コロナ禍」になってから、住宅建材が不足しており「国産木材バブル」と呼ばれる状況が続いている、という。
その理由は、海外からの安い住宅建材用の木材輸入が滞っており、国内木材の需要が高まっている、という状況があるからだ。
だからと言って、住宅建材用の木材は工業製品ではないので、需要に応じた生産体制が組めるわけではない。
まして、長い間日本の木材需要は年々低下していたこともあり、日本の林業そのものが衰退の傾向にある。
そのような中で起きた「国産木材バブル」ということなのだ。

もちろん、今回のような「国産木材バブル」が起きる前から、自治体によっては「県内産木材を使って住宅を建てる場合、補助金を出す」等の林業の支援策を取っている自治体も少なくなかったはずだ。
そして上述したような「コロナ禍」で起きた、輸入木材の減少により国内産住宅用建材としての木材需要が高まったことで、今回のような「住宅建材用の木材の余剰」という現象が出てきたのだろう。

住宅用の木材ということもあり、既に製材・加工がされているということを考えると、DIY向きということはわかる。
サイズもバラバラであっても、DIYをする方にとっては「アイディア次第」という楽しさもあるだろう。
ただそのようなDIYが楽しめる人は、もともとDIYが趣味という場合が多いのでは?
確かにYouTube等を見てみると、「DIY初心者が、家をまるっとリノベ」というような動画をいくつも見る事ができる。
そのような動画を見ると、DIY経験が無くてもちょっとした大工仕事位できるのでは?という、気持ちになる動画視聴者もいるかもしれない。
しかし、その気持ちとは裏腹にDIYをするための道具扱いに、まず慣れる必要があるのでは?ということなのだ。

今はホームセンター等に行くと、様々な大工道具が並んでいる。
そして優しい店員さんが、いろいろアドバイスをしてくれたりもする。
問題なのは、その先だ。
道具を買い、いざ!やってみようと思っても、なかなか思うようにいかない、という場合が多々あるのでは?という、ことなのだ。
建築資材を安価に提供するのであれば、大工さんやホームセンターと共同でで「犬小屋のつくりかた」のような小さな物を作る、という講座のようなものを開く、ということがあればもっと、需要が起きるのでは?という、ことなのだ。

「犬小屋」というのはあくまでもわかりやすい一例として書いたのだが、DIYをするのであれば、建材となる木材選びから、道具の使い方等を知る事で、よりDIYが楽しくなるのではないだろうか?
その楽しさを伝える、ということも含め残った建材を廉価で販売をする、ということになれば、DIYそのものへの興味関心を持つ生活者層も広がり、国産建材の下支えとなる新たな客層をつくることができるのでは?と、考えるのだ。



「歌は世につれ、世は歌につれ」というけれど…

2022-08-11 21:20:01 | トレンド

今朝、FM番組を聞いてたら、面白いデータを取り上げていた。
博報堂が定期的に発表している「ひらけ、みらい。生活総研」が発表をしている、あるデータを取り上げていたのだ。
博報堂 ひらけ、みらい。生活総研:ヒットソング 昭和 to 令和「生活者」展1981‐2021

ヒットソングと言っても、ここで取り上げているのは「使われていることば」だ。
誰々が、〇〇ヒットを飛ばした、という話ではない。
ヒット曲に使われている言葉を分析することで、その時々の生活者の思考や心理、社会背景を考えるということなのだ。

このレポートの中で面白いな、と感じたのは「一人称(わたし・ぼく)と二人称(あなた・君)」という言葉の変化だ。
取り上げている「ぼく・君」という言葉が多様されるようになり、ジェンダーレス化しているという考察だ。
この「ぼく・君」という言葉を多用しているヒットメーカーは、宇多田ヒカルさんや浜崎あゆみさんなのだ。
特に宇多田ヒカルさんは、インタビュー等でもご自身のことを、「ぼく」と話されていたように記憶している。
女性がそれまで男性が使っていた「ぼく」という言葉を普段から使い、曲を書く時もそのまま使っている、という点で「ジェンダーレス化」と言えるのだろう。
決して、男性が女性に近づいて「ジェンダーレス化」している、という訳ではなさそうだ。
最近では、小学校で「〇〇君」という呼び方から「〇〇さん」に統一するような動きがある、という話も聞く。
とすれば、今の小学生が大人になる頃には「ぼく・きみ」という表現の歌は無くなり、「わたし・あなた」になるかもしれない。

また、調査対象が2021年までということを考えると、「コロナ禍」がヒット曲にどのような影響を与えたのか?という点が、気になってくる。
「ぼく・わたし・きみ・あなた」という、関係性の言葉ではなくもっと多様な関係性の言葉が使われるようになるのか?それとも、そのような言葉からより内省的な言葉が使われるようになるのか?
このような言葉の使われ方によっては、「内向き志向」が強まったのか?、「閉塞感を打ち破りたい」という変化が見られたのか?ということから、生活者の「気分」が分かってくるからだ。

もちろん、ヒット曲と言ってもそれらの楽曲を聴く層があり、最近では聴き方についても分析をする必要があるだろう。
例えばCDを購入して聴く層とSpotifyのようなストリーミングで聴く層とでは、音楽そのものの聴き方が違うし、生活のスタイルも違うからだ。
もしかしたら、CDセールとストリーミングとでは、まったく違うヒット曲が登場するかもしれない。
そのようなことも含め、時代の変化と共に「人は使う言葉が変わり、使う言葉が変わることで、その人との関係性も変わってくる」ということだけは言えそうだ。

ヒット曲だけではなく、言葉そのものが時代を映す鏡のようなものであり、共感性や分かりやすさという点でヒット曲という切り口で、生活者の変化を考えるということも、面白いかもしれない。



「読書感想文」って、本当に必要なのかな?

2022-08-10 15:43:45 | 徒然

今日、新聞社各社のWebサイトを見ていたら、同じテーマの記事が2つあった。
それは「読書感想文」についての記事だ。
朝日新聞:教育学者・斎藤孝さんに聞く読書感想文のコツ 本が苦手な子には

Huffpost::三谷幸喜さんが勧める「読書感想文」の書き方。「子どもの頃知りたかった」と反響呼ぶ

同時期に、「読書感想文」についての記事が出る、ということも珍しい気がする。
と同時に、夏休みの宿題の中でも「自由研究」と同じように「読書感想文」が、とても大変なものである、ということを示しているのだな~と、感じる。

確かに子どもの頃、読書感想文を書くのが苦手だった。
それは、自分の感想を素直に書くと、先生たちからは決して評価が高い内容とは、ならなかったからだ。
別に読書感想文で、先生から高い評価を受けようとは思わないのだが、批判めいたことが赤字で戻ってくるのがとても嫌だった。
そもそも、「読書感想文」を書くための「推薦図書」とか「課題図書」と言われる本を、面白いと感じたことがなかった、というのが本当のところだったように思う。
当然、読書感想文も「面白かった」という言葉は書けないし、「感動した」という言葉も出てはこない。
このような時、「主人公の気持ちになって」とか、「作者の思いを感じて」等ということを書くことが、推奨されるのだと思うのだが、残念ながら私にはそのような感性がなかったらしい。
そのため、「読書感想文」には良い思いではない。

というよりも、夏休みの宿題に「読書感想文は、本当に必要なのか?」と、以前から疑問に感じている。
「読書感想文」いうと、小中学生が書くもののように思えるが、見方を変えると「書評」のようなものでもある。
大人で「書評」が書ける人は、どれほどいるのだろう?と、常々思っているからだ。
まして、作者の思いなど、想像することはできるが、それはあくまでも私の中の想像でしかない。
あくまでも、私が想像した作者の思いであって、本当の作者の思いなのかは、わからないのだ。
事実、故橋本治さんはご自身のエッセイ(だったと思う)に、自分の作品が受験に使われ、設問に「作者の気持ち」を問われていて、その設問の解答にどれも当てはまらない、と書いていらっしゃった。
その一文を読んだとき、「わが意を得たり!」という気持ちになったのだ。

「作者の気持ち」は作者にしかわからないし、それを想像で感じる事は出来ても、想像そのものは読み手に任されるべきことのはずなのだ。
当然のことながら、他者が想像したことに作者でもなければ、その感想を書いた生徒でもない先生が、評価をすること自体どこかで大きなズレが起きて当然だろうし、そこには正解等はなく「思った・感じた・想像した」ということに、評価をするということに意味や理由があるのだろうか?と、思うのだ。

そろそろ「読書感想文」ではなく、夏休みに読んだ本とか体験した(遊び)リストに+一言感想のようなものにしても良いのでは?
「面白かった」という一文に、「何か面白かった?その時、どんなことを感じた?」という言葉を、先生が戻すことで、子どもたちは「何が面白くて、どんなことを感じたのか?」ということを、一生懸命に自分で考え「言葉にする」という面白さを発見し、子ども自身で興味や関心が整理され、まとめる力が育つのでは?と、自分の経験から感じるのだ。