日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

今、社会に蔓延しているのは「恐怖」ではなく「不安」だ

2020-02-29 20:33:34 | 徒然

一昨日だったと思う、Yahoo!のトピックスで「トイレットペーパーが売り切れ」という、ニュースが取り上げられていた。
このニュースを見た時「何故、トイレットペーパー?マスクじゃなくて??」と、思った。
そして昨日、近所のドラッグストアに行き、その理由が分かった。
どうやら「マスクを量産するために、トイレットペーパーの生産ラインが止まる」というデマが流れた為、買い占めに走った人がいた、ということだった。
それは、ティッシュペーパーやキッチンペーパー、女性の生理用品にまで広がっているらしい。

トイレットペーパーが売り切れるのだから、ティッシュペーパーも売り切れるのは、分かる。
しかし女性の生理用品まで売り切れるというのは、デマにしても程がある。
現在の「使い捨てマスク」のほとんどは、「不織布」という素材だ。
今でも昔ながらの「ガーゼマスク」を使われている方もいらっしゃるかもしれないし、スポンジのような素材のマスクもあるので「マスク=不織布で作られている」とは言い切れないが、主流は「不織布」であることのは違い無い。
トイレットペーパーやティッシュペーパーは、ご存じの通り「パルプ」で作られている。
キッチンペーパーの一部は「不織布」の製品もあるが、キッチンペーパーの用途を考えれば、マスクの代用になるとは思えないなずだ。
というのもキッチンペーパーは、灰汁取りや油こしとして使われることも多く、油こしとして使えるということは、ウイルスなどをブロックできるようなものではない、ということがわかるはずだ。
まして、女性の生理用品には「高分子吸収体」と呼ばれる、特殊な素材が含まれている。
赤ちゃんが使う「紙おむつ」等も、この「高分子吸収体」が使われていることで、オシメそのものがおしっこで濡れても、漏れ出ないようになっている。
個々の素材も違えば、製造ラインも違うはずなのだ。
もちろんドラッグストアの店頭には、「デマの注意喚起」の張り紙がしてある。
にもかかわらず、買い占めに走ってしまうのは何故だろう?

同様の経験は、9年前の「東日本大震災」でも経験している。
「東日本大震災」の時は、「東京電力福島第一原子力発電所事故」が起きたため、ミネラルウォーターが「買い占め」の対象となった。
9年前の「ミネラルウォーター」の時と、「買い占め心理」そのものは変わってはいない、ということにもなるだろう。

よく言われることだが「恐怖」と「不安」の違いは、「恐怖」はその「怖さの対象が明確」なのに対し、「不安」は「得体の知れない」漠然としているコトが多い。
言い換えれば「恐怖」のように、怖さの対象が明確であれば対策法もわかってくる。

ところが「不安」は、「対象が明確」とは、言えない。
「最初の検疫で陰性だったにもかかわらず、その後陽性となった」などの報道があると、その「得体のしれない」という不安感が、ますます強くなっているのではないだろうか?
今は「新型コロナウイルス」という「ウイルス」であることはわかっているが、具体的な対策法などの指示はされてはいない。
強いて上げるなら「小中高校などの臨時一斉休業」くらいで、一番罹患者数が多い大人への対応指示などが無く、連日報道される内容の多くは、罹患者数と死亡者数、感染ルートだ。
今一番生活者が知りたいのは、そのような数字やルートではなく、感染予防策などの具体的な方法だ。
何故なら「問題解決の為の具体的方法」が分かれば、行動するときの指針となることも多く、何より安心が生まれるからだ。
政府がまず行うことは、「生活者の不安」を取り除くような情報の提供であり、その情報を提供することによって「買い占め」のような、不安感から来る異常な行動によるパニックを防ぐことで、新薬開発を含めた新しい不安を取り除く情報を提供することができるようになるのでは?





政策を考える為には、現場を見てほしい

2020-02-28 15:24:44 | 徒然

突然安倍さんが発表した、「3月2日から春休みまでの一斉臨時休校」の指示要請。
日経新聞:首相「今が重要な時期」休校要請 パート収入減に対応

余りにも突然の発表で、現場となる学校ではその対応の混乱が続いている。
日経新聞:突然の休校「対応しきれない」学校・学童保育が混乱

安倍さんは「これ以上新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための策」と、言っているようだ。
確かに、「新型コロナウイルス」の感染は拡大の一途をたどり、2,3週間の対応によって「パンデミック状態」を押さえられるのか?という、正念場とも言われている。
そう考えると、安倍さんの判断は「英断」のようにも思える。
だが、本当に「英断」なのか?というと、「???」という気もするのだ。

このような「臨時休校」指示に対して、「反対」を表明する自治体も出てきた。
朝日新聞:休校要請「地方を蹂躙」「総理は責任負わぬ」湖南市長

滋賀県の湖南市長が言うように、小中学校の休校などの指示を出すのはその自治体の首長だ。
その意味では、安倍さんの発言は「責任を負わない指示」であり、「新型コロナウイルス対策」のポーズのようにも取れる。
「ここ2,3週間が(感染拡大を封じ込める)勝負」だとしても、不用意な発言と捉えられても仕方ないだろう。
何より、この時期の学校は年度末ということで様々な行事が目白押しだ。
それらの行事をすべて取りやめれば、「新型コロナウイルス」が収束するとは思えない。

それだけではない、このような「臨時休校」を実施することで、生活に影響が出てしまう人が数多くいるのだ。
例えば、学校の「非常勤講師」と呼ばれる、先生たちだ。
かつては「産休の先生の代わりに教壇に立つ先生」というイメージしかなかったが、今では「正規採用の先生と同じ、通年で教壇に立つ先生」も多いと聞く。
そのような先生方にとっては、今回の「臨時一斉休校」は「1ヵ月の休業=無収入」ということを意味している。
そのような「非正規の先生」の存在を、安倍さんは知っているのだろうか?

そして現在「保育所」に子供を預けて働いている方々にとっても、困る問題だろう。
というのも、3月は人事異動などのシーズンであり、企業の決算の月でもある。
例年でも一番忙しい時期に、子どもを保育所に預けられないという状況になってしまうと、様々な問題が起きることは明らかだろう。
今でも「保育所」に子供を預けることができない、という状況なのだ。
今よりももっと厳しい「保育環境」に陥ってしまうことは、想像することができるはずだ。

しかし、そのような生活者の姿を安倍さんをはじめとする政治家の皆さんは、想像ができないのではないだろうか?
おそらく「子育て」そのものの経験が無いとか、お金で解決する方法があったのだろう。
そのため「保育所の臨時休所」による、社会的(経済的・人的)損失が分からないのだろう。

むしろ、日々の生活で移動距離がある働く人たちの「病気になったら休める」という環境整備を企業にするほうが、効果的なのではないだろうか?
特に都市部では、満員の通勤電車の利用を止める(あるいは減らす)ことで、感染拡大の抑制策となる可能性がある。
自宅待機中を無償の休みとするのではなく、希望者には「e-ラーニング」による教育機会を与えるなど、社員のスキルアップ期間として奨励し、無償ではなく企業には税的優遇策や補助金などを出すなど「将来的社会投資」ということにもつながるのではないだろうか?

政治家と呼ばれる人たちだからこそ、「自分の生活者の一人として、地に足がついた発想と政策」を持ってもらいたいものだ。





政府が無策と嘆く前に、正しく怖がり対策を立てる

2020-02-26 20:29:21 | 徒然

「新型コロナウイルス」以外のニュースはないのか?と、思うほど「新型コロナウイルス」の感染拡大が、続いている(昨日も同じ文章を書いたような気がするが・・・)。
この状況の中で、一部では安倍政権の対応の悪さ、無策という指摘がされるようになってきた。
今回の「新型コロナウイルス」についての、情報が一気に増え、客船「ダイヤモンド・プリンセス号」船内での感染者が出たり、政府側としては「想定外」だったことがあったとは思う。

ただ、生活者の多くが「無策」と感じる理由は、昨日エントリさせていただたように「感染者の発生地域と感染者数」ばかり発表され、生活者ができる具体的対応策などが、発表されなかったからだろう。
その点で「政府の無策」と言われてしまうのは、仕方ないことかもしれないし、これが今の政府の限界ということなのかもしれない。

ただ、ここにきて専門家の方たちが、積極的に「対策」をネット上などで発表し始めている。
その一人である、東大環境安全部の黒田玲子先生が発表した内容は、個人と企業ができる「対応策」が具体的になっている。
新型コロナウイルス感染症 個人と会社の対策 (注意:PDFファイル)

この対策を見ると「ウイルス」を必要以上に怖がる必要は無いのでは?という気がしてくる。
むしろ大切なことは「適切に怖がり、対策を万全に行う」ということなのだ、と言うことに気づく。
転売屋による、マスクや殺菌をするためのアルコールの買い占めによって、パニックになるよりも、外出先から戻ってきた時に丁寧な手洗いをするほうが、遥かに有効だということもわかる。
タオルにしても、使い捨てができる「ペーパータオル」のようなモノを利用し、家族共用を避けるなどが感染リスクを下げることになるのでは?という、気がする。

気になっているのは、「新型コロナウイルス感染症」の流行による景気の後退だ。
今までも「景気が良かったのか?」と尋ねられれば、「どうでしょう??」と答えてしまうような経済状況なのだ。
安倍さんが「アベノミクスで景気が良くなった」と言っても、現実はマイナス成長であり、多くの生活者は「マイナス成長」の実感のほうが強いのではないだろうか?
このような状況の中で、これ以上景気が後退するようなことになると、日本経済そのものが危うくなってしまうのでは?という、心配をしなくてはならないかもしれない。

とすれば、企業は「景気対策」の為の、「新型コロナウイルス感染症対策」も考える必要が出てくる。
それは、働き方であったり従業員の(心と体の)健康管理意識を考えた自社のアイディアを、社会へとつなげていくことかもしれない。
これまで「ブラック企業」と言われていた企業の多くは、「働き方と健康管理意識」を繋げることなく、その場しのぎの掛け声倒れの策しかしてこなかったように思う。

「新型コロナウイルス感染症」が、パンデミックとなってしまうのか否かは、「正しく怖がり、対策をとる」ということだろうし、そこには「働き方」や「健康管理」という当たり前のことをすることで、新しい生活意識が生まれてくるような気がしている。





フェイク情報に踊らされない為に、何が必要か?

2020-02-25 19:08:46 | アラカルト

「新型コロナウイルス」の話題しかないのでは?という気がするほど、連日トップで報道されている。
もちろん、報道の内容も「新型コロナウイルス」に感染した人の情報から、経済に及ぼす影響、転売屋、予防法などなど、その話題も多岐にわたる。
それだけ「新型コロナウイルス」が及ぼす影響の範囲が広く、どれか一つでも解消されれば、安心できる問題ではない、ということをよく表している。

このような状況になると必ず!と言ってよいほど、まことしやかに流れるのが「フェイク情報」だ。
今回は「お湯を飲んで予防できる」という、情報が流れているらしい。
huffpost:新型コロナウイルス「お湯を飲んで予防」のデマ拡散 専門家は「常識的に考えてありえない」

専門家の方が言うまでもなく「お湯を飲んで予防できる」とすれば、これほどまでに感染が拡大するはずもなく、冷静に考えれば「フェイク情報」だということがわかる。
分かるはずなのに、拡散し信じられてしまう。
その理由に挙げられるのは、情報の発信元が具体的。
今回の場合は「新型コロナウイルス」が最初に確認された中国・武漢の名前が使われることで、真実味を帯びた情報と捉えられた可能性があるだろう。

もう一つ考えられるのは「不安が解消される情報が、公的機関から発表されない」ということも、大きいのではないだろうか?
今回の政府の対応そのものが、後手・後手感があり、政府から発表される内容も「感染者が見つかった場所、人数、感染者の立ち寄り先などの行動」等ばかりで、受け手となる生活者の多くは「もしや、自分も接触した可能性があるのでは?」という、不安ばかりがよぎってしまっているような状況のような気がするのだ。

このような状況になると「何が正しい情報で、何が正しくない情報なのか?」という冷静な判断よりも、目の前にある「不安解消法」のほうに注目がいってしまう。
それを余計に煽ってしまったのが、マスクやアルコールなどの除菌製品が街中から消えた、からだろう。
「自分で予防する方法がない!」という焦りが、たとえフェイク情報だとしてどこかに信憑性がある、と感じられる内容であれば、藁をもつかむような気分で「フェイク情報」を頼るだけではなく、その人自身が「フェイク情報」の発信者と、なってしまうのだ。

とすれば、闇雲に「冷静な判断を」などと言ったとしても、何等かの不安がある限り効果が無いような気がするのだ。
感染者数などの情報も必要だと思うが、それよりもまず「生活者の不安」を解消するような組織的な情報発信が、必要なのではないだろうか?


「新型コロナウィルス肺炎」が、働き方を変えるかもしれない

2020-02-23 22:00:46 | アラカルト

とどまることを知らない「新型コロナウィルス肺炎」の拡大。
潜伏期間が一般的(というべきか?)なインフルエンザよりも長い為、最初の検査で陰性になっても、その後陽性になる、というケースもあるようだ。
そのため、感染の可能性のある人などは「多くの人との接触を避ける為」に、「自宅待機」という休みが必要と言われるようになってきた。

考えてみれば、風邪をひいても「発熱していないなら、風邪程度で休むな!」と、言われた経験のある方も少なくないと思うし、それが日本の「働き方」だった。
私事だが、出張先で風邪気味になり風邪薬を飲みながら仕事をした経験がある。
そしてその当時は、それが当たり前だった。
そのような無理無理な体調で仕事をしても、効率や成果などは上がらないと分かっていても「休む」こと自体が、「(周囲に)迷惑をかける」という、ある種の圧力のようなモノがあったような気がする。
「休むなら、病院の診断書を提出する」くらいのことが必要で、それくらい「病気になっても休みにくい」というのが、日本のビジネスパーソンの「働く環境」だった、と言っても過言ではないと思う。

それが今回の「新型コロナウィルス肺炎」感染の拡大によって、「疑わしい時は休む」という社会的風潮になりつつある。
批判されるかもしれないが、「新型コロナウィルス肺炎」の流行・拡大によって生まれた「働く意識改革」に繋がっているのでは?とすら、感じている。
もちろん「疑わしい時休んだ人」に対する、差別的な態度は問題だと思うのだが、これまで「風邪程度で休むな」というある種の「圧力」から、少しは解放されたような気がしている。

と同時に、良いか悪いかはこれからの問題として「働き方」そのものも「テレワーク」のような、働き方が一気に広がっていくのでは?という気もしている。
元々、2020年東京オリンピック、パラリンピック開催期間中、大幅な混雑解消策として「テレワーク」を推し進める必要がある、と言われていた。
しかしその実行となるとなかなか難しいのでは?と、懐疑的な気がしていた。
例えば、現在でも「フレックスタイム」を採用している企業は多く、「時差出勤」等である程度の問題解決ができる、と考えていた企業も少なくないのでは?
それを「テレワーク」のような、自宅と会社をネットで繋げて仕事をするという働き方に変える、というのは「働く意識」として企業側も働く側にもハードルが高いと思い込んでいたと思う。

しかし今回のような、「外出すること自体が、社会に与える影響が強い」感染症の病気の流行が、「テレワーク」そのものに切り替えざる得ない、という環境を創り出したような部分もあるような気がする。
「テレワーク」によって、24時間勤務のような状況に陥らないようにするための策は当然必要だが、「テレワーク」が普及することで、子育て期間中の人たちの「仕事がしやすい環境づくり」にも繋がっていくのではないだろうか?
それが女性の「M字型就労人口」の解消となる可能性もあるだろうし、女性のキャリアビジョンにも影響を与えるかもしれない。

まだまだ予断を許さない「新型コロナウィルス肺炎」の感染拡大だが、これ以上の感染者が出ないよう厚労省をはじめとする関係機関の判断が試されているのはもちろんだが、この感染拡大が「働く意識の変化」や「様々なハンディのある人が働きやすい環境とは?」という、発想の転換の切っ掛けとなってくれることも願っている。


企業における「ブランドイメージ」という、資産

2020-02-21 20:58:22 | ビジネス

ダイヤモンドオンラインに、興味深い記事があった。
DAIMOND on-line:なぜANAホテルは「桜を見る会」問題で最高権力に忖度しないのか?

ANAホテルが「桜を見る会」について、首相の答弁と食い違った説明をした、という話題があった。
記事にもあるように、「ANAホテルが外資系ホテルだから、忖度しなかったのでは?」という指摘をする記事もあった。
この報道で、自民党の議員さんたちの間では「ANAホテルは使わない」等の発言があったようだが、その一方でこの発言にで「これからは、積極的にANAホテルを使おう!」という、人達も数多くいるようだ。

確かに首相の答弁と違う説明をすることで、安倍さんをはじめとする自民党の議員さんたちからそっぽを向かれ、一時的にホテルの大きな収入源と言われている「宴会」利用は減るのだろうか?という、疑問がある。
というのも、今回の答弁でANAホテルのブランドイメージは、グンッと上がったのでは?という、気がするからだ。

それが「適切な会計処理をしている」ということが分かったからだ。
権力に忖度するのではなく、「当たり前に法に基づいた処理をし、それについて淡々と説明したに過ぎない。特別なことではない」と言う、社会的信頼をANAホテルというホテルをよく知らない人達にまで、知らしめたということになるからだ。
「当たり前のこと」に対して、ブランドイメージがアップする、ということ自体おかしなことではないか?と、思われるかもしれないが、「当たり前のこと」を丁寧に説明する、ということ自体が「誠実な企業である」という印象を、多くの生活者が持つことになったはずだ。
違う言い方をするなら、「未来の顧客に対して、ANAホテルは誠実な企業である」というブランドイメージを与えることに成功した、ということになる。

重要なことは「未来の顧客」に対して、「ブランド力をあげることに成功した」という点だ。
これまで様々な企業が、誠実な対応を怠り生活者からそっぽを向かれ、最悪な場合は倒産にまで追い込まれた。
一見すると、既顧客が離れたために倒産したような印象がもたれるかもしれないが、既顧客だけではなく未来の顧客も企業に対しての信頼を失ったため、様々な再建プランを出しても倒産してしまった、と理解すべきだと思う。

実際、今回の件でYahoo!などのコメントを見ると「ANAホテルを是非、今後利用してみたい」という書き込みが、いくつもある。
実際に利用するかしないかは分からないが、「利用してみたい」というコメントを読んで、「私も、利用してみよう!」という気になった未利用者は、案外多いのではないだろうか?
それは、ネットという一瞬で情報や個人の考えが拡がっていくツールだからこその反応であり、「未来の顧客を獲得する」という視点で考えれば、これほど有効なことはない。

一度失ってしまった「ブランド力」という無形の資産を取り戻すには、膨大な時間とお金と労力を必要とする。
また、「ブランド力」を維持していく努力もまた、相当な労力とお金が必要だ。
社会に対して「誠実な企業である」という、経営姿勢を示す為には企業のトップから現場で働くアルバイト一人ひとりに至るまで、「企業理念と企業が果たすべき使命」を十分理解し、それを忠実に行い・守ることなのだ。
決して、広告やコマーシャルでつくられた「企業イメージ」が「ブランド力」ではない、ということを、今回のANAホテルは示しているような気がする。




ミヒャエル・エンディの「モモ」が、教えてくれること

2020-02-20 21:29:29 | ビジネス

今日、実家のある米子から名古屋に帰ってきた。
実家で過ごす時間は、独居老人の父の世間話を聞き、時折相槌を打つという、ビジネスとは全く関係のない時間だ。
その父が寝静まった後、ミヒャエル・エンディの「モモ」を読んでいた。
ご存じの方も多い、児童文学の名著だ。
残念ながら、子どもの頃「モモ」を読んだ記憶がない。
もちろん、ミヒャエル・エンディも「モモ」が児童文学の名著であることも知ってはいるのだが、なんとなく手が出なかった本の一つだった。

その「モモ」を読む切っ掛けとなったのは、いろいろな理由があるのだが、実際に読んでみるとある種の「生々しさ」を感じたのだ。
実は、読んでいる途中で、気分が悪くなったこともあった。
その「生々しさ」というのは、おそらく私が長い間ビジネスという世界に身を置いてきたからだろう、ということは暗に想像がつく。
というのも、「モモ」で描かれる「灰色の男たち=時間貯蓄銀行のセールスマン」がつくりだした世界は、今の私たちのビジネスでは「当たり前」とされていることに近いだからだ。

「モモ」に登場する「時間貯蓄銀行」が勧めているのは、「時間を切り詰める合理性」だ。
そこには、人としての感情は一切排除され、効率と合理性ばかりを求めるある種の「エゴ(あるいは自己益)」だ。
「自分にとってビジネス(というよりも「儲け」だろうか?)にプラスになるのなら、相手のことなどお構いなし。判断基準は、自分にとってどれだけ利益になるのか?」という点だ。
それを、ミヒャエル・エンディは「時間」という物差しで、表現をしている。

しかし、ビジネスキャリアを積んできた人たちの中には、「モモ」で描かれているような社会になっていることに気づいていない人たちも数多くいるのではないだろうか?
それは「マニュアル通り。How toに従い、疑問を持つこともなく、自分で考えることを止めている人たち」が、増えているということを実感するからだ。

この「疑問を持たない、自分で考えることを止める」ということは、実はとても「ラク」な方法であり、自分で責任を負う必要が無い、ということでもある。
社会を見渡すと、そのような自分で責任を負う覚悟の無い大人たちの一人や二人、思い浮かぶのでは?
それが今の社会だとすると「モモ」で描かれた「時間貯蓄銀行」に「時間を奪われた人達の姿」と、重なるように感じるのだ。

主人公の少女・モモは灰色の男たちと、相対するキャラクターということになる。
そして最後はモモが、街の人たちの「時間を取り戻す」ことに成功するのだが、今の社会ではモモのような人たちは瞬く間に社会から追い払われてしまうだろう。
ただそのような「自己益追求型のビジネスで良いのか?」という疑問を、持ち始めている人たちもいることは確かだろう。
もし、近い人物がいるとすればグレタ・トゥーンベリさんかもしれない。
だからこそ、彼女の発する一言一言に世界の政治家や経済人が、眉を顰め攻撃的な言葉を繰り返すのだろう。
本来であれば、主人公・モモの役割はビジネスや政治に関わる、大人たちの仕事なのではないだろうか?
と同時に、「疑問を持たない。自分で考えない」ことで起きる社会は、ハンナ・アーレントが指摘した「全体主義」の誕生でもあると感じるのだ。


改めて感じる「依存症」の問題

2020-02-13 23:07:47 | 徒然

今日から、母の墓参りの為に実家(鳥取県米子市)に帰省している。
帰りの高速バスに乗っている時、スマートフォンに「槇原敬之、覚せい剤で逮捕」という号外ニュースが表示された。
「随分前に、逮捕されても懲りていなかったのかな~」と思ったのだが、一昨年だったか?関係者が覚せい剤で逮捕されていた、とニュースにあったことから、「そんな環境では、治療そのものができない」というきがしたのだ。

昨年、米国の「セサミストリート」が「オピオイド中毒の母親を持つ子供が登場した」ということについて、エントリーをした。
日々是マーケティング:セサミストリートが投げかける、社会の問題

エントリをした内容は、米国で問題となっている「オピオイド(系)」と呼ばれる鎮痛剤の常用による依存についてだった。
ただ「薬物依存」という点では、今回の槇原敬之の「覚せい剤(の他の薬物依存もあった、という報道もあるようだ)」も同じだろう。
大阪大学医学部の教授・仲野徹さんは「依存」と言う言葉だと、本来の患者の姿が見えないような気がするので、あえて「中毒」という表現もしくは「addiction(アディクション=常用癖または中毒)」を使うべき、と著書で書かれている。

そしてこのような「アディクション」から脱却するためには、「身近に対象物となるものを置かない」ということが、一番重要だ、と仲野徹さんは書いている。
おそらく「依存症治療」に関する書籍には、同様のことが書かれているのではないか?と、思っている。
それは「アルコール」や「ギャンブル」であっても同じということだ。
病院などで治療を受け、「自分は大丈夫!」と思っていても、1滴でもお酒を飲むと元の木阿弥。以前と同じように「アルコールなしでは、生活ができなくなってしまう」と言われている。そして、相当の確率で舞い戻ってしまう人がいる、と、著書の中で書かれていた。
病院で治療できないのが「依存症」なのだ。

一番良いのは、最初から「アディクション」の要因となるモノ・コトから離れた生活をすることだろうが、「オピオイド中毒」のように処方薬として使われ、それが常用癖となり結果中毒となってしまう場合もあるのだ。
もちろん「オピオイド」と「覚せい剤」を、同一のものとして考えるわけにはいかないが、自分たちの生活の近くに様々な「常用癖」となるモノ・コトがあふれている、ということをまず知る必要があるのかもしれない。
ただ、「常用癖」となるモノ・コトは「楽しいモノ・素敵なコト」という顔をして、近づいてくるので「自分なら大丈夫」ではなく、臆病なくらいに近づかないという勇気を持つことが、大切なのかもしれない。

お知らせ:上述の通り現在帰省中の為、ブログはしばらくお休みになります。
     再開予定は来週末。宜しくお願いします。




なぜ日本の企業は、出遅れてしまうのか?

2020-02-12 16:22:53 | ビジネス

日経新聞のWEBサイトに、「なぜ、日本の企業は出遅れてしまうのか?」という感じる記事があった。
日経新聞:サムスン、Netflixなどと提携 動画対応でアップルに対抗

詳細については、リンク先の日経の記事を読んでいただくとして、配信を利用した様々なエンターティメント事業に関して、日本企業の出遅れ感は否めないと思う。
若い世代を中心に新しい音楽の楽しみ方として、若い世代を中心に人気となっている「ストリーミング」の大手「Spotify」は、スエーデンの企業だ。
記事に取り上げられているNetflixは、ご存じの通り米国企業でオンラインを利用したレンタルDVDを中心に利用者を増やし、今ではアカデミー賞候補作まで制作する「映像企業」となっている。
そしてサムスンは、これらの企業と提携することでIT製品によるプラットホーム化を目指しているのでは?という、気がしたのだ。
だからこそ、「アップルに対抗」ということになるのだ。

この記事を読んでいて気付くことは無いだろうか?
日本の企業名やサービス名が、全く出てきていないのだ。
随分前から「モノ消費からコト消費へ移っている」という指摘は、マーケティング関連の記事だけではなく、様々なところで言われていた。
にもかかわらず、日本の企業は「ものづくり中心」のままで、今に至っているのではないだろうか?
生活者の変化を理解しているようで、理解をせずソニーの「ウォークマン(1979年発売のカセットテープ再生専用の初代ウォークマンのこと)」の頃から、まったく進化していないのでは?という、気すらしてくるのだ。
もちろんその後も、日本企業が世界を席巻した製品は、数々誕生している。
任天堂の「ファミコン」や「ゲームボーイ」等は、世界中が熱狂したテレビゲームや携帯ゲーム機の先駆けとなり、今でそれらの派生製品は根強い人気を誇っている。
確かに任天堂の「ゲーム関連」に関していえば、今でも根強い人気を誇り、新製品が登場する度に熱狂的に迎え入れられているが、日本の産業の中心であったはずの家電をはじめとするメーカーなどは「ものづくり」には熱心でも、今の時代に呼応するようなモノ・コトづくりに興味があるのだろうか?と、疑問に感じてしまうのだ。
というよりも、「生活者の欲しいサービス」を理解していないのでは?という、気がしてしまうのだ。

現在日本企業の中でスマートフォンを製造している企業は、ソニー、京セラ、シャープ、富士通の4社くらいだろう。
サムスンという名前ではなく「Galaxy」という、ブランド名で認知されているように思うのだが、日本の4社が共同で通信サービスの企業と積極的に提携をし、利用者を取り込もうという感じではない。
強いて上げるなら、ソニーの場合エンターティメント事業を積極的に展開していることから、今後事業の提携はあるかもしれないが、今回のサムスンが提携する企業の数を考えれば、その魅力は半減してしまうだろう。

なぜ、日本の企業はこのように「出遅れてしまうのか?」と考えると、メーカーは製品をつくる企業であって、そこから先は利用者の自由、という発想というか感覚があるからだろう。
確かに、スマートフォンで利用するアプリは、利用者が自由に選ぶべきだと思う。
思うのだが、「利用者が自由に選ぶ」という発想の中に、「利用者がどのように使い、生活に反映させているのか?」が、あるのだろうか?という疑問があるのだ。

生活者が「Spotify」などを利用しても、スマートフォンをつくっているメーカー側には、何のメリットもないし関係が無い、と言えば関係はないだろう。
だがそれらのサービスを利用することで見えてくる「生活者の像(というか「具体的な姿」)」があるはずだ。
そのような「生活者の像」は、今後家電などの中心となっていくIOTなどの利用する姿へと繋がっていくのではないだろうか?

日本のものづくりは、確かに素晴らしいものがあったと思う。
しかし今の日本のメーカーの多くは、「生活者を置き去り」にしているのではないだろうか?
いつまでも「1979年のウォークマン」のものづくりでは、日本企業が置き去りにされていってしまうのでは?
そんな心配をこのサムスンの提携の記事を見て、感じている。











カズヒロさんの「日本国籍を捨てた」発言は、今の日本の閉塞社会の問題点を表している

2020-02-11 21:29:42 | アラカルト

昨日発表があった、米国アカデミー賞。
商業映画における、世界最高の賞と言っても過言ではないと思う。
そのアカデミー賞が、今回異変が起きた。
韓国映画「パラサイト」が主要4部門を獲得したのだ。

数年前なら、考えられなかったアジア発の商業映画の受賞というのは、アカデミー賞選考を行うアカデミー会員の構成メンバーが大きく変わりつつある、ということを表しているのかもしれない。
というのも、数年前まではアカデミー賞選考メンバーの8割は白人男性、と言われ問題となったからだ。
アカデミー賞に限らず先日発表があったグラミー賞でも、受賞楽曲などを見ると選考会員の構成メンバーが変わったのでは?と、感じる部分は多々あり、主要部門を独占したビリー・アイリッシュの受賞は、その象徴だったかもしれない。

その中でメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したのは、カズ・ヒロさんだった。
2019年に米国国籍を取得された理由を、授賞式後あるインタビューで応えている。
nobicom:カズ・ヒロの国籍なぜアメリカ?辻一弘が日本を捨てた理由に納得の声

「日本を捨てた」という表現は、やや過激な気がしない訳ではないが、米国国籍を取得した理由を知ると、どこかで納得できる。
何故なら、今日本の社会を覆いつくしている閉塞感の要因のいくつかは、カズ・ヒロさんが理由として挙げている事柄のような気がしているからだ。

例えば、「失敗を許さない」ような社会的雰囲気があり、それが「再チャレンジ」の機会を奪っている、という指摘は再三されていながら、まったく変わっていないからだ。
その背景には、日本企業の多くが「減点主義」と呼ばれる、人事考課があると指摘されている。
一度失敗をすると、会社人生のコースから外れるだけではなく、復帰することすらできない。
だからこそ、無難な前例主義を踏襲することで、会社人生のコースを外さないようにするのが、精いっぱいになっている、というのが現状だろう。
だからこそ「自分で考える」のではなく、HOW TOのほうが優先されるのだ。
カズ・ヒロさんのようなクリエイティブな仕事は、常に「自分で考える」ことが要求されるし、手垢がついたような陳腐なHOW TOなどは評価の対象にすらならないのが、ハリウッドだろう。

他にも、ハリウッドで活躍されているカズ・ヒロさんからすれば、「日本人である」ということよりも、「ハリウッドにいる、一人のメイクアップ&ヘアーアーティスト」ということの方が重要であり、日本国籍で仕事をしているわけではない、という自負もあったはずだ。
にもかかわらず、「ハリウッドで活躍し、アカデミー賞まで受賞した日本人の誇り」という枠にはめ込み、縁もゆかりもないのに、カズ・ヒロさんの活躍を「自分の活躍」のような錯覚をしてしまう(少なくとも、そのような報道がされてしまう)ということも嫌気がさしていたのだろう。

自分が努力によって得た賞賛を、「日本人の活躍!」という文字で様々なメディアが報じるのは、オリンピックをはじめとする、スポーツの場面だろう。
最近では「日本の為」ではなく、「自分の為」という言葉を使う選手が随分増えてきたと思うのだが、それでも「自分の為」という言葉に抵抗感を感じる人達は多いはずだ。
まして「試合を楽しみたい」等とインタビューで応えたりしたら、「試合を楽しむとは、何事!」と言われ反感を買うことになることもしばしばあった。
最近特にこのような「日本の為」という圧力は、今いたるところで感じるのは私だけだろうか?
このような「国の為」という社会の圧力(=「ナショナリズム」と言って良いと思う)を利用したのは、あのヒットラーであったということを忘れてはいけないと思う。

縁もゆかりもないのに、日本人というだけで親しげにされるのに、逆の状況になった時「蟻の子を散らす」様に去っていくという、都合の良い関心の持ち方しかされていない、ということを実感されていたのかもしれない。
そのような息苦しさや自分勝手な都合のよさを、カズ・ヒロさんはハリウッドという場所にいながら、感じていたのではないだろうか?
それは日本の多くの人がどこかで感じている「息苦しさ」と通じるモノがあるような気がするのだ。