東京電力「フクシマ事故」発生以来、日本中が「放射能」に怯えている。
もちろん、「フクシマ事故」とは関係のない地方であっても、小さなお子さんを持っているお母さん方にとって「放射能」というのは、「あってはならないもの」という認識になっているように感じている。
中には「定期健康診断」で実施されるレントゲン検査を断る人もいる、と聞いたこともある。
事実かどうかは分らないが、レントゲン検査まで断るというのは、チョッとヒステリックな反応のような気がしている。
実は昨日、名古屋で「再発・転移のがん」についての講演会があり、聞きに出かけた。
その講演会で、いくつか興味深い話があった。
その一つは「メディアを中心に、白か黒かといういわゆる二次元的な話で物事をとらえる傾向がある」というコト。
例えば「イレッサ」という肺がんに使われる薬がある。
ご存知の方も多いと思うが「イレッサ」は、承認されてから副作用で約700名の方が亡くなられている。
この「イレッサ」が承認されたとき、メディアは「夢の治療薬」と絶賛する記事を書いていたが、副作用で亡くなる方が出てくると、今度は一斉に「悪魔の毒」というような記事になった。
実際には、「イレッサ」で肺がんが治った患者さんは、亡くなった方よりも遥かに多いにも関わらず、その情報を流すことなくセンセーショナルな話題性の部分だけをクローズアップし、伝える傾向がある。
それが、逆に「がん治療」の現場では、患者の理解を得られず困っている、という話だった。
それと同様なことが「放射能」というか「放射線」にも起きているような気がするのだ。
実際、私たちが生活している環境の中で「放射能を浴びずに生活する」というコトは、出来ない。
海外旅行をするだけでも、相当量の放射能・放射線を浴びている。
東京に住んでいる人が、放射能から逃げるために沖縄に転居するのだって、飛行機に乗ることで、放射能を積極的に浴びる結果になってしまっているのだ。
言い換えれば、日常的生活をする上で「放射能に対するリスクを0にする」というコトは、出来ないことなのだ。
そんな中、生涯累積放射線量に意見殺到 国民の関心高く、答申遅れ必至という記事が、中日新聞のWEBサイトに掲載されていた。
「放射能」や「放射線」をいくらでも浴びつづけてよい、とは思わないが、「フクシマ事故」以来の日本人の動揺などを見ていると「ノーリスクの社会」を求めているのでは?という気がしてくるのだ。
それを煽りつづけているのは、紛れもなくメディアなのでは?
もちろん、「適切な情報を適宜発信している」と思うのだが、自分に都合がよい、センセーショナルなタイトルや内容のほうが印象深く、「ズバット!」断言されることで、受け手となる生活者の多くが、一種の「思考停止状態」になり、他の情報を受け付けなくなっているような部分が多いのではないだろうか?
「ノーリスクの社会」というのは、ありえないはずだ。
とすれば、「興味・関心」があれば、「ズバット!」断言した言葉では無い意見や考えも積極的に聞く必要があると思う。
そしてメディアそのものも、そのことを考える必要があると感じた講演会だった。
もちろん、「フクシマ事故」とは関係のない地方であっても、小さなお子さんを持っているお母さん方にとって「放射能」というのは、「あってはならないもの」という認識になっているように感じている。
中には「定期健康診断」で実施されるレントゲン検査を断る人もいる、と聞いたこともある。
事実かどうかは分らないが、レントゲン検査まで断るというのは、チョッとヒステリックな反応のような気がしている。
実は昨日、名古屋で「再発・転移のがん」についての講演会があり、聞きに出かけた。
その講演会で、いくつか興味深い話があった。
その一つは「メディアを中心に、白か黒かといういわゆる二次元的な話で物事をとらえる傾向がある」というコト。
例えば「イレッサ」という肺がんに使われる薬がある。
ご存知の方も多いと思うが「イレッサ」は、承認されてから副作用で約700名の方が亡くなられている。
この「イレッサ」が承認されたとき、メディアは「夢の治療薬」と絶賛する記事を書いていたが、副作用で亡くなる方が出てくると、今度は一斉に「悪魔の毒」というような記事になった。
実際には、「イレッサ」で肺がんが治った患者さんは、亡くなった方よりも遥かに多いにも関わらず、その情報を流すことなくセンセーショナルな話題性の部分だけをクローズアップし、伝える傾向がある。
それが、逆に「がん治療」の現場では、患者の理解を得られず困っている、という話だった。
それと同様なことが「放射能」というか「放射線」にも起きているような気がするのだ。
実際、私たちが生活している環境の中で「放射能を浴びずに生活する」というコトは、出来ない。
海外旅行をするだけでも、相当量の放射能・放射線を浴びている。
東京に住んでいる人が、放射能から逃げるために沖縄に転居するのだって、飛行機に乗ることで、放射能を積極的に浴びる結果になってしまっているのだ。
言い換えれば、日常的生活をする上で「放射能に対するリスクを0にする」というコトは、出来ないことなのだ。
そんな中、生涯累積放射線量に意見殺到 国民の関心高く、答申遅れ必至という記事が、中日新聞のWEBサイトに掲載されていた。
「放射能」や「放射線」をいくらでも浴びつづけてよい、とは思わないが、「フクシマ事故」以来の日本人の動揺などを見ていると「ノーリスクの社会」を求めているのでは?という気がしてくるのだ。
それを煽りつづけているのは、紛れもなくメディアなのでは?
もちろん、「適切な情報を適宜発信している」と思うのだが、自分に都合がよい、センセーショナルなタイトルや内容のほうが印象深く、「ズバット!」断言されることで、受け手となる生活者の多くが、一種の「思考停止状態」になり、他の情報を受け付けなくなっているような部分が多いのではないだろうか?
「ノーリスクの社会」というのは、ありえないはずだ。
とすれば、「興味・関心」があれば、「ズバット!」断言した言葉では無い意見や考えも積極的に聞く必要があると思う。
そしてメディアそのものも、そのことを考える必要があると感じた講演会だった。