日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

新しいスタートする人達へ

2009-02-28 22:55:42 | 徒然
暖かだった今日、昼間近所の書店へ出かけた。
その時、近くの高校の幾人かが、手に1輪のシンピジュームを持っていた。
高校の卒業式があったようだ。
まだまだ大学受験などが控えている生徒達からすれば、気の抜けない時だと思うのだが、それでも花を持つ顔は、笑顔で一杯だった。

今年は例年にないほど、社会的な閉塞感を感じる。
経済的には「冬の時代」という感じだ。
それでも、季節はめぐり春が近づいている。
だからこそ・・・彼らを含め新しいスタートをきる人たちにエールを贈りたい。そんな気持ちで選んだ楽曲が「愛のハーモニー」だ。
That's What Friends Are For - Dionne Warwick & Friends HQ


この楽曲がヒットした時、当時勤めていた会社の同僚が念願だった仕事をするために、退職をした。
その時、彼女にエール代わりに贈ったのがこの楽曲だった。
「いつも笑顔でいてね
 そして、輝いていて
 素晴らしい日もあるけど、辛い時もある
 そんな時、いつでも私達はあなたのそばにいるから・・・その事を忘れないで」
という詞の内容がとても素敵で・・・。

今、とても辛い状況にある方も多いだろう。
でも、春はやって来る。
そして、心配している人達もたくさんいる。
だから勇気を出して、新しいスタートを切って欲しい・・・と願うのだ。

朝よりも・・・朝カレー

2009-02-27 20:16:22 | マーケティング
今年になってから、「朝カレー」のテレビCMを見るようになった。

昨年、メジャーリーガー・イチロー選手が「毎朝、カレーを食べている」というコトが話題になり、その後健康番組や健康雑誌などで「朝カレーは、集中力を高める」などと言われ、より話題になったことは、記憶にある方も多いのではないだろうか?
そして、このような話題をうけテレビCMでは、プロ野球選手・楽天の田中選手が登場し、確かオンエアーも受験を意識し始めた頃だったように記憶している。

以前から気になっていた商品なのだが、今日、近所のスーパーマーケットで安売りをしていたこともあり、購入してみた。
お茶碗1杯分(180g)に対して、75g分のレトルトカレーが2食分入っているのだが、朝ご飯の量としてはどうなのだろう?と言うのが、素直な感想だ。
確かに、成長期(中学~高校)の男子なら、このくらいの朝ご飯を食べる必要があると思う。
女性の場合このくらいの量だと、+サラダでお昼ご飯と言う感じの量だ。

ココで考えたいのは、「朝カレー」だからといって何も朝に限る必要はないのでは?と言うコトだ。
例えば、上述したようにOLの「+サラダでランチ」だけではなく、高齢者の1食分と言う考え方もあるのではないだろうか?
実際、某ファミレスなどでは「お子様メニューを65歳以上のお客様にも提供します」と、メニューリストに記載されている。
1回の食事量が少なくなり始めた高齢者や、食事制限の必要な人にとって、このような「プチサイズ」のレトルト食品や冷凍食品は、便利なモノなのではないだろうか?

と言っても、企業が提案する必要は特にない。
いわゆる「口コミ」などの情報交換によって、新しい使われ方が生まれてくるのだ。
「企業が思いもつかない使われ方」によって、新しい市場が誕生し、商品・サービスが充実すると言うことがあるのだ。

市場と言うのは、企業が思い描いた通りにはならないコトが、案外多い。
しかし、思い通りではないから失敗したのではなく、新しい市場を創り出すチャンスととらえるべきなのだ。

「朝カレー」という商品は、生まれたばかりの商品だ。
だが、「朝」に限定する必要はない。
これから商品が成長させていくのは、むしろ多様な感覚を持った生活者だと言うことだ。


嬉しい日に、こんなワインはいかが?

2009-02-26 21:46:53 | アラカルト
昨日、税申告をした後、街中をブラブラ。
久しぶりに入った明治屋で、とても春らしいモノを見つけた。
それが、白百合醸造「さくらワイン」だ。
ワイン(だけではなく、お酒全般)をあまり口にしない私は、恥ずかしながら存じ上げなかったのだが、ワインが好きな方の間では名前の知られた山梨のワイナリーのようだ。

細く長い首のボトルに、薄桃色のロゼワイン。
ボトルの下にはワインと同じ色の八重桜が、静かに沈んでいる。
見ているだけで春を感じ、心がウキウキしてくる。
心がウキウキすれば、当然のコトながら笑顔になってくる。

実は検索をしてみると、他にも「さくらのワイン」という商品があると分った。
北東北3県共同で作られた「さくらワイン」と言うモノもある。
コチラは、北東北の山ぶどうをブレンドし「さくら酵母」で醸造したワインのようだ。
同じ「さくらのワイン」ではあるけれど、北国の寒さに耐えた山桜の花びらを思わせるようなワインだ。
うろ覚えで申し訳ないのだが、「さくらのスパークリングワイン」も以前、見かけたことがあった。


週があければ、早3月。
北国では、まだまだ寒い日が続くのだろうが、今年は少し桜が早まると言う予想が発表されている。
春待ちのこの季節、嬉しいことがあった日には、このようなワインを楽しむのも素敵だろう。
ただし、20歳以上の方で飲酒運転をしないと言う条件付きなのだが。



企業のグローバル化ってなんだろう?

2009-02-26 11:32:03 | ビジネス
昨年の、アメリカ発の金融危機で日本企業の以外な弱点(?)が発覚した。
それが「輸出依存の企業収益」だ。
以前、拙ブログでエントリさせていただいたのだが、バブル崩壊後日本の大企業と呼ばれる多くの企業は、海外に市場を求めた。
それが、実体のあまり無いアメリカ市場だったり、成長著しい中国だったりした。
その事に批判するつもりは無い。
それによって、日本経済は「いざなぎ景気」を超える景気状態となったのは、数字上確かなコトだったのだから。
生活者の「実感」という点では、決してそのようなコトは無かったはずなのだが、どこかで「景気が良いと言う数字が出ているのだから、世間的には景気が良いのだろう」という思い込みで、過ごしてきたのではないだろうか?

しかし、その日本の名だたる大企業が積極的に展開してきた「輸出景気」が、アッと言う間に萎んでしまった。
これほど日本の経済が、脆弱なモノだとは思わなかった。
毎日流れる経済のニュースは、明るい材料となるモノが日々なくなり、実際よりも気分的閉塞感が、より消費を後退させているように感じている。

そんな折、フッと思い出したのが社会未来学者とも言われたドラッガーの著書だ。
いくつかの名著があるので、既読されている方も多いと思うのだが、その中で「企業のグローバル化」について、述べている内容がいくつかある。
そして、今読み返してみると「もしかしたら、日本の企業の目指したグローバル化は、本当のグローバル化ではなかったのでは?」という気がしてきたのだ。

日本企業のグローバル化というと、日本企業が海外に進出し、そこで市場を創り出すコトのように思いがちだ。
実際、多くの日本企業はそのようなカタチでグローバル化し、企業利益をあげてきた。
だが、ドラッガーの言うグローバル化というのは「様々な人が集まる事で、多様な思考の元、国境を越えた商品・サービスが提供できるようになる」という考えだったのではないだろうか?と言う気がしている。
ここでいう「様々な人が集まる」というのは、企業の男女参画などと言うコトではなく、障害を持った人や、年齢・国籍などを含めた「様々人」。

そのために必要なコトはなんだろうか?と、改めて考えると、それこそが「企業のグローバル的視点と思考」なのではないだろうか。
海外に進出し、市場を獲得する事=グローバル化ではないと思う。
むしろ、企業文化そのものではないだろうか?



ビジネスにもセンス

2009-02-25 16:19:39 | ビジネス
今日、売れないフリーランスのマーケティングプランナーである私も、確定申告に行ってきた。
その道すがら、ちっと考えてしまう場面に何度か出くわしたのだ。
それは「センスの問題」というコト。
「センス」というと、「ファッションセンス」のコトだと思われがちだが、ココでは「センス=感覚」という意味だ。

まず、地下鉄で見かけたのは・・・
午前中、雨が降っていたため地下鉄に乗っている人たちの手には、当然のコトながら雨傘が握られていた。
雨傘を、手すりに掛けている人もいる。
その中で、キチンとお化粧をし、なかなかオシャレな格好をしている60代と思しき女性が、折りたたみ傘を自分の座っている座席に置いていた。
「それって・・・後に座る人の事を考えたら、どうなの?」と思ってしまった。
いくらオシャレな格好をしていても、このような姿を見るとガッカリしてしまう。

そして、確定申告会場に行く時。
実は、今年から最寄の税務署ではなく、3つの税務署が合同の会場となっていたのだ。
その事をすっかり忘れた(お惚けな)私は、いつものように最寄の税務署に行くべく、地下鉄を降りたのだった。
改札を抜ける時、「今年は確定申告の案内が無いな~???」と思っていたのだが、税務署近くになって、「今年は、確定申告会場が変わりました」の看板やポスターが・・・。
見落とした私も悪いのだが、私が利用する税務署は比較的広い地域を担当している。
当然のことながら、車や地下鉄で来る人たちが多い税務署なのだ。
自分のお惚けが原因なのだが、「どうして、例年のように改札口に案内を出さないの?」と、悪態をつきそうになってしまった。
これも、利用者の事を考えたセンスの問題と言う気がするのだ。

そして、確定申告の会場へと向かった私なのだが、地下鉄の駅から地上へ上がる階段途中で、「もう少し、気を配って!」と思う場面に出くわした。
丁度私の十数メートル前を、足に障害のある若い女性が歩いていた。
比較的早足で歩く私などは、1、2分で彼女に追いついてしまった。
場所は、屋外へ上がる階段付近。
その時、身なりの整ったお年を召した2人の紳士が、傘を広げようとしていた。
ところが、足の悪い彼女には目もくれずサッサと自分達の傘を広げ、彼女を迷惑そうに見ながらその脇を通り過ぎていってしまった。
その姿を真後ろで見ていた私は、「心を遣う余裕を、お年を召した方なら見せて欲しかったな~」と、強く思ったのだ。
人間的に不出来な私などは、人様に迷惑を掛けることが多いと反省する事ばかりで、「このような時こそ!」と思い、歩く速度を緩め、彼女がゆっくりとした仕草で傘を広げ、歩道に出るまで待ったのだが、「何気なく、人に対して気遣う」というコトは、ビジネスにも通じるところなのでは?と、同時に思ってしまったのだ。

「周囲に目を凝らし、こころを遣う」と言うコトは、お金を掛けずにビジネスチャンスを見つける方法だと思う。
そのための「センス=感覚」を磨くチャンスは、日々の生活の中にあるのでは無いだろうか?





「おくりびと」に見る、日本の姿

2009-02-24 20:10:40 | 徒然
どうも胃腸風邪を引いてしまったらしく、昨日から食後は胃がムカムカ、頭がボーと言う状態。
当然のコトながら、思考力も低下状態・・・。

昨日、アカデミー賞の授賞式があった。
既にご存知の通り、「おくりびと」が外国語映画賞を受賞した。
短編アニメーション部門では、「つみきのいえ」が受賞し、W受賞と言う快挙で日本中が沸いた。
とても素晴らしいコトだと思う。

これまで「日本映画=時代劇もしくはアニメ(=宮崎駿)」が、ハリウッドの評価だったように思う。
「おくりびと」と「つみきのいえ」に共通するのは、とても静かな表現のような気がする。
「ハードパワー」で相手を攻め立てるような手法ではなく、(人の気持ち・こころに)語りかけるようなそんな映画だと思う。
そしてそのようなコトが、今のアメリカ社会が必要としているモノなのかも知れない・・・と、感じたのだ。

実際、作品賞を受賞した映画も今のインド(の貧困層の子供達のたくましさ)を描き出した作品だと言う。
むしろ「生きる」というコトへの渇望のような、そんなモノが今のアメリカだけではなく世界全体が求めているコトのような気がしてならないのだ。

ところで、「おくりびと」のような最期を迎えられる人が今の日本にどれだけいるのだろう?と、考えてもしまった。
葬儀に関わる人たち(=葬儀社の人たち)と言うのではなく、見送る家族の姿だ。
母が突然亡くなり(くも膜下出血だったため、あっけない最期だった)、丸3年が過ぎた。
葬儀の時は、悲しいと言う感情よりも葬儀社の人たちのテキパキとした指示に従い、バタバタと過ぎていってしまったように思う。
死者への悲しみが起きてくるのは、四十九日が過ぎた頃ぐらいだろうか?
まして今のような、やや希薄とも思える家族関係や地域社会の中で、「野辺の送り」と言う意味を、さほど考えなくなっているような気がするのだ。

今の私達が忘れかけている「日本人の死生観」。
「死があるから、生の大切さ」という感覚が、この映画「おくりびと」で表現されているとすれば、余りにも「生」に対する意味を失いかけているのが「今」という時代なのでは?そんなことを徒然に思ってしまったのだった。
これも胃腸風邪のせいかも知れない・・・。





批判は簡単だが、問題解決にはならない

2009-02-22 19:18:04 | 徒然
先日、香川県の県立病院で体外受精の取り違え事件(と言ってよいのか?)が発生した。
取り違えられた受精卵→胎児は、中絶と言うコトになってしまった。
この事件を聞いた時、なんとも虚しく悲しい感覚を覚えたのは、私だけではなかっただろう。
当然のことながら、早速新聞の社説には厳しい内容のモノが掲載された。
讀賣新聞:不妊治療ミス 「命」の管理がずさん過ぎる(2月21日付・読売社説)
中日新聞:受精卵取り違え 安全管理軽視のツケだ
確かに、これらの社説が書いていることは、正論だと思う。
思うのだが、今回の問題は決してそんなに簡単なコトでは済まされないと思うのだ。

ご存知の方は多いと思うのだが、現在不妊治療をしているご夫婦はとても多い。
結婚すれば、妊娠→出産と言う時代ではない。
不妊治療には費用的な問題だけではなく、女性にかかる肉体的・精神的負担も多く、時には「いつ終わるとも分らない不妊治療を続けている」という女性もいるのだ。
もちろん、女性だけの問題ではなく男性にとっても同様の負担が必要だろうし、周囲の理解も必要となっているはずだ。
そのようなご夫婦にとって、「良い先生=優秀な先生」となれば、藁にもすがるような思いで、病院に通っているというのは想像できる。
「優秀な先生」と言うコトであれば、そのお医者さんにかかる負担は、大きくなるばかりだろう。
それだけではなく、現在産婦人科医師不足と言うコトは再三指摘されているのだ。

実際、今回の香川県立中央病院だけではなく、数多くの病院では、受精卵を医師1人で扱っている状況にあるようなのだ(紹介記事は朝日新聞)。
今後、このような事故が起きない事を願う事は当然だが、現在の医療問題全体が解消されていかなくては、意味が無いのではないだろうか?
批判するのは簡単だが、その問題解決のために必要なコトは何か?そこが解決されなくては同様の事件が起きるのではないだろうか?
むしろ、事件を起こした医師は不妊治療に対して熱心で、一生懸命取り組んでいたとすれば、その批判はどこか的外れのような気がするのだ。

突発的な時こそ、想像力が必要

2009-02-22 09:01:55 | アラカルト
最近、時々思う事がある。
それが、「突発的な時の対応」だ。

実は、金曜日実家から帰ってくる時チョッとしたトラブルに巻き込まれた。
実家への帰省は、JRと利用すると言うことがほとんど無い。
と言うのも、大阪から実家のある米子まで高速バスを利用すれば、3時間半程度でついてしまうからだ。
JRを利用してもその時間差は30分程度。
費用面から考えれば、高速バスを利用した方が格段に安い。
もちろん、高速バスには「時間通り到着しない場合がある」という、問題点がある。
それを承知の上なら、まったく問題ないのだ。
むしろ、「JRが遅れる=列車が遅れる」と言うコトを、考える人はあまりいないのではないだろうか?

ところが、今回だけではなく昨年父と一緒に京都旅行に行ったときも、その前の初盆の帰省の時も、JRの在来線が遅れたのだ。
今回は米子駅着の時点で25分遅れで、乗車時点で、とても乗り継ぎの新幹線に乗れるような状況ではなかった。
ところが、詳しい案内は岡山駅に近づいてから。
それも「(指定席券をお持ちの方は)駅の係員の指示に従ってください」という内容。
乗り換え改札口で聞いても、「××時発の○○号車の空いている席に座ってください」だけ。
その指示に従ったら、心配していた通り、ダブルブッキング状態になってしまった。

私が思ったことは、列車が遅れた事ではない。
ある意味、突発的な事故や気象・自然現象で遅れるのは、仕方ないと思っている。
その後の対応なのだ。
「○○号車の△△番~××番のA・B・C席の、空いている席にお座りください」という、案内が欲しかっただけなのだ。
そうすれば、私が誤って座ってしまった先約の方にも、迷惑を掛けずに済んだと思うのだ。

しかし考えてみれば、このようなことは案外身近なトコロで、事の大小は関係なく起こっている事なのでは?と、思ってしまったのだ。
そのようなことが起きるのは、前提として「こうなるに違いない」という、希望的観測を絶対条件(と言ってしまって良いのだろうか?)として、考えているからなのではないだろうか?
私なども、人間的に出来ていないトコロのほうが多いので、自分で「こうなるに違いない」と思い込んでしまい、思わぬ結果(と言うほどではないコトのほうが多いのだが)になってしまうと「どうして!」と八つ当たりをすることがある。
八つ当たりをする相手がいないときには、仕方なく(?)自分のダメさ加減に落ち込むのだ。

自分ではなんともしようが出来ない、突発的なコトは起きて当然だろう。
まして、気象などの自然によるものなら、起きるコトが当たり前のコトなのだ。
ところが、私達はどこかで「こうすれば、こうなる」という、思い込みと言うか決め付けをしている場合が多い。
それが、何らかの原因で「こうならなかった」時対処する方法は、ただ一つ「打開するための想像力」なのではないだろうか?
そしてそのような「想像力」が、最近劣化しているような気がするのだ。



地元の農産物を見直す

2009-02-20 20:45:49 | ビジネス
今日、実家(鳥取県・米子市)から戻ってきた。
朝、実家の新聞折込チラシを見ていた時、ある広告に目がとまった。
そのチラシ広告と言うのは、地元スーパーの「島根県の食フェアー」(タイトルはうろ覚え)。
関西の人はまだしも、現在住んでいる名古屋以東に住んでいる方にとって「鳥取・島根」の場所と言うのは、あまり認識されていないように感じている。
確かに、人口にしても、税収や産業規模においても、2県合わせて1県分程度と言う気がしないわけではない。
しかし、鳥取県と島根県では主たる産業も風習・生活習慣も違う。
県境に壁があるわけではないが、島根県の農産物が県境を接する米子市にあまり知られていないわけではないのに、チラシを見ると、案外知らない食材があったのだ。
その意味で、このような「地元食フェアー」は、とても興味深いと感じた。

百貨店で行われる、北海道や京都の物産展は大人気だと言う。
普段お目にかかれない食品などを見たり買ったりする事で、チョッとした旅行気分として味わえるのが、人気の理由だと言う。
しかし、地元の食材はともかく隣接県の食材となると、どのくらい知っているのだろう?
昨今盛んに「地産地消」といわれるが、地元の食材についてもどのくらい知っているのか?と聞かれると、実は「・・・???」というのが、現実なのではないだろうか?
そこに目をつけた催事が、そのチラシにあった内容なのだ。

そのような動きが起きるのには、理由がある。
生活者からの「地産地消」というだけではなく、生産者側が積極的に「地元を売り出した」という点でも注目したいのだ。
その一例が、偶然帰省しているときに見つけた朝日新聞の鳥取県版に掲載されていた。
大山の「食」をPRと言う記事なのだが、実際の「大山恵みの里」HPを見ると、まだまだこれからという感じがするのだが、第一歩と言う点では十分評価できると思う。
ただ個人的に残念だと思うのは、同じ地域で育てられている、どんぐりを飼料として育てられた豚・トトリコ豚が、その中に含まれていない事だ。

それぞれの思惑があるとは思うのだが、これでは地域全体のPR力が分散してしまい、効果的ではない。
折角のチャンスなのだから、相互でPRするコトで相乗効果があるだろうし、「大山の食」というブランドも作りやすいはずだ。

おそらく、このような動きは全国で少しづつ起きはじめているのではないだろうか?
これまでのような農協・お上(=農林水省)頼みではなく、ここの生産者が集まり積極的に市場を意識した「地元食材つくり」だ。
そしてこのような取り組みが、新しい市場と農業を作っていくのかも知れない。
そんな気がするのだ。



本当は辞めたくなかった?

2009-02-17 19:16:15 | 徒然
中川財務・金融大臣が辞任した。
しかし、辞任記者会見を見る限り「辞めたくなかった」と言う気がしている。
と言うのも、今朝の記者との囲みインタビューや今日の午後の姿は「やる気マンマン」と言う感じがするからだ。

それにしても、気になることがいくつかある。
問題になったローマでのG7の記者会見だが、どう見ても酩酊状態の大臣をなぜ記者会見に臨ませたのだろうか?
「風邪のため、体調不良で記者会見できる状態ではない」と、言うことだってできたはずだ。
私は知らなかったのだが、中川さんは元々お酒でトラブルがあった人物だとすれば、周囲の人たちも気をつけるべきではなかったか?
国内での遊説演説とはまったく違う場所なのだ。
中川さんがあの様な状態で、記者会見をすれば中川さんが恥をかくというよりも、日本という国が恥をかくと思わなかったのだろうか?

個人的には、中川さんが個人的に海外でどれだけ恥をかこうが構わない、と思っている。
だがそれは中川さんが、あくまでも個人としてである。
公人として、まして世界的な金融危機についての世界的会議の席で、国の代表である大臣が、あのような醜態をさらすと言うのは「日本のイメージダウン」と言うだけではなく、「日本という国のあり方」そのものが問題視されるほどの「国損(国益の反対と言う意味での私的造語)」だと思うのだ。
そのような意味もわからず、周囲の人たちがいたとすれば、それもまた問題のような気がするのだ。

そして、昨日の記者会見。
今朝の記者会見での姿を見ていて感じたことは、おそらく多くの人たちが感じているコトと同じ「辞めたくないけど、辞めざる得ない」と言う「無念さ」だ。
言い換えれば、自分の醜態に対して責任をどれだけ感じているのかわからない、と言うコトだ。
「大臣」と言うカタガキに執着しているのか?はたまた、麻生さんの盟友にこだわっているのか?それはわからない。
ただ、今日午後に行われた「辞任発表の記者会見」でも、先ほどの「辞任会見」でも「なぜ辞めなくてはいけないのか?」納得していないと言うか、理解していない表情が見て取れることが問題だと思うのだ。
これはあくまでも想像だが、「いつものお酒の失敗」と言う程度にしか、思っていなかったのではないだろうか?

ところで、中川さんが財務・金融大臣を辞めた後任は、どうなってしまうのだろうか?
今の自民党(と公明党)に、この世界的な金融危機に対応できる人物がいるのだろうか?
もし、いないとすれば、それはそれで「日本の問題」だと思うのだ。