日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「書を捨て、町に出よう」ー大学の新しいあり方ー

2019-05-31 20:48:31 | アラカルト

時折「ほとんど0円大学」という、サイトをチェックしている。
公式:ほとんど0円大学 おとなも大学を使っちゃおう

このサイトをチェックする理由は、単なる(知的?)好奇心からなのだが、大学が行う公開講座の充実度から考えると京大を中心とした関西の大学がとても積極的である、ということを感じる。
もちろん、東京の大学もあるのだが、講座数やその内容のバラエティさという点では、関西の大学が圧倒的に多い。
そして、講座内容を見るたびに思うことは、「なぜ名古屋をはじめ、他の地域の大学ではこのような市民に開放された講座が少ないのだろう?」ということだ。

名古屋で言うなら名古屋大学が中心となって、毎年10月~11月にかけ「街なかサイエンス」という市民向け公開講座を開くことはあるのだが、その内容はタイトル通り「サイエンス」が中心だ。
元々名古屋大学の始まりが、医学部と理工学部であったということを考えると、サイエンス=科学が中心になるのは仕方ないのかもしれないのだが、多くの市民が興味・関心が持てる内容とは限らない。
だからこそ、幅広い分野での公開講座であってほしい、と思うのだ。

国立大学が「独立行政法人」という名がつくようになり、大学であっても研究成果などが求められるようになった。
と同時に、研究費用なども大学独自で、ある程度調達する必要も出てきた。
そこで注目されるようになったのが「産学連携」だった。
大学は基礎研究などを主に行い、その研究を応用、実用化する為に企業のサポートを得る、という連携体制だ。
ただこの「連携体制」は、ある特定の企業との連携を深めるばかりではないか?という、気がする時がある。
それは、大学などが行う公開講座でのサポートとして、特定の企業名が登場することが多いからだ。
名大について言えば、トヨタ自動車とその関連企業が多い、ということになる。
それで良いのだろうか?
むしろ、京都大学をはじめとするより多くの市民に大学の研究を知ってもらうことで、地域全体の文化的なメリットが高いだろうし、そのような中から、特定の企業以外からの研究のアイディアをもらうことになるのではないだろうか?
その結果として、思わぬ地元の企業から「産学連携」の話も出てくると思うのだ。

それだけではなく、大学が積極的に町に出ることで、それまで「大学」そのものに興味関心が無かった人達や小中高校生たちの「知的好奇心」を刺激し、地元の大学への進学を希望する生徒も増えてくると思うのだ。
東京の大学や関西の大学には「名物教授」と呼ばれる教授も多く、その先生の授業を受けたいがために、進学を希望するという生徒もいるだろう。
逆にそのような「(ローカル)名物教授」を育て、魅力ある大学にする為にも、このような幅広いジャンルの市民向けの公開講座は、有効だと思う。

タイトルの「書を捨て、町に出よう」と言ったのは、劇作家で演出家であった唐十郎だった。
唐十郎のような型破りな発想が、大学にも求められているような気がするのだ。


川崎の襲撃事件から考える、中高年の引きこもり

2019-05-29 09:08:09 | 徒然

川崎で起きた50代男性による、小学校の通学バス襲撃殺傷事件。
PCでニュースチェックをした時、一瞬意味が分からなくなるほどの衝撃を受けた。
自殺したと思われる犯人は、一体何を目的として小学校の通学バスを襲撃し、学童や見送りに来ていた父兄を包丁で切りつけたのか?
犯人は、4本もの包丁を用意していた、という報道もあることから、最初からこの小学校の通学バスを襲撃する予定だったのだろう。

その後、犯人の成育歴などが報道されるようになった。
確かに、どのような事情があったのかは不明だが、幼少期に親から離れ親戚の家に引き取られる、という事実があったとすれば、同情する余地もあるのかもしれない。
もちろん、同じような成育環境であっても、社会人としての責任を持ち、社会の一員として活躍をしている人たちもたくさんいる。
そのような人たちにとって、逆にこのような犯人は迷惑な存在だろう。
まして50歳を超した大人である、ということを考えれば成育歴の影響はあったとしても、やはり本人に問題があったのでは?という気がしてくる。

これまでにもあった、通り魔事件に共通する一つに「ひきこもり」ということがあるように思う。
「ひきこもり」理由は様々だろうが、引きこもりながら「社会はもっと自分を評価してよい」といった歪んだ自己愛が高じた結果、という指摘もある。
犯人像についての新しい情報が、次々と出ている状況なので確定的なことは言えないが、「歪んだ自己愛」や「自己肯定感の低さ」、「(事件を起こすことで満たされる?)承認欲求」などがあり、犯行に及んだのでは?という気がする。

そのようなことを踏まえ、改めて考える必要があると思うことの一つに「中高年の引きこもり」があるように思う。
全ての「中高年引きこもり者」に、この犯人のような人物像が重なるとは思わない。
一度社会に出たが、精神的な病気で引きこもりになってしまった人もいるだろう。
問題は、その引きこもり状態から自身が脱却する努力をしてきたのか?それとも、そのような努力もせず自己欲求を満たすような行動が目立ったのか?というようなことの有無だと思う。
引きこもりながら、同居をしている親や周囲の人たちに突然激高し、暴言を吐き続けるとか暴力を振るうなどの行動が見られれば、その時点で半ば強制的でも専門医などのサポートをしていく必要があるような気がするのだ。

この犯人に限らず、バブルが崩壊し「超就職氷河期」と呼ばれた頃に社会人となった世代が、中高年と言われる年齢に達しつつある。
そしてこの世代(以降の)「引きこもり」の多くが、高齢の親と同居し、高齢の親が成人をした子供の世話をしている。
このような人たちの存在もまた、社会保障という点で大きな負担となることは想像がつく。
「引きこもり」をしている人たちの存在を否定するのではなく、「引きこもり」をしている人たちを如何に社会に引っ張り出し、社会の一員として活躍をさせ、責任を果たすようにするのか?
少子化と共に待った無しも社会的問題なのかもしれない。




アルマーニの賞賛と百貨店の現実

2019-05-27 23:24:04 | ビジネス

ファッション専門誌のWWDに、来日したジョルジオ・アルマーニ氏の記事がいくつかあった。
その中に「日本の百貨店は世界一だと思う」という、アルマーニ氏の言葉の記事があった。
WWD:ジョルジオ・アルマーニが来日「日本の百貨店は世界一だと思う」

海外の百貨店を知らないので、アルマーニ氏の言葉の真意を測りかねるところがあるのだが、確かに日本の百貨店はその名のごとく「百貨」の品ぞろえがされていると思う。
バブル崩壊後は、百貨ではなくなったかもしれないが、デパ地下と呼ばれる「食品・お惣菜」から、世界の名だたる高級ファッションブランドまで、一つの建物に入っている小売業というのは、日本の百貨店くらいだろう。
それだけではなく、接客という点においても日本の百貨店(だけではなく、小売り全般に言えると思うのだが)は、海外の百貨店などに比べると遥かに「顧客重視」なのでは?という、気がしている。
そのような視点で考えれば、アルマーニ氏の言った「日本の百貨店は世界一」ということになるのかもしれない。

しかし現実は、日本の百貨店はバブル期以降「場貸商売」と揶揄されるようになり、地方の百貨店の閉店や破綻というニュースは毎年のように聞くことになった。
かつて「小売りの雄」と呼ばれていた百貨店の姿はなく、取って代わったのがイオンなどのスーパーであり、それがコンビニへと移り、最近ではAmazonに代表されるような百貨店以上の品数をそろえることができ、価格も安いネット通販へと代わろうとしている。
それが今の百貨店の現実なのでは、無いだろうか?

とはいうものの、アルマーニ氏が賞賛した「日本の百貨店」の姿には、小売りの基本があるのではないだろうか?
確かにAmazonに代表されるようなネット通販事業の伸びは、目を見張るものがあり実際とても便利な「買い物方法」だといえる。
「いつでも・どこでも買い物ができる」という利便性は、ネット通販の魅力であり、今の生活者の需要とも一致する点が多いからだ。
だが、「品物を見る目」という点では、やはりその場で商品を見ることによって、鍛えられる部分が大きいのではないだろうか?
通販サイトのレビューなどを見てみると、素材特性などを理解せずに購入したのでは?と思われる内容が、案外多いことに気づく。
特にアパレル関係になると、そのようなレビューが目立つような気がするのだ。

百貨店が小売りの雄であった頃は、店頭に行き接客を受けながら素材やファッションの情報を得る、ということが当たり前だった。
素材やデザイン、色などによってTPOに合わせる必要があり、若い人たちのファッションの基本を学ぶ場所の一つが、百貨店の売り場でもあったように思うのだ。
今のように、カジュアル志向中心となってもTPOに合わせる必要がある。
それが分からないから、入学式や入社式、就職活動が「黒いスーツ」になってしまうのでは?

そう考えると、アルマーニ氏の言葉には「百貨店らしさ、百貨店だからできること」というヒントがあるように思えるのだ。




「男子高校生もスカートをはく」時代が来るのか?

2019-05-24 22:02:40 | アラカルト

Huffpostを見ていたら、「そんな時代が来るのかな?」と思う記事があった。
Huffpsot:「スカート」男子もはきやすく「令和」の制服予想イラストに作者が込めた思い 

この記事を読んで「男子高校生がスカートの制服なんて、着るはずがない」と、思われた方のほうが多いと思う。
しかし、随分前に「スカート男子」と言う言葉が、ファッションの世界では注目をされていたことがあった。
JCASTニュース:原宿、青山おしゃれな街で「スカート男子」増殖中

この記事が掲載されたのが2009年なので、今から10年ほど前に「スカート男子」が(一部で)注目されていた、ということになる。
その後、どれほど定着したのか?という疑問が無いわけではないのだが、それでも年に1回くらいは名古屋の地下鉄でも「スカート男子」を見かけることがある。
もちろん、ロング丈なので違和感そのものはあまりなく、周囲もほとんど気にしていないように感じるのだが、何気なく「スカート男子」と遭遇した時には、やはりビックリした。
とすれば、案外このような「男子の制服にスカート」ということもありなのか?という気もしてくる。
ただし、スカート丈が長ければ、という条件付きだ。

イラスト作者が言うように、これから先の高校などの制服だけではなく、飲食店などでも「ジェンダーフリー」という考えの制服が中心になっていく可能性は高い。
服装で性別を決められる、ということに違和感を感じる世代が、徐々に増えているのでは?という実感もある。
というのも、冬場近隣の共学の高校に通う女子生徒が、ズボンを穿いている姿を見かけることが増えつつあるからだ。
「増えつつある」と言っても、2人くらいが4人くらいに増えているという程度なので、「増えている」と言えるのかは疑問ではあるのだが、周囲から自然に受け入れられている(と言うと大げさだが)様子がうかがえる。
もちろん、ズボンをはく女子生徒にも様々な理由があるのだろうな~という、気はしている。
ジェンダー的理由もある場合も十分に考えられるのだが、なんとなくだが、理由の一つには「付き合っている彼とお揃いにしたい」という感覚を持っているのでは?という気がしたからだ。
というのも、信号待ちなどで彼女たちの会話を何気なく(立ち)聞きしていると、どうやら付き合っているらしい彼(同級生)の話が頻繁に登場するだけではなく、単なる「恋バナ」というよりも、「同一感を求めている」ようなニュアンスが感じられるコトがあるのだ。
誤解のないように言うと、そば耳を立てているわけではなく、そのような会話が聞こえてくるのだ(ちなみに、そのような話をしている時の彼女たちはハイテンションで、声も大きい)。
とすれば当然、その逆もあるかもしれない。何といっても感性豊かな年齢で何かにつけ「個性を発揮したい」と思っている男子生徒がいても、おかしくはないだろう。

そうはいっても、現実として「制服としての男子のスカート」というのは、難しいだろう。
何故なら、制服には社会的制約のようなものがあるからだ。
ある程度のアレンジは、OKだとしても「制服」の一つとして認知されるには、社会的抵抗感があるような気がしている。

それよりもこの制服のイラストで注目する点は、ベストやジャケットが「右前」ということだろう。
「右前って何?」と思われるかもしれないが、女性と男性とでは前開きが逆になっている。
女性は、左前。男性は右前だ。女性はメンズの服を着ることは簡単だが、男性がレディースの服を着てボタンを留めるということは、なかなかできない。
むしろこのような前開きの統一のほうが、ジェンダーフリーへの近道のような気がするのだ。






サービスに対する価値

2019-05-23 19:25:26 | ビジネス

GW中に読んだ「京大変人講座」の中に「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか」という、章がある。

私は、カウンターの目の前で寿司を握る昔ながらのお鮨屋さんも、回転するお寿司屋さんもほとんど縁が無い。
回転しないお寿司屋さんに行かない理由は、どのようにお鮨を注文したら良いのか、イマイチ分からないからだ。
以前、このようなお寿司屋さんに接待で行ったとき、シマアジなどを注文して相手の方の顔色を変えてしまって以来、逆に怖くなっていけなくなったのだ。
いわゆる「おまかせ」+のオプション的注文だったのだが、ものの値段を知らないというのは怖いことだな~と、痛感した。
逆に回転するお寿司屋さんに行かないのは、家族連れの中一人回転ずしを楽しむ心の余裕が無いからだ。
どちらも私に様々な余裕が無い為「寿司屋」の敷居が、とてつもなく高く上がってしまっているのだ。
だからこそ、この「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか?」というタイトルに興味が引かれたのだ。
内容については本を読んでいただくとして、日本の場合、回転しない鮨屋以外のサービス業に対する対価が安すぎるのでは?という、気がしたのだ。

同様の内容が、Huffpostにあった。
Huffpost:ヘアカット15万円?LAの人件費と物価に戦慄 辛酸なめ子の「LAエンタメ修行」

いわゆる日本での「高級ヘアサロン」と呼ばれる美容室のカットの値段は知らないが、さすがに15万はしないだろう。
カット代だけではなく、技術料や指名料を含めても3万円以内なのでは?
一時期話題となった「千円カット」と呼ばれる理容室(=床屋さん)などもあり、とすれば日本の理美容代というのは、総じて米国と比ではないくらい安い、ということになると思う。

ではなぜ、安いのか?
千円カットの理容室の場合、シャンプーや顔そりといったサービスはつかない(と聞いている)。
他にもこれまでの理容室とはずいぶん違う、という話は聞いているが、様々な経営努力の結果として千円カットが成り立っているだけではなく、理容師の持っている技術などに対して評価していない為なのではないだろうか?

日本の場合、製造業が産業の中心であったため、価格などの試算も製造業の試算を基本とする傾向がある。
しかし、一般的なサービス業は製造業のような「原価」+「工賃」という積み上げが、なかなかできない。
そのため、「業界価格」と呼べそうな基準となる価格が、暗黙の裡に設定されることになる。
ただ残念なことに、その基準となる価格が決して高く設定されていない、という点が問題なのだと思う。
これは理美容の業界だけではなく、クリエイティブ職を呼ばれるような業界であっても、同じだろう。
余り高い値段では、お客やクライアントが納得しないのでは?という、ところからの発想があり、お客やクライアント側もまた「値段がハッキリしないものに、高い金は出したくない」という、意識があるのでは?
だからこそ、サービスに対する価値が低めに設定され、それが固定化してしまっているのが、現状のような気がするのだ。

最初の「鮨屋のおやじ」の話だが、サービスの設定そのものを高くすることで、顧客を選び・その顧客と共に「お店の価値を作っている」という私見が述べられていた。
「お客様は神様」ではなく、「お客様はサービスをよりよくするためのパートナーであり、そのサービスは安いものではない」ということを体現しているのが「不愛想な鮨屋のおやじ」ということになるようだ。





伝統ある地方の神事は、資源である

2019-05-20 21:02:31 | アラカルト

先日、実家の父から「墓じまいをして、永代供養にする」と連絡があり、帰省中だ。
これから先、我が家のような「墓じまいをし、永代供養でお寺にみてもらう」ようになる家庭は、多くなるだろう。
先祖供養そのものが、難しくなる時代になってきた、ということだろう。

今回の帰省では、JRを利用した。
理由は、いつも利用する高速バスの予約が取れなかったためだ。
在来線(伯備線)を利用する時、チョッとした楽しみがある。
それは車内に置かれているフリーペーパーを読むことだ(持ち帰り自由なので、持ち帰らせてもらっている)。
「春号」と書かれたフリーペーパーの表紙に、目を奪われた。
「ホーランエンヤ」の写真だった。

 

 「ホーランエンヤ」というのは松江城山稲荷神社の式年神幸祭の俗称で、10年に1度行われている。
公式HP:ホーランエンヤ2019
実は「ホーランエンヤ」という名前の船神事があることは知ってはいたのだが、実は一度も見たことが無い。
実家がある山陰で過ごしたのは高校時代だけで、10年ごとの神事を見ることは無く、その後名古屋へ進学・就職をしたため、この時期に帰省したことが無かったからだ。

改めてこの神事のいわれや華やかさなどをこのように紹介された記事で知ると、華やかさだけではなく地域の歴史や文化という魅力が感じられるのだ。
そしてこの「ホーランエンヤ」だけではなく、全国には同様の式年神事があるのでは?という気がしたのだ。
また、このような神事は地元の人たちの力で成り立っていることを考えると、人口減少などにより続けられなくなってしまっている地域もあるのでは?という気がしたのだ。
だからこそ、このような伝統的で地域に密着した神事などは、積極的に広く全国だけではなく世界に発信する必要があるのでは?と思ったのだ。
単なる観光資源という点だけではなく、文化的な重要性を発信することで、後継者となる若者たちが誇りを持ち、新たな情報発信者として地域活性化の原動力になるのではないだろうか。

youtbeにあった、今年の「ホーランエンヤ

 


「男性育休」義務化を考える

2019-05-18 22:25:55 | ライフスタイル

Yahoo!のニューストピックスなどでも「男性育休義務化」と言う言葉を見るようになった。
その義務化に大きく関与している議員さんのインタビューが、Huffpostにあった。
Huffpost:「これじゃ日本の女性は輝けない」男性育休゛義務化”に自民・松川るい氏が込めた思い 

最近「男性育休」に関しては、以前から言われていたが、議員さんたちが語ることはなかったように思う。
とすれば、随分「男性育休」の考えも広がりつつあるのかな?という気がしている。
問題となるのは「育休期間中の生活の保障」と、「育休後の職場復帰」ということになるだろう。
大企業であれば問題の無いことでも、中小企業では大打撃となる可能性が高い。
日本の企業の多くが、大企業ではなく中小・零細企業であるということを考えると、男性が育休を取得すること自体、人的・経費的負担が大きいのでは?ということは、想像がつく。
そのための支援策を政府が打ち出しをするなり、業界団体がするなりしないと、机上の論で終わってしまう可能性もあると思う。

そのような問題とは別に「育休取得期間」についても、もっと幅を持たせる必要があるのでは?という、気がしている。
というのも、しばらく前にお笑いコンビ(と言っても、今は単独で活動をしているという印象を持っている)品川庄司の庄司智春さんが、Yahoo!ニュースのインタビューで興味深い話をされていたからだ。
Yahoo!ニュース:子どもが生まれた父親たちへ「そのうち出番はくる!」ー遊びも性教育も全力、庄司智春の育児論

このインタビューを読んで、確かに乳幼児と呼ばれる期間の子育ての中心は、母親なのでは?という気がした。
授乳などは、お母さんが中心になってしまうのは、ある意味仕方のないことだと思う。
問題は、その時お父さんのサポート力なのではないだろうか?
例えば、パンパースの「赤ちゃんの子守歌 キミにいちばんのこと」というCMにあるように、夜泣きをしている赤ちゃんをあやすのはお母さんだけがすることではなく、時にはお父さんの大きな胸に安心して赤ちゃんが眠ることもあるだろう。
とすれば、子育ての中心となるのはお母さんからお父さんへバトンタッチされる時期もあり、その時期に合わせた「育休取得」ということも検討する必要があると思うのだ。

もちろん、今の議論の中心はお父さんが夜泣きをしている赤ちゃんをそっと胸に抱き、眠らせるようなことができるような「育休取得」である、ということだとはわかるのだが、例えば子育ての3年間のうち、何回かに分けて取得できるような方法も併せて考えたほうが、庄司智春さんの言うような「お父さんの出番が必要な子育て」には、ならないのではないだろうか?




「ファッション」という表現に苦しむグッチ

2019-05-17 19:37:29 | アラカルト

ファッション専門誌・WWD Japanに「グッチ」が発表した18-19秋冬コレクションで、「文化の盗用だ」として抗議を受け、謝罪を今年2月にしていたことが判明した、という記事があった。
WWD Japan:「グッチ」またも炎上 ターバン風ヘッドスカーフが物議を醸す  

このターバン風の帽子は「バラクラバ帽」という、名前らしい。
紹介記事の写真を見て「あ~~、インドの男性が被っている帽子」と、思う方も多いと思う。
実際、今回の「文化の盗用」として抗議をしたのもインドのシーク教徒の団体のようだ。
抗議の理由は、
「シーク教徒のターバンはファッション用のアクセサリーではなく、宗教的な信仰箇条を示す神聖なものだ。」
ということのようだ。

実は、パリ、ミラノなどの19-20秋冬のコレクションが発表されてから感じていたことの一つに「民族的」という印象があった。
「民族的=フォークロア調」というトレンドそのものは、過去にも何度かあり日本人デザイナーの高田賢三さんなどは、フォークロア調のファッションで一時代を築いたという気もしている。
と言っても、高田さんのデザインはあくまでも「フォークロア調」であり、ある特定の民族衣装などから影響を受けたというモノではなかった。
他にも、クリスチャン・ラクロワなどもフォークロア調の手の込んだ刺繍のデザインなどを、過去に発表をしていたと思う。
数多くのデザイナーが「民族的」なモノに影響を受け、それをファッションとして発表してきた、という歴史(というべきか?)はあるのだ。

しかし今回のグッチのように、炎上するようなことはなかった。
そしてグッチは今回のターバン風ヘッドスカーフだけではなく、黒人を侮蔑していると黒いタートルのセーターも、18-19秋冬コレクションで、炎上している。

これまでも「フォークロア調」のデザインは、数限りなくされてきたはずなのに、何故今炎上しているのだろう?
あくまでも想像の範囲になってしまうのだが、「(民族に対する)敬意や文化的背景の理解不足」ということのような気がするのだ。
そしてこのような「炎上デザイン」のファッションは、決してグッチだけの問題ではないような気がしている。
クリスチャン・ラクロワなどは、自身の出身アルル地方の民族的要素を積極的に取り入れていた。
高田賢三なども鮮やかな色合いなどには、民族的なニュアンスを感じさせながらも「高田賢三」というデザイナーの世界観を表現していたように思う。

インターネットの時代となり、様々な情報を得やすい時代になった。
それらの情報の中から、インスピレーションを受けファッションデザインを起こす、ということも以前より多くなってきたのかもしれない。
ただ、インスピレーションを受けるだけではなく、基となった文化的、社会的背景を知り、敬意を表するデザインでなくては、グッチのような炎上騒動が続くのかもしれない。





私たちは「言葉」を疎かにしている?

2019-05-14 20:43:02 | 徒然

日経のコラム「COMEMO」は、日経の記事とは別によくチェックしている。
理由は、様々な立場や考えの人たちが自由に自分の考えなどを、コラムとして書いているからだ。
もちろん、コラムの中には日経新聞社絡みのイベント記事などもあるのだが、たとえそのような記事であっても実際に読んでみると「経済紙が考え・見ていること」などが分かる。

今日、そのCOMEMOをチェックしていたら、「なるほど!」と思う内容があった。
COMEMO:キレる日本人 松川行雄

「キレる」という言葉が、いつの頃から一般的に使われるようになったのだろう?
なんとなくだが、バブル経済が崩壊し、日本の経済全体が落ち込み始めた頃から使われ始めたのでは?という気がしている。
それから日本経済は、名目上は「好景気」と言われながら、生活者の多くは「景気実感が無い」という状態が続いている。
そして「キレる人」がより増え始めたのが、携帯電話やスマホでのメールやSNSの普及し始めた頃からかもしれない。
コラムにある通り、携帯電話やスマホのメールやSNSで作成される文は、文字数制限もありとても短い。
その短い文に絵文字やスタンプなどを加えることで、自分の気持ちを伝えることができるようになった。
いうなれば「感情表現」が「言葉から絵に変わってきている」ということに、なるのだろう。
作者の松川さんは、絵文字やスタンプでの感情表現を悪いと言っているのではないと思う。
ただ、感情表現を言葉に置き換える作業をする重要性を、述べているのだ。
そしてこのご意見に対して、納得できるのだ。

このコラムの中で興味深いのは、「面白いゲームをつくるためには、何が必要なのか?」という、ゲームを創られている方の言葉だ。
ゲームの世界観や登場人物像、背景となる時代や場所の設定などなど、表面的な情報だけでは面白いゲームを創ることができない、というのは、本当だろう。
そしてこのような考えは、マーケターにとっても必要なことだと思っている。
何故なら、数字の羅列のようなデータや図表から様々なモノやコトを読み取り、一つの「ストーリー」を創っていくこともまた、マーケターの仕事だからだ。

感情表現が豊かである、ということは決して悪いことではない。
しかし感情の赴くままの言葉は、人を傷つけ、周囲との軋轢を生み、自分自身をも傷つけることにもなる。
自分自身が自分の言葉で傷ついている、ということを理解(というよりも「実感」というべきか)できないことで、より自分自身を深く傷つけることにもなってしまっているのではないだろうか?
それが新たな人を傷つける言葉を生み、より社会をギスギスさせることになっているのでは?

私たちは「言葉」を疎かにすることによって、より「生きにくい社会」を自ら作りだしているのではないだろうか?


「ふるさと納税」の意味を考える

2019-05-13 22:08:10 | アラカルト

「ふるさと納税」の返礼品に問題があるとして、4自治体が「ふるさと納税」税優遇の対象から外された。
日経新聞:ふるさと納税、泉佐野など4市町除外 6月から総務省

ふるさと納税が検討、実施をされた頃というのは、税収が減り続ける地方の自治体の財政健全化などの目的があったように思う。
そのため、ふるさと納税をした人は税の優遇の対象となっていた。
他にも納税をした自治体から「返礼品」として、地元の特産の品々が送られる、ということになっていた。
この「返礼品」によって、納税者には納税した自治体の特産品などを知ってもらい、産業の活性化という目的もあったと思っている。

しかし、都市部の自治体などは「地元の特産品」と呼べるようなモノが無く、「ふるさと納税」での税収が期待できないばかりが、「ふるさと納税」の税優遇により税収が減ってしまった、という自治体もあったと記憶している。
多くの自治体は、地元の特産品のPRと考えていたようだが、「返礼品」となる特産品以外のギフト券などを返礼品としていたことが、今回の措置となったようだ。

そこで一番話題になった(?)泉佐野市の「ふるさと納税」のサイトを見てみたのだが、全ての返礼品が問題になっているようなモノではなかった。
ただ返礼品の対象納税額が他の自治体よりも細かく、返礼品の種類も多すぎるのが、問題なのでは?という気がしたのだ。
多くの自治体は最低納税額が5千円以上で、5千円程度では「これは!」という返礼品も少ないように感じている。
ある程度の納税額にならなければ「(その地域の)特産品として欲しい」という、感覚にはなれなかった。
そして返礼品の種類そのものも、決して多いという気はしなかった。
逆に、自治体側の「厳選をした返礼品」という印象だった。

「選択の自由があり過ぎると、人は迷って決められない」ということが、ビジネスではよく言われることだ。
まさに泉佐野市の「返礼品」は、余りにも返礼品の種類が多すぎるのだ。
もっと「泉佐野」の産業などに力を入れた返礼品に絞った方が良いのでは?と、感じるほどなのだ。
例えば、泉佐野市は今「日本のタオルのふるさと」というキャッチフレーズで、まちおこしをしている。
「日本のタオル=今治」というイメージが定着している中で、新しい「タオル=泉佐野」というイメージづくりはとても難しいはずだ。
では、今治市が返礼品として扱っていないタオル製品は無いだろうか?という視点で探し、違うタオル製品を「返礼品」を柱にし、地元の農産物などを加える、というところから始めても良かったのではないだろうか?

というのも、「ふるさと納税」が始まった頃私の実家がある米子市の「返礼品」は、さほど魅力的だとは思えなかった。
それが今では、鳥取県内での「ふるさと納税」の額が、一番多い自治体となっている。
理由は「返礼品の見直し」により、地元でも美味しいと評判のハムのセットなどが加わったからだ。

「ふるさと納税」が始まった趣旨の一つには、自分が生まれ育った故郷の財政を支援しませんか?という目的があったように思う。
それが、災害により大きな被害が発生した時には、被災地への「ふるさと納税」者が、返礼品辞退で申し込みをするようになった。
縁もゆかりもない被災地であっても、直接的に自治体支援となるという考えから、このような納税者が増えたのだ。

「返礼品」という楽しみはとても大切な動機となると思うが、それがありふれた商品であれば魅力は半減するだろう。
地元に魅力的な返礼品が無い、のではなく「(ふるさと納税者といっしょになって)魅力的な返礼品をつくっていく」という発想が、地域の新たな産業の活性化にもつながるのではないだろうか?