日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

文化かビジネスか・・・「KIMONO」をめぐる問題

2019-06-30 07:51:08 | アラカルト

2,3日前から話題となっている、キム・カーダシアンが立ち上げた「補正下着」ブランド「KIMONO」。
話題というか、炎上状態になっているようだ。
東スポ:キム・カーダシアン補正下着ブランド「KIMONO」に猛批判「キム・オー・ノー」!? 

キム・カーダシアンというハリウッドセレブをほとんど知らないので、彼女がどのような活動をし、影響力があるのかは知らないのだがWikipediaで見ると、米国のテレビなどで活躍をされ、社交界の名士のようで、米国内での影響力があるタレントさんというところだろうか?
もっとも、彼女が有名になったのは、いわゆる「炎上」がきっかけだったようだが・・・。
その後、レッドカーペットでのグラマラスなファッションスタイルが、ファッション誌などに取り上げられるようになり、SNSを通して一気に名前が知れ渡ったようだ。

今回彼女がプロデュースをした「KIMONO」という補正下着だが、製品そのものの評価は高いらしい。
確かに、サイズ展開が豊富なので、これまで補正下着の対象外だと市場が思っていた女性たちからの支持を集めるのは、当然だろう。
彼女自身、身長が160cm未満なのに体重は60㎏を超える(Wikipediaより)、いわゆる「ミニグラマー体形」だ。
だからこそ、15年もかけて補正下着を開発したのもわかる気がするのだ。

しかし、製品とネーミングのセンスは全く別ものだ。
まして「KIMONO」というネーミングは、日本の着物から着想した、というのであれば「日本文化の冒涜」とも受け止められても仕方ないだろう。
既に京都市が、抗議を行っているようだ。
Huffpost:京都市、キム・カーダシアンの「KIMONO」に抗議。「着物はすべての人の共有財産。私的に独占すべきものではない」

京都市の抗議は当然のことだが、日本全体で考えれば着物業界をはじめ、いわゆる伝統工芸品となっている機織り業界、文化庁なども積極的に「(日本の)文化に対する冒涜」として、抗議や商標の差し止めなどを訴える必要があるのでは?
何故なら、一時であってもあのような「補正下着」が「KIMONO」などという名前がつくようなことがあれば、着物に対して間違った印象を持たれてしまうからだ。

日本以外の国の人たちにとって、着物の帯はコルセットのように見えるのかもしれないが、コルセットとは全く違う目的のものだ。
むしろ、上手に着付けをすれば帯をシッカリ締めていても、コルセットのような窮屈さは感じられない。
残念なことに「帯=窮屈で苦しい」という思い込みが一般的になってしまっている為、「帯=コルセット=補正下着」などというイメージを持たれてしまったとすれば、とても残念な気がする。

ただ、これほど「炎上状態」になってしまうと、商標申請を取り下げるのでは?という気もしている。
今は強気に「変える気はない」と言っているようだが、後日「(炎上しているし)やはり日本の文化のリスペクトをしているので、ネーミングを変えます」と言っても、発売前に自分がプロデュースした補正下着を宣伝することができた、と考えるかもしれないからだ。
というのも、彼女は過去にも何度も「炎上」することで、自分がプロデュースした商品の話題を作ってきたからだ。

そしてこれを機会に、京都の街中をレンタル着物で歩く観光客に対しても、安っぽいレンタル着物ではなくもう少し品のある着物を提供してはどうだろう?
もちろんレンタル料の値上げは当然だろうし、逆に値上げることでそれなりの客層を相手にして欲しいと思っている。
季節を無視したようなペラペラな安っぽい着物を着て、観光地を闊歩する観光客(主に中国人観光客だが)を見るたびに、「間違った着物文化を伝えているのでは?」と、心配をしているからだ。


吉本興業の闇営業

2019-06-27 19:54:23 | 徒然

このところ世間をにぎわしている「吉本興業の芸人闇営業」という話題。
テレビがあった頃から、吉本興業に所属している芸人が出演される番組をあまり見ていなかったので、「無期限謹慎」と言われても「そうなんだ」程度の印象しかない。
流石に、「雨上がり決死隊」の宮迫さんや「ロンドンブーツ1号・2号」の田村さんなどは、様々な番組に出演されていたので知ってはいるのだが、いわゆる「漫才」という話芸で面白かった芸人さんなのか?という印象は、残念ながらほとんどない。
その理由を考えると、今活躍をされている芸人さんの多くは「漫才」という話芸ではなく、タレントとしてテレビ番組などに出演されている為、個々の芸人さんに対する印象が薄いのかもしれない。

ただ、昔からこのような芸人と裏社会との結びつきは、指摘されてきたような気がする。
実際、名古屋の興行会社の一つは裏社会と結びついている、という噂は絶えずあった。
今のようにJ-Popではなく、「歌謡曲」が人気があった頃の話だ。
その当時の人気歌手の興行は、その興行会社が一手に引き受けていたし、それは「暗黙の了解」のようなところがあった。
そう考えると、興行と裏社会との関係は今に始まったコトではなく、長い間延々と続いてきたのでは?という、気がしている。

ただ今回のこの騒動で違和感を感じることがある。
それはある大御所漫才師の名前が、登場しないコトだ。
漫才や落語などは、師匠と弟子という関係があり、弟子にとって師匠の存在は絶対的なものだという印象がある。
もっとも吉本興行の場合、「(漫才師を育成する)スクール」をつくるコトによって、その師匠と弟子という縦関係を崩し、若手漫才師を育成するようになってはいるが、元々縦関係が厳しい世界であるということを考えれば、「師匠と弟子」のような関係がどこかで続いているのではないだろうか?
特に吉本興業に所属していて、このような話題が出るたびに名前が挙がる大御所漫才師の名前が、今回出てきていないのは何故だろう?

この「大御所漫才師」さんの漫才をテレビで見たのは、いつの頃だっただろう?と相当昔の記憶をたどらなくては思い出せないほど昔に活躍をされていたが、相方が同様の問題で「無期限謹慎」になってからは、表舞台で活躍をしているという印象はない。
当時から解せないと感じていたのは、相方だけが「無期限謹慎」となったことだった。
「漫才師」は二人で組む話芸ということを考えれば、なんとも不思議な気がしたコトを覚えている。

今回「無期限謹慎」となった芸人さんたちは、ほぼタレントとしてテレビなどに登場していたし、「漫才コンビ」という活動をしていたのだろうか?と、感じる方もいる。
今や「漫才師」と言っても、コンビを組んで話芸で人を笑わすわけでもなく、タレントとしてテレビに登場し内輪話でワイワイと盛り上がっている姿をテレビで見せているだけなので(少なくとも、そのような気がしている)、変わりになる芸人さんはいくらでもいるだろう。

ただ上述したように、興行と裏社会との関係は根深くそれを断ち切るには、興行側が身を切るほどの決断をする必要があるだろうし、そのためには裏社会と通じていると噂される大御所と呼ばれる人達を排除することが、その一歩となるのではないだろうか?


教育の本質って何だろう?

2019-06-26 16:49:55 | ビジネス

Yahoo!のトピックスを見ていたら、ノーベル賞受賞者である野依博士が「怒っている」という記事があった。
野依博士が怒っているのは、「日本の教育」についてだ。

Yahoo!The PAGE:ノーベル賞・野依博士「本気で怒っている」日本の教育に危機感

この記事を読んだとき、思い出したことがある。
リーマンショック前だったと思うのだが、米国では「金融工学」という分野がもてはやされ、いわゆる超有名大学出身者がこぞって、ウォールストリートに就職をしていたという話だ。
ご存じの通りウォールストリートは世界一の金融街であり、トレーダーとして成功すればそれこそ億というお金が入ってくる、という世界だ。
反面リスキーな世界でもあるのだが、当時は「金融工学」という学問を武器に(?)優秀な若者が、数多くウォールストリートに就職をしたのだった。
その後のリーマンショックにより、ウォールストリートで活躍できるはずだった(?)若者たちは、どうなってしまったのかは知る由もないのだが、その当時の米国は「優秀な学生ほど、ウォールストリートに行く」と言われていたのを、思い出したのだ。

野依博士が言う通り、勉学というのは「金儲け」の為のものではない。
「人がより良く生きていく為に必要な学び」が、教育の基本であろう。
その部分をおざなりにし、有名大学に進学したとしても人生の挫折により、「ひきこもり」となってしまっている人たちも、多いのではないだろうか?
もちろん、成育環境の中で「自己肯定感が低い」などの、背景も忘れてはいけないと思うのだが、自分で自分の人生を切り開いていけるだけの「智慧」を身に着けることが、「教育」だともいえると思う。

もう一つ忘れてはいけないのは、資本主義社会において「教育」は、次の世代、次の次の世代の労働者を育てる、という意味においても、重要だ。
マルクスの「資本論」の中には、支払われる給与は「労働者が生活をするため、労働者が健康な生活をするため、次世代の優秀な労働者を育成するため」に必要なことである、と書いてあったように思う。
このような表現をすると、「労働者=資本社会の奴隷」のようにも思えるのだが、世界的に見た時資本主義と民主主義が一つになっている国が経済的にも国民主体となる社会を形成していることを考えると、決して「労働者=資本社会の奴隷」ではないはずだし、そのような社会になってはいけないはずなのだ。
野依博士の「教育の危機」というのは、民主主義の危機でもあり、資本主義の危機でもあるのだ。

今の社会は、一部の人たちの意見で国が動いているのでは?と感じることがある。
それを「違う!」という力もまた、教育によって生まれてこなくてはいけないはずなのだ。
ハンナ・アーレントが指摘した「全体主義」的な社会に陥らない為にも、「自分の意見や考えを思考する教育」は必要なことでもある。

「教育」とは、単に数学の数式が解けるとか、年号を暗記している、ということではない。
もっと深く、幅広いものなのだ。そしてそのような教育がこれから先、より求められていくはずだ。


「待ち時間なし」はメリットだが、「暮らしの余白時間」が無くなるような気がする

2019-06-25 21:18:47 | ライフスタイル

日経新聞のWEBサイトを読んでいたら、スタバがアプリ事前決済を始める、という記事があった。
日経新聞:スタバ、アプリで事前決済 待ち時間なし、まず都内で

この記事を読んで、「スタバで、待ち時間から解放される!」と、喜んでいらっしゃる方はとても多いと思う。
この秋からは「飲食品の持ち帰り」は、店内で飲食をするよりも税金が安くなる「軽減税率」が始まる。
時間の無いサラリーパーソンにとっては、このような事前予約・事前決済による「待ち時間なし」というサービスは、願ってもないサービスだと思う。
思うのだが、「待ち時間なし」のサービスが提供されることで、失ってしまうものもあるのでは?という気もするのだ。

最近感じることなのだが、自分の思った通りにモノ・コトが進まないとイライラし、相手を攻撃するような言葉や態度を示す人が、増えているような気がする。
スタバの新サービスと同じにしてはいけないとは思うのだが、「自分の思い通りにモノ・コトが進む」などということは、社会の中ではほとんど無い、と実感している。

このスタバの新サービスにしても、受け取り場所までスムーズに行ける、という確約は無い。
諸般の事情により、遅れることもあるだろう。
場合によっては、気が変わり当初予定していた受け取り場所を変更したい、という人もいるかもしれない。
そのような場合、受け取り場所を気軽に、変更することなどはできないだろう。
このような場合、スタバに非はないのだが、自分のことを棚に上げて「なぜ、対応してくれないのか?お金は既にスタバに払っている」というクレームも起きるのでは?と、思ってしまうのだ。
それくらい、今の社会はどこか余裕が無いような(あるいは自己中心的な)人が、増えているように感じることがあるのだ。

そしてもう一つ感じることは、待ち時間が無くなった分の時間は、何に使うのか?ということだ。
ミュシュランガイドに掲載されるような星3ツの高級レストランなら、お料理がテーブルに運ばれるまでそれなりの時間が必要となるが、スタバやマクドナルドであれば、その時間は2、3分か、長くても5分程度だろう。
その時間を惜しんで、かわりに何をするのだろう?
スマホをいじる時間だろうか?

その待ち時間に、「新商品」の案内を見たり、キビキビを働くスタッフの動きを見ながら「スタバの魅力は何だろう?」と考えてみたりする時間にあてても良いのでは?
むしろそのような「待ち時間=余白時間」があることで、普段とは違う発見ができるかもしれない。

「忙しいの『忙』という漢字は、心を亡くす書きます。心を亡くすような仕事はしないように」というのは、私にマーケティングのご教示をくださった方から言われた言葉だ。
生活に余白となる時間は、自ら見つけなくては見つからない。
「待ち時間無し」というサービスは、確かに便利でメリットも高いサービスだと思う。
ただ「待ち時間」を有効につかう心の余白も失くしてしてしまっては、新しい視点も発想も生まれてこないのでは?と考えるのだ。


ストローやレジ袋が、環境破壊につながっているのか?

2019-06-24 19:50:59 | 徒然

最近、「レジ袋有料化の義務化」という話題が、ニュースなどで取り上げられるようになった。
と同時に、飲食店などで使われるプラスチック製ストローも、代替品を求められるようになってきた。
一連のニュースの中で、一番ユニークだったのは洋菓子のヨックモックが自社の製品・シガールをストロー替わりに提供する、というものだろう。
HANAKOtokyo:<ヨックモック>公認の「シガール・ストロー」体験メニューが6月6日から期間限定スタート

ヨックモックほどではないが、居酒屋チェーン店やファミレスなどではこのような「脱プラスチックストロー」という動きが、顕著のような気がする。
確かに「脱プラスチックストロー」というのは、環境に配慮をしているという点では、企業イメージがアップする一つとなるだろう。
だが、その前に考えたいのは「本当にストロー必要ですか?」という点だ。
飲み物を飲む時、どうしてもストローが必要なのか?という、問いかけがされていないのが、とても気になっている。
何より、プラスチック製ストローやレジ袋が、今問題となっている「環境破壊」の中心的存在なのだろうか?

確かに、レジ袋にしてもプラスチック製ストローは、石油製品の一部だ。
そして、自然に還ることのない素材だともいえる(最近、プラスチックを分解する細菌が見つかったようだが)。
だからと言って、生活に身近な特定された商品を「環境破壊の象徴」のような扱いをするのは、いかがなものだろう?
例えば、レジ袋を有料化にしても、ゴミを出す時は自治体指定の同じく石油製品のゴミ袋で出すことになる。
レジ袋をゴミ袋として再利用するのと、自治体指定のゴミ袋を購入して使用するのとでは、同じ石油製品を使っている、という点では同じだ。
そう考えると、レジ袋を目の敵のように「政府主導で有料化」を推し進める、ということに違和感を感じてしまうのだ。

もちろん、プラスチックごみによる海洋汚染や、誤ってプラスチックごみを食べ死んでしまう海洋生物の増加という問題は、見過ごすわけにはいかない。
ただ、プラスチック製のストローの代替品の普及やレジ袋の有料化で、環境破壊を止めることができるのか?と考えると、甚だ疑問なのだ。
むしろ、海水浴場でのプラスチック製品の持ち込み禁止だとか、当然のことだが「ゴミの持ち帰りの徹底」ということのほうが、重要なのではないだろうか?
それは、海水浴場に限らず、川辺のBBQなども同じだろうし、花火などの遊びも後始末の厳重化など法的な縛りが効果的のような気がするのだ。

「何でもかんでも法律で縛る」というのは、消極的な対策のような気がするが、プラスチックごみを減らすのであれば、プラスチックごみによる環境破壊の原因となっているものは何か?という複数の視点を持つことが重要なのでは?
特定の商品を「環境破壊の象徴」のような印象付けることは、問題の本質から目をそらしているだけのような気がするのだ。





タピオカドリンクとコーヒー

2019-06-21 18:58:16 | アラカルト

今年に入ってから、女子高校生から人気が出た(と思われる)タピオカドリンク。
ここ名古屋・栄の地下街にも専門店ができ、大行列ができている。
そしてこの「タピオカドリンク」が、今社会の迷惑となりつつある。

中京テレビニュース:タピオカドリンクの放置ゴミに困った 飲む人のマナー向上を 名古屋・大須商店街

「タピオカ」そのものが、流行したのは今回が初めてではない。
地下鉄の隣の駅近くには、随分前からタピオカのデザートを出すお店がある。
おそらく「タピオカ第一次ブーム」の頃にできたような記憶があるので、10数年前からあると思う。
もちろん、タピオカだけではなく「アジアンスィーツのお店」のような感じなので、第一次ブーム終了後も継続できたのは、その間に起きた様々な「アジアンスィーツ」を提供してきたからだろう。
このお店の前には、「タピオカドリンクの放置ゴミ」などは,散乱していることは無い。
おそらく「テイクアウト」ではなく、店内での飲食だからだろう。

ここで思い出したのは、最近人気のコンビニのコーヒーだ。
コンビニのコーヒーは「テイクアウト」が基本だ。
もちろん、店内で飲むこともできるが、多くのお客さんはテイクアウトをし、車や自宅、あるいはオフィスなどでコーヒーを飲む。
店外であっても、店外にあるチョッとしたベンチでコーヒーを飲み、すぐにゴミ箱に捨てる人は多いだろう。
実際、近所のコンビニの前にあるベンチでコーヒーを飲み、飲み終わるとそそくさとゴミ箱にコーヒーカップを捨てる人の姿を、当たり前のように見る。
同じ「テイクアウト」なのに、タピオカドリンクは飲み歩き、コーヒーはベンチで座って飲むのだろうか?

今年のお正月頃、東京の韓国料理店や韓国料理の食材店が数多くある新宿の新大久保で人気になった「韓国式ホッとドック(ハットグ)」も、同様のトラブルが起きた。
店内での飲食ではなく、いわゆる「テイクアウト」ができ、食べ歩きができると人気になったのだ。
「ハットグ」と「タピオカドリンク」を一緒にすることはできないにしても、「食べ歩きができる」という点では同じだろう。

そして「食べ歩く姿」が、若い人たちにとっては「カッコイイ」と思っているのかもしれない。
タピオカドリンクとコンビニなどで販売されているコーヒーとでは、量が違うためにベンチで飲み切ることができない、ということがあるとは思うが、やはり「食べ歩きができる」というのが、最近の「インスタ映え」と並んで大きな理由になっているように思うのだ。

大人になると「食べ歩き」をするにしても、そのシチュエーションにこだわる、ということもあるかもしれない。
少なくとも「食べ歩き」が似合う場所は、映画「ローマの休日」の一場面スペイン階段のような所だと思っている(ように感じている)。
まして「インスタ映え」ということを考えると、タピオカドリンクと自分だけでは面白味も何もなく、背景だけでも素敵な場所でなくては、本当のインスタ映えにはならない(と思い込んでいると思われる)。

Instagramに「タピオカドリンクと私」的な写真が数多くアップされるようになっているとすれば、タピオカドリンクブームもそろそろ終焉かもしれない。
何故ならInstagramに投稿される自撮りの多くは「私を見て!」という、気持ちの反映に思え、数多くの似たような写真に埋没してしまったら、投稿する意味がなくなってしまうからだ。

ただ、飲み物の飲み残しを放置したり、飲食物のゴミを放置するのは、世代に関係なく「恥ずかしいこと」であるという認識は持つ必要があるだろう(し、そのような教育が必要だと思われる)。


ユニクロもセルフレジ

2019-06-19 20:12:10 | ビジネス

今日久々にユニクロの大型店舗に行った。
別に買い物の目的があった訳ではないのだが、時間があったので行くことにしたのだ。
毎週木曜日に入る新聞の折り込みチラシに掲載されている商品や、商品棚などの陳列を見ながら「今、ユニクロが売りたい商品って何だろう?」などと思いながら、売り場を歩いていた。

いつもなら込み合っているはずのレジカウンターの様子が、いつもと違う。
中国人旅行者など向けの「免税レジ」ができ、そこには買い物客が並んでいるのだが、「免税レジ」そのものは2台ほど(だったように思う)。
これまで、数台あったはずのレジはどうしたのか?と思い、改めてレジカウンターを見ると「セルフレジ」となっている。
スーパーの「セルフレジ」のように、値札のバーコードを読み取る機械があり、その前に2,3人のお客さんがいた。
随分空いている感じがしたのは、そのセルフレジの台数が10台近くあったからだ(と言っても、正確に台数を数えていないので、間違っているかもしれない)。
もちろん、スーパーのセルフレジのように、購入した商品を自分でパッキングするスペースもある。
これまで「セルフレジ」と言えば、スーパーマーケットばかりだと思っていたのだが、どうやら時代は変わりつつあるようだ。

何故ユニクロがセルフレジを導入したのだろうか?と、その光景を見ながら考えた。
一つは、アルバイトを含むユニクロ社員の配置転換だろう。
これまでもユニクロは職務内容を限定することなく、レジも打てば、店舗内の商品整理などもし、もちろん接客もしていた。
セルフレジにすることで、店内の商品整理や接客に集中することができる、という目的が思い浮かぶ。
人件費の削減ということも考えたのだが、店内には「アルバイト募集」のポスターが数多く貼ってあるので、単純な人件費の削減ではなさそうだ。

他に考えらえることは何だろうか?
現金での取引ではなく、クレジットカードや電子マネーなどの取引を進めることで、店内に現金を置くリスク(=防犯メリット)があるのかもしれない。
もちろん、現金での取引もしているはずだが、スーパーマーケットにあるセルフレジとは形態が違うので、そこまでの確認はできなかった。

それ以外に考えられるコトは何だろうか?
買い物袋などの削減だろうか?
ユニクロの袋は、ビニールというかプラスチック製だとすると、プラスチックごみの削減ということも考えられる。
言い換えれば「レジ袋の削減」ということになるだろうか?

実は、他のアパレル店では既に「レジ袋削減」というものが行われている。
たまたまお値打ちなダークローズのシャツを見つけ、買い物をしたのだが、レジで「商品を入れる袋などはお持ちですか?」と聞かれたのだ。
レジカウンターを見ると「お店の買い物袋を利用する場合20円いただきます」という、ポップ表示がある。
なるほど、買い物袋分値段を下げるだけではなく、レジ袋の削減を考えているのか?!と、納得もした。

「レジ袋の有料化」が話題になっているが、有料化の目的は一体何だろう?
地球温暖化策なのか?プラスチックによる海洋汚染対策だろうか?
一つ言えることは、これからはスーパーで買い物をする時と同じように、エコバッグを用意して洋服などいろいろな買い物をする時代(と言うと、大げさだが)になってきている、ということだ。

果たしてユニクロのセルフレジの目的は、どこにあるのだろう?


「老後資金問題」は、生き方の問題かもしれない

2019-06-18 20:29:31 | ライフスタイル

「老後資金、2000万円」という言葉が、独り歩きをし国会の焦点となっている(ように感じている)。
この「老後資金、2000万円」という言葉は、金融庁からの報告書で明らかになったものだが、その後金融大臣の麻生さんが「報告書は受け取らない」などの発言があり、報告書そのものが迷走している感がある。
ダイヤモンドon-line: 「老後2000万円」金融庁報告書の正しい読み方

既に作成された「報告書」を受け取る・受け取らないで、この「老後資金2000万円」という問題が片付くわけではないのだが、どうやら麻生さん(というか、自民党?)は、幕引きをしたいのでは?という気がしてくる。

私自身、金融庁の報告書をシッカリ読んでいないので、その内容については云々できる立場ではない、と思っている。
金融庁の回し者ではないが、この「老後資金、2000万円」というのは、老後だけではなく私たちの生活スタイルや生き方などを考えてみる、良い機会なのでは?という気もしている。

まず、日本人の平均寿命と平均健康年齢には、約10歳違う。
平均的健康年齢は70代なのに、日本人の平均寿命は80歳を超えている。
「人生100歳時代」と言われていても、「健康人生100歳時代」ではないのだ。
とすれば、この10年の間というのは、介護を必要としている年数である、とも考えられる。
この10年間にかかる「介護医療」は、一体誰が負担するのだろう?という問題も見えてくる。

もう一つは、現役時代から引退後まで「どのような暮らしをしたいのか?」という点だ。
高齢になっても、40代・50代の頃のような生活を引退後も続ける、というのであれば「現役世代以上の生活費や医療費が必要」となる。
引退後も現役世代並みの収入のある人は、そのような生活を引き続きすればよいが、おそらく多くの人は現役世代よりも収入そのものは、減るはずだ。
とすれば、収入にあった生活をしなくてはならなくなる。

ネット配信で海外の料理番組を見ていて気が付くのは、家庭菜園などを楽しむ人たちがとても多いということだ。
野菜などはスーパーで買うのではなく、自分たちが家庭菜園で育てた野菜で食卓を彩る、というのが当たり前のように紹介されている。
GAYO!:Dlife 「ナイジェルのシンプルレシピ」

このような番組を見ながら、「お金をかけずに暮らしを楽しむ」という方法を見つける、ということが必要な時代になってきている、ということのようにも思えるのだ。
そのためには、都市部にありがちな「隣人が誰なのかも分からない」という暮らしではなく、地域全体で暮らしを支えるような意識や知恵のようなものが重要になってくるだろう。
プライバシーばかりが強調されるのではない、昔ながらの「向こう三軒両隣」のような、近隣との付き合いの中で「生活コストを下げる」というアイディアも必要になってくるのでは?

そして何より「自分に合った死生観を持つ」ということが、重要になってくるのではないだろうか?
「まだまだ元気なのに、死ぬことを考えるなんて!」と思われるかもしれないし、「今はやりの終活のことか?」と思われるかもしれない。
むしろ「終活」ではなく、「死から逆算した、自分らしい生き方」を模索する、という考えだ。

「人はいつか死ぬ」だからこそ、生活コストや医療コストを含めた「自分らしい生き方」というものを、考えろ!と、「老後資金2000万円」という報告書は言っているようにも思えるのだ。

デモに参加している若年層や「就職超氷河期」世代である40代に対しては、「年金」以外の諸問題を解決する為の政策が必要である、というのは言うまでもないことなのだが・・・。


父の日は、何故地味なのか?

2019-06-16 21:50:09 | 徒然

今日は父の日だ。
毎年思うことなのだが、「母の日」に比べ「父の日」に対する世間の扱いが、随分違うような気がしている。
「母の日」ともなれば、花屋さんには赤いカーネーションが並び、百貨店に行けば「母の日ギフト」が様々なフロアーに登場する。
それに比べ「父の日」は、決まった花はなく、百貨店の売り場は大体お酒のコーナー(+おつまみ系お惣菜コーナー)かゴルフ関連の売り場や紳士服のフロアーくらいだろうか?
確かに、メンズ商品というのは、婦人服やバッグ、アクセサリー、化粧品関係に比べ、アイティムとなるモノは少ないだろう。
小売という点でも、「母の日の赤いカーネーション」のような、象徴的な贈り物アイティムが無い為、どうしても注目度は低くなってしまうのだろう。
言い換えれば「話題性」となる要素があまりなく、商業的なセールスポイントとなる部分もあまり感じられない、ということになるかもしれない。
それを無理やり商業ベースに乗せようとすると、やはりどこかで「無理感」が出てきてしまう、ということも考えられる。

でもそれだけだろうか?
なんとなくだが、日本の家庭における「父の存在感と家族との関係性」にあるのでは?という、気がするのだ。
高度成長期から今に至るまで、「頑張って働くお父さん」という存在ではあるのに、「父と子ども」という関係になると、育児参加率そのものが低いこともあり、父親と子どもとの親密度は高いとは言えないだろう。
昨今「イクメン」と言う言葉が定着し始めているが、その実「なんちゃってイクメン」とか「自称イクメン」ばかりが増えていて、本当に子育てに参加しているお父さんは、どれほどいるのだろう?
だからと言って、「仕事で頑張るお父さんたち」を批判する気はない。
何故なら、これまでの社会的な認識が「男が働き、家族を養う」だったからだ。
「働く」場所が生活の場所から離れていれば、子どもたちは「疲れ果てたお父さん」しか見ていないし、そのようなお父さんに親密度が上がるのかはなはだ疑問だ。

家族内での日ごろの親密度の違いが、「父の日」の存在を地味なものにしてしまっている、という部分も大きいように思えるのだ。

せっかくなので、父の日に合わせ↓の楽曲を・・・大学のマーチングバンドの指揮をしていた父へささげた、ダン・フォーゲルバーグの「バンドリーダーの贈り物」


「時と経過」という発想

2019-06-14 22:51:28 | ビジネス

拙ブログでも度々紹介をさせていただく、日経新聞のコラムCOMEMO。
その中に、「まちの寿命」という内容のコラムがあった。
書かれているのは、拙ブログで何度も取り上げさせていただいている大阪ガス・エネルギー文化研究所の池永さんだ。
COMEMO:なぜまちの寿命が終わるのか

このコラムの中にあるように、「新しいもの=価値が高い、古いもの=価値が低い」という感覚は、日本人は特に強いと思う。
「新しモノ好き」という国民性、と言えるのかもしれない。
だからと言って、古いものに価値を見出していない訳ではないと思うし、「骨董ファン」と呼ばれる「古いからこそ価値がある」という人達もいる。
思うのだが、社会的注目を浴び、メディアがこぞって取り上げる話題というのは、やはり「新しいもの」という傾向は強いと思う。
それが「悪い」というわけではないのだが、「新しいもの」ばかりが話題の中心となっていくと、あたかも「新しいものにこそ、価値がある」という錯覚が植え付けられてしまう。
池永さんの指摘は、「話題によってつくられた価値の錯覚」ということのような気がしたのだ。

そしてハッとさせられるのが、物事の発想のスパンが短いという点だ。
コラムのタイトルになっている「まちの寿命」という点で考えれば、戦後各地にできた「ベットタウン」などは代表的なものなのかもしれない。
高度成長期に合わせ、サラリーマンが増え通勤圏に住宅を持つことが、一つの夢でもあった時代、各地に「ベットタウン」ができた。
その「ベットタウン」の象徴だったのが「大規模団地」であり、今や老朽化と共に生活者も高齢化し、居住者が減りつつある。
何より問題なのは、建物の老朽化と世帯の高齢化に対する対策がされないままにある、という点だろう。
団地に住んでいた子供たちは、成長し別世帯を他の場所に求め新たな家に住む、ということが当たり前になっている。
それに合わせたかのように、人口減少とは関係なく新築のマンションが次々と建てられる。
本当にそのようなことで良いのだろうか?という問いかけを、池永さんはされているように思うのだ。

確かに高度成長期には「大量生産、大量消費」が、生活者のライフスタイルの一つだった。
今のような低成長期が続く日本では、少なくとも「大量消費」という時代は、30年前に過ぎ去ってしまったはずなのだ。
「消費するだけ」であれば、その価値はとても低いものになってしまう。
これからは「時を経て磨かれる」ものに、生活や文化に価値を置く時代にならなくては、いつまでたっても「スクラップ&ビルト」の繰り返しで、これまでとは違う新しい価値を創造していくことはできないのではないだろうか?