日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「当事者の気持ちを考える」ということ

2017-11-30 19:42:00 | 徒然

個人的に9月から始まった「自主的勉強期間」が、やっと今月で終了する。
と言っても、毎日図書館などに缶詰になりながら、難しい本を読んでいたわけではない。
名古屋市内で開催された、公開講座などへ出向いて、普段接することがない分野の話を聞きに出かけていただけだ。
医療や科学の分野などは、意識的に情報を収集し出かけないと、なかなか得ることができない情報が多くある。
そして、そのような講座で聴講した話が、その後役に立つ情報となることも多い。

今回聴講した講座の一つに、「認知症予防」という内容があった。
拙ブログに来てくださる方の中には、「認知症」ということ自体に興味・関心を持っていらっしゃる方も多いと思う。
結論的なことを言うと、認知症の中でも一番患者数の多い「アルツハイマー型認知症」などは、その症状が出る20年前から徐々に脳に変化が表れている、という。
70歳で発症した場合は、50歳ごろから脳には変化が表れている、ということになる。
そして、今現在「アルツハイマー型認知症」などを治す薬などは、開発されていないということだった。
そのため予防策となる創薬の研究などが、盛んにおこなわれている、というお話もあった。
先日、日経新聞のWEBサイトに、ビル・ゲイツ氏自身の私財で「アルツハイマーなどの認知症研究に、113億円投資する、という記事があった。
日経:ゲイツ氏、アルツハイマー病研究に、113億円を投資
この記事を読んだ時、「さすがに目の付け所が違うな~」と思ったのだが、それほど創薬の分野では「認知症研究」が重要になってきているという印象がある講座内容だった。

講座を聞きに来られている方の多くは、「認知症になりたくない。予防法があれば知りたい」という方がほとんどだった。
その中でおひとり、ご高齢の女性が「私は、軽度の認知症と診断されています」と、お話しをされた。
突然のお話しに、私を含めた周囲は驚いたのだが、その女性は「認知症って、そんなに悪いことですか?」と、疑問を呈したのだった。
「確かに、周囲に迷惑をかけることが多いのですが、私自身は過去の自分の思いでと今の現実を行ったり来たりしている時、どこか楽しいと感じている部分もあるのです」と、続けて話されたのだった。
この女性の言う通り、「認知症」と聞くと「世間に迷惑をかける」という、気持ちが一番先に来る。
だからこそ、「認知症に、なりたくない!」と思っている。
しかし、当事者本人から語られることばには「認知症という病気を、否定して欲しくない」という気持ちが、伝わってくるものだったのだ。

この女性の発言に、ハッとさせられたのは言うまでもない。
「認知症」と診断されたからと言って、その人自身の存在を否定したりすることはできないからだ。
この女性の言いたかったことは、「認知症患者であっても暮らしやすい社会とは何か?」ということを考えてほしい、ということだったのではないだろうか?
確かに、認知症予防や認知症治療の創薬は、急がれる研究だと思う。
だからと言って、今現在の患者さんに向けられる社会の目が、冷たくさげすんだようなものであってはいけない、ということを教えてくれたような気がした。

「当事者の言葉を聞く」ということは、今の問題と未来の社会を考える為に必要なことなのだ、と改めて教えられた気がした「自主勉強期間」だった。


#検索の落とし穴?

2017-11-29 20:24:51 | マーケティング

Huffpostに面白い記事があった。
Huffpost:2017年に一番人気だったのは、こんなファッションでした

「ファッションは、時代を映す鏡」と言われている。
もちろん、ファッションだけではなく音楽や文学、映画などもその時々を映す鏡となる。
それは「経済」という視点ではわからない、生活者の気分などが反映されることが多いからだ。
そのため、マーケティング担当者は、経済の動きだけではなく、ファッションや音楽、映画などにも興味・関心を持つことが大切だと、言われている。
特にファッションは、女性の生活志向を現していると、見られることが多い。
そのように考えると、Huffpostの記事はとても興味深い内容だといえる。

とはいえ、毎月発行されるファッション誌などをチェックし、その傾向を探るというのは、時間も労力もお金もかかる。そこで最近よく使われるのが、TwitterなどのSNSで使われる#(ハッシュタグ)を使った検索「#検索」だ。
ファッション誌とは違い、TwitterなどのSNSの情報発信者は、ご存じの通りごく普通の生活者だ。
ファッション誌に登場する、セレブでもなければ読者モデルでもない。
その意味で、TwitterなどのSNSの#(ハッシュタグ)を使った検索は、現実的な市場調査を可能としていると、言えるだろう。
実際、若い女性を対象としたサービスや物販のビジネスプランを提供する企業の中には、「#検索」で市場調査の一部を行っているところもある、という話を聞いたことがある。

確かに「#検索」をすれば、これまでの市場調査のような時間とお金と労力は、随分減らせる。
PC(場合によってはスマホ)を活用すれば、わずかな時間で相当量のデータが作れるはずだ。
しかし、「#検索」で作ったデータは、本当の生活者の姿を現しているのか?という、疑問もある。

例えば、インスタグラム。
今年の流行語大賞の候補にも挙がっている、「インスタ映え」を意識した投稿と、見てもらいたいがために数多く「#〇〇」というキーワードなどは、本当の生活者の姿と言って良いのだろうか?と、思うことがある。
それだけではなく、インスタグラムそのものの利用者が比較的若い層である、という点だ。
「比較的若い層」と言えば、市場調査の対象となる層が合致すれば問題なさそうに見えるが、SNSというある種の綴じられた世界での表現である、と考える必要があるように感じている。
言い換えれば、「SNSという世界での演技・演出をしている」という可能性だ。

何故そのようなことを感じたのか?というと、紹介した記事の「日本で一番人気だった#」が、ベレー帽だったからだ。
確かに、休日の繁華街でベレー帽を被った若い女性を見かけたような気はするが、それと同じかそれ以上にベレー帽を被っていない若い女性を見ていたからだ。
一つの傾向値として見ることはできても、SNSで話題になった=現実ではない、という意識を持つ必要があるのではないだろうか?


「ブラック企業大賞」から見えてくる現実

2017-11-28 21:57:31 | アラカルト

今年も「ブラック企業大賞」の、ノミネートの時期がきた。
ブラック企業大賞公式サイト
昨年は、電通が話題となったが今年は、NHKやゼリア新薬工業、パナソニックやヤマト運輸の他建設会社、市民病院などがノミネートされた。

恒常的な残業が労働基準を大幅に上回る状況が続いていたにもかかわらず、何の対策も立てず、社員の自殺、精神疾病を引き起こした、というのが主なノミネート理由として挙げられている。
このノミネート理由を知ると、日本の一人当たりのGDPが低いことを、実感せざる得ない。
ノミネートされた企業の多くは、大企業と呼ばれる企業で、それよりも過酷な状況にあるのが、中小企業だと言われているからだ。

今回のノミネート企業を見ていると、これまでの大賞受賞企業とやや違ってきているのでは?という、気がする部分もある。
過去「ブラック企業大賞」に選ばれた企業の多くは、「人を使い捨てる」ような企業イメージが強かったように感じる。
違う言い方をするなら、体育会系の根性論で「死ぬ気で(あるいは「死ぬまで」)働け!」という、考えを押し付けるような企業が目立っていたような気がする。
それに対して今回のヤマト運輸のように、仕事量と人手のバランスが大きく崩れたため、働く人たちに大きな負担を強いることになった、という社会変化や生活者のライフスタイルの変化に対応できないなど、社会問題となっている「人手不足」による「ブラック企業化」が問題として取り上げられているのが、今回の大きな特徴のような気がしている。
他にも、実質的なリストラ策の為の「辞めてもらう人事」など、「人の使い捨て」の発想が変わり始めているようにも思えるのだ。
と同時に、オリンピックの建築現場で起きたことなどは、企業側の「人材育成」の放棄だったように思う。
企業にとって「人材」は、本来であれば「資産」として、考えなくてはならいないはずだ。
それを「費用(コスト)」として考えることで、ブラック企業化してしまう。

ただ、ヤマト運輸のように「安い値段で高品質なサービス」というのは、確かにサービスを受ける生活者側にとっては魅力的だが、その魅力的なサービスを提供するために犠牲になって働く人がいる、ということを社会に認識させることになったのは、プラスだったような気がしている。
何故なら、日本人なら当たり前のように受けている様々なサービスには「時間と労力がかかっていて、それに対する費用が発生することは、当然である」という、当たり前のことを改めて知る機会となったからだ。

「仕事に対するコスト=人件費」という考えから、「人材資源」と「仕事に対するコスト」を別に考えるようにならなければ、日本の企業のブラック化は無くならないような気がする。


地域の活性化とインバウンド

2017-11-27 21:45:02 | ビジネス

先日、友人に誘われ紅葉を見に、岐阜県・関から美濃へドライブへと出かけた。
関市と言ってもお目当ては、旧板取村にある通称「モネの池」と呼ばれる「名もなき池」。
地元の小さな祠がある氏神様の前にある、本当に小さな池なのだが、水が湧き出ている為なのか?透明度がとても高く、地元の方が植えられたと言われる蓮が、モネの絵画を思わせると話題になっていた池だ。
晩秋とは思えない暖かさで、思いのほか多くの人が見学に来ていた。
駐車場には、観光バスなども停まっており、一時期ほどの話題ではないにせよ、小さな名もない池に多くの人が集まり、新しい観光名所となっているようだった。

「モネの池」を楽しんだ後、向かった先は美濃市の「うだつの上がる町並み」だった。
「うだつが上がる」と言うことばそのものは、出世する、羽振りが良くなるなど、生活が良くなることを指すということは知ってはいたが、その由来となった「卯建」がどのようなものなのか知らなかった。
実際の町並みを歩いてみると、江戸時代の本陣や明治初期の豪商の家、造り酒屋など、古い町並みの中に今でもそこで生活をしている人たちの暮らしが感じられ、ほのぼのとした気分になった。
そして、このような町並みを観光資源としてPRをしているにもかかわらず、観光地としてはあまり知られていないことに残念な思いがした。
だからと言って、京都の有名観光名所のように国内外からの観光客でごった返すような状況も、このような小さな地方都市の一地域では、魅力が半減してしまうことは目に見えているような気がした。

観光というか「インバウンド」を期待して、地域の活性化に取り組む地方自治体は多い。
残念ながら、その成果は期待ほどではないような気がしている。
その理由は、何故なのか?と考えると、既に成功した自治体を真似ているからではないだろうか?
あるいは、京都のような観光名所は無いので、観光をキーワードとした地域の活性化などはできない、と諦めている部分があるのでは?

先日、日経新聞のWEBサイトに、大阪ガス・エネルギー文化研究所の池永寛明さんが「最終的に残るまちは『地域文化』をもったまち」という、コラムを書いている。
「インバウンド」とは、直接関係は無いのだが「地域文化」を持っているまちというのは、様々な意味で「地域の核」となるモノを持っている、と言えると思う。
美濃市の「うだつのあがる町並み」には、江戸時代~明治にかけての卯建がある家が残っているだけではない。
その町で暮らしている人たちの生活文化というものも、十二分に感じさせるモノがある。
そのような場所に、「爆買い」を目的とした観光客を誘致することは難しし、そぐわない。
「どのような人たちに観光に来てもらいたいのか?」という、ことを考えた観光客誘致をする必要があるはずだ。
「観光客を選別する」という意味ではない。
「どのような人たちが、自分たちの町の文化を理解してもらいやすいのか?」ということを、考えた観光誘致のプランが必要だ、ということなのだ。
マーケティングでいうところの、「ターゲットを絞る」ということだ。

実際、「モネの池」から「うだつの上がる町並み」までのドライブでは、針葉樹の緑と紅葉の美しいコントラストに映える山並みを見ることができた。
春になれば、板取川沿いに植えてある桜並木が美しく、多くの人の目を楽しませるだろう。
そのような自然の美しさの中に育まれた地域の文化をPRするのであれば、一時期的な話題となる観光客ではないと思うし、その地域独特の文化に触れ、何かしら感じることができた観光客は、リピート客として再びその町を訪れるのではないだろうか?なぜなら「文化」とは通り一遍で終わるものではない、と思うからだ。


「人手不足」を分析すると、見えてくること

2017-11-24 22:10:55 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、「正社員不足、過去最高49.1%」という、帝国データバンクの記事が掲載されていた。
帝国データバンク:人手不足に対する企業の動向調査(2017年10月)

見出しだけをみれば、全業種で人手不足の傾向があるような印象を受けるが、その実態はある特定の業種に集中している、ということが分かる。
「東日本大震災」以来、建築をはじめとする土木関係の人材不足は、以前から指摘をされていて、2020年の東京オリンピック開催により、オリンピック関連施設の建設と災害復興と重なり、人手が足りないということは随分前から指摘されていた。
1964年の東京オリンピックの時は、朝ドラ「ひよっこ」で描かれていたように、地方から出稼ぎ労働者として土木産業に従事していた。
日本全国から労働者が集まっていた、という時代でもあったのだ。
しかし今は、地方から労働者を集めたくても、地方から集まる人そのものがいない。
既に、都市部に人口が集中してしまっているからだ。

帝国データバンクの調査で、一番正社員不足とされている「IT情報サービス」という分野は、まだまだ新しい産業の為、人材確保そのものが難し部分はあると思う。
企業が「正社員」として期待している技能を持った人材そのものが不足している、ということが考えられる。
であれば、「人の教育」ということが最優先されると思うのだが、IT企業に限らず、今の多くの企業は「人手」と考えても、「人材」とは考えてはいない傾向があるように感じている。
おそらく、それなりのスキルを持った人の人手不足であって、どのような人でも構わない、という意味での「人手不足」ということだと思う。

そのほかに上げられている業種や職種の多くは、いわゆる「クレーマー」と呼ばれる人たちと接する機会が多い業種や職種ということが分かる。
誰だって「クレーマー」と呼ばれる人たちとは、接したくはないだろう。
それだけではなく、賃金という面で考えても、決して高い賃金が支払われている業種や職種ではない。
一般的に言われる「サービス業」は、以前から「低賃金、ストレス過多」の職種と言われている。
短期間で人が入れ替わるのもこの業種では、当たり前のこととなっている。
そのため「人手」も足りないが、「人材」も足りていない、という状況になっている。

先日、三菱UFJフィナンシャルが、大規模なリストラ策を打ち出した。
MSN:三菱UFJ「約1万人削減」銀行員受難の時代がくる
単純に約1万人の人手が、人手不足の業種に移行するのであれば、「人手不足」はある程度解消されるはずだが、元銀行員のスキルと今現在人手不足とされている業種や職種が求めているスキルとは、大きく違うはずだ。
まして、銀行員は元々給与面や待遇面などで他の業種よりも恵まれていた業種でもある。
そのような人たちが、「ひよっこ」のお父さんのように建築現場で働く、ということは考えにくい。
まして、リストラの対象となるのは、40代以上の体力的にも衰え(と言っては失礼だが)が見え始めた世代が中心だろう。

今の人手不足の要因は、企業側が「人材教育」に力を入れず、スキルを求めているという「アンマッチング」な部分があったり、元々「低賃金で過ストレス」という職場環境や待遇面での問題が根深くあるなど、様々な問題要素が含まれ、多くの人が「携わりたくない」と思っている職種である、ということを「人手不足」の業種団体や企業が認識をし考える必要があるのではないだろうか?


固定概念を変える為のCM

2017-11-22 21:00:27 | CMウォッチ

白鶴酒造のテレビCMに、「ワイングラスで大吟醸」がある。
白鶴酒造:大吟醸
白鶴酒造のサイトにアクセスしたとき、20歳以上かどうかの確認画面が出てくるかもしれないが、このような確認画面そのものが、未成年者の飲酒を避ける為には必要なことなのだろう。

これまで、日本酒と言えばコップ酒とか、熱燗をお猪口で、あるいは鏡割りのように枡酒というが、一般的な日本酒を飲む時のイメージだと思う。
少なくとも「おしゃれさ」という点では、ワインなどに比べ「おしゃれさ」は無かったと思う。
かといって、「とりあえずビール」という感じでもない(最近では「とりあえず、ビール」というのは、いかがなものか?という意見もあるようだが)。
お酒を飲む場面では、日本酒そのものが一番手、二番手で選ばれるお酒ではなくなりつつある、というのが現状だろう。
だからこそ、各酒造メーカーは「日本酒の拡大」を模索しているのだと思う。

その一つが「ワイングラスで大吟醸」という、アプローチなのだと思う。
実際、このCM以前から「ワイングラスに合う大吟醸」というコンテストが、2011年ごろから始まっている。
ワイングラスでおいしい日本酒アワード
ワイングラスでおいしい日本酒なら、普通にコップ酒で飲んでも美味しいとは思うのだが、何故「ワイングラス」にこだわったのか?という点が重要なのだと思う。

大きな理由として考えられるのは、海外での日本食ブームだ。
ご存じのように海外では「ヘルシーな食事」として、日本食がブームになっている。
中には、日本食とは言い難い「日本食風」のレストランも多々あるが、それでも日本の伝統的な食材や調理法は、海外でも取り入れられている。
そのような「海外での日本食ブーム」に合わせる、という意味もあってこのような「ワイングラスで日本酒」ということになったのだろう。

本当にそれだけだろうか?
バブル真っ盛りの頃、イタリアンレストランの運営にかかわっていた方から「意外に思うかもしれないけど、イタリアンに日本酒って合うんだよ」と、教えてもらったことがある。
その時には「え~~」と思ったが、その「え~~」の中には、イタリアンが並んだテーブルにお猪口がある、というイメージを持っていたからかもしれない。
「食事とお酒」の関係は、切っても切れない関係があるからだ。
もちろん、家庭料理ではお父さんの晩酌という場面になるのだろうが、外食その中でもディナーとなれば、食事全体の雰囲気に合ったお酒がセットになる。
その時、少なくともコップ酒では、場違いだろう。
やはりそれなりの雰囲気に合ったグラスで、お酒を楽しむ必要があるのだ。
それを表現しているのが、白鶴酒造のCMということになると思う。

日本酒に限らず、どのようなお酒でも飲みたいお酒を飲むことが、一番楽しいと思う。
ただ、そのためには日本酒には〇〇で飲む、という固定概念を持っていては楽しめない、ということなのかもしれない。


心を動かす広告の作り方

2017-11-20 21:06:59 | CMウォッチ

この夏、家族や夫婦の在り方を描いた牛乳石鹸のテレビCMが、炎上した。
牛乳石鹸CM:与えるもの
個人的には、それほど目くじらを立てる内容なのかな?という気がしたのだが、目くじらを立てたくなるほど社会全体が閉塞感に包まれているのかも知れない。
ただ「閉塞感」という、ことばだけでこのCMの炎上を考えてしまうのも、どこか違うような気がしていた。
それは「性別による、社会的役割」に、縛られている女性が多いのでは?という点だった。
「性別による社会的役割」が、女性に強いていることには、出産・育児・家事(最近では+介護)があり、そのどれもが「女性がやって当たり前」だという社会的認識だと思う。
専業主婦が当たり前だったころは、これらの「性別による社会的役割」を十分果たせただろう。
しかし、今のように18歳以上の女性の就業率は半分以上になり、パートのような非正規雇用から正規雇用で働くなど、働き方も様々な状況になってきている。
男性と同等に働いていても、社内的評価だけではなく社外的評価や社会的評価は、相変わらず女性の方が低い傾向にある。
だからこそ「私たちの気持ちもわかってよ!!」という思いが、炎上というカタチになったのかもしれない。

そして、女性側の気持ちを表現したテレビCMが、P&Gの「JOY」のような気がする。
Huffpost: 「わけあいたいのは、わかりあいたいから」台所洗剤「JOY」の動画が子育て世代に刺さった理由
テレビCMとしても、よくできているCMだと思うし、共感性が高い内容だと思う。
テレビCMだけではなく、実際の制作過程をHuffpostの記事では、紹介がしていあり、むしろ制作過程こそがこのCMの重要なポイントのような気がするのだ。

それは、「本当に伝えたいことは、何だろう?」という、テレビCMとしては当たり前すぎる点を、掘り下げているということだ。
働く女性側も、「ゴミ出しをして当然でしょ」とか「こっちも疲れているのだから、食事の後片付けくらい手伝ってよ」ということだけを言いたいのではない。
「互いに心を寄り添いあいたい。わかってもらいたいし・わかりあいたい」という、思いがありながら目先のやってほしいことを、直接的なことばで言ってしまっているのだ。
表面的なことばではなく、ことばの奥にある気持ちまで掘り下げることができたことで、このテレビCMは視聴者の心に大きく響くことができたのだと思う。

そして、このような「生活者のことばの奥にある気持ちまで掘り下げる」という作業を、テレビCMに限らず企業のマーケティングとして行ってきているだろうか?
このCMを製作過程を読むと、試行錯誤の上一時は製作をストップしてまで、このテレビCMを製作している、ということが分かる。
どこか違和感を感じたら、一度立ち止まり「本質」となる部分を考えなおす、という作業をすることの大切さを、教えてくれているように思うのだ。


時代を創った、アズディン・アライアの訃報

2017-11-19 19:50:45 | 徒然

今朝、新聞チェックをしていたら、アズディン・アライアの訃報が掲載されていた。
朝日新聞:アズディン・アライアさん死去 ボディコン創始者の一人

「ボディコン」ということばを聞いて、バブルの頃を思い出す方も多いと思う。
バブル景気真っ盛りの頃、若い女性の多くは、体のラインに沿ったというよりも、体のラインを強調した服(=ボディコン)を着ていた。
もちろん、丈は「マイクロミニ」と呼ばれる、スカート丈が短いモノだ。
着ていただけではなく、その服を着て夜な夜なディスコへ出かけ、お立ち台に上がり扇子を振っていた・・・という、イメージを持っている方は、多いのではないだろうか?
実際には、そのようなファッションに身を包み、夜な夜なディスコへと繰り出せるような若い女性は、ごくごく一部だった。
ただ、ファッションについては体のラインを強調した服を着ていた。
当時は、好きとか嫌いではなく、そのような服があふれていたいたのだ。
そのファッションの中心にいたのが、アズディン・アライアだった。
もちろん、アズディン・アライアだけではなくティエリー・ミュグレーなども、同様のデザインで人気を博していた。
最も、ティエリー・ミュグレーの場合は、新しい素材などを積極的に取り入れていた為、宇宙的?な印象のほうが強かったような気がする。
アズディン・アライアが発表した「ボディーコンシャス(=ボディコン)」はそれほど、インパクトがありファッションにおける一時代を築くほどだったのだ。

このボディーコンシャスなファッションとは正反対のデザインである「スラウチ」で、人気を博したのがジョルジュ・アルマーニだった。
元々、メンズ出身のアルマーニが創り出すファッションは、テーラージャケットとパンツが基本で、ボディコンの代名詞である肩パッドが無いデザインだった。
肩パッドを入れないことで、なだらかな肩ラインにすることで、ボディコンとは違う女性らしさを表現していた。

アズディン・アライアを中心とした、ボディーコンシャスなデザインをするデザイナーは、体のラインを強調することで、女性らしさを表現し、アルマーニは強調をしないことで女性らしさを表現していたように思う。
対極的なデザインではあるが、「女性らしさの表現」をしていたことには、変わりない。

そう考えると、バブル真っ盛りの頃のファッションというのは、今のファストファッション中心とは違い、バラエティに富んでいたように思う。
今よりも、なんとなくファッションそのものが冒険的で、楽しかったような気がしている。

ボディコンという、一つの時代のファッションを創ったアズディン・アライアの訃報と、今年の夏高校生たちのダンスコンテストで、再注目されるようになったのは、偶然だったのだろうか?


EV自動車へのシフトが本格的になる? テスラの電動トラック

2017-11-17 21:32:55 | ビジネス

今年の夏ごろだったと思うのだが、2020年代初めには欧州でのガソリン車の販売中止という話題があった。
同じころ、中国でもEV車への全面的な切り替えという、話題があったと思う。
このニュースを聞いたとき、いわゆる「自家用車」という市場のEV車全面切り替えは、比較的簡単かもしれないが、一番の問題は、トラックなどの大型輸送車両なのでは?という、気がしていた。

自家用車におけるEV車の問題は、走行距離やガソリンスタンドに代わるEVステーションなどだと思う。
考え方を変えると、自家用EV車の問題点というのは、比較的ハッキリとしている。
ガソリン車から全面切り替えをするために、一番の問題になるのはトラックなどの大型輸送車両だと思っていた。
その理由は、馬力(というのだろうか?)と消費する電力量が多いのでは?という点だと思っていた。
大型輸送車両の場合、積載する荷物が多く、一般的な自家用車のような1回の充電で走行できる距離は期待できない(だろう)。
とすれば、頻繁にEVステーションで充電をしなくてはならないのでは?と、考えたのだ。
それだけではない、1回に充電する蓄電量(というのだろうか?)も自家用車のような訳にはいかないはずだ。
また、大型輸送車両はある程度の時間で、長距離輸送をしなくてはならない。
頻繁にEVステーションで充電をしていれば、「輸送」という目的を十二分に果たすことができなくなる。
そう考えた時、今のEV車の技術でトラックなどの大型輸送車両のEV化のハードルは、高いような気がしていたのだ。

そのような不安をテスラが、吹き飛ばしそうなニュースがあった。
中日新聞:米テスラ、電動トラック発表、時速400キロの新型車も
あくまでも、米国でのテストでの数字だとは思うのだが、時速400キロというのはやや大げさな気がしても、それなりの長距離輸送がEVトラックで可能になると、考えられそうな数字だと思う。
最も、瞬時400キロでは意味はないが、テスラ側は相当強気な姿勢で、今回の発表をしているように見える。
「ディーゼル車のほうが、EVトラックより2割ほど高い」というコメントなどから考えても、テスラ側は十分トラックなどの大型輸送車両の市場で、勝負できると考えているのだと思う。

このような、EV車のニュースが頻繁に出るようになってくると、心配なのは日本の自動車メーカーだ。
トヨタを中心に、日本のエコカーは「ハイブリッド車」で発展してきた。
もちろん日産の「リーフ」や三菱の「i‐Miev」などのEV車はある。
しかし、市場全体から考えれば、エコカーの中心はハイブリッド車だと思う。
そのため、今年の夏から頻繁に雑誌などで心配されたのが「日本の自動車産業のガラパゴス化」だった。
しかし、日本の自動車メーカーは、大型輸送車両のEV車両の登場が無かったことで、「自動車の完全EV車化」はまだまだ先だと、思っていた部分もあったのではないだろうか?
それが今回のテスラのEVトラックの発表は、日本の自動車産業を揺るがすことになるかもしれない。
と同時に、EV車という市場が大型輸送車両にまで広がった、と考える必要があるような気がする。


政治家の言葉は、もっと軽かった

2017-11-14 20:07:08 | 徒然

今日、「希望の党」の代表をされていた小池百合子さんが、都政に専念するため代表を辞任する、と発表した。
約1ヵ月前の「希望の党」に対する思いを述べられていたのは、何だったのか?と、感じた方も多いと思う。
何より、先の選挙で民進党から希望の党へ移ってきた人の多くは、小池さん人気をあてにしていた人も少なからずいただろうから「今更何?!」と、憤慨するのは当然だろう。
この場合、「民進党では選挙に勝てないと思って、移ってきた行為は何だったのか?!」と、ツッコミを入れたいところだが、「政治の世界では間々あること」と、有権者として見るしかないだろう(次回の選挙で、その判断を示すのが、最善の方法だろう)。

それにしても、小池さんは一体何のために「希望の党」を立ち上げたのだろうか?
小池さんは、「希望の党」を立ち上げる前から、東京都知事だった。
「希望の党」を立ち上げる前から、都政に専念すべき立場にあったはずだ。
であれば「都民ファーストの会」を国政向けに発展させた、「希望の党」にする必要はなかったはずだ。
そしてこのような指摘は、「希望の党」が立ち上がった時から再三指摘をされてきたことだ。
小池さんの政治ビジョンをくむ、国政政党をつくるのであれば小池さんは政党の顔となるのではなく、裏方のような役回りに徹していくことのほうが、良かったのではないだろうか?
それとも「希望の党」が、選挙で惨敗に等しい結果に終わったことで、党の代表を降りるということにしたのだろうか?
とすれば、ますます無責任さを感じる有権者は、多いのではないだろうか?
少なくとも、今回の小池さんの代表辞任については、「無責任なのでは?」と、感じている人は多いような気がする。

昨日「ことばが軽い」というエントリをした。
それは最近「死」ということばの扱われ方が、随分軽く使われるようになってきている、という気がしたからだ。
決して、「ギャグ」などの軽いノリで使うようなことばではないのが「死」ということばだと思い、エントリをした。
元々ことばには「言霊」というほど、力があると言われてきた。
批評家で随筆家でもある若松英輔さんは「ことばは、護符となる」とエッセイなどに書いていらっしゃる。
確かに多くのことばに勇気を与えられ、こころの支えとなることはある。
だからこそ、ことばの意味を十分理解し、重い意味を持つことばは、より丁寧に使う必要があると思う。
しかし、そのような「ことばの重み」を感じずに使う人達がいる。
それが今の、政治家の方たちなのかもしれない。

小池さんは、日本のサッチャーさんになれるのでは?という期待があったが、今回の件で無くなってしまったようだ。
何より残念なのは、「女性の政治家は、所詮人寄せパンダの役をすれば良い」と、古い発想の政治家の方たちに再認識されてしまったのではないか?という点だ。
これでは「ジェンダーギャップ」の問題の解決など程遠く、その原因を女性自ら作っているように見られてしまう可能性が高くなってしまったことだ。