日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

古くて新しいメディア?-フリーペーパー-

2007-01-31 20:40:34 | ビジネス
昨日のエントリにコメントを下さったlupinさん、ありがとうございました。
資生堂の新年広告は、ご指摘された「家庭」のイメージはないかもしませんね。
シングルマザーへの応援・・・と言うイメージよりも、母としての強さとたおやかさのようなモノを感じたのです。
人それぞれの感じ方で、その広告の見方が違うと言うのは「当たり前」ですが、改めてそのことを教えていただきました。

今日のYahooのトピックスにフリーペーパー読者はケチじゃない―― M1・F1総研調べと言う記事が、ピックアップされていた。
マーケティングなどで分析を担当している人にとっては、なじみのあるM1、F1と言う表現だが、一般的にはM1って何?という感じなのではないだろうか?
M1=25~35歳の男性、F1=25~35歳の女性、と言う意味である。
いわゆる、可処分所得が多い世代である。
もちろん、総ての人が「可処分所得」が多いわけではないが、比較的自由に自分の好きなモノが、購入できる層だと考えてほしい。

その人たちが、フリーペーパーの読者の中心だと言うのだ。
個人的には、フリーペーパーの読者だった。
「だった」と言う過去形なのは、フリーペーパーの志向が変わってきて、あまり読まなくなったからだ。
特にここ10年くらいは、フリーペーパーの中心は「クーポン券」付きの飲食店の広告が中心となってきた。
「食べること」に興味がないわけではない、ただ掲載される飲食店が重複していることが多く、次第につまらなさを感じるようになってきたのだ。
ただ、フリーペーパーと言っても様々だ。
家庭のポストに投げ込まれるモノのあれば、オフィス街で配布されるモノもある。
それも、男性向け・OL向けと一応分けてある。

私がかつてよく読んでいたフリーペーパーは、「パルコ」や「ソニープラザ」などが店頭に置いていたものだ。
他にも、ワコールやトリンプ、資生堂などフリーペーパーなども読んでいた。
時には、香水の「わかば」が出していたフリーペーパーなども、ありがたく拝読させていただいていた。
専門店のフリーペーパーは、日ごろ知らない情報が多い。
その点でも、参考になることが多かったのだ。
企業主体のフリーペーパーは、企業の考える方向性なども見えてくることが多いのだ。

フリーペーパーと言っても、安っぽい宣伝と情報ばかりではない。
見方を変えると、街中にあふれている様々な志向や指向が詰まっている。
もちろん「ガセ」もたっぷりと含まれているが、その「ガセ」を見つける力も多少は身につけることができるはずだ。

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子供と女性‐出産マシーンではない風景‐

2007-01-30 22:21:57 | CMウォッチ
柳沢大臣の不用意な発言は、日に日に波紋を広げているようだ。
アメリカなどでは、パワー・ハラスメントとかセクシャル・ハラスメントになるだろう。
日本では、その意識が低いということが、よりわかりやすいカタチになったと言う気がする。
ところで、今年のお正月広告に「子供の女性」が扱われた内容のものがあったことを、覚えておいでだろうか?
昨年は、テレビCMなどに出演している女優さん・モデルさんを総動員し、真っ白な衣装で登場させた「資生堂」だ。

今年のお正月広告は、「一瞬も一生も美しく」をテーマにし、全裸の女性が新生児を抱きかかえていると言う、ややショッキングなモノだった。
この広告を見て思い出した広告があった。
それは、ドイツの高級車(うろ覚えで申し訳ないのだが、BMWだったと思う)の「安全性」を訴える広告だった。
赤ちゃんを抱き、その視線は真っ直ぐにこちらを見ている。
まるで「生」と言う宝物を、壊さないように威嚇するほどの力強さを持って、こちらを見つめているのだ。
この広告には裏話があり、何人ものプロのモデルに赤ちゃんを抱かせるのだが、どうもしっくりこない。
結局、出産直後の女性を使って撮影した、と言う話を聞いたことがある。

女性の胸に抱かれた赤ちゃんの表情は、あくまでも安らかで無防備だ。
しかし、その赤ちゃんを抱く女性の腕や手は、とても力づよい。
それは剛ではなく、柔の強さだ。
女性だから、生まれながらに母性を持っているわけではない。
妊娠・出産と言う経験を通して「母性」を持ち、子育てによって「母性」を育てていくのではないのではないだろうか?

「出産マシーン」などと言う、機械的なものでも装置でもない風景が、資生堂の広告にも自動車の広告にもあった。
だからこそ、「いのち」を表現することができたのだろう。

今年の資生堂のお正月広告、どのようにご覧になりましたか?

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「ダイエット」に弱い?‐ヒットテレビ番組‐

2007-01-29 21:48:12 | トレンド
昨日のエントリ「出産マシーンと言う発想」にトラックバックをいただきました「愛と苦悩の日記」さん、ありがとうございました。
「合理性」としての柳沢さんの発言と言うのは、これまでとは違う視点で驚きました。
「生活者が市場を決める」にコメントを下さった、カミナリ弟さんありがとうございました。
マーケティングのプロでなくても、生活者からそっぽを向かれたら企業が成り立たないことがわかるとは思うのですが、企業の一部には「売れている=企業の力」と勘違いしている経営者がいるということでしょう。

フジテレビ系の「あるある大辞典」のデータ捏造は、9年前にまで遡って起きていたようだ。
昨年も「お味噌汁でダイエット」と言う内容の放送があったようなのだが、これでお味噌または生タイプ系インスタント味噌汁が、売れたのだろうか?
9年前のデータ捏造は、レタスを使った「安眠・快眠」がテーマだったようだが、今回の納豆にしてもお味噌汁にしても、共通するのは「ダイエット」だ。
TBSで問題になった「白インゲン粉末」も、ダイエットだった。
結局のところ「ダイエット」をテーマに取り上げることが、視聴率を上げる方法なのだ。

これまで「ダイエット=女性」だったのが、「メタボリック症候群」によって「ダイエット=国民の関心ゴト」となってしまった。
生活習慣病の原因=肥満だと言うことなのだが、そこには「ラクしてダイエットがしたい」と言う、気持ちがある。
そこに目をつけたのが、特定食品摂取による「ダイエット」なのだろう。
「運動」+「食事制限」と言う「生活管理型ダイエット」は、現実的には難しいところがあることは否めない。
「一駅分歩く」と言っても、夜遅くまで仕事をし、時間ギリギリまで寝ていたいサラリーマン・OLにとっては、難しいだろう。
お昼の食事にしても、コンビニ弁当にサラダをつけるのが精一杯、と言ったところではないだろうか?
就業時間は殆どPCとニラメッコか、長時間の会議と言うのが毎日だろう。
だからこそ、「簡単・お手軽ダイエット」が注目され、生活者にとってはとてつもなく「魅力的」に思えるのだ。

それを、ビジネスとして結びつけるのであれば、視聴率稼ぎの方法ではなく他の提案であれば・・・と思うのだ。
と同時に、企業自身も社員(やその家族)の健康管理としての提案が、あってもよいのではないだろうか?



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「出産マシーン」という発想

2007-01-28 20:36:14 | 徒然
今朝の新聞に、柳沢厚労相:講演で「女性は産む機械」という記事が掲載されていた。
安易な発言が、大きな波紋を呼んでいるようだ。

だいぶ以前、拙ブログでも書かせていただいたのだが、妊娠は女性一人が頑張れば何とかなるものではない。
いくら子供を望んでも、恵まれないご夫婦は世間にはいっぱいいる。
まだまだ「結婚すれば子供はできる」という幻想を抱いている人が、世間には多いようだ。
そのような幻想が、海外にまで行って「代理出産」をしてくるタレントを擁護しているような気がするのだ。
不妊治療に膨大な時間と労力、費用をかけ、最期の望みとして「代理出産」を考えるということもわからないわけではない。
「自分とパートナーの遺伝子を残したい」という思いの結果として、「代理出産」を選んだと言うことなのだろうが、ただ、そのために起こる様々な肉体的・精神的リスクは、お金では引き換えられないような気がするのだ。

それで、柳沢大臣の発言をよくよく読んでみると、出産率が上がることで経済=税収が安定するような幻想を抱いているようなのだ。
まるで「生めよ増やせよ、日本の労働」ではないか?
単なる労働力の問題だけなら、60歳定年を延長するとか、女性の就労環境を整えるといった方法があるはずなのだ。
それとも、「女性は子供を産み・育て、男性の6割程度の給与でフルタイムで働いてくれ」というのだろうか?
それでは、あまりにも都合が良いのではないだろうか?

むしろ今の少子化は、そんな男性に対する女性の反旗なのではないだろうか?
男性が家庭をかえりみず「仕事」と言えば、なんとなく「企業戦士」として社会に貢献しているような、思い込みに対しての反旗だ。
最近でも、ある主婦の方とこんな会話をした。
それは、日帰りの旅行に行かないか?というお誘いの話だったのだが「夕方までには帰らないと・・・主人と子供の食事を作らないと、主人の機嫌が悪いの」というお返事をいただいたのだ。
で、「ご主人は、ご旅行とかは行かれないの?」と尋ねると、「そんな~、主人は自分の好きなところに行っているわ」という答え。
お子さんと言っても、立派な社会人なのに「夕飯を作らないと、機嫌が悪い」と言うのは、どこか可笑しな話のように思うのだ。

どこまでも、女性と男性の家庭での役割分担を求め、社会では同等にと言うのであれば、よほどの「スーパーウーマン」でも無理ではないだろうか?
そして、嫡子以外の子供も嫡子と変わらない見方を、社会がしなくては意味がないように思うのだ。
その意味で、ぜひ安倍総理ご夫妻には家庭的に恵まれないお子さんたちの、(法的な)お父さん・お母さんになっていただきたいものである。



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生活者が、市場を決める?

2007-01-26 21:26:24 | ビジネス
不二家の衛生管理は、想像以上にひどいものだったようだ。
毎日のように、社内規定が問題とされ報道されている。
あまりのことに、唖然・呆然・あきれ返るを、通り越してしまった。

今日の朝日新聞WEBサイトasahi.comに、米産牛肉、消費なお低調 再開半年 輸入条件緩和焦点にという記事が掲載されていた。
米国産牛肉の輸入が再開されて半年経ったのか?と思うと、時間の経過は早いような気がする。
だが、ご近所のスーパーマーケットはもちろん、大手スーパーマーケットでも米国産牛肉を見かけることはない。
それだけBSE問題は、生活者に不安・不信を与えたということだろう。
昨年暮れ、ご近所のスーパーマーケットの精肉売り場で中年男性が「ここは、米国産牛肉を扱わないの?」と、お店の人に聞いていた。
「やはりお客さんが買いませんからね」と、言っていたのを小耳にはさんで、「当然だろう、政治でモノは売れるんじゃないんだから」と思ったのを思い出した。
これでは、政治的圧力で輸入再開にこぎつけた米国サイドも、どうしようもないだろう。
政治ではなく、生活者が「NO!」と言っているのだから。

記事内では、ますます政治的圧力を強めるつもりのようだが、結局日本の生活者が米国産牛肉の日本市場を決めているということだろう。
どうして、それにマーケティングの本家・米国が気がつかないのか、個人的には不思議だ。
政治的といっても、多くの場合、支援団体からの圧力(言い換えれば「ロイビスト活動」)で動いているのだが。
これは日米関係なく、政治家の姿だとも言えるのかもしれない。

今、現在進行形で日に日に問題が拡大している「不二家」は、「雪印」より最悪結果を企業にもたらすだろう。
残るのは「ペコちゃん・ポコちゃん」だけになってしまうだろう。
それも「ミルキーはママの味」という、名コピーとともに優しく元気な企業イメージと実態のギャップという皮肉として。

企業は様々な方法で、商品を市場に提供し、収益を上げようとしている。
でも、生活者から信頼を得られなければ、市場から淘汰されてしまう。
例えそれが政治的な意味がある商品であろうとも。
それをあらわしているのが、米国産牛肉という商品だともいえるのではないだろうか?
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すぐそこにある「偽り」

2007-01-25 22:00:32 | アラカルト
年明け早々のテレビ番組の「データ捏造」事件は、「テレビの公共性と影響力」をまざまざと見せつけたような気がした。
そして今日新聞各社のWEBサイトに、「ゆうパック『翌日配達』は不当表示 公取委が排除命令という内容の記事が掲載されている。
郵便事業は、郵政省から郵政公社になり、この秋には民間企業となる。
そのため、一般郵便とは別に「ゆうパック」の取り扱い拡大をしていた。
特にコンビニエンス・ストアーでの扱いは、それまでのやまと運輸(=クロネコヤマトの『宅急便』)を駆逐する勢いだった。
実際、荷物を送るために『宅急便』取り扱いのコンビニ店を探すのに、一苦労することがある。

『ゆうパック』ではなく、『宅急便』を利用するのか?と聞かれれば、「確実性」を求める結果なのだ。
というのも、民営化に向け郵政公社がトヨタのかんばん方式を取り入れるようになって以来、若干の郵便の遅れを感じることがあったからだ。
もちろん、ないが何でも『宅急便』というわけではない。
個人的によく利用する『エクスパック』などは、送料込みで500円で速達扱いとして、小さな小包程度の物を送ることができる。
速達料金270円(重量や大きさにより変わる)を差し引いても、お値打ち感があり比較的確実に翌日届くからだ。
ただ、民営化に向けてやっていることが、決して郵便事業のプラスになっていると思えないことも多い、ということだけなのだ。

確かにトヨタの「かんばん方式」は、製造業には向いているのだろう。
でも、物流業はどうなのだろう? 
実際、昨年も今年も「年賀状の遅延・早配」が問題になった。
本当に、システムとして有効なのだろうか?
今回公正取引委員会から「不当表示」と指摘を受けたのをきっかけに、システムそのものを見直す必要があるように思うのだ。

「かんばんに偽り有り」というだけではなく、「偽りかんばん」となってしまったシステムが本当のかんばんとなるようなシステム作りのきっかけであってほしい。
エクセレント・カンパニーの事業運営システムが、万能ではない。
書店に並ぶ「成功本」を真似して、失敗をする事例のほうがはるかに多くある、ということを改めて思い出した記事だった。
今の郵便事業が参考とすべき企業は、他にあるのではないだろうか?

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テスター・メイクがなくなるのか?

2007-01-24 21:23:46 | マーケティング
一昨日のエントリ宮崎県民の選択」にトラックバックをいただき、ありがとうございました。
鳥インフルエンザで突然予想外のピンチを迎えてしまった新知事ですが、早速行動しているようです。
県議会議員とか建築関係から、イロイロ言われるのは想定内のことでしょうし、特定の事業者や議員の利益が奪われることは、当事者からすれば人生最大の問題ですから。
でも、それに「NO!」と言ったのは宮崎県民なのですから、そのことをもっと真剣に考える人たちはむしろ議員さんや建築関係の皆さんなのでは?

今日の讀賣新聞のWEBサイトに、「仮想体験で「化粧顔」が分かる…資生堂がシステム開発」という記事が掲載されていた。
記事にあるように、「仮想体験メイク」というシステムによって、マーケティング調査に活用できるというは、企業にとって大きなメリットだ。
お客である女性からすれば、美容販売員さんによるメイクと自分のメイク・テクニックの差に、後日「こんなはずではなかった?!」的な、失敗購入を減らすことができるかも知れない。
特に、毎シーズン「新色」が出る口紅やアイ・メイクなどは、使い切っていない化粧品が洗面所などにいっぱい眠っているはずだ。

そしてこのシステムは、テスター・メイクを減らすことができるかも知れない、と思うのだ。
「テスター・メイク」といっても、男性はわからないかも知れない。
ドラッグストアーや、メイク用品を中心に販売をしているヴァラエティー・ショップなどでは、テスターと呼ばれる「お試し品」を使って店頭でフル・メイクをする女性がいるのだ。
だいぶ前は、高校生が中心だったのだが、今では高校生ではない層が中心になりつつあると言われている。
時には、アフター5のプチメイク直しとして、新色中心に「テスター・メイク」をするOLもいるかも知れない。
そのために使われる化粧品の額は、相当なモノだとも言われている。
確かに「販促品」として予算などが組まれているはずなのだが、いまや無視できないほどの額になりつつあるという話を、だいぶ前聞いたことがある。

店頭でのテスター・メイクは、決して格好の良いモノではない。
でも新しい商品は、試してみたい・・・ある意味オンナゴコロをくすぐるシステムかも知れない。
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宮崎県民が選んだコト‐地方経済と国‐

2007-01-22 21:44:11 | アラカルト
昨日行われた、幾つかの県知事選挙。
その中で、注目となったのは宮崎県だった。
そして、元タレントのそのまんま東さんが、当選をした。
そのまんま東さんのライバル候補のうち、有力視されていたのは元官僚のお二人だった。
そのお二人を圧倒しての東さんの当選だった。
 
だいぶ前にも拙ブログで書いたと思うのだが、マーケティングと政治は基本的に相容れないモノだ。
しかし、今回の選挙で宮崎県民が選んだのは「国を当てにしないで、自分たちで経済的自立をしよう」ともいえるような気がしたのだ。

これまで県知事となる人たちの多くは、中央官庁である程度の実績を積み(?)、県の出納長などの役を得てやってきた人たちが多い。
いわゆる「中央(=国からの助成金)とのパイプがある人」が、なんとなく様々な思惑を持った人たちの後押しを得て、県知事(あるいは市長)になってきた場合が多いともいえる。
というのも「中央とのパイプ」によって、「まちが潤う」という幻想が根強くあったように思うのだ。
それが「箱モノ行政」という、システムを作りあげてきたのではないだろうか。

ところが、東さんがマニフェストとして掲げたのは、「宮崎県独自で(なんとか)経済を活性化させよう」ということが中心だ。
極論を言えば「もう国を当てにしません。宮崎は宮崎独自の経済政策を作っていきます」ということを、宮崎県民が選んだともいえるような見方もできるのではないだろうか?
もちろん、ライバル候補者が東さんを「タレントなんだから」という、甘い見方をしていたとは思う。
ところが、東さんはいたって真面目に選挙を戦った。

これから先、東さんの対戦相手は県会議員たちだ。
もし県会議員たちが、「中央とのパイプを当てにした地方行政」を望んでいるとしたら、相当苦戦をするかも知れない。
しかし、「中央からの補助金行政」は破綻傾向にあると言われている。
今朝の新聞には「なぜ、今こんな結果になったのか?」と、ライバル候補者の支援者のインタビューが掲載されていた。
おそらく「時代が求めているコト・モノ」が、わからないのだろう。

日本の財政そのものが、危機的状況にあるといわれて久しい。
ならば、地方はいち早く国から経済的に自立する方法を見つけ、財政を健全化させることが地方が生き残る道でもあるのだ。

いきなり地方財政が良くなる方法はない。
だが、今やらなければ破綻の危険性をはらんでいる。
宮崎県議会議員さんたちも、そのことを理解した上で、宮崎県民の将来を考えてほしいとも思うのだ。
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放送と公共性

2007-01-21 21:01:25 | アラカルト
昨日発表された、テレビ番組の「納豆ダイエットのデータ捏造」については、「マーケティング千日回峰之記」の行者さんや「大西宏のマーケティング・エッセンス」の大西さんもエントリをされている。
それだけ、「社会的影響が強い」と判断してのことだろう。

拙ブログでも、同様の「社会的影響」という点でエントリさせていただいたのだが、ここで考えたいのは「メディアのもつ公共性」ということだ。
昨年暮れNHKは、受信料支払い拒否世帯に対して法的措置をとり始めた。
そしてあの紅白での演出。
本当の「公共性のある放送とは?」ということを、NHK自身が問題提議をしたように感じた。
そんな時「NHK問題」という新書が出ている。
「NHK問題」というタイトルではあるが、むしろ「公共放送とは何か?」ということを問題にしている。
そして「公共性のある放送」というのは、決してNHKだけではない。
「民放は、テレビCMという企業の宣伝によって番組制作をしている」というのは、NHKが受信料徴収の時に使う常套句なのだが、不特定多数の人に情報を提供し、社会に何らかの影響を与えているという点では、民放もNHKも同じはずなのだ。
だからこそ、今回のような娯楽番組であっても糾弾されるのだ。

「民放だから公共性が無く、NHKだから公共性がある」というのは、官メディア(=NHK)>民メディア(民放)という一種の優劣感がNHKにあるように感じるし、民放はNHKに対する反骨と独自性が感じられないのだ。
それどころか、「表現の自由」の名のもと「視聴率に迎合」し始めているような気がする。
それが「メディア」という「公共的要素の高い事業者」が、やることだろうか?

今回のテレビ番組について、他局や他のメディアが叩くのであれば「自分たちはどうなのか?」という、自戒を持つ必要があるように思うのだ。
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テレビの影響力‐納豆ダイエットデータ捏造‐

2007-01-20 21:43:32 | アラカルト
先日来、スーパーマーケットに行くと「納豆」が売り切れ続発していた。
さすがに今週になってから、だいぶ落ち着いてきたようだったが、それでも買い物客のかごには3個パックの納豆が、二つ三つと入っていた。
その原因が、テレビ番組で紹介された「納豆でダイエット」だ。

私は、テレビ番組を見ていなかったのでその「衝撃度」はわからないのだが、一部の納豆メーカーでは「製造が追いつかないお詫び広告」を新聞に掲載していたことからも、その影響力は凄まじかったのだろうと想像する。
先日には、新聞の読者投稿欄に「これまで毎日買って食べていた納豆が、テレビ番組の影響で売り切れ困っている」という、内容のものが掲載されていた。

これまでテレビ番組が紹介した「ダイエット食材」で、話題になり製造が追いつかず一時期商品が店頭から消えた商品が幾つかある。
「ココア」や「寒天」などだ。
ほかにも昨年は、植物性乳酸菌が話題となり京都の有名な漬物「すぐき」が季節はずれにもかかわらず買い求める人がいたり、植物性乳酸菌を使った飲料水の製造が追いつかず、地域限定発売になったりもした。

ところが、今日になって新聞各紙に「納豆ダイエットのデータが、捏造されていた」と報じられている。
まぁ、考えてみれば昔から納豆を食べている日本人がダイエットに無縁であったのか?といえば、決してそうではない。
過去何度もあった「納豆ブーム」があったにもかかわらず、納豆にダイエット効果があったということは言われた事がなかったと思うのだ。
にもかかわらず、テレビ番組で「納豆でダイエット」というだけで、多くの人が飛びつき全国的に品切れになるほどの「ブーム」を巻き起こしてしまう・・・テレビというメディアの影響力の凄さを改めて実感した。

ところでこの「納豆ブーム」の火付け役となった番組に対抗するかのような番組も、登場している。
現場で活躍されている「名医」と呼ばれる医師が、病気の症状やその治療法・予防法などを紹介している番組だ。
もしかしたら、医療現場などでは安直なテレビ番組による健康情報をけん制したかったのかも知れない。

この番組は明日の放送を見合わせることになってしまったようだが、テレビの影響は他にもある。
年末のNHK紅白歌合戦での「DJ・OZUMA」の演出だ。
テレビ番組の倫理委員会のようなところでも、問題として取り上げられているようなのだが、「テレビ番組における表現の自由」と「テレビ番組としてのTPO」をはきちがえてしまっているように感じるのだ。
もしあのような演出が、深夜番組であったら問題にもならなかっただろう。

テレビ(ラジオや新聞なども)というメディアは、その影響力も強い。
だからこそ、その番組制作にかかわる人たちは番組の趣旨や社会背景なども考えなくてはいけないはずだ。
一般企業に求められる「社会的責任」が問われる時代。
メディア企業も同じコトが求められているのでは、ないだろうか?
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