日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

千葉パルコの閉店は、小売り業態の変化なのか?

2015-07-31 20:09:28 | ビジネス

産経新聞に「千葉パルコ、採算悪化で来年11月閉店」という記事が、掲載されていた。
SANKEI BIZ:千葉パルコ、採算悪化で来年11月閉店へ、特損19億円計上

ネットユーザーのコメントなどを読むと、立地の悪さなどを指摘があるようだが、それだけの理由ではないと思う。
というのも、名古屋のパルコも以前ほどの活気を感じられないからだ。
名古屋パルコの場合、名古屋に進出したときが丁度バブル絶頂期だったこともあり、パルコに入っていたお店などは随分高級感のある海外ブランドなどだった。
バブル崩壊後も、それなりの人気があったように記憶しているのだが、ここ数年パルコに行っても以前のような「パルコらしさ」というものが感じられなくなっていた。

理由の一つは、私自身がパルコで買い物をする年齢ではなくなった、という事が大きいとは思う。
店内を歩いてみても、商品を見てみたい!という感じではなくなっていたからだ。
若者向けにシフトした、という事だと思ってみても、その若者も惹きつけられているのか?というと、疑問な点があった。
というのも、ここ数年で名古屋パルコ近辺には次々と、海外のファストファッションのお店がオープンし、ファッションという点では、そちらへ客足が流れているように感じていたからだ。

もう一つ感じていたことだが、以前のパルコは「商品を売る」という複合店舗ではなく「文化を発信する」複合店舗だった。
コピーライターの糸井重里さんを起用した、「おいしい生活」という名コピーがあるが、1970年代(=パルコが誕生した頃)から、そのような「生活文化を発信する」という傾向があった。
そして、時代もそのような「物からモノへ」と、価値観が変わりつつあったように思う。

バブルが崩壊し、企業が目先の利益を求めるため「リストラ」が慣例化するにしたがって、パルコのような「生活文化を発信する」複合店舗は、どんどん行き場を失っていったように思う。
代わりに台頭(?)してきたのが、「ユニクロ」に代表されるようなファストファッションであり、100円ショップのような気がする。

「ユニクロ」や100円ショップが、悪いわけではない。
生活者の「生活感」や「生活文化」が変わってきた、という事だ。
言い換えれば、パルコのような複合店舗や百貨店が、「生活文化」を発信する時代ではなくなっている、という事だと思う。
「もっと生活に密着した情報発信」という小売にとって代わる、という事なのかもしれない。


日本酒が変わり始めた

2015-07-30 19:56:30 | ビジネス

スーパーへ買い物に行くと、「商品棚が変わったな~」と思う売り場がある。
酒類を販売している商品棚だ。
目立つのは、今年流行しているといわれる「クラフトビール」。
国内だけではなく、海外の「クラフトビール」も並んでおり、週末の買い物客(特に奥様について買い物に来ていた男性諸氏)は、足を止め品選びをしている光景を見ることが多くなった。

様々なボトルデザインで華やかなのは、ワインや洋酒の商品棚だ。
ボトルデザインそのものもおしゃれな物も多く、ラベルも華やかなデザインも多い。
一方、地味なのは「國酒」と呼ばれる、日本酒や焼酎の商品棚だ。
日本酒に限っては、一升瓶で売られていることは少ないのだが、変わりにおいてあるのが「紙パッケージ」の日本酒だ。
中には「パウチパッケージ」もあり、軽量化、エコという点ではワインなどよりも一歩も二歩も進んでいるのかもしれないが、その地味感は否めない。
焼酎に至っては、少量のガラスパッケージにものは、デザインなどもおしゃれな感じのモノも少なくないのだが、大容量となると、紙パッケージ→ペットボトルへになっている。
なんとなく、パッケージを見ると「日本酒って、おいしいですよ」という雰囲気は、まったく伝わってこない状況にあるように感じている。

そんな「日本酒の商品棚」に「オヤ?!」と目を引くボトルデザインの日本酒があった。
ボトルを見ると「カクテルグラスでお飲みください」と、書いてある。
日本酒=お猪口(か、「コップ酒」)というイメージがあると思うのだが、それをあえて「カクテルグラス」と指定しているのに、驚いた。
その日本酒とは、辰馬本家酒造(ブランド名「白鹿」)の「壇」というお酒だ。
辰馬本家酒造HP:「壇」
私が店頭で見たのは500mlの商品だったのだが、夏の暑さを忘れさせるような青いボトル。
「さぞ冷酒でいただくと美味しいだろうな~」と、思わせるデザインだった。
そしてその「壇」よりも、目を引いたのが「はくしかオータンティック」だった。
黒いボトルに、モダンな幾何学のデザインが描かれている。
日本酒というよりも、ワインのパッケージを思わせるようなデザインだ。

20年ほど前に、イタリアンのシェフから「実は、イタリアンと日本酒って合うんですよ。だからうちでは日本酒もおいているんです」と、言われたことがあった。
おそらくそのようなことがあってのことだろう、最近では海外で「日本酒ブーム」が起きつつある、という話を聞いたことがある。
もちろん、和食ブームもあってのことだとは思うのだが、意外にもフランス料理などにも合うのかもしれない。

そう考えると、白鹿のこのようなモダンなボトルデザインや「カクテルグラスでお飲みください」というのは、わかる気がする。
それだけではなく、辰馬本家酒造のHPを見ると「酒蔵通り 光の宴 フェスタン・ドゥ・ルミエール」というイベントを、国内外の「光の芸術家(?)」と一緒にイベントを昨年、一昨年、一昨々年と開催をしている。
後援は、フランス大使館だ。

日本での日本酒のイメージは、「コップ酒で酔っぱらっているおじさん」という、余りよいモノではない部分がある。
しかし、そのイメージを変えるとすれば、もしかしたらパッケージからかもしれない。
パッケージそのものは、入れ物というだけではなく、その商品を広告する重要なモノだからだ。




「子供の貧困」と海外留学

2015-07-28 22:21:16 | ライフスタイル

京都まで「青春18きっぷ」で、出かけた。
その時、偶然となりの席に座られた女性と、話す機会があった。
お話をしている間に、その方が「福祉施設に入所している子供たちの支援」をされている、という事を知った。
と同時に、今福祉施設に入所している子供たちの現状についても、少しだが知ることができた。

今福祉施設に入所している子供たちの多くが、親を事故などで亡くした子供たちではなく、いわゆる「片親世帯」の子供たちだという。
私が子供だった頃にも「片親世帯」の家庭のお子さんが、福祉施設に入所していることは、あったので特段驚くことではなかったのだが、そこから先の話があったのだ。
それは「片親世帯」の子供が施設に預けられている間に、両親それぞれが新しい伴侶を得ることで、施設に預けられている子供の「生活の場がなくなってしまう」ということ。
「生活の場」というよりも、その子供がいるべき「家庭」が無くなってしまう、というケースが多いという話だった。

当然のことだが、「家庭が無くなった子供」は経済的援助がほとんどなくなり、本来であれば受けられる教育も十分に受けることができない「子供の貧困状態」になってしまうのだ。
大人の事情によって子供が振り回され、将来的に得られるはずの様々な教育や就職などの機会を得られることなく、貧困者となってしまう可能性があるのが、今の福祉施設の現状だという。

その一方、この時期になると大学のオープンキャンパスの案内を、数多く見かける。
高校が夏休みに入ったので、大学側としてはオープンキャンパスがしやすいのだろう。
そしてそのオープンキャンパスの案内を見ていると、数多くの大学が「グローバル化」の名のもと「留学プログラム」を組んでいる。
「留学プログラム」そのものは、見聞を広げる良いチャンスだと思うし、語学習得以外のメリットもあると思う。
ただ、「6人に1人の子供が貧困」といわれるようになり、その子供たちには決して与えられることのない機会だと考えると、手放しで「良いプログラム」だといえない気がしてきたのだ。

もし、「留学プログラム」を実施するのであれば、同時に無償返還の奨学金制度の充実も図ってほしい、という気がしている。
親の都合で「貧困化」してしまった子供の中にも、優れた子供たちも数多くいるはずだ。
そのような子供たちに対して、大学が積極的に門戸を開くことで、日本はより豊かになっていくのではないだろうか?

米・ハーバード大学などでは、優秀な学生を対象に無償の奨学金を出している。
ハーバード大などは多額の寄付金などを運用し、その運用益で奨学金を提供しているようなのだが、日本の大学はそのような部分での積極さをあまり感じられない。
他にも、大学側がインターネットを利用したオープン授業を通して、奨学生を集めるという方法もあるだろう。
彼女の話を聞きながら、子供たちに対して「本当の平等の教育機会を与える」という事が、今日本の社会に求められているような気がした。


「右へならへ」的発想から、脱却することが地方を元気にする

2015-07-27 20:19:20 | ビジネス

土曜日「青春18きっぷ」を使って、京都まで出かけた。
名古屋から在来線を乗り継いで行くことになるのだが、その車窓を眺めるのもまた楽しいひと時だ。
今回久しぶりに在来線の乗継をして、気づいたことがあった。
それは「太陽光発電パネル」が、いろいろなところに設置されていたからだ。
一番驚いたのは、築40年以上経過しているであろう平屋の長屋の屋根に、太陽光発電パネルが1棟ごと設置されていたことだった。
新築のマンションなどに「太陽光発電パネル」が設置してあるのは、見かけたことがあったが築年数が随分経過した平屋長屋というのは、初めて見た気がした。

それにしても、「太陽光発電パネル」を設置している場所というのは、いろいろな場所なのだな~という気がした。
それこそ、かつて家があったような場所や耕作放棄地のようなところは当然。
新たに、土地を切り開いてまで設置したのでは?というところもあった。
そのような光景を電車から眺めながら「何も、太陽光発電だけが、自然エネルギーではないのにな~」と思ったのだ。

確かに、「太陽光発電」はパネルを設置するだけで発電することができるので、初期投資という視点では少ないと思う。
それだけではなく、メンテナンスという点でも比較的簡単、というイメージがある。
だからと言って、土地を切り開くような労力をかける必要があるのか?と、疑問に感じたのだ。
「自然エネルギー」というのは、その土地にあった「発電システム」であれば、良いのではないだろうか?
例えば、「畜産」が盛んな地域であれば、牛や豚、鶏などの排泄物を利用して「メタンガス」による発電をする方法もあると思う。場合によっては「排泄物」を発酵させることで発生する「熱」を利用して、「発電以外のエネルギー利用」という事も可能なのではないだろうか?もちろん「発酵させた排泄物」は、肥料として使えるだろうし、場合によっては「肥料」を販売することも可能だろう。
同じ「メタン」を使うにしても、都市部であれば「下水処理過程」で発生する「メタン」を利用する、という方法もあるのではないだろうか?
素人考えなので、技術的に「無理」というお叱りを受けるかもしれないが、それくらいの「自由」な発想で、「地域エネルギー」を考える必要があると思う。

何故そのようなことを思ったのか?というと、以前「太陽光発電パネルがゴミになる」という記事を読んだことがあるからだ。
一般社団法人東京都設備設計事務所協会:太陽光パネルにごみ問題 不正処理で汚染懸念

この記事そのものは一昨年の記事なのだが、この記事の中心はあくまでも「個人住宅」を対象としている様に思う。
それが、自治体が中心となって「太陽光発電事業」として行っている場合は、パネルの数も個人住宅の比ではない。
パネルの数が多ければ、廃棄されるパネルの数も多いという事になる。

日本の自治体は、ある一つの自治体の成功例を見て「右へならえ」的政策を打ち出す傾向がある。
それが戦後の「ミニ東京化」を目指すことになったのでは?と、考えているのだが、それが「自然エネルギー」の分野では「太陽光発電」になってしまったような気がする。
そして「地域の身の丈に合った、地域限定エネルギー政策」が、今後の日本にとってプラスになるのでは?と考えている。
消費する力が多い地域よりも、電力だけではなく生活に必要なインフラの「地産地消」ができる地域のほうが、様々な部分で「生活の安心」を地域の生活者に提供できるからだ。


 


お祭りと観光

2015-07-26 20:15:22 | アラカルト

昨日、京都へ出かけた。
この時期の京都は、蒸し暑い。
もっとも、昨日に限らず今日も日本全国各地で「猛暑日」となったようだ。

目的は、下賀茂神社の「御手洗祭(=足つけ神事)」に行くためだった。
下鴨神社そのものは、世界遺産にも登録され海外からの観光客が多いのかな?と思いきや、案外少なく肩透かし?だった。
まして「御手洗祭」そのものは、あまり有名ではないせいか?周囲から聞こえる言葉は「関西弁」がほとんど。
観光ツアーなどのプランにもほとんど含まれていない(ただし、JR東海の「夏の京」ツアーには組まれていた)様で、ツアー客らしき団体も見かけない。
おかげで、のんびりと参拝することができたのだった。
(個人的には、今後もツアーに組み込まれることが無いようにと願っている)

京都の夏のお祭りと言えば「祇園祭」という事になるのだろうが、「祇園祭=前祭山鉾巡行」だと思われがちだ。
「祇園祭」そのものは、その後も続いている。
京都通といわれる方などは、あえて山鉾巡行ではなく、その後の「後祭山鉾巡行」を見る、という話も聞く。

そして全国には「祇園祭」と呼ばれるお祭りが、各地にある。
確か東北地方だったと思うのだが、若い女性が文金高島田に髪を結いあげ振袖を着て歩く「祇園祭」の写真を拝見したことがある。
京都の「祇園祭」とは違う、優美さのあるお祭りだった。

考えてみれば、この時期全国各地では様々な「夏祭り」が開かれている。
名古屋に近い津島市では、「尾張津島天王祭」がある。
ユネスコの無形文化財登録への準備として、動いているようだ。
私は、この「尾張津島天王祭」には行ったことがなく、この時期駅のポスターなどを見るたびに「一度行ってみたいな~」と思いながら、なかなか行けていない(苦笑)。
見たことのある友人の話では、とても優雅で綺麗で豪華なお祭りだという。

このような夏祭りの多くは、夏に流行する病気などに罹らないようにと願う事が多いようだが、どのお祭りも様々な言われや言い伝えがあり、観て美しく、参加して楽しい。
そのような全国各地の「お祭り」こそ、海外の人たちが「日本文化」に触れる良い機会だと思う。
できれば、大人数のツアーではなく個人か10名以内のこじんまりとしたツアーなら、ゆっくりと楽しめるのではないだろうか?
そしてこのような「お祭り」こそ、「クールジャパン」の基だと思う。

 


「爆買い」ばかりをあてにするよりも・・・。

2015-07-24 18:56:06 | ビジネス

一昨日、日本へ来る海外からの観光客が、上半期で914万人を超えた、というニュースがあった。
Yahooニュース(FNNニュース):2015年上半期の来日外国人観光客、約914万人 過去最高(動画につき音声注意)

今年の春、丁度中国の春節の頃に頻繁に聞かれた言葉が「爆買い」だった。
中国人観光客が、日本様々なところで高額な商品だけではなく、日用雑貨などを買い漁るように買い物をすることを「爆買い」と呼んだのだが、確かに中国人観光客の「買い物への意欲の高さ」には、驚くというよりも唖然とするところがあった。
この「爆買い」でヤマダ電機などは、収益のあまり良くない店舗を閉店し、「観光客(=中国人観光客)が、買い物しやすい店舗」に力を入れる、という事態になった。

このニュースで報じられているように、「燃油サーチャージの値下がり」や「円安」の影響という部分はあるとは思うのだが、むしろ注目すべき点は他にあるような気がしている。
というのも、「外国人観光客向けのツアーガイド」をしている友人から聞いた話なのだが、欧州からくる観光客の多くは、リピーターが多いという点だ。
彼らは、「通り一遍」の「東京→京都→大阪」という「外国人観光客・ゴールデンルート」では飽き足らず、地方の観光地へと足を延ばし始めている、というのだ。
例えば「世界遺産」に登録され「飛騨高山」や「安芸の宮島」、新幹線の開業で東京から行き易くなった「金沢」などは、当然のルートとなっている。
中には「棚田を見る」ために、わざわざ観光ルートから外れたような地方に、行くこともあるという。
何より中国人観光客とは違い、滞在日数も2週間位から3週間と長いのが特徴だという。

確かに中国人観光客の「爆買い」は、日本の経済にも影響を与えるところがあると思う。
何と言っても、彼らが短い滞在期間で消費する金額は、半端な額ではないのだから。
だからと言って、「爆買い」を当てにしたような外国人観光客誘致を、地方でしても全く意味がない。
むしろ、その土地、その土地に古くから伝わる伝統的な芸能を見せたり、体験させたりすることや、日本特有の自然に触れるような発想のほうが、長期的な視点で考えれば必要だという事だ。

ツアーで1回訪れる観光客よりも、リピーターとして定期的に日本を訪れる観光客を増やしていく、という事がこれから先重要になっていくのではないだろうか?
そう考えると、東京などの都市はあくまでも「観光客の入口であり出口」または、「行動拠点」だと考え、その地域、地域にある「観光」とは思えないかもしれない「資産」を見つけ出すことが、重要なのだと思う。
江戸時代、日本は「藩」という単位で、それぞれの地域が特色ある産業を作り出すことに躍起になっていた。
それが、伝統工芸や伝統技術となっている地域も珍しくはない。
「田舎だから」こそ、都会にはない「日本らしさ」が十二分にあるはずだ。
その「日本らしさ」をどう世界に発信し、魅力づくりをしていくのか・・・それが、これからの「日本の観光」のポイントとなっていくように考えている。


少しずつ変わってきたのかな?車の選択肢

2015-07-23 16:26:59 | ライフスタイル

最近街中を歩いていて、「変わってきたな」と感じることがある。
それは走行しているクルマのことだ。

ここ名古屋で「クルマ」と言えば、トヨタ車を指すのでは?という位、トヨタ車が走っている。
そのこと自体、今も変わりないのだが、それでも随分変わってきたのかな?という気がしている。
その理由は、軽自動車が増えたということだ。

現在トヨタが、軽自動車を販売していないわけではない。
トヨタ自動車:ピクシス スペース
ただ、トヨタ車を購入するのであれば、あえて軽自動車を選ぶという人が(ほとんど)いないようなのだ。
おそらく販売店側も、積極的に売るつもりはないのでは?という気がしている。
なぜなら、ご存じの方も多いと思うのだが、トヨタの軽自動車はダイハツからのOEMだ。
最初からトヨタという選択肢はなく、ダイハツやスズキなどを選んでいると、考えるほうが自然な気がする。

普通乗用車についていうなら、ハイブリッド車についてはやはりトヨタ車(=プリウス)が圧倒的に多いようだが、ガソリン車となると、マツダやスバルなども随分見かけるようになった。
今日買い物に出かけたときに見かけたパトカーは、スバル車だった。
「(自動車メーカーに)偏りがあってはいけない」という事なのかもしれないのだが、驚いた。

軽自動車が増えてきている(実感)理由は、おそらく「燃費」だと考えている。
円安のため、1バーレル当たりの原油はドル換算では、大きく値上がりをしていないはずだが、円安の影響で「高値安定」という状況が続いている。
少しでも燃費の良いクルマというのが、選択肢の上位になってきているのでは?という気がしている。
それだけではなく、軽自動車そのもののデザインが随分変わってきている、という点もあると思う。
軽自動車と言えば、女性の足代わりという使われ方が多かったイメージだが、最近ではスズキの「ハスラー」のような4WD車(元々は、三菱の「ミニパジェロ」の人気で、広がった市場だが)や、ダイハツの「タント」のような一般車両とあまり変わらないようなスペースを確保し、福祉車両としても十分使えるような軽自動車も増えてきている。
以前の女性が足代わりに使うクルマではなく、軽自動車というカテゴリーの中でも選択肢が広がっている、という事がわかる。

「燃費」という視点では、好調なマツダを支えているのが「グリーンジーゼル車」だろう。
「燃費」という点では、ガソリン車よりもよく、軽油で走るのでコストも安いという点魅力があった。
ジーゼル車と言えば、元東京都知事の石原さんが、ペットボトルに入れたジーゼル車から排出された粉塵?を振って、「こんな有害な物を東京に入れさせるわけにはいかない」というパフォーマンスをきっかけに、一時期生産が中止された。その後ヨーロッパなどでは「グリーンジーゼル車」として人気が回復してきたところに、マツダがヨーロッパ車よりも上回る環境性能と燃費のジーゼル車を出し人気になっている。

そう考えると、以前よりも様々な意味での選択肢が増えてきているのが、今の自動車市場なのかもしれない。
しかもそれは「販売系列店ごとに微妙にモデルを変えている」という、(小手先の)選択肢ではなく、顧客のライフスタイルや、考え方に関わっているような選択肢が増えているという気がする。

それを裏付ける?かのように、今日の朝日新聞には「リッチな欧州車、顧客がっちり東海地方に販売攻勢」という記事が掲載されていた。


上司の意をくむこと

2015-07-21 20:40:01 | アラカルト

東芝の「不適切な会計処理問題」。
発覚から、今日旧経営陣3人がそろって記者会見をした。
その中で、現社長が「不適切な会計処理の指示をした認識はない」という趣旨の発言をされたようだ。
ロイター:不適切な会計処理を指示したという認識はない=田中東芝社長

このような不祥事が発覚すると、よく聞かれるのが「このような(不適切な)指示をした認識はない」という言葉だ。
多くのサラリーマン(公務員も含む)は、この言葉を聞かれてどう思われるだろう?
おそらく「上司の意をくむことも、サラリーマンの仕事」だと、反論されるのではないだろうか?
田中社長は「(売上を上げるための)プレッシャーがあり、そのために不適切な処理をしても許されるものではない」と、話されているのだが、その現場で受ける上司からのプレッシャーというのは、いかばかりのものだったのだろう?
東芝がブラックな企業だとは思わないが、市場や生活者の気持ちを十二分に理解せず、企業側の思惑でモノが売れるような時代ではないのに、「売上の数字を上げてこい」とだけ言われるサラリーマンの気持ちを理解されていないのでは?という気がするのだ。
言い方が悪いのだが、一歩間違うと「ブラックな企業」と同じだと思われても仕方ないほどのプレッシャーを、社員に与えていたのでは?という、反省の気持ちの言葉がないところに、「ブラックさ」というものを感じてしまうのだ。
少なくとも「ブラックな思考」を持っていたのでは?という印象を受けてしまうのだ。

日本の企業というよりも、社会全体の傾向というか文化として「人の意をくむ」というところがある。
「人の意をくむ=配慮がある」ということにもなるし、人によっては「いちいち説明をしなくてはいけないほど、理解できない人物は使えない」という考えを持っていらっしゃる方もいるのでは?
その一つが、「男同士なら、言葉にしなくてもわかるのに、女性社員だといちいち説明する必要がある」という言葉だと思う。
実際、私も同様の言葉を随分言われたものだ。

それだけ日本の社会は「言葉以外のコミュニケーション」を重視する社会、だとも言えると思う。
それが悪いわけではない。
ただ、このような事件が起きると、上司となる人が「言葉の指示をしていない(から自分に責任がない)」という趣旨のことを、記者会見という公の場で言ってしまうと、「意を汲んだ」側の社員にすべての責任がかかってしまう。
少なくとも、企業の経営者が一般社員よりも高額な報酬を得られる大きな理由は、経営に関する責任を負っているからだ。
だからこそ、公の場でこのような発言をすることは、「意を汲んだ側」への配慮がないと思う。

先日、トヨタの米国人取締役の「薬物問題」で、豊田社長は「社員は家族」という趣旨の発言をした。
豊田社長は、彼女をかばったわけだ。
彼女をかばう必要があったかどうかは別にして、今日の東芝経営陣の発言を聞いていると「社員をかばう」という気持ちよりも、自己弁護に走ってしまったように感じる生活者が多かったのではないだろうか?
それは、今回の「不適切な会計処理問題」よりも、東芝のイメージを落とさせることになってしまったような気がする。

今回の件とは全く別だが、以前ちょっと面白い記事を読んだ。
日経新聞の「私の履歴書」に関する、面白いデータ分析だ。
その分析だあたっているのかどうかは、一読していただきたい。
ダイヤモンドオンライン:『私の履歴書』に出るとROEが低下するという怪



必要な視点は何だったのか?ということを教えてくれた「新国立競技場問題」

2015-07-17 21:57:42 | ビジネス

今日、安倍さんが「新国立競技場については、ゼロベースで検討する」と、発表した。
つい先日まで「この計画は、民主党政権時代に決まったことなので、私には関係ない」という趣旨の話をしていたことを考えれば、180度の方針転換とも言えなくない。
なんとなくだが、「安保法案」の強行採決で支持率が低下しているうえに、それ以上の問題として多くの国民が「新国立競技場の建設費責任問題」をとらえている、と感じたからの判断だったのでは?という気がしている。

さて、その「新国立競技場」について、元陸上選手の為末大さんがご自身のブログで「新しい国立競技場」についての思いを書かれている、とスポーツ紙が報じている。
日刊スポーツ:為末大し、新国立建設白紙にブログで持論

為末さんと言えば、街中で陸上競技を企画・実行をしたりと、現役時代から独自のスポーツ振興のアイディアを持っていらっしゃるアスリートだ。
そして、現役を引退されてからは、ご自身のブログなどで「市民スポーツの提唱(?)」を積極的にされてきている。
だからこそ、この為末さんの持論には頷けるところがたくさんある。

特に、その施設を「神聖な場所」とするのではなく、「スポーツをしない多くの市民にも、利用される場所にすべき」という指摘は、納得できるところがある。
何より「競技場は誰のために造られるのか?」という視点を、述べていらっしゃる。
今回の「新国立競技場」の設計・デザインが検討される中で、この「誰のために造るのか?」という視点はあったのだろうか?
確かに「オリンピック」という、スポーツの祭典という舞台を新たに造るという点では、華やかでその時代を象徴するような設計・デザインという視点になるのは当然かもしれない。
しかし、一番大切なことは「誰のための競技場なのか?」という当たり前の視点だったのではないだろうか?
それが、「未来的デザイン、建築としてのチャレンジ性を感じさせるデザイン」という視点で、まとまってしまったことが、今回の騒動の発端だったような気がする。

そして為末さんが指摘されている「誰のため」という視点こそ、ビジネスにおいても重要な視点だということだ。
「モノ・コトづくり」において、よく問われる一つに「これまでにないもの」ということがある。
「これまでにないもの」というのは、新しい市場を創りその市場で一番になれる、ということを指している場合が多い。
しかし、「これまでにないもの」を創り出しても、「誰も使ってくれない」のであれば、市場を創り出すことなどできない。
本当は「誰かのために、これまでにないもの」を創り出す、ということが大切なのではないだろうか?
それは「人を思う気持ちだったり、人の思いを想像すること」だったりすることだと思う。
その「人」とは、社会的弱者となる人たちであったり、様々な問題を抱えながらも社会の中で暮らす人たちなのではないだろうか?
だからこそ、為末さんは「パラリンピアンの意見を入れて欲しい」と、言っているのだと思う。

「新国立競技場」の問題は、図らずも「必要な視点は何か?」ということを、教えてくれたような気がする。
見た目の豪華さ・派手さよりも、使い勝手とか周囲との調和といった「当たり前の視点」は、見落とされがちだが、その視点の上に「未来的、新しい技術」がなければ「新しいの意味をなさない」ということを。


ハコものの建築費が知らぬ間に、値上がりする理由

2015-07-16 16:53:47 | Weblog

国民の多くの反対を押し切って、「安全保障関連法案」が衆議院を通過し、今国会で成立する見通しとなった。
これで、安倍さんは「オバマさんとの約束を果たした」と、安堵していることだろう。
しかし、ここにきて安倍さんの頭を悩ませる問題が発生した。
「新国立競技場建設費」の問題だ。

昨夜あたりから、「建設デザインの見直しを含め、建築費削減を検討したい」ということを、話始めていらっしゃるようだ。
そして、今日このデザインを強く推薦した建築家の安藤忠雄さんが、都内で記者会見をされた。
日刊スポーツ:安藤忠雄氏「我々、選んだ責任はある」会見(上)
       安藤忠雄氏「私ええーっと思いました」会見(下)

記者会見の詳細は、読んでいただくほうが良いと思うのだが、そのなかで気になったところがある。
それは、一般的な建築費の話をされているところだ。

「(例えば)私たちが3000万円で家を造るとすると、いや3700万円かかるというと、何とか3000万にならんかな、という話があって、調整して3200万円にする」

私は、家を建てたこともないし、今後も建てる予定はないので、実際にはどのような話を建築家と話して家を建てるのかは知らない。
ただ、安藤さんの様に著名な建築家は、一般個人住宅よりも公共性の高い建築物をデザイン・設計されることが多いはずだ。
ということは、最初から予算内に収めるデザイン・設計を考えるのではなく、予算を超えるデザイン・設計をして、そこからコストダウンを図る、ということが一般的だということのようだ。

よく公共事業などで造られた「ハコもの」が、当初予算よりも大幅に超えるということが、ままとしてある。
そのたびに不思議な気がしたのだが、この話を聞くと、最初から「予算内に収める」という気がない、ということだろう。
製造業に携わる方々からすれば、何ともうらやましいような話だと思う。
そして、今回の「新国立競技場」の建設費が膨大に膨れ上がったことは、「度が過ぎた」程度のことなのかもしれない。
極ふつうの生活者の感覚からは、信じられないが・・・。