日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

農協といえども・・・

2011-10-31 20:03:03 | ビジネス
あまり大きな記事ではなかったのだが、富山のある農協が農協ごと農協組合から脱退する、という記事があった。
福井の地域農協、コメ販売を自主展開へ 全中は困惑(紹介記事は、朝日新聞)

この記事を読んでわかったことは、地域農協は全中に対して「上納金」のような手数料を支払っていたということ。
農協とは縁が無いこともあり、初めて知り驚いている。
そしてもう一つは、農協といえども決して一枚岩ではない、というコト。

この富山の地域農協の脱退、というのは今問題になっている「TPP」との関係という点で考えると、とても意味深いように思う。
というのも、現在「TPP」に反対する大きな理由が、「お米の輸入自由化によって、日本の米農家は立ち行かなくなる」という前提があるからだ。
ところが、その米農家さんを取りまとめているはずの地域農協が、台湾などへ輸出を決め海外へのお米販売の足がかりをつけようとしているのだ。
全中をはじめとする「TPP加入=米農家の破綻」という構図が、地域の農協によって「それって、違うんじゃない?」と疑問を突きつけられてしまったようなカタチになってしまったのだ。
と、考えると「TPP恐れる必要は無い」と言っている、農協に参加していない農業法人と同じ考えを持っている人が、農協という組織内にもいる、というコトになるからだ。

「上納金」という表現はとても乱暴だと思うのだが、全中の主要事業の一つに「金融」がある。
農家が耕運機などの高額な農機具などを購入する際、貸付をしたり農協を通して販売したお米や野菜などの収益を管理したり、といういわゆる「お金にまつわる一切のことを農協が戸々の農家に代わってやっている」と思っていた。
そのほかに、地域農協から全中へ手数料を支払っていたとは・・・。
おそらく名目上は、「管理・事務処理手数料」というコトなのでは?と、想像するのだが今のようなオンライン処理の時代に・・・と思う反面、確か金融事業としての農協の取扱高は、メガバンク以上だったように思う。
儲かる仕組みといっても、本来の農業によるものではなかった、という点で考えさせられる。
その「仕組み」について疑問をもっての脱退、という部分もとても気になる。

TPPの問題だけではなく、今まで日本の米政策の重要な役割を果たしてきた農協そのもののあり方も問われている、というコト。
記事としては小さいのだが、その内容と意味するところは、とても大きな問題のように感じるのだ。

ピンチをチャンスに変えるコト

2011-10-30 22:10:13 | ビジネス
今日1日、所要があり出かけていた。
用事が済み、ちょっと買い物を・・・と思いいろいろなお店を見て歩いていた。
そのときちょっと面白い商品を説明し、販売していた。
「え!何?」と思い、商品の前に立ち止まると、早速販売担当の方の説明が始まった。

説明された商品は、「トウモロコシからできたプラスチック食器」
「トウモロコシからプラスチック」ということを聞いたのは、これが初めてではない。
確か富士通のPCの一部プラスチックも、トウモロコシなどから作られていたように記憶している。

2002年富士通環境広告[とうもろこしからプラスチック」
そのため「目新しさ」というモノは、まったくなかった。
私が興味を引いたのは、その製造会社がこのプラスチック食器を作るようになった過程だった。

この企業のHPを見ると良くわかるのだが、実はこの企業はトヨタ自動車などの下請けとして、金型をメインに作る企業だったようだ。
しかし、リーマンショックで金型などの注文が減る中、何か金型技術を使って下請け企業としてではなく、独自の商品作りができないか?と、模索し始めたどりついたのが、この「プラスチック食器」だったのだ。

書いてしまうとわずか数行で終わってしまうのだが、「リーマンショック」という自分とは無関係な理由で、金型の注文が減ってしまう中で「自分たちの特化できる技術は何だろう?」と、考え抜いた上でこの「トウモロコシプラスチック食器」を作るにいたったのだった。
要した時間は、1年以上。
トウモロコシプラスチックの短所である、型からはずす際せっかく成形したものが、上手に外れない、という問題を解決し、その技術は現在この企業だけしか持っていないという。

まさに「ピンチをチャンスに変える」という、コトだろう。
もちろん、簡単にできるわけではないし、プラスチック食器そのものは、市場にたくさん出回っている。
100円ショップなどで売られている。
それでも、リーマンショックのような外的要因で企業が危機に晒されている状況を打破するために、あえて自分たちの強みを見直し、それまで培ってきた技術に新しい技術をプラスして、下請け企業からの脱却を図りつつ、付加価値性の高いモノを作ろうとしている。

この姿勢こそ、大事なのではないだろうか?

方向性が違ってきているのでは?-市民放射能測定ー

2011-10-29 22:27:48 | 徒然
先日、東京の世田谷区で高い放射線量が計測されたと、問題になった。
結局、放射線が測定されたお宅の床下から、ずいぶん古い塗料が見つかり、それが原因だったらしい、というコトになった。
そして今日、同じく世田谷区にあるスーパーマーケットの駐車場でも高い放射線量が測定された、と問題(というのだろうか?)になっている。

この2件とも高い放射線量を測定したのは、役所や東京電力などではなく、いわゆる市民グループによるもの。
さまざまな意見があると思うのだが、役所などに代わって自主的に放射線量を測っているという、市民グループの通報というコトに、なんとなく違和感を感じている。

確かに、東京電力や役所が発表する内容が信じられないから、自主的に測定をしていらっしゃるのだと思うのだが、そもそも福島から遠く離れた東京でなぜ、それほどまでに神経質になって市民グループが測定をするのだろう?
測定をする、といっても「放射能」は測定できても、それが「どんな放射性物質」なのかは、わからない。
実際私たちの生活圏には、さまざまな放射能を発するモノがたくさんある。
野菜にしてもカリウムが含まれている野菜は、放射線を発しているといわれているし、ラドン温泉などは、まさに放射能を発する温泉だ。
温泉が全国各地にある日本なら、全国各地で高い放射線量が測定されても、不思議ではないと思う。

そのような事情というか、状況を考えると、自主的に放射能測定を市民がする、という意味はどこにあるのだろう?と、考えてしまうのだ。
コトの始まりは、東京電力「福島第一原子力発電所」での事故だったはずだ。
それが今では、その事故よりも放射線ばかりが話題になってしまっている。
一番大切なことは、「福島第一原子力発電所事故」の早期収束のはずだ。
そこをおざなりにして、放射能が怖いから高価で確実な測定ができるといわれている測定器を使って、あちらこちら測定して回る、というのはどこか本来の問題からずれているような気がするのだ。
もちろん、それを「大事件!」とばかりに、報道するほうにも問題があると思う。

物事の本筋を見ないで、騒いでいるような気がするのは私だけだろうか?

ネーミングはとても大事

2011-10-28 20:22:54 | マーケティング
プロ野球球団、横浜ベイスターズをTBSから買収の名乗りを上げた、ゲーム会社DeNA。
買収に対しても、一部チームからは「出会い系サイトを運営している」コトを問題視されたようだ。
確かに、「プロスポーツを運営する会社が、出会い系サイトも運営している」というのは、、あまり良いものではないと思う。
なぜなら、多くの人が求めるスポーツの魅力と出会い系サイトとは、相容れないモノだからだ。

しかしその問題は、DeNAが出会い系サイトをやめれば良いだけの話である。
会社としては「収益の大きな柱」かも知れないが、本気でプロ野球球団を買収したい、というのであれば、横浜ベイスターズのファンやその他球団の熱心なファンのために、やめる覚悟もまた必要だと思う。

ところで、昨日あたりから問題になっているのはこの買収問題ではなく、チーム名についてだ。
DeNA側は、会社の看板事業である「モバゲー」を使いたいらしいのだが、他球団がそれに難色を示しているようだ。
確かに「横浜モバゲー」とか「モバゲー横浜」では、ちっとも強そうなイメージがわかない。
現在の戦績以上に、弱そうな気がしてくる。
第一、とても言いにくい。

何も今回に限ったことではないと思うのだが、スポーツチームのネーミングというのは「言い易さ」とともに「強そう」なイメージが重要だ。
だからこそ、日本のプロ野球の球団名には「竜」や「虎」、「猛牛」という名前が付くのだ。
もう一つは、そのチームのホームとなる場所をネーミングで使う場合も多い。
「千葉ロッテマリーンズ」のように、千葉県を象徴する「海」を取り入れて、地元のファンを増やしたい、という思いが伝わってくる。
要は、「強そうなイメージ」と「地元から愛される」チーム名が、必要だということ。
とすれば、今回の「横浜ベイスターズ」の場合、ネーミングとしてありえないような名前が、候補として挙げられた、というのが問題だと思う。

しかしこのような例は、今回のDeNAの「モバゲー」に限ったことではないように思う。
自分たちの思い入れが強すぎて、その商品の特性や言いやすさなど、ネーミングの基本となるポイントを忘れてしまうコトが少なくない。

「横浜モバゲーベイスターズ」や「モバゲー横浜ベイスターズ」では、スポーツ番組などのメディアで表記されるときの印象を想像すると、やはり「・・・」という気がする。
やはり買収した企業名を入れるにしても、もうちょっと考えたほうが良いのでは?
なぜなら、「名は体をあらわす」とおり、そのチームを表すモノなのだから。

いろいろな意味で凄い会社

2011-10-27 18:22:37 | 徒然
「大王製紙の前会長が、関連会社からの融資をカジノに使っていた」、という記事がさまざまなところで、書かれている。
特に週刊誌などは、ここ2,3週間この記事が掲載されていたような気がする。

「会社のお金を使い込んで、遊興費としていた」という事件は、過去何度もあった。
中には数十億というお金をつぎ込んでいた、という事件もあったと記憶している。
ただ、それらの事件は会計責任者のような、本来であれば「金庫番」のような役の人が、帳簿などを操作して、表面上わかりにくくして使い込んでいたという内容だった。

今回は、堂々と関連会社に融資をさせ百億以上のお金を、カジノにつぎ込んでいたという。
カジノにつぎ込んだ金額も凄いが、融資をしていた側の企業が融資内容のチェックや融資後の状況をチェックしていなかった、というコトにも驚いている。

確かに、創業家一族の会長職にある人物への融資なので、甘くなるのもわからないわけではない。
しかし曲がりなりにも、上場企業としての経理処理というものがあるのではないだろうか?
当然、監査なども入っているだろうし、その時点で融資としておかしいという指摘は無かったのだろうか?
個人への融資といっても、常識的な金額ではないというコトから、融資を断ることもできたのではないだろうか?
「同族会社だから、融資が甘くなった」という、範疇の額ではない。
どんぶり勘定のような経営実態、というレベルでもない。
ただただ、驚くばかりいうしかない。

ちょうど同じ時期に問題となっているオリンパスとは、まったく違う次元で、日本の企業経営の汚点となりそうな事件だと思う。

それにしても「不惑の40」を超えてから、ギャンブルにのめり込んだお坊ちゃま経営者の企業の従業員の方々の心境を考えると、複雑なモノがある。
企業にではなく、仕事に誇りを持って欲しい・・・それだけは伝えたい。

見ているところが違う、プロフェッショナルたち

2011-10-25 20:05:17 | マーケティング
週末に購入したを読み進めている。
その中で、ちょっとビックリした記述があった。
それは、車のデザインについて。

私は、名古屋に住んでいながら運転免許を持っていない。
当然のことながら、自動車も保有してない。
そのためだろう、車に対してイマイチ興味が持てない。
どのようなデザインであろうと、「アァァ、車だ~」と思う程度。
過去に1度だけ「そのデザインって・・・」と首を傾げたくなるような車はあったが、そのデザインは、しばらくしてなくなってしまった。
デザインコンセプトは、とても面白いと思ったが実際街中で走るコトを考えると、デザインが奇抜すぎるように感じた車だった。

その程度の知識と感覚しか持っていない私が驚いたのだ。
その驚いた理由とは・・・。
車のデザインをされている方々にとって、一番凄い!と感じるデザインの車はダイハツの「タント」だという。
国内外における「カー・オブ・ザイヤー」などを受賞している車ではなく、むしろそのような賞とは無縁そうな軽自動車の「タント」を選んでいる。

そしてその理由を知ると、納得をしてしまった。
それは軽自動車という制約の中で、最大限の居住空間を確保し、ピラーレスという構造にすることで、乗り降りに邪魔な部分を取り去ることができている、というコト。
これまで自動車のデザインというと、空気抵抗を減らし、スムーズな加速を考えた流線型に近いモノが多かった。
実際今でも、流線型を基にしたデザインが多いはずだ。
それに対して、ダイハツの「タント」は子供が描く「自動車」の形に近い、四角い車だ。
その大きな理由として、「生活の中の自動車」というコトを考え抜いたデザインというコトのようだ。

もう一つ理由を挙げるとすれば、これまでの自動車は「所有すること」が大切なポイントだった。
「こんな車に乗っていると、かっこよい」とか、「いつかは、ベンツに乗りたい」というような「所有する夢」の要素があったはずだ。
しかし今の日本の社会・経済状況では、「所有する夢」よりも「日々の生活の中で使いやすい」というコトのほうが、重要視されているはず。
そのような視点で見ると「タント」は、そのような「時代の気持ちや空気感」を読み取ったデザインだといえるようだ。

理由を知れば納得できる点も多くあるのだが、一瞬その文だけを読むと「なぜ???」と思ってしまう。
おそらくこれが、プロの視点と言われるモノなのだろう。
プロだからこそ、一般の人たちでは気づかない点を見る力と説明力が大切なのだと、思ったのだった。

「ブランド」って、何だろう

2011-10-24 20:09:10 | 徒然
おそらく、私の周囲のみの局地的なコトだと思うのだが、最近「セルフ・ブランディングの○○」というセミナーを目にする。
セミナーの主は、MBAを取得しているマーケティングプランナーさん。
私のような、現場たたき上げ(?)の売れないマーケターではなく、米国の大学でMBAを取得された方。
そんな方だからこそ、セミナーができるのだと思っているのだが、気になるのは「セルフ・ブランディング」というコト。

私たちが日ごろ使う「ブランド」という言葉の元は、放牧している牛を自分の牛なのか他所の牛なのか見分けるための「焼印」だといわれている。
その「焼印」が、牛の良し悪しの目安となり「○○印の牛は、品質が良い」という評判が立ち、牛そのものの質ではなく○○印が、市場への信頼感を生み、それが「ブランド」になっていった、と聞いたことがある。
言い換えれば、「ブランド」には「他者からの認知と信頼」があってこそ、初めて成り立つモノだと思っている。
だからこそ、企業の不祥事が起きれば「ブランドに傷がつく=信頼が失われる」といわれるのだ。

私の周囲のみ局地的な「セルフ・ブランディング」という言葉を聞くたびに、今から20年以上前に若い世代(現在の40代くらいだろうか?)がよく使っていた「私って、○○な人だから・・・」という言葉を思い出す。
「私って、○○な人だから」というコトで、自分の得意をPRしつつ、自分のやりたくないこと・苦手なこともPRしているように感じていた。
違う言葉で言えば「やりたくない」と予防線を張りつつ、自分のやりたいことだけを主張しているように感じていたのだった。
それと同じ印象を「セルフ・ブランディング」という言葉に感じてしまうのだ。

確かに、自分の得意分野を伸ばし、それを周囲に認めてもらうということはとても大切なこと。
まして起業しようとするなら、そこはとても重要になる。
だからといって、実績を作る前にブランドを作ることが大事なことなのだろうか?
まだ、社会どころか周囲からも認められていない状態なのに。

自己分析をし、自分の得意なことを見つけそれをアピールする、というコトは決して悪いことではないし、今の時代、それはとても必要な事だとも思う。
しかし、それが独りよがりなモノであっては、意味が無い。
「セルフ・ブランディング」をする時間があるのであれば、少しでも多くの人から信頼されるコトを考え、行動することのほうが大事だと思うのだが、それはやはり売れないたたき上げ(?)マーケターの負け犬の遠吠えだろうか?

今の日本に足りないものって、何だろう?

2011-10-23 08:40:48 | アラカルト
昨年3月に乳がんの手術を受けて以来、「乳がん」を含む「がん」という病気を勉強するようになった。
知れば知るほど、とても興味深い病気というだけではなく、とても個性的で一つとして同じではない、というコトに気がつく。
そんな中、すでに日本にある治療技術なのに、日本では積極的に行われず、海外で認められ逆輸入のようなカタチであらためて紹介される、というケースがあるコトも知った。

たとえば、乳がんで全摘手術をされその後乳房を再建するという手術がある。
現在、日本で一般的に行われているのは「腹部や背中の脂肪と筋肉を一部切除して移植」する「筋皮弁法」とシリコンなどの人工物を使うインプラントがある。
ところが、欧米などでは「穿通枝皮弁法」という、再建方法を希望される患者さんも多いという。
この「穿通枝皮弁法」という方法は、1989年日本で腹部の手術をし凹んでしまった腹部再建のために開発(というのだろうか?)された手術法。
それが欧米では、乳房再建の方法として一般化しつつあるというのだ。
この「穿通枝皮弁法」の大きな特徴は、現在日本で一般的な再建法よりも自然な形とやわらかさが再建できる、採取先の筋肉障害を起こさないというメリットがある。
乳房を失った女性からすれば、「乳房再建=左右同じような自然で柔らかな乳房」という意味なのだが、どうも医療の現場では「再建=作ること」で終わってしまっているようだ。

実際、この「穿通枝皮弁法」ができる整形外科の先生は、全国的にも数名だという。
せっかく日本で開発された高度な医療技術なのに、知られること無く、使われていないというのは「とてももったいない」と思うのは、私だけではないと思う。

医療現場と同じだと考えるのは乱暴だと思うが、同じようなことがいろいろなトコロで起きている。
たとえば、アップル社の「iPad」が発売された当初、世間の熱狂とは別に日本企業の一部関係者の間では「何も新しい技術などあるわけではない。作ろうと思えば自分たちでも作る技術はあった」というコトが言われたという。
その後、日本の企業が「Pad」に代わるような商品を発売するようになるのは、今年ソニーが発売した「ソニータブレット」間で待たなくてはならなかった。

「創意工夫をし、新しいモノをつくる」というのは、日本の得意だと思っていたのだが、どうも最近では違うように感じる。
まるで「相違工夫をし、新しい技術」はあっても、「新しい(生活を)創る」という発想に欠けているような気がするのだ。
それでは、オリジナリティの高い最先端の技術も、宝の持ち腐れとなってしまう。
問題だと感じるのは、「Pad」の時ように「技術的にはあるし、目新しい物ではない」と感じる、企業のほうだ。
日本の企業には「知的財産」獲得のために、研究・技術開発者に「(知的財産申請数)ノルマ」のようなものを掲げ、成果として評価するという時期があった。
いくら知的財産が増えても、使われないのでは財産ではないはずだ。

そのように考えると、今の日本に足りないもが見えてくるような気がする。

ピンとこない、企画アイディア

2011-10-21 21:00:54 | マーケティング
ユニクロが郵便局とタッグを組んで、新しいサービスを始めるようだ。
その名も「あったかめーる」

プレスリリースを読むと、その趣旨や企画目的などがわかるのだが、なんとなくピンとこない企画という気がしたのだった。
その理由は、「ヒートテック」という商品性にあるような気がしたのだった。

ご存知の方も多いと思うのだが、2,3年前から郵便局はキットカットとの共同企画で「サクラサクめーる」という企画商品を出している。
「キットカット」の場合、この企画が始まる前から受験生向けに「キット、サクラサクよ」というキャンペーンを展開していた。
そのためだろうか?この企画は継続的に行われ、開始当初は「憧れの先輩に受験がんばって!の応援メッセージを送る」というイメージだったものが、昨シーズンあたりから「(遠くの)孫に、受験応援メッセージ」というような、幅広い支持を得るようになってきたように感じている。

この「企画が定着し、幅広い層に受け入れられる」という点が、このような企画では重要だと思うのだ。
そのためには、「アァァ、なるほど」という印象ではなく「こんなことができたらうれしい!!」という生活者の気持ちを汲み取ることがとても大切になる。

そのように考えると、私だけかも知れないのだがこの企画を見たとき「ピンとこない・・・」というのが、第一印象だったのだ。
趣旨や目的をプレスリリースで読めば十分わかるのだが、最初に「アァァ、こんなことできるとうれしい!」という感覚がもてなかった。
その理由として「ヒートテック」という商品を、贈りたい人というのがわからなかった、という点がある。
このような「衣料品を送る」というのは、送る側・送られる側双方にとって「趣味の一致」というコトがとても重要になる。
女性の場合経験があると思うのだが、海外旅行のお土産としてスカーフなどをもらっても、自分の趣味と合わず、たんすの肥やしとなっているということはないだろうか?
「ヒートテック」の場合、「自分の趣味と合わず・・・」というコトは少ないかも知れないが、サイズが合わずといったコトが出てくるような気がしたのだ。
送る側としては「せっかく送るのだから、気に入ってもらいたい。寒い季節、送ったヒートテックを着て暖かくすごして欲しい」という気持ちがあると思う。
しかし、送られた側が「寒い季節、送ってもらったヒートテックがサイズ等が合わず、残念」というコトになれば、送る気持ち・送られた気持ちが半減してしまう。

決してアイディアとして悪いとは思わないが、いろいろ考えてしまう企画でもあるように思う。
拙ブログにこられる方々は、どう思いになっただろうか?

社会人だからこそ、勉強

2011-10-20 22:00:13 | ビジネス
今日は「新聞広告の日」だそうだ。
新聞真ん中くらいの頁に、4面使った「新聞広告の日」の特集がされている。
その中で、ニコンが広告主となった写真家の坂田栄一郎さんのインタビューを読んで、思ったことがある。

それは、いつの頃からかクライアントが広告の勉強をしなくなった、ということだ。
私も仕事で「クライアント」と呼ばれる時期が、長くあった。
だからといって、パンフレットなどの販促物を作るときは、それは必死にいろいろなことを勉強した。
それが今の仕事とへと結びつくのだが、ビジュアルの表現やコピー一つについても、受け手である生活者にどれだけ伝わるのか?とか、勘違いを生むような表現されていないか?など、さまざまな広告媒体を自分で見つけては質問をし、自分でも本や雑誌などで時間を見つけては勉強もした。
その理由は、「良い仕事がしたい!」という気持ちがあったからだ。
会社に貢献するというコトよりも、社会に届くようなモノを一緒になって創りたい、そんな気持ちが強くあった。

ところが、自分が「クライアント」に使われる立場になった今、「もう少しお勉強しましょうよ」と、言いたくなるときがある。
「お任せ」といわれれば、そうなのかも知れない。
でも、同じイメージで同じ方向性を持った共通認識をこちらが求めても、「まぁ、そこらへんは・・・」と、言葉をにごらせる方も少なくない。
何よりも社会に対して、敏感さがなくなりつつあるような気がしている。
確かに、情報が溢れPCの検索をクリックすればいとも簡単に、自分の知りたいことがわかる便利さはあるのだが、そこで止まってしまっているような気がするコトが多くなってきたのだ。

「その先にあるコト」と感じ取る力というモノが、本当はとても大切で、その力が「時代感」や「社会の空気感」のようなモノを敏感に捉えるのではないだろうか?
それは単に「広告」に限ったことではないと思う。
日本の工業製品が「ガラパゴス状態」になってしまったのは、メーカーだけの問題ではなく、社会全体が「その先」ということを見ようとしないことが多くなったからではないだろうか?
そのために必要な事、それは社会人としての勉強を怠らない事なのでは?

勉強といっても、大学などで学び直すとか資格を取得する、という事ばかりではない。
むしろ自分自身の感性を磨くために、仕事とは関係のない本を読むこと、自然の中ですごす事、時には美術館やコンサートへ足を運ぶ事などなど、もっと身近なところでいえば、空を見上げる事で、季節を感じるという方法もあると思う。

楽しい仕事をするために、「忙しい」からこそ自分自身で勉強する、それが大切なのでは?