日々是マーケティング

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もはや「異次言語」?‐Z世代の流行語‐

2023-06-08 20:29:51 | トレンド

ファッション専門誌のWWDのWebサイトを見ていたら、「もはや異質の言語」という印象を受ける記事があった。
WWD:「流行った言葉」1位は”蛙化現象”「Z世代が選ぶ2023年上半期トレンドランキング」発表 

拙ブログに来られる方で、このトップ10ランキングの言葉をどれだけご存じだったのだろう?
「何となくわかるけど」という流行語は、わずか2つほどしかなく、他の言葉は見たことも・聞いたこともない、という言葉だった。
確かに、Z世代と呼ばれる中高校生~社会人2年目くらいの人達と接する機会は皆無だ。
だから知らなくて当然、ということになるのかもしれないが、それにしても元々の言葉の原型をとどめている流行語そのものも少ない、と感じている。
1位になった「蛙化現象」等は、一体何を指す言葉なのか?想像すらできなかった。
記事の説明文を読んでも、ますます疑問符ばかりが付いてしまう。

確かに「言葉は生き物」と言われるくらい、時代と共に生まれ、流行する言葉が毎年のようにある。
Twitterが流行し始めた頃は「〇〇なう」という、「今〇〇をしている」という言葉が、SNS界隈以外でも使われていた。
しかし、「〇〇なう」という言葉そのものを、今でもSNS上で使っているのか?と聞かれれば、おそらく今となっては「死語」のような扱われ方だろう。
時代の変化やスピード化によって、様々なモノが「陳腐化」してしまう。
その「陳腐化速度」が、年々早まっている、というのが今という時代なのだと感じている。

そして「若者言葉」そのものが「仲間内だけで認識されるような言葉」ということを考えると、「蛙化現象」などの言葉や意味を理解する必要はない、ということになる。
むしろ「若者言葉」は、仲間内から世間へと使われる場所が移っていくと、若者言葉そのものが陳腐化した、と使っている若者たちは感じてしまい、新しい「仲間内語」をつくりだしていく。
そのような傾向は、今に始まったことではないので、経験値的によくご存じの方も多いのではないだろうか?

上述したように、「仲間内言語」そのものは、仲間内以外で使われるようになると、急速に使われなくなり陳腐化してしまう。
その関係性は、「トレンドをつくり出していくフロントランナーとフォロワー」の関係に近いのかもしれない。
とはいうものの、「若者言葉」が生まれた社会的背景やその世代の価値観のようなモノが、「若者言葉」に反映されているという点を忘れてはいけないだろう。

今回のトップ10の中には、いわゆる「赤ちゃん語」と思われる言葉がいくつかランクインをしている。
「赤ちゃん言葉を使うのは、何故だろうか?」という、疑問を感じ取る事が重要なのだ。
「赤ちゃん言葉」を使う理由として、私が感じたことは「甘えたい・可愛く見られたい・(他者に)頼りたい・大人になりたくない」のでは?と、感じた。
「だから、今の若者はしっかりしないのだ」というのではなく、Z世代はそれよりも上の世代よりも大きな不安を抱えているのでは?ともとれる。

Z世代の流行語は「異次言語」だと感じる部分が、多々あるがそれらの言葉にあるZ世代の社会に対する感じ方を、キャッチすることが重要だと感じる。

 


「映え」る時代は終わりつつある?

2023-01-26 19:25:10 | トレンド

SNSの一般化に伴い、頻繁に言われるようになった言葉がある。
「映え」と「リア充」だ。
ご存じのように「映え」というのは、InstagramやTikTokのような映像や動画のSNSに投稿する時、「写真映え(動画映え)する」という意味のことだ。
「見栄えの良さ」をお求めて、飲食店などに行き注文をした食べ物が運ばれてくると、まずスマホで写真を撮り、ツイッターなどのSNSへ投稿する、というのが今では当たり前のようになっている。

この「映え」ているのは、写真などを撮ったり動画にしたりするときの対象物(例えば、食べ物など)を、いかに美しく・時には美味しそうにスマホで撮影をするのか?というのが重要なポイントだと言っても過言ではないだろう。
その一方、最近ではすっかり聞かなくなった感があるのが「リア充」かもしれない。
「リア充」というのは、「自分の充実した生活の一コマ」を切り取り、SNSに投稿するということを指していた(と、記憶している)。

この「リア充」状態を SNSに投稿するコトは「素敵な私を見て!」という自己アピールの一つだと言える。
「リア充」は、SNSの投稿者の生活を切り取り、SNS仲間に自分をアピールするための事であった、ということは違いないだろう。
その「リア充」アピールをするために、経済的にも相当無理をしていた人も少なくなかった、という話があった。
個人的には、「何故そこまでして、『リア充』アピールをしなくてはならないのか?」わからなかったのだが、もしかしたら最近の言葉でいう「マウント」をとりたかった、だけなのかもしれない。

とはいえ、「虚構のリア充」などは、すぐに見破れれらてしまう。
そんな「リア充」のSNSが、パタリと無くなったのは「新型コロナ」の感染拡大が始まった頃のような気がする。
社会的行動が規制された事で、「リア充」を撮る場所が無くなってしまったのだ。
強いてあげるなら「盛る」と言われるような、スマホのアプリで写真を加工する程度になったのだ。
とはいえスマホのアプリで「盛る」のも、限度があるしそもそも「盛るためのアプリを使ってSNSに投稿している」と、分かることがカッコ悪い事のように感じる人達が増えたように思う。

そのような社会変化の中で登場したのが「BeReal」というSNSだ。
Huffpost:”盛らない”SNS「Be Real」は、”映え”社会の救世主なのか 

上述したように「映え」を求めて「盛った」画像や動画をSNSに投稿する、ということに飽き始めた人たちにとって「Be Real」というのは、目新しさがあるSNSだと思う。
だからと言って、例えば「寝起きの顔」をInstagramなどに投稿できるのか?と言えば、それは無理だろう。
「寝起きの顔」等は、日々の生活の中でもプライベート度が高いからだ。
むしろ「寝起きの顔」を不特定多数がアクセスするSNSに投稿できる人がいるとすれば、相当強靭な精神の持ち主だと思う。
とすれば、「Be Real」でつながる相手というのは、相当親密度が高い相手に限定される、ということになるのでは?
まして今は「Digital Tattoo」という言葉がある通り、SNSなどに投稿されたものが拡散され、自分の知らないところで保存され、拡散され続ける、というリスクがあるのだ。

「映え」るために「盛る」必要はなくても、SNS上では様々なリスクがある、ということを考えれば、「Be Real」は企業向きなのかな?という、気もする。
少なくとも「素の自分」であっても、「本音と建て前」のような使い分けがSNSには、必要なのではないだろうか?




「歌は世につれ、世は歌につれ」というけれど…

2022-08-11 21:20:01 | トレンド

今朝、FM番組を聞いてたら、面白いデータを取り上げていた。
博報堂が定期的に発表している「ひらけ、みらい。生活総研」が発表をしている、あるデータを取り上げていたのだ。
博報堂 ひらけ、みらい。生活総研:ヒットソング 昭和 to 令和「生活者」展1981‐2021

ヒットソングと言っても、ここで取り上げているのは「使われていることば」だ。
誰々が、〇〇ヒットを飛ばした、という話ではない。
ヒット曲に使われている言葉を分析することで、その時々の生活者の思考や心理、社会背景を考えるということなのだ。

このレポートの中で面白いな、と感じたのは「一人称(わたし・ぼく)と二人称(あなた・君)」という言葉の変化だ。
取り上げている「ぼく・君」という言葉が多様されるようになり、ジェンダーレス化しているという考察だ。
この「ぼく・君」という言葉を多用しているヒットメーカーは、宇多田ヒカルさんや浜崎あゆみさんなのだ。
特に宇多田ヒカルさんは、インタビュー等でもご自身のことを、「ぼく」と話されていたように記憶している。
女性がそれまで男性が使っていた「ぼく」という言葉を普段から使い、曲を書く時もそのまま使っている、という点で「ジェンダーレス化」と言えるのだろう。
決して、男性が女性に近づいて「ジェンダーレス化」している、という訳ではなさそうだ。
最近では、小学校で「〇〇君」という呼び方から「〇〇さん」に統一するような動きがある、という話も聞く。
とすれば、今の小学生が大人になる頃には「ぼく・きみ」という表現の歌は無くなり、「わたし・あなた」になるかもしれない。

また、調査対象が2021年までということを考えると、「コロナ禍」がヒット曲にどのような影響を与えたのか?という点が、気になってくる。
「ぼく・わたし・きみ・あなた」という、関係性の言葉ではなくもっと多様な関係性の言葉が使われるようになるのか?それとも、そのような言葉からより内省的な言葉が使われるようになるのか?
このような言葉の使われ方によっては、「内向き志向」が強まったのか?、「閉塞感を打ち破りたい」という変化が見られたのか?ということから、生活者の「気分」が分かってくるからだ。

もちろん、ヒット曲と言ってもそれらの楽曲を聴く層があり、最近では聴き方についても分析をする必要があるだろう。
例えばCDを購入して聴く層とSpotifyのようなストリーミングで聴く層とでは、音楽そのものの聴き方が違うし、生活のスタイルも違うからだ。
もしかしたら、CDセールとストリーミングとでは、まったく違うヒット曲が登場するかもしれない。
そのようなことも含め、時代の変化と共に「人は使う言葉が変わり、使う言葉が変わることで、その人との関係性も変わってくる」ということだけは言えそうだ。

ヒット曲だけではなく、言葉そのものが時代を映す鏡のようなものであり、共感性や分かりやすさという点でヒット曲という切り口で、生活者の変化を考えるということも、面白いかもしれない。



動物愛護の違う視点?‐クロエの副産物リアルレザー‐

2022-03-04 23:51:19 | トレンド

VOUGEのサイトを見ていたら、興味深いコレクションがあった。
Chloéの2022-2023秋冬コレクションだ。
VOUGE:クロエは副産物のリアルレザーを採用 気候変動の問題と再野生化を掲げて 22-23AWパリコレ速報

「動物愛護」の名のもと、毛皮のコレクションを発表するデザイナーが、ほとんどいなくなったのはご存じの方も多いと思う。
その流れから、いわゆる「リアルレザー」と呼ばれる、牛革などを使ったコレクションを発表するデザイナーも、激減していたような気がする。
そのような大きな流れに、一石を投じるようなクロエのリアルレザーを使った秋冬のコレクションということになる。

しかし考えてみれば、私たちが普段食べているお肉は、牛や豚、鶏などを殺すことで得られる食べ物である、ということには変わりない。
ここ数年話題になっている「ヴィーガン(肉や魚、乳製品を排除した食事)」を好む人たちも、徐々に増え始めているとはいえ、多くの人たちは牛肉や豚肉、鶏肉などを日々の食事の中で食べているのではないだろうか?

とすれば、当然のように「食べない部位」が出てくる。
鶏肉の場合は鳥皮も食べるが、豚や牛の場合は好んで皮を食べること言うことはないだろう。
それはジビエ料理が盛んな欧州であれば、対象となる動物は増えるはずだ。
そのような部位も、古の人たちは活用をしてきた、という歴史はある。
その活用先として、毛皮というものもあったのではないだろうか?

それが産業化されたことで「毛皮用動物の飼育」が始まり、今その「毛皮用動物の飼育」が、「動物愛護」という視点で止める方向へと向かっている、という状況なのだと思う。
確かに「毛皮用動物の飼育」という視点で考える「動物愛護」の考えは社会的にも受け入れられると思う。
しかし、牛や豚のように昔から人の生活の中で「食べるために飼育されてきた動物」となると、その「動物愛護」という視点から外れてしまう場合が多い。
とすれば、人が食べない部位を廃棄するのは、環境という視点で考えたたとき、どうなのか?という問いかけをしているのが、今回のクロエのコレクションのような気がするのだ。

上述したように、大昔の人たちは動物と共に生活をし、時にはその動物を殺し、食べることで生きてきた。
そのことを、否定することはできないだろうし、批判することもできないだろう。
ただ、殺した動物のすべてを生活の中で活用することで、その動物に感謝をし恵としてきたのではないだろうか?
とすれば、人として動物の生をいただくのであれば、その命のすべてを無駄にすることなく、使うということもまた「愛護」ということになるのかもしれない。

人は、生きていくために牛や豚、鶏などの家畜を食べ、丹精込めて作った野菜や米・小麦などの植物を収穫し、食べることで命をつなぐことができている。
過剰な「動物愛護」をいうあまり、命をいただいた家畜たちの生を無駄にすることのほうが、家畜に対して失礼なのではないだろうか?
そんなことをクロエは訴えているのでは、ないだろうか?


「鬼滅の刃」が超える壁

2020-11-11 18:23:06 | トレンド

封切り前から話題になり、今や「社会現象」ともいえる状況となっているアニメ「鬼滅の刃 無限列車編」。
公式サイト:劇場版「鬼滅の刃」無限列車編

封切り直後から、話題となり僅か1ヵ月弱で200億円の興行収益を突破、累計観客動員数も1,500万人を超すほどだ。
ジブリ映画以外でこれほどヒットしたアニメ映画というのは、これまでなかったのでは?という、気がしている。
これだけの大ヒットをする要因は、既にコミックスとして人気があり、それがテレビでアニメ化され、満を持しての映画化ということもあると思うのだが、映画館に足を運んでいる人たちがテレビアニメでファンになった子供たちだけではなく、その親、その祖父母という3世代の観客動員という、これまでとは違う動員構成となっている、という点でも特異な気がしている。
そして劇場版のヒットは、日本だけではなくアジア諸国や米国にまで及んでいる、という点で考えるとその勢いの凄さに、驚くばかりだ。

そして映画だけがヒットをしていると思われがちだが、実は主題歌も米国のヒットチャートを駆け上がっている。
billboard:LiSA「炎」が米ビルボード・グローバルチャート トップ10入り

詳細については、リンク先のビルボードの記事を読んでいただきたいのだが、このグローバルチャートの1位となっているBTSは韓国の男性ポップグループで、歌詞そのものが英語のものだ。
それに対してLiSAの「炎」は、劇場版「鬼滅の刃」無限列車編に合わせ、日本語でのリリースとなっているはずだ。
米国での映画のヒットもあってのことではあるが、日本語の楽曲が米国のヒットチャートのトップ10入りする、というのは坂本九さんの「上を向いて歩こう(海外でのタイトルは「スキヤキ」)」以来ではないだろうか?

米国での公開状況が分からないので、映画そのものに字幕や吹替がされているのかもしれないのだが、主題歌に関していえばおそらく映画の世界観を表現するために字幕付きかもしれないのだが、LiSAさんの「炎」がそのまま使われているのでは?と、考えている。
とすれば、米国内で劇場版「鬼滅の刃」無限列車編を見て、主題歌が気に入ってストリーミングで聞いている人たちが、日本語という言語の壁を飛び越えて楽しんでいるのでは?と、思っている。

政府が大手広告代理店を使って、「COOL JAPAN」のキャンペーンをするよりも遥かに大きな効果を上げているのが、今の日本のアニメであり、その代表となっているのが「鬼滅の刃」ということになると思う。
もちろん「鬼滅の刃」の前には、ジブリ作品があり、「キャプテン翼」等海外でも大ヒットしたアニメや(日本の)カワイイの代表である、サンリオのキティーちゃんなどの存在があっての、映画の大ヒットであり、主題歌の大ヒットだ。

ただ、LiSAさんの「炎」のヒットは、ストリーミングチャートを賑わしている若いミュージシャンたちにとって、自分たちの音楽マーケットが、日本国内ではないという意識付けをするのではないだろうか?
そう考えると、「鬼滅の刃」というアニメが切り開いたグローバルマーケットは、様々な影響を与え「言葉の壁」さえも、乗り越えていく可能性を感じさせているように思うのだ。







グラミー賞は社会を映したのか?

2020-01-28 20:06:51 | トレンド

昨夜、米最高の音楽賞と言われる「グラミー賞」の授賞式があった。
わずか18歳のビリー・アイリッシュが、主要4部門を獲得し、話題になっている。
billboard Japan:第62回グラミー賞 ビリー・アイリッシュ主要4部門独占、計5つの賞に輝く快挙

久しく洋楽を聞いていなかったところもあり、受賞曲「Bad Guy」を聞いたことが無かった。
MVを見てみると、「これが受賞曲なのか・・・???」と思うほど、単調なリズムにかぶさるような呟きにも似た歌。何より、不機嫌そうな表情のMVで、驚いた。
欅坂を脱退した平手さんよりも、表情の不機嫌度は高いのでは?と、感じるほど表情そのものが無く、MVとしてもザワザワとした居心地の悪さを感じてしまった(おそらく、私がそれなりの年だからだろう)。
他にも候補となったLizzoの「Truth Hurts」のMVを見ても、これまでのような「楽曲」というよりもラップに近いような印象を持ったのだった。
そしてシチュエーションは結婚式なのに、このMVもどこか居心地の悪さのようなものを、感じてしまったのだ。

ただ、この「居心地の悪さ」のようなものが、今の米国なのかもしれない?と、感じる部分でもあった。
「歌は世につれ、世は歌につれ」と言う言葉があるように、その時々の時代感を言うものをヒット曲が表しているからだ。
今回受賞した「Bad Guy」は、日本語にすれば「悪い男」となる。
とはいうものの、楽曲とMVがリンクした表現となっているわけではないし、むしろ「Bad Guy」という言葉は、今の米国の閉塞感を持っている若い世代たちの心情的な「ジレンマ」を表現しているようにも見える。
また、LizzoのMVなどを見ると分かるのだが、MVの制作においても「キレイ」な表現を求められる時代ではなく、今の社会の様々な人たちを登場させる、ということが多くの人の気持ちをとらえるのだろうか?という、印象もある。
Lizzo自身、プラスサイズと呼ばれるような体形であり、そのコトに対して自信を持っているように見受けられるからだ。
彼女の場合、黒人+プラスサイズということを考えれば、華やかな米国の音楽業界においては「異端的存在」と30年くらい前なら言われただろう。
30年くらい前ならハンディであることが、今ではハンディではなくなってきている、ということを今回のグラミー賞は表したようにも思えるのだ。
ビリー・アイリッシュのファッションなどを見ても、「女性らしいファッション」ではなく、オーバーサイズの服を好んで着ることで、「性的なイメージを消す」ことに成功しているようにも思えるし、それが一つの彼女の主張となっているようにも感じるのだ。

もちろん、カントリー音楽の大御所となったタニア・タッカーがノミネートされていることも考えると、ノミネートされた楽曲やミュージシャンは、微妙なバランスで取れている。
ただ、18歳という若いビリー・アイリッシュがグラミー賞という米国における権威ある音楽賞を総なめにした、という事実は、アメリカという国が変わろうとしている姿のようにも見えるのだ。
それはおそらくトランプさんが推し進めるような、保守的なものではないのでは?という、気がしている。






25年前のヒットよりも大ヒットした「恋人たちのクリスマス」

2019-12-21 21:48:23 | トレンド

先日、朝のFM番組を聞いていたら、「え?!」と思うような、話題があった。
その内容が、huffpostにあった。
huffpost:マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」が発売から25年で、ようやく1位に。ネットも「えつ、今?」の声

一昨年あたりだったと思うのだが、このマライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」を、クリスマスシーズンに流さないでほしい、という話題があった。
そして今年も、この「ウザイ!クリスマスソング」が、話題になっている。
livedoornews: 「街にあふれるXmasソングがウザい」の声。最もイラつく曲は?

「ウザい」と感じる理由の一つが、同じ曲が延々とループ状態で聴かされるからだ。
当然、ヒットしたXmasソングはその傾向が強くなる。
楽曲の良し悪しとは関係なく、「ほどほど」というレベルを超えてしまうと、人は嫌悪感を感じる、ということだろう。
その代表的な曲の一つが、マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」ということになる。
逆に言えば、Huffpostの見出しにあるように「随分前に大ヒットした曲で、クリスマス・ソングとして定番化していたのでは?」という印象が強い、ということにもなると思う。

にもかかわらず、大ヒットしたであろう25年前ではなく、今年になってからbillboard誌の1位を獲得した、というのは「何ぜ?」という、疑問を感じてしまうのは当然だろう。
その理由は、ストリーミングという新しい音楽の聴き方の登場によるところが大きい、というのがFM番組での説明だった。

25年前のbillboard誌のヒットチャートは、「CDセールス+ラジオのオンエア回数」というデータを基にしていた。
ラジオでのオンエア回数が多くても、CDセールが振るわなければ1位になることは無いのだ。
しかし、昨今ではCDセールスよりも、チャートに強い影響力を与えるデータが登場した。
それが、ストリーミングというスマホなどで聴く方法だ。
もちろん、ストリーミングという視聴方法だけで、チャート1位になることは難しい。
それを可能にしているのが「サブスプリクション」と呼ばれる、定額利用ということは言うまでもない。

元々クリスマスソングとして、定番化していた「恋人たちのクリスマス」に、このストリーミング+サブスプリクションによって、ラジオのオンエア回数よりも多く、スマホなどで聴かれるようになったことで1位となったのだ。
事実、最高位3位と言われていたのは、昨年のヒットチャートだった。

もしかしたら、ストリーミングでの聴かれ方というのは「一人リクエスト番組」のようなモノなのかもしれない。
何故なら、スマホのようなメモリーそのものが限られていても「いつでも・どこでも・好きな時に自分のお気に入りを聞くことができる」というのがストリーミングの最大の魅力だからだ。
元々定番化するほどの大ヒット曲であり、このクリスマスシーズンになるとラジオなどから流れることで、改めてストリーミングで聴いてみよう!という、生活者の行動が25年前の大ヒット曲が1位になる、という現象が生まれているのだ。

「billboard誌のチャート1位には、そのような背景がある」と知った上で、「恋人たちのクリスマス」を聴いてみると、ヒット曲の創られ方の変化にも気づくという気がする。

 


身近になりつつある「ジビエ」

2019-11-26 20:18:36 | トレンド

今日、所用があり繁華街まで出かけてきた。
途中、ロッテリアの前を通った時「え!」と思う新発売のメニューがあった。
「鹿肉バーガー」だ。
ロッテリアプレスリリース:農林水産省制定「国産ジビエ認証」制度基準をクリアした施設で適切に処理した鹿肉バーガー「ジビエ鹿肉バーガー(ラグーソース)」

プレスリリースを読むと、ロッテリアが「鹿肉バーガー」を発売するのは、今回が初めてではないようだ。
北海道の「エゾジカ」を使った「鹿肉バーガー」や、大分・鹿児島の鹿肉を使った「鹿肉バーガー」など、過去の実績から今回の「ジビエ鹿肉バーガー」へと繋がったようだ。

ご存じの方も多いと思うのだが、猪をはじめ鹿などが人の生活圏に出没するようになり、「獣害」と呼ばれる害が増えている。
しかし日本では「野生の肉=ジビエ」を食べる習慣がないこともあり、獣害の駆除がさほど進んでいない、という状態が続いている。
他にも、ロッテリアのプレスリリースのタイトルにある「国産ジビエ認証制度」という制度基準をクリアできる産地も多くはなかった、という記憶がある。
それがロッテリアという、全国規模のファーストフード店で取り扱うという。
ジビエの取扱制度そのものが、全国規模で整っていない(ように思われる)「ジビエ」を全国規模で展開をするということに、驚いたのだった。
と同時に「ジビエ(野生肉)」そのものが、遠い存在ではなくなってきた、と実感もした。

2カ月ほど前、北海道の知人を通して「エゾジカ肉のキーマカレー(レトルト)」を、頂いた。
ジビエ料理が好きな友人と一緒に、試食会を開いたのだが(友人宅で友人夫妻と私の3人という超小規模試食会だった)、「エゾジカ肉」と言われなければ、脂身の無いとても食べやすい牛肉と豚肉の中間のような、美味しさがあった。
ジビエの特徴として「高たんぱく、低脂肪」と言われていることを、実感したのだった。

今回、ロッテリアが期間限定・販売店舗限定とはいえ、全国で展開できるようになったのは、ジビエに対してのイメージが変わってきている、ということなのかもしれない。
そして、ファーストフード店であるロッテリアがジビエバーガーを販売するようになったことが、全国で「獣害対策に悩む地域」にとっても、朗報かもしれない。

というのも、ジビエを販売するためには「農林水産省制定『国産ジビエ認証』制度基準をクリアした施設で処理をしなくてはならないからだ。
現在、「ジビエでまちおこし」を考えている地域があったとしても、この制度基準をクリアできる施設を造ることに二の足を踏んでいるのでは?という気がしているからだ。
施設を造るとなると、それなりの採算利益を考えなくてはならない。
しかも「野生肉」となる鹿や猪などは、年間を通して狩猟できるものではない。
狩猟シーズンは決まっており、毎年同じだけの狩猟数があるとは限らないからだ。
牧畜のような、安定的な生産が見込めないのに、施設を造ることは地域にとって大きなリスクでもあるのだ。

そう考えると、ロッテリアの「鹿肉バーガー」は「ジビエ」という野生肉を身近にしただけではなく、生産者側にとっても「ジビエ」を身近にしようとしているのかもしれない。




ファッションの変革期かもしれない

2019-11-08 18:49:41 | トレンド

新聞各社の記事には「ファッション」の欄がある。
各社の記事を読むことは、それぞれの視点の違いなどが分かるようで、興味深いものがある。
今日、朝日新聞のファッションの記事に、意外な組み合わせの人物インタビューが掲載されていた。
朝日新聞 &インタビュー:ドリス・ヴァン・ノッテン×クリスチャン・ラクロワ 2020年春夏の新作をクリスチャン・ラクロアと協業で

このタイトルを見た時、2つのことが思い浮かんだ。
一つは「ファッションデザインでも協業という、アイディアがあるのか?」という疑問だ。
もう一つは、ヴァン・ノンッテンとラクロアという意外な組み合わせが見せるファッションとはどのようなものか?という、好奇心だった。

まず、協業という点だ。
今回協業をしたのは、ドリス・ヴァン・ノッテンとクリスチャン・ラクロワという、2人のデザイナーだ。
メンズコレクションからスタートしたドリス・ヴァン・ノッテンは、テーラードが上手いデザイナーと言われてきた。
対してクリスチャン・ラクロワは、南仏出身らしく美しい花々のプリントや、繊細な手仕事のレースなど、レディースファッションの中でも、ひときわ華やかで、ロマンチックなデザイナーという印象があったからだ。
その二人が、協業するとなると、デザイナーとして互いに相容れられないコトが多々あるのでは?と、思ったからだ。

しかし、インタビューを読むと「商売重視の工業製品に成り下がっている」と、互いに感じ合っていたことが、この協業を成功させたのだろう。
ラクロワのように、ファッションの世界から身を引き10年も経つと、今のファッションがつまらなく思えたのかもしれない。
確かに、ラクロワの創り出してきたファッションは、今彼が活躍をしている舞台衣装のほうが向いていると思うし、だからこそ今のファッション業界が、デザイナーの創造の場ではなく「商売重視の工業製品」と第三者的視点で、強烈に感じていたのかもしれない。

二つ目の意外な組み合わせ、という点についてもインタビューを読むと納得する。
2020年の春夏コレクションでは「サスティナブル(持続可能)」をキーワードにした、デザインが多かったという。
結果、色調などが似たり寄ったりなデザインが、多かったという話も聞いている。
ラクロワがデビューした1980年代後半は、それこそ「百花繚乱」のような、個性のある色・デザインであふれていた。
いくら「サスティナブル」がトレンドだとしても、二人にとって我慢ならなかった、ということだろう。
おそらく違う言葉でいうなら「ボタニカル(植物などからイメージを得たプリントなど)」かもしれない、と感じたのだ。

ファッションも、「環境」に敏感でなくてはならない時代になった。
だからと言って「環境」に名を借りた「商売重視の工業製品ファッション」への抵抗が、協業というカタチになったのだとすれば、ファッション業界そのものが、大きく変わり始めているのかもしれない。
それはファッションデザイナーが、本来あるべき「創造性」を持ったファッションへの回帰と環境問題への取り組み、ということのような気がしている。



「プラスサイズ・モデル」の登場は、多様性につながるか?

2019-11-06 19:04:28 | トレンド

Huffpostに、アメリカのミュージカル「ヘアスプレー」を日本人キャストによる初公演することについての記事が、掲載されていた。
Huffpost:黒人のように肌を塗るメイクは「許可できません」。日本初上演『ヘアスプレー』の制作陣がメッセージ

この記事を何度か読み直してみたのだが、メッセージの意図が分かりにくいような気がした。
そこで、2013年に公開された時の映画のプロモーションを見て、その意図がようやく理解できたのだった。
それは「日本人キャストによる、日本公演において不自然なメイクは許可しない」ということのようだ。
「肌の色」というのは、それだけデリケートな問題でもある、ということだろう。

そして「ヘアスプレー」で訴えたいのは、「肌の色」だけではないのでは?という気がしている。
映画のプロモーション映像の中でも出てくるのだが、「体形」による問題提議もあると感じている。
それが顕著なのは、ファッションの世界だと思う。
3年ほど前から、「痩せすぎたモデルを起用しない」ことが、求められるようになってきている。
理由として挙げられているのが、10代後半から活躍を始めるモデルが多い中、「体形の維持」を求められるからだ。
10代後半と言えば、まだまだ成長し女性らしい体つきになっていく時期だが、それでは「理想」とされるモデル体形から外れてしまうのでは?という不安などから、厳しい食事制限などを行い、摂食障害に陥るモデルが後を絶たないからだ。
AFP:痩せ過ぎモデルを規制する法施行フランス

と同時に、ここ1,2年の間で「プラスサイズ・モデル」または「カーヴィーモデル」と呼ばれる、体格の良いモデルが、注目を浴びるようになってきている。
ファッション誌・VOUGEでも「プラスサイズ」についての特集を組むようになっている。
VOUGE:ボディの多様性をめぐる、プラスサイズモデルたちの戦い

写真を見ていただければわかると思うのだが、パリやミラノなどのファッションショーに登場するモデルたちとは、随分体形が違う。
パリコレのランウェイをキャットウォークする、痩せたモデルたちを見ると、多くの女性たちは「素敵なファッションだけど、私には無理!」と思ってしまいがちだ。
しかし「プラスサイズ」のモデルたちの姿は、「私にも着られる!」という、ポジティブな気持ちにさせてくれる具現者のように見える。

言い換えれば、彼女たちの登場は、ファッションの世界でもあたらな市場を創り出す、というメリットがある。
プラスサイズモデルを積極的に起用しているのが、現実的でキャリア女性から支持を得やすい、ニューヨークコレクションであるということを考えれば、潜在的「プラスサイズファッション市場」に、ファッション界が気づいた、ということだろう。

日本では、ファッションの中心として考えられているのは、10代~20代くらいのような気がする。
欧米のファッション市場とは、年齢的にもファッション志向においても「若さ中心」となっている日本の市場だが、「ヘアスプレー」日本公演で主役を演じる渡辺直美さんのような存在が、日本における「ファッションの平均体形」という呪縛を壊す存在なのかもしれない。
そして、日本でも「大人のプラスサイズモデル」が登場することによって、体形変化によってファッションを楽しめなくなっている大人の女性たちの市場を獲得することができ、日本のファッション業界も少しは元気になるような気がするのだ。