日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「活躍をしている」というイメージは、どこからくるのだろう?

2018-04-29 21:00:33 | アラカルト

今日、久しぶりに大型書店へ出かけた。
GW中に読む本を探す為だ。
書店で、以前から気になっていた本を買うことに決め、面白そうな本や雑誌はないか?と、売り場を歩いていた。
通りかかった若い主婦向け雑誌のコーナーで、ある雑誌の表紙が目にとまった。
表紙の片隅(と言っては失礼だが)に香取慎吾さんが掲載されている。
どうやらインタビュー記事が、掲載されているようだ。
この表紙を見た時、「SMAP時代とはずいぶん違う媒体に、登場するようになったのだな~」と思ったのだった。
と同時に、「活躍の幅を広げているのだな~」とも、思ったのだ。

今日のYahoo!のトピックスに、ゴールデンタイムであまり見かけなくなったタレントさんや俳優さんが出演されることが多い「テレビ通販番組」についての記事が、取り上げられていた。
ORIKON NWES:もはや”都落ち”感なくなった通販番組 大御所はもちろん再ブレイクの土壌にも

現在テレビが無い為、ゴールデンタイムにどのような内容の番組が放送され、人気を博しているのか知る由もない。
テレビドラマだけは、ネットで話題になれば「Tver」で見るようにはしているが、人気のあるテレビ番組に出演しているタレントさんや俳優さんとなると、随分疎くなったように思う。
元々通販番組そのものをほとんど見たコトが無いので、「都落ち感」と書かれても、それがどれほどの「都落ち感」となっているのか、良く分からない部分もある。
おそらく「都落ち感」というのは、ゴールデンタイムのバラエティー番組に出演しなくなった、とか、話題のドラマなどに出演しなくなった、ということを指しているのだろう。

確かにテレビというメディア媒体は、社会的影響力も強く、視聴者に対する情報量も多い。
情報量が多いことで、「活躍をしている」というイメージを持ちやすくなる。
特にゴールデンタイムという、視聴率が高くなる時間帯であれば、尚のことだろう。
それに対して、テレビ通販の放映時間というのは、深夜であったりテレビ番組の合間に放映されることが多い。
何故なら、テレビ通販で重要なことは視聴率ではなく、番組で商品がどれだけ売れるのか?が、重要だからだ。
そう考えるとテレビ通販番組は、視聴率とは全く関係のないテレビ番組、ということになる。
だからこそ、有名・無名(場合によってはゴールデンタイムに出演をしなくなった往年の有名タレントさん)に関係なく起用できるのかもしれない。

とすれば、上述した香取慎吾さんの場合はどうなのだろう?と、考えてしまったのだ。
確かにSMAP時代には、若い主婦向け雑誌のインタビューなどには応えなかっただろう。
何せ「(国民的)アイドル」という、枕詞が付いて回っていたのだ。
そのイメージを崩すような媒体には、登場しないのは当然と言えば当然だろう。

その枠が外れたため、これまで持っていたテレビのレギラー番組が次々と終了してしまったことは、ご存じの通りだが、テレビでレギラー番組を持つだけが、活躍なのだろうか?
香取さんの場合、これまで登場しなかった様々な媒体に登場することになり、「香取慎吾」としては、以前よりも活躍をしているのでは?という、気がしている。

インターネットなどの登場は、それまでのテレビ中心の「活躍イメージ」を、大きく変えつつあるのかもしれない。
香取さんの写真が掲載されている主婦向け雑誌を見て、これからはテレビ以外の様々な媒体にも登場し、幅広い分野に登場することのほうが「活躍をしている」という、イメージのかもしれない、と感じたのだ。


コムデギャルソンが変わった?時代が変わる?

2018-04-27 20:42:38 | トレンド

時折、新聞に海外のファッションニュースが掲載されることがある。
特に、パリコレクションが開催される「ファッションウィーク」の後には、来シーズンの各メゾン(デザイナー)が発表した中でも、特徴的だったファッションが掲載されることが多い。
今日の朝日新聞を見て、随分色づかいをはじめ変わったな~と感じたのが、コムデギャルソンだ。
朝日新聞:コムデギャルソンの新作が誘う服自分の関係への問い

コムデギャルソンと言えば、デザイナーは川久保玲さんが中心となり、若手デザイナーもいらっしゃったと思うのだが、記事の中では川久保さんの名前しかないということは、記事で紹介されたデザイナーは川久保さんということになるのかもしれない。
その川久保さんの特徴の一つが、墨のような黒の服だ(その後、赤などの色づかいへと変わっては行ったが、単色使いが中心だったような記憶がある)。
川久保さん、Y'sの山本耀司さんなど1970年代後半から1980年代、パリのプレタポルテで活躍した日本人デザイナーの多くは、華やかなヨーロッパのデザイナーが創り出すファッションとは、一線を画すような「非構築的」で「モノクロ」のような色づかいで話題となった。
同時代に活躍していたKENZOのようなフォークロア調や、三宅一生さんの折り紙を基したようなプリーツによる、独特なフォルムなど、それまでのパリコレで見るコトが無かったようなデザインや色調、布使いに世界が驚いた時代でもあったように思う。
そのデザイナーの中で、今でも意欲的にコレクションを発表しているのが、川久保さんということになると思う。

上述したように、川久保さんのデザインの特徴というのが、単調ともとれる色づかい、切りっぱなしのような布の始末、それまでも立体裁断パターン(今の洋服は、この裁断パターンを基に作られている)とは違う、パターン。
まるで、和裁の感覚でパターンを作りなおしたような服作りをされてきている、と感じている。

既にデザイナーとしてのキャリアは40年以上になる川久保さんの今回の秋冬のコレクションを見て、一番驚いたのが、色づかいの変化だ。
ピンク色のドレスや金色に輝くフィラメント素材のドレスは、これまでの「川久保さんらしさ」から大きくかけ離れた印象を持ったのだ。
川久保さんの特徴である、墨のような黒を中心とした色づかいが影を潜め、開放的な色づかいがされているからだ。
年齢的には、喜寿を超えられた年齢になられていると思うのだが、その挑戦的な姿勢には、こちらが勇気をもらえるくらいの力強さが感じられる。

川久保さんだけではないが、ファッションデザイナーと呼ばれる人たちの多くは、その時々の時代の空気を受け止める感覚がとても鋭い。
川久保さんももちろんその一人だと思うのだが、そう考えると人々が求めているモノが変わり始めているのでは?と感じるのだ。
それは「個人を尊重するカラフルな時代」ということのような気がする。


応援される企業

2018-04-26 22:03:50 | ビジネス

Yahoo!のトピックスなどにも取り上げられている、任天堂の社長交代。
日経新聞:任天堂社長に古川氏、君島氏は相談役に

カリスマ的存在であった、岩田社長が病に倒れた後を引き継いだのは君島氏だった。
岩田社長が亡くなられるまでこだわっていたのが、「ニンテンドースイッチ」だったと聞く。
その「ニンテンドースイッチ」の大ヒットは、ご存じの通りだ。
朝日新聞:V字回復、任天堂が一気に「スイッチ」営業利益6倍に

発売直後から売り切れが続出し、発売開始半年たっても生産が追いつかない、という状況だったという記憶がある。
それだけではなく任天堂の人気ゲームソフト「ゼルダの伝説ブレイスオブザワールド」では、亡くなられた岩田社長をモデルとしたキャラクターが登場すると、任天堂ファンだけではなく、ゲームファンを喜ばせた。
その立役者となったのが、退任をされる君島氏だったと思うのだが、その君島氏から古川氏への引継ぎとなると、随分若返った人事という気がする。

今回の人事の発表がされると、ネット上ではこれまでの企業のトップの交代とは随分違うコメントが、あることに気づいた。
それは退任される君島氏に対する慰労と、新社長となる古川氏へのエールだ。

おそらく日本を代表する企業のトップの交代で、このようなネットの書き込みがされるケースというのは、珍しいことなのではないだろうか?
違う言い方をすれば、「退任される社長に対しての慰労や新社長に対するエール」というのは、ネットに書き込んだ人達にとって、とても近しい存在と感じる企業ということなのでは?という気がしている。

その理由は何だろう?と考えると、任天堂という企業が「自分たちの商品は、生活とは関係が無いからこそ、生活者にとって大切な存在でありたい」という思いがあり、それを製品として出し続け、それが支持されている、ということなのでは?という、気がしている。
例えば、任天堂が初めて世に送り出した「ファミコン」。
「ファミコン」の大ヒットを受け、様々な家電メーカーが次々と参入をした。
家電メーカーがつくり出したファミリー・コンピューター・ゲーム機は、任天堂の「ファミコン」よりも画質が高く、動きも滑らか(というのだろうか?)にするために高性能化したものだった。
しかし、多くのファンは高性能化したファミリー・コンピューター・ゲーム機ではなく、シンプルな任天堂の「ファミコン」を選んだのだ。
当然のことながら、参入した家電メーカーは早々に撤退をした。
何故、高性能化したファミリーコンピューターゲーム機ではなく、任天堂であったのか?というと、操作が分かり易く簡単である、ということや、コントローラーそのものが丈夫であった、ということがあると言われている。

それだけではなく、おそらく「ゲームの中に自分たちが参加できる」という仕組みがあったからでは?という気がするのだ。
それはゲームソフトを創り出した企業の力もあると思うが、顧客が企業といっしょになって「ゲーム市場」を創ってきた(あるいは、創っている)という信頼関係があり、ある種の「仲間意識」のような関係性が作られてきたのでは?と考えている。

急逝した岩田前社長は、「自分は社長という仕事をしているが、心はゲーマーだ」と、常々話していた。
その岩田前社長の思いを繋ぐことができたのが君島さんだった、と多くの任天堂ファン、ゲームファンは感じているのだろう。
と同時に古川新社長に対しては、前岩田社長のような「自分たちの仲間のような存在であってほしい」という、任天堂ファン、ゲームファンは思い・期待しているのではないだろうか?

「応援される企業」というのは、任天堂のような「顧客の心に入り込み、共感性といっしょに成長することができる企業」という気がしている。


経済格差が、医療格差を生むかもしれない「新薬」

2018-04-25 11:27:11 | アラカルト

昨日の日経新聞のWEBサイトに、製薬会社・ノバルティスファーマが新しい「がん治療薬」を申請する、という記事が掲載されていた。
日経新聞:ノバルティス、次世代がん治療薬を国内申請

2月に「医療にも経済性が求められるようになる」という内容のエントリをさせていただいたのだが、この時取り上げた「高額な治療薬」が、今回ノバルティスが国内申請をした「次世代がん治療薬」だ。
医療にも「コスト重視」の時代になってくる

ノバルティスが国内申請をしようとしている「キムリア」という、がん治療薬はゲノム(=遺伝子情報)分析をし、CAR細胞という特定の細胞に対する治療薬だ。
現在は小児の「急性白血病」患者さんで、既に骨髄移植をしたがその効果が得られない、という状況にある患者さんに対して、行われている治療でもある。

問題となるのは、その治療薬の薬価だ。
1回の治療に必要な薬価が、5100万円という並外れた高額治療薬なのだ。
1回の治療で家1軒分の価格、という薬価価格を聞くと、「簡単に一般的に使われる治療薬ではないな~」という気がする。
もちろんそれには理由はある。
ゲノムを活用した治療薬である、ということもあるが小児がんを現在対象としている、ということも高額になる理由だろう。
何故なら、子供の病気の中でも小児がんという病気は、とても患者数が少ない反面、小児がんそのものの種類が多いからだ。
圧倒的に患者数が少ない治療薬が、高額になってしまうというのは、市場の「需要と供給のバランス」と考えれば、分かることだろう。
まして、ゲノムを使った治療薬そのものが、研究が始まったばかりの新しい分野だ。
当然のことながら、研究費には膨大な費用が掛かっており、その費用を製薬企業は回収する必要がある。

何よりこのCAR-T細胞治療の凄さは、さまざまな「がん治療」に対する期待がある、ということだ。
これまで早期発見が難しく、治療薬なども少ない「難治がん」と呼ばれるがんへの応用への期待があると、言われているからだ。

おそらく、日本では保険適用+高額医療対象となるため、患者さんの負担はある程度軽減されるはずだが、元々並外れた高額な薬価である、ということを考えれば患者負担も相当額となるだろう。
何より保険適用になることで、社会保障としての医療費の上昇が考えられる。
患者数の増大が懸念されている中での、高額な新薬の申請というのは個人と社会保障という2つの面で、負担が大きい、ということになるのだ。

国内の製薬企業もノバルティスの「キムリア」に代わるCAR-T細胞治療薬の開発に躍起になっている、と言われている。
狙うのは、「誰もが使えるCAR-T細胞治療薬」だ。
「がん」という病気が、「遺伝子の病気(注意したいのは「遺伝の病気」ではないという点だ)」という点で、「がん治療薬の為のゲノム研究」が、これからの創薬の考えを変え、これまで治療が難しかった病気が治るような時代がやってくる、というプラスの面と、研究費の上昇により薬価が高額となり経済格差が医療格差を生む可能性がある、というマイナスの面がある、ということだろう。
そのことを、生活者も理解する時代がすぐそこに来ている、ということでもあると思う。


官製事業は、何故失敗するのだろう?

2018-04-23 19:32:29 | ビジネス

Yahoo!のトピックスを見て、驚くような記事が取り上げられていた。
現代ビジネス:爆死案件が続々「クールジャパン」はこんなひどいことになっていた

このような記事の見出しは、やや大げさに書かれることが多いので「爆死って・・・」という気がして、記事を読んだのだが、まさに「爆死」と言う言葉が合いそうなくらい悲惨な状況のようだ。
一企業の赤字の場合、多くの生活者にはあまり関係が無い。
事業を立て直すのは企業自体であって、その企業とは関係のない生活者にとっては、どうしようもないことだからだ。

しかし官製事業となった場合、その原資となる資金は「税金」ということになる。
「事業に失敗しました。会社が倒産しました」では済まないのが、官製事業でもあるのだ。
だからと言って、100%事業が成功するとは納税者は、思っていないだろう。
官製事業が100%成功するなら、もっと厳しい経営環境で事業を行っている民間企業がつぶれるようなことはないだろう、と考えるからだ。
だからこそ、官製事業は事業の損失が少ない時に、事業の撤退をする必要があると思っている。

だが現実は、第3セクターと呼ばれる半官半民のような事業体を含め、失敗するケースが多い。
再三指摘されるように「経費と利益」と言った、企業であれば当たり前の「損益」に対しての認識の甘さもあるだろう。
「自分で利益を出す」という、事業に対する主体性の無さ、ということもあるかもしれない。
「税金」という、潤沢な資金があるために、事業プランそのものが甘い、ということ考えられる。
上述したような要素が重なり合って、官製事業が失敗するということは十分あり得る話だ。

先日、ネットである記事を読んだとき、「官製事業の本当の失敗理由は、これかもしれない」と思った記事がある。
AERA DOT.:ぐっち―「リアルな体験に基づく想像力に欠ける日本の現実」
それは「一つの成功事例をそのまま真似る」という、発想だ。

官僚を頂点として、日本の公務員さんたちの多くは「前例主義」的能力は高い、と言われている。
一つの成功例を見て、そのまま同じことをすれば成功する。という発想だ。
官製事業だけとは限らないが、日本は「成功例に学ぶ」とはいうものの、本来の「なぜ、成功したのか?自分たちの場合はどうなのか?」という、当たり前の分析をせずに、単に「真似る」だけで終わってしまっているように思えるのだ。

官製事業の場合より問題となるのは、企業にほぼ丸投げ状態で事業を始めている、という点だろう。
数日前、某芸能事務所のマネージャーのボーナスが1200万円という高額に、所属タレントさんたちが怒っていたが、丸投げ官製事業の場合、1200万円どころか仕事実態がよくわからない人に、2000万円のボーナスが支給されていたのだから、「爆死」と言われても仕方ないように思う。

一番の問題は「責任の所在が分からない」と言うところにあるとは思うのだが、ぐっちーさんが指摘されているように「リアルな体験に基づく想像力」と「成功事例の分析」と「展開をする事業に対するビジョンや考え」が持てないからなのでは?という気がする。
もちろん、一民間企業であっても同じようなことをしていれば、早晩その事業はダメになることは見えている。


誰に対してでも、言ってはいけない言葉はある

2018-04-21 22:44:01 | 徒然

財務省官僚の福田次官が、「セクハラ疑惑」により、辞任をした。
セクハラを受けた女性がテレビ朝日の記者であったコトから、辞任時の福田次官の発言に対して、抗議をテレビ朝日がしている。

この一連の流れの中で、様々な意見がネット上に飛び交っているようだ。
中には、セクハラを受けた女性がスクープ記事の為に無断で録音をしたのではないか?とか、ハニートラップだったのでは?という、コメントなどがネット上で見ることができる。
このようなコメントを読むと、つくづく日本は男性中心の社会なのだな~と、実感する。
何故なら、「痴漢に合う女性のほうが悪い」という思考と、似ているように思えるからだ。

今回の件も「特ダネを取るために、色仕掛けができる女性」という、色眼鏡で見ているような気がするのだ。
そもそも「特ダネを取る」ということは、報道においてそれほど重要なことなのだろうか?
特ダネ記事と対極にある「調査報道」のほうが、社会的価値が高いことも多い。
「パナマ文書」と呼ばれる、租税回避地での税金逃れの実態は、地道な調査報道があって初めて公表されるコトになった。
その「パナマ文書」の公表の衝撃は、特ダネ記事以上のモノだった。
社会に対する報道の責任の重さは、特ダネ記事であろうと調査報道であろうと、変わりはないはずなのだ。
にもかかわらず、他社を出し抜いた特ダネ記事のほうが、報道機関としての価値があるような錯覚を、報道側も持っているような気がするのだ。
実際、今日のBuzzfeed Newsには、特ダネ記事を取るために疲弊した記者達の記事が、掲載されている。
Buzzfeed News:特ダネの為にすり減った私。記者たちの#ME TOO

今回のような場合だけではなく、どのような席や場面でも「言ってはいけない言葉」が、あるのではないだろうか?
例えば、歓楽街にあるお酒を提供する飲食店で、福田次官の音声として公開されたような内容のことを、お店の女性に言ったら、それは問題の無いことなのだろうか?
歓楽街にあるお酒を提供する飲食店の女性だから、どんなことを言っても良い、ということにはならないのでは?
お酒は提供しても、体を触ったりすることまでは了解していないからだ。
それとも「お酒の席だから、堅苦しいことは言わない」というのが、大人の暗黙のルール、ということだろうか?

確かに、私が20代だったころは、そんな暗黙の了解のようなモノはあった。
ただその時女性側は、「これも仕事のうち」と割り切り、ず~~~~~~~~~~っと、我慢をしてきただけのことで、不快で気持ち悪かったコトには変わりはない。
例え女性側が「不快で気持ち悪いので、止めてください」などと言ったら、怒る男性もいたし「何をかたいコトを言っているの。触って減るモノじゃないでしょ」くらいのことを言う男性もいた。
今回の福田次官の世代なら、そのようなことを平気で言う男性はいたのだ(実感+実体験)。
そんな女性側の不快さや気持ち悪さに、男性側が気づかなかっただけのことだと思う。

どのような場面でも、そしてどのような相手でも、「言ってはいけない言葉」があり、それを知り・言わない人が大人なのだと思う。





マーケターに必要なのは、感性?

2018-04-20 17:05:26 | マーケティング

定期的にチェックをしているVOUGE JapanのWEBサイト。
VOUGEが、ファッション誌ということもあり、自分とは関係が無い!と思われている方も多いかもしれない。
そのような「思い込み」は、実にもったいないと思うのだ。
これから先、AIなどが当たり前になり、数字から未来を予測することがある程度できるようになると、尚更だ。
実は、今週のWEBサイトに興味深いコラムがあった。

VOUGE Japan:ビッグトレンドなき時代に、売れるものをどう見極める?MD、バイヤー必読、マーケティングセンスの磨き方

ここで取り上げられているMD(マーチャンダイジング)やバイヤーというのは、ファッション関係ということになる。
しかし「ビッグトレンドなき時代」という点では、ファッションだけに限ったコトではないはずだ。
バブル経済崩壊、その後のリーマンショックなど、世界の経済は明るい話題がほとんどなかった。
「景気が回復しつつある」というニュースがあっても、景気実感がない人のほうが多いのでは?
このような社会状況では「ビッグトレンド」などは、生まれにくい社会状況だと考えても良いと思う。
だからこそ、様々な雑誌やメディアで「最新トレンド」を探るような記事が取り上げられるのだ(と、思っている)。
現実には、そのように取り上げられた「トレンド(=流行)」は、瞬間的で一部の人に限られてしまう、という傾向にあると言っても過言ではないような気がする。
だからこそMDやバイヤーは、必死になって「トレンド」となるモノを探し出そうとしているのだ。

おそらくAIの普及によって、売り上げから「ヒット傾向」を分析することは、とても簡単になるだろう。
それどころか、売り上げからある程度の予測も可能になるかもしれない。
何故なら、AIの中心となるのはビッグデータと呼ばれる、事細かく分析をした膨大な顧客+生活者データだからだ。
だが、それだけで「トレンド」が生まれるわけではない(と信じている)。
むしろAIが苦手とされる、「感性」という部分がトレンドを生み出すのでは?という気がするからだ。

AIが苦手とするのは、「疑問に思い考える」という「思考」だと言われている。
何故ならAIは与えられた情報を基に分析し予測することが、得意だからだ。
そこには「疑問に思う」ということはない。
それと同じように、肌で感じること、見て感じること、味わうこと、匂いを感じることなど、五感で感じる事柄から想像することはAIではできない。
このような五感を豊かにするためには、様々な経験が重要になってくる。
それは子供の頃の遊びの経験であったり、思春期から大人になってからも様々な文学や美術や音楽に触れることだったりするのでは?恋愛や失恋という経験もプラスとなるだろう。
そのような「経験の蓄積」が、多角的な視点を持つ基礎となるのではないだろうか?
その「経験の蓄積」に「やさしさ」というエッセンスを加えることができる、MDやバイヤーが新しいマーケットを創ることができるような気がする。
 


誰もが、糸井重里さんになれるわけではない

2018-04-19 19:57:49 | マーケティング

日経トレンドがネット向けに新しいサービスを始めたようだ。
名前は「日経クロストレンド」。
先日、この「日経クロストレンド」のインタビュー記事を見かけた(有料記事の為、全部は読めないのが残念だ)。
消臭剤などでおなじみのエステーで、取締役クリエイティブディレクターをされている鹿毛康司さんのインタビュー記事だった。
ゲストは「ほぼ日」の糸井重里さんだ。
日経クロストレンド:鹿毛康司vs糸井重里 ヒットを生む、心の「大衆」前編
         :鹿毛康司vs糸井重里 「いいこと考えた!」が言える組織にアイディアが集まる 後編

前編の「ヒットを生む、心の『大衆』」の意味は、「ほぼ日」が生み出す様々な商品に対して、糸井さんが「マーケティングはしていない」と話しており、「代わりに自分の心の大衆に聞く」という趣旨のことを話しているからだ。
インタビュー記事でこの言葉を読んだとき「それは、糸井さんだから・・・」と、思ったのだ。

鹿毛さんが、インタビュー前編の最初で「広告批評」について、触れられている。
私も、マーケティングという仕事を始めた頃、熱心に読んだ雑誌だ。
2009年に廃刊となってしまったので、お若い方の中にはご存じない方も多いかもしれない。
私にとっては「広告」のイロハを教えてくれた雑誌であり、広告だけではなくマーケティングの中でも「生活者の気持ちをとらえる」ということの重要性を教えてくれた雑誌でもあった。
その「広告批評」に、「ほぼ日」を始められる前の糸井さんがよく登場していたのだ。

その頃から、糸井さんの発想の切り口はユニークで「なるほどな~」と、思うところも多かった。
ただ、その発想そのものは「糸井さんだから」という気がしていた。
逆説的な言い方かもしれないが、「糸井さんを真似ても、失敗をする」という気がしながら、何度も読み返した記憶がある。

日本のヒットするビジネス本の多くが「HOW TOもの」と言われている。
「〇〇をすれば、××になる」というような、分かり易さと誰もができそうな雰囲気があるからだろう。
しかし残念なことに、このような「HOW TO本」の通りにやってみても、同じ結果にはならない(事のほうが多い)。
実は糸井さんが話していることも、「(僕に)HOW TOを求めても意味はないですよ」と、言っているような気がするのだ。

だからこそ、「自分の心の中の大衆」と言う言葉を、使われているような気がするのだ。
「人を視る前に、自分を視てみたら?」と。
「ビジネスパーソンとしての自分と、仕事を離れた自分は別人なのか?」と聞かれたら、多くの人は「同じ」と答えるだろう。
ところが、仕事で「生活者を視る」という立ち位置になったとき、自分のことを忘れ、「〇〇であれば、××になる」的な発想に陥ってしまいがちになるのだ。

だれもが、糸井重里さんになれるわけではない。
大切なことは、糸井さんの発想のエッセンスをどう受け止め、自分に身に着けさせることができるのか?ということなのだと思う。


なるほど!若い発想は、面白いな~

2018-04-17 21:27:40 | アラカルト

拙ブログで、時折紹介をさせていただく日経新聞のコラム「COMEMO」。
フリーランス研究家でご自身も文系フリーランスとして活躍をされている黒田さんという方の、コラムが「なるほどな~」と考えさせられる内容だった。
日経新聞COMEMO:「doの価値」に目を奪われて「beの価値」を見逃していないか

今更「do」と「be」の違いを、説明する必要はないと思う。
中学1年の最初の頃に習う動詞だ。

確かに「何かをする(=do)」ということを重視する社会という、傾向はあるだろう。
自分から何か行動を起こすことで、自分の様々な環境が大きく変わることも多い。
だからと言って、闇雲に行動すると失敗をすることにもなる。
大切なことは、その失敗から何を学ぶのか?ということだ、ということも様々なビジネス本に、書かれてきたことだ。
「失敗から学ぶ」と言っても、先日エントリーさせていただいた通り、「問題と課題の違い」があるように、対処療法的な「問題解決策」と、根本的な解決策を自主的に求める「課題解決策」とでは、意味合いが違う。
ただいずれにしても、何か考えて行動することが重要である、ということには違い無いだろう。

それに対して「何々である(=be)」という、ややもすると消極的で考えてばかりで行動を起こさないように見えることもまた、大切なのでは?という提議がこのコラムのテーマとなっている。
上述したように、今の社会は「do」を重視する傾向がある。
違う言い方をするなら、「思考よりも実益的なことを求める社会」ということかもしれない。

人は動いてばかりでは、疲れてしまう。
それを端的に言えば「疲弊」という、言葉になるのかもしれない。
「働き方改革」が、盛んに言われるようになってきているが、そのどれもが(個人的には)ピンっとこない。
非正規雇用が増え、正規雇用者にも「リストラ」の、不安が付きまとう。
そのような社会にあるのは「閉塞感と働く人の疲弊感」、ということになるのかもしれない。
それは「問題と課題」が、見えていないからかもしれない。
そのコトを、深く追求していく必要は十二分にあると思うし、追求していかなくてはならないだろう。
今は、その転換期だと考えると「be」のもたらす効用、ということも考える必要があるのでは?
何故なら、コラムにもあるように「be」には、「癒し」などの「心落ち着く」効果があるからだ。

「do」ばかりに目がいきがちだが、「be」があってこその「do」かもしれない。
このコラムを書かれた黒田さんは、年齢は「若い」というわけではないかもしれないが、発想そのものが「若い」な~と、感じる。
年齢ではない「若さ」の思考と発想ということを、考えさせれた気がする。


シリア攻撃は、再び世界に「テロリズム」の恐怖を誘発させるのか?

2018-04-15 21:28:53 | 徒然

今日の朝刊の一面は、「シリア攻撃」という大きな文字だった。
ここしばらく、シリアでの「化学兵器」による住民被害などが、報道されていたが、これほど早く米国がシリアを攻撃するとは思っていなかった。
思っていなかったのは、私だけかもしれないが、シリアという国のことを考えると、もう少し慎重な態度があっても良かったのでは?という気がしている。

今となっては、すっかり忘れさられた感のある「ダーイッシュ(日本では『IS』または『ISI』と表記されるコトが多かった)」が、ほぼ殲滅されたという報道があったのは昨年だったような気がする。
その「ダーイッシュ」が、本当に殲滅されたのかは、今だ確証のあるところではない、と思っている。
すなわち、散り散りバラバラになった「ダーイッシュ」が、今回攻撃をした米国、あるいは米国を支持した英・仏に潜み、テロを働く可能性もあるのでは?とという、懸念を持っている。

「ダーイッシュ」と「アサド政権」は、全く別物ではあるが(と、認識をしている。違っていればご指摘をお願いしたい)、シリアという国を舞台とした紛争という点で考えれば、不満分子となる人たちは確実に存在し、その人達が今回の攻撃の犠牲となったとき、その矛先はどこへ向かうのだろうか?という、懸念をしているのだ。

そして、攻撃開始直後に「米国の決意を支持する」と発表した安倍さんも、もう少し熟考したうえで声明を発表しても良かったのではないだろうか?
少なくとも、対米国との貿易関税という視点でみると、米国(トランプ氏というべきか?)にとって日本は「友好国」として見られているとは思えないような状況なのだ。
経済問題と国際問題を一緒に考えるのはおかしな話かもしれないが、今の米国(というかトランプ氏)にとって日本は、友好国なのだろうか?と考えた時、何も火の粉を浴びる必要はないのでは?という気がしている。
それほど、今回の「シリア攻撃」は、様々な危険をはらんでいるのではないだろうか?

一部では米国のシリア攻撃は、北朝鮮に対する威嚇のような側面もあるのでは?という指摘もあるようだが、シリアの国民にとっては、北朝鮮のことなど全く関係のない問題だ。
何より懸念するのは、このような紛争(あるいは戦争)によって、再び憎しみの連鎖が拡大するのでは?という点だ。

「ダーイッシュ(あるいは『IS』)」の始まりは、湾岸戦争だったと言われている。
以来、シリアを中心に中近東では民族間だけではなく、宗教間での紛争が続いている。
早い解決を望むのであれば、まず最初に武力ではない方法を模索する必要があったのでは?
国連が本来すべき役割だと思うが、常任理事国間で反目しあっている状況では、国連に期待することはできないだろう。
「化学兵器を使ったから攻撃」という、シンプル過ぎる発想が、世界に散ってしまったのでは?という懸念のある「テロリストたち」の活動理由を作ってしまったのでは?

文としてまとまりの無いものとなってしまったが、そんな懸念を持っている。