日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

そのエコは本当にエコなのか?

2021-10-29 19:57:10 | アラカルト

今朝FMを聞いていたら、「10年以上前、どこかで聞いたような話」が、話題になっていた。
TFM One Morning :コスモ アースコンシャスアクト 未来へのタカラモノ

毎週、エコロジー活動等の「次の世代に残しておきたいもの」をテーマに、世界の様々な年にフォーカスし、現地在住の日本人から、話を伺うという内容の番組だ。
今週は、インドネシアの「ペナン」という工業都市からの話題だった。
この番組のユニークなところは「次の世代に残しておきたいもの」がテーマになっているのだが、月曜日~木曜日は「文化や言語、習慣等残しておきたいもの」なのだが、金曜日は「残しておきたくないもの」を取り上げている。
そして今日は「パーム油脂を取るために栽培されているアブラヤシによって、自然体系が崩れている」という話だったのだ。

おそらく20年位前だったと思うのだが、私たちが日常的に使っている「合成洗剤」が、海洋汚染等の要因の一つである、と問題になったことがある。
代わりに注目されるようになった原材料の一つが「パームヤシ」だったのだ。
日本の洗剤メーカー1社が、「エコ」を強調した「パームヤシ」を原材料にした洗剤を発売したことで、日本の主な台所用洗剤は、アブラヤシ等の自然素材が中心となっていった、と記憶している。

ただ「アブラヤシ」はインドネシア等の熱帯地域で栽培される植物なので、当然ジャングルのような「自然の森」を開拓して、アブラヤシ畑になっていく。
それを懸念した人が、既に10数年前にいたのだ。
その頃は「合成洗剤=自然を破壊する悪」という捉えられ方が社会的にされていたので、ジャングルのような「自然の森」を開拓することは、現地の人たちの雇用と経済の発展につながるし、それがエコになる、と言われていたのだ。
それから10数年経ち、今度は「アブラヤシ」の栽培による「自然の森の破壊」が、問題になりつつあるのだ。

この話題を聞きながら、同様のことが起きるのでは?と感じている製品がある。
それは「大豆」を使った「代替ミート」だ。
大豆だけではないのかもしれないのだが、昨今の「ベジタリアン」や「ビーガン」の生活習慣が、素敵でお洒落なイメージでとらえられるようになり、「代替ミート」の原料となる大豆栽培が途上国等でも盛んにおこなわれるようになっているのでは?という点なのだ。

確かに一般的な「肉」を食べるには、畜産によって牛や豚、鶏等を殺さなくてはならない。
「動物を殺す」ということに対して、抵抗感を持っている人たちも少なからずいらっしゃるはずだ。
それだけではなく、アマゾンの森を切り開き、牧畜をするようになり年間でその開発面積はベルギー1国分とも言われ、最近では「牛のゲップ」が世界の「CO2」の大きな割合を占めている、という指摘もされるようになってきた。
今や牧畜をすること自体、自然豊かな場所を破壊しているのでは?という指摘がされるようになってきた。
このコトが「代替ミート」の人気に結びついているのでは?と考えている。
だが、この「代替ミート」にも、「パームヤシ」のような「エコだと思っていたら、エコではなかった」ということに、なりかねない。

これまで「自然の森」を切り開いてまで、「代替ミート」をしなくてはいけないのだろうか?
「エコ商品」と謳われている商品の中には、「それって、本当にエコなの?」と、考えなくてはいけない商品も多々あるのでは?と、考えている。



「小室夫妻狂騒」ー注目されなくなるのが怖い?ー

2021-10-28 21:44:01 | 徒然

今月の26日、婚姻届けを提出し晴れて夫婦となった「小室眞子さん、圭さん」。
夕方に行われた記者会見は、妻となった小室眞子さんのほぼ独壇場だったようだ。
私は会見の映像を見ていないので、あくまでもメディア等での報道で感じたレベルだが、報じられている内容を読むだけでも「国民に喧嘩を売っているのか?」と、感じる程の内容だった。

一番驚いたのは、夫である圭さんの母親の借金についてこの春公開された内容は、当時皇族であった眞子さん自身が主導権を持ち行われていたこと。そして海外に生活拠点を元々置くつもりだったが、それを早めるようにお願いしたことも眞子さん自身であった、という点だ。
多くの方が指摘されているように、夫である圭さんが米国のロースクールに入学した時、彼は日本の法律事務所でパラリーガルとして働いていた。
パラリーガルと言えば聞こえは良いが、事務サポートをする「弁護士を目指すアルバイト」のような立場である、と世間では認識されている(と思う)。
そんな彼が米国の、しかもニューヨークのロースクールに通う程の預貯金があるとは思えない。
まして、大学で専攻をしていたのは法学ではなく、通っていた大学院も法律を専門にはしていなかったのでは?という、記憶がある。
やることなすこと一貫性が無く、この人は何をしたいのか?という疑問を持ちながら、ロースクールへの進学の報道を見ていた方も数多くいらっしゃるのではないだろうか?
何より、米国のロースクールが「プリンセスのフィアンセ」と紹介していたことで、宮内庁が抗議をする、ということもあった。
入学資料を提出する時に書かれた文の中にこの文言があったとすれば、当事者である圭さんが勝手に書いていたのかと思いきや、ここにきてどうやら眞子さんの指示だったらしいということまでわかってしまった。

圭さんの母親に対する疑惑が注目されるようになってから、週刊誌は定期的に「眞子さんの結婚に対する不安」というような内容の記事と、圭さんへの取材、母親のトラブルの相手となる男性の記事を出してきた。
正にこの4年近くの時間は、定期的に「小室親子に対する疑惑+眞子さんへの心配」ということが展開されてきた。
そしてこのような記事が出るたびに、Yahoo!コメなのでは「だから、結婚はお止めに成ったら」という忠告と小室親子に対する批判が増えていった。
それを見越したように、雑誌が再び取り上げる、という循環ができていたような気がする。

結果としてこの「循環」に、眞子さんは恐怖を覚え「複雑性PDST」になられた、ということになっている。
この心理的病気の発表が、婚姻届けを提出する直前の誕生日会見で医師から発表されたコトで、火に油を注ぐような状態になっていったのは、ご存じの通りだ。
これを理由に「海外に行けばこの症状は改善する」と言われたコトに、違和感を感じただけではなく「複雑性PDST」の患者会からも抗議を受ける、という結果になった。

この一連の流れを見ていて、フッと思ったことは「メディアが提灯記事」のようなモノを書くと、ヤフコメ等には一斉に反論が置き、プチ炎上のような状態になる。
この循環に、似ているような気がしたのだ。
しかし、記事を書かれた本人は「どこ吹く風」という感じだ。
むしろ「注目されてラッキー」と感じているのでは?という気がする程だ。

もしかしたら、小室夫妻となられた眞子さん・圭さんも同じなのでは?という気がするのだ。
提灯記事が出る→ネットで騒がれる→メディアがネタとして騒ぐ…という循環で、常に自分たちが注目されている、という状態であるコトには変わりない。
ネットで騒がれることに「恐怖を感じた」のであれば、そのための解決に努力するのではなく、放置することで問題を大きくし、大きくなった問題が更に大きくなり「恐怖をより感じる」という循環を繰り返すことで、「日本にはいられない」という環境をつくっているのでは?
もちろん、同情論も出てくることで「自分たちは悪くない」という、確信を持つこともできるはずだ。
眞子さんは、「常に注目をされる悲劇のヒロイン」という世界に、陶酔しているのでは?という気がしている。

とすれば、この「狂騒」に早く終止符を打ち、話題にせず法的問題を粛々と進めていく、ということが喧嘩を売られた側の対策なのではないだろうか?


ディズニーとスティーブ・ジョブス

2021-10-27 12:47:11 | ビジネス

今朝新聞を読んでいたら、いわゆる真ん中の紙面を中心に複数面がある企業の広告だった。
「ある広告」というのは、「ディズニープラス」の広告だ。

ご存じの方も多いと思うのだが、ディズニープラスというのはディズニーの配信サービス部門だ。
日本では、ディズニーランドをはじめとするテーマパークと映画に登場するキャラクターを販売している企業位にしか思っていない方もいらっしゃるかもしれない。
本国・米国では随分前からテレビ番組も「ミッキーマウス・クラブ」という番組があったはずだ。
1960年代の頃は、日本でもウォルト・ディズニーが案内役として登場するテレビ番組が、放映されていた。
この番組が、ディズニーの世界観を日本に伝えた番組でもあったのでは?と、今更ながらに感じることがある。

もちろん、ディズニーの主戦場となるのは映画のはずだ。
それがテレビの普及により、テレビ業界に進出をし、現在はネット配信事業へと発展していっている、ということになるのだと思う。
そのネット配信事業が「ディズニープラス」ということになる。

「ディズニ―プラス」のラインナップを見て、スティーブ・ジョブスを思い出したのだ。
スティーブ・ジョブスが一時期、Appleの経営から離れていた時期があった(正しくは「Appleから追い出された」という表現の方が正しいと思う)。
Appleの経営から離れていた頃、スティーブ・ジョブスは赤字に苦しんでいたと言われる、CG映画を制作しているPIXARを買収している。
PIXARは、「StarWarsシリーズ」でお馴染みの、ジョージ・ルーカスがつくった会社だ。
とすればCG作品がどのようなモノなのか、おおよその想像がつくと思う。
その頃、プライベートで様々な問題を抱えていた、ジョージ・ルーカスが赤字企業であったPIXARをスティーブ・ジョブスに売却した、ということなのだ。

おそらく、スティーブ・ジョブスはAppleという企業を経営する中で、CG作品の未来像が描けていたのだろう。
もちろん、赤字が一転して黒字になるわけではないが、ある程度の経営の目途が立ったころ、PIXARを相当な優位な条件でディズニーに売却をし、その売却益がジョブスに膨大な資産をつくった、ということも言われている。
この時に生まれた関係が、その後「StarWars」作品がディズニーのネット配信で扱われる切っ掛けとなったのでは?と考えるのは、私だけではないと思う。

ディズニー側としては、元々アニメーション映画としてのブランド力があった上に、新しい技術であるCG作品が加わることで、ブランド資産そのものの幅が広がったはずだ。
それだけではなく、ディズニーという名前を出さないコトで、それぞれ別のイメージの作品づくりがしやすい、ということにも繋がっている。
多くの人にとって、ディズニー作品というのは「シンデレラ」に代表されるような「お姫様」が主役となるアニメーション映画というイメージがあると思う。
それに対してPIXAR作品は、「ファイティング・ニモ」や「トイストーリー・シリーズ」のようなCGによって作られる明るくて楽しい「ファンタジーアニメーション作品」なのではないだろうか?

映像作品をネット配信する企業は、Netflixをはじめとして増えてきている。
それだけではなく、Netflixは本格的な映画製作にも携わるようになり、ここ2,3年は米国映画の最高峰と言われるアカデミー賞にノミネートされるまでになってきている。
ディズニーの様に既成の作品をネット配信をしていくのか?
ネット配信と並行して映画作品をつくるNetflixのような形態にしていくのか?
映像ネット配信企業の淘汰が、始まっているのかもしれない。


生活者ニーズのとらえ方を変えると、新たな市場が見えてくる?

2021-10-26 19:51:12 | マーケティング

日経新聞のWebサイトに、マーケティングの基本だな~と感じさせる記事があった。
日経新聞:グリコがアイス再生 消費者ニーズよりも困りごとを解消

見出しを見ると「生活者のニーズを無視しているのでは?」と、思われる方もいらっしゃると思う。
しかし、記事をシッカリ読んでいくと「生活者のニーズがどこにあるのか?」ということと自社の理念とをすり合わせ、「企業としての使命は何か?」と、考え深く掘り下げていくことで「生活者のニーズ」のとらえ方を変え、商品コンセプトを大きく変えることなく、キャッチコピーなどの「(生活者の)アイキャッチ」表現を変えることで、基本的には同じ」でありながら、生活者に受け入れられるように変化させている。
その結果として、新しい市場を創りだすことにも成功しているのだ。

今回取り上げられている、「グリコ」という企業は創業者の考えというものが、しっかり継承されている。
多くの人にとって「グリコ」との出会いは「グリコ」のキャラメルだろう。
もしかしたら、キャラメルではなく「おまけ」についている、小さなおもちゃかもしれない。
創業以来、第2次世界大戦の時でも、「グリコ」は一貫してこの「おもちゃ」をお菓子に付けてきた。

おそらく30年位前になると思うのだが、「グリコのおもちゃ展」という美術展があり、見に行ったことがある。
断っておくが「グリコのおまけ展」ではない。
「グリコ」は創業当時から、あの「おまけ」のことを「おもちゃ」と呼んでいるのだ。
何故なら、「お菓子は子供の体を、おもちゃは心を育てる」という考えがあるからだ。
そこに「お菓子を食べる楽しさ」が時代と共に加わり、今では「オフィス・グリコ」と呼ばれる、「お菓子の配置サービス」までに発展している。
今は「コロナ禍」で、苦戦を強いられているとは思うのだが、「仕事で疲れた時に、ほっとする時間を提供し、リフレッシュして仕事をする」ということも、創業当時の理念の延長線にある、ということだろう。

そして今回取り上げられている「アイス事業」だが、スーパーやコンビニ等のアイス売り場に行くと「今の生活者の生活志向」が反映されているのでは?と感じる程、バラエティーに富んでいる。
記事に取り上げられている「SUNAO」という、糖質等を考えた「健康志向」のアイスもあれば、手ごろな値段でおいしいと固定的な人気のある明治の「エッセルスーパーカップ」シリーズに、値段がやや高い「アイスケーキ」のシリーズが出て、人気となっている。
もちろん、日本では高級アイスの代名詞となっている「ハーゲンダッツ」も健在だ。
その一方で、豆乳を使ったアイス等もある。
アイスに限らず、飲食品は年間で相当数の新商品が登場し、瞬く間に廃番となる厳しい市場だ。
だからこそ、生活者のニーズをどのようにとらえ、生活者に共感されるようなネーミングや仕掛けが、重要なのだ。

そのネーミングや仕掛けが、企業の創業理念と大きくかけ離れた時、生活者は戸惑い、その企業の商品から心が離れて行ってしまう。
企業理念は企業活動の指針となるモノだし、そこにある考えを生活者ニーズとどのようにマッチングさせる「言葉や表現が必要なのか?」ということもまた、マーケティングでは重要なことである、と言うことをこの記事は教えてくれている。


「モデル世帯」を基準に政策を語られても、現実は違うことに気づかない?

2021-10-24 20:33:36 | アラカルト

朝日新聞のWebサイトに、「現実は、こんな感じだろうな~」という記事があった。
朝日新聞:増えた共働き、でも収入は伸びず…データから見た家計の変化

衆議院解散直後に、「韓国よりも賃金が低い日本」という内容の記事が、Yahoo!トピックス等に取り上げられていた。
J-cast トレンド:日本の平均賃金今や韓国より低い 過去30年間で給与が上がらない裏側

過去30年間=バブル経済崩壊後と考えると、この間には「超氷河期」と呼ばれた新卒者の就職難があり、その「超氷河期」の新卒者が今や中年と言われる年齢に達し、就職できず、そのまま引きこもってしまった人たちのことを「8050問題」と呼ばれるようになってきた。
いつしか「超氷河期」と呼ばれた就職難は、就職活動そのものの一つとして捉えられるようになり、「就職できればブラック企業でも…」という意識に、変わってきたのでは?と、感じるようになってきた。

朝日新聞に掲載されているデータからもわかるはずだが、女性が結婚後も仕事をする最大の理由が「結婚後も仕事をしなくては生活が成り立たない」へと変わってきているのだ。
以前、女性雑誌がこぞって取り上げたような「キラキラ輝くビジネスウーマン」等という、華やかで自己実現のために仕事をする、という女性等ほんの一握りになっている、というのがこのデータからもわかるはずだ。

にもかかわらず、何故か「モデル世帯」と呼ばれる「サラリーマンの夫・専業主婦の妻・子ども2人(未就学~小学生)」を想定して、様々な政策を作ってきた。
随分前から、「そのような『モデル世帯』は、崩壊している」と指摘されていながら、「モデル世帯像」を崩すことなく、考えられてきたのだ。

実際、この10年ほどで急激に増えた世帯は「単身者世帯」だと言われている。
「単身者=未婚者」とは限らない。
大多数は、パートナーと生き別れた高齢者世帯なのだ。
もちろん「未婚者」も年々増えている事実はあり、「未婚者」自身も高齢化している、ということも考える必要があるだろう。
他にも、離婚等により「親と子ども」という2人世帯も増えている、という点だ。
この場合、かつては「母親と子ども」と考えられていたが、「父親と子ども」というケースも増えているはずなのだ。
とすれば、福祉という視点で考えても、これまでのような「家族の誰かが高齢者の介護者となる」という考えは、絵空事になってしまう。
事実、「ヤングケアラー」と呼ばれる、10代の介護者が社会的問題となりつつある。

現実に目を向ければ、「モデル世帯」と呼ばれる「世帯」は既に過去のものであり、現実に即したものではない、ということがわかる。
とすれば、選挙公約で話している内容が、「モデル世帯」を対象として考えられているのか・否かということも読み解く必要がある。
何より政治家の多くは「公約は公約であって、現実的な政策ではない」と嘯く傾向がある。
選挙戦が始まった頃、各政党は「分配」ということをキーワードにしていた。
とすれば、その「分配」とは「何から何を誰に分配するのか?」そして「分配する財源はどうするのか?」ということを明確にしなくては、現実的な政策とは言えない。
そのようなチェックも、有権者は必要だろうし、この30年間のツケを払う覚悟がある政党を選ぶ必要があると思う。


「with コロナ」へと移行し、生活スタイルも戻るのか?

2021-10-21 19:28:04 | ライフスタイル

来週月曜日25日から、東京都が飲食店の営業時間の短縮営業要請を全面解除。認定店に関しては酒類の提供の制限もない、ということになった。
このような生活が戻ってくるのは、昨年の2月以降初めてではないだろうか?
やはり若い世代でのワクチン接種等も進み、感染者の数字が劇的に減少した、ということが要因なのだろう。
もちろん、第6波が来るのでは?という、懸念が無いわけではないのだが、それでも日常の生活が戻る第一歩、という気がしている。

飲食店や飲食業に関連する業種に人たちにとって、この短縮営業時間の全面解除は、待ちに待ったことだろうし、約1年8か月という時間は、我慢の限界を超えるような時間だったことだろう。
それは、生活者にとっても同じことで、飲食店に行く・行かないという問題ではなく、飲食店の営業時間の短縮要請が全面解除されるという、言葉から受ける「解放感」だろう。

この「解放感」ということがとても大事で、これまで我慢に我慢を重ねてきて生活からの解放によって、飲食店とは関係が無い旅行やエンターティメント等に気兼ねなく行けるようになる、という気持ちが起きてくるからだ。
むしろ、長い間我慢を強いられていた為、その「解放感」はこれまでとは違う、自由さや楽しさ等の「心の解放感」があり、それが行動として旅行やエンターティメント、映画や美術館等の観客動員数として具体的に表れてくるのでは?という、期待感もあるのでは?と、考えている。

その一方で「リモートワーク」等が定着とまでは行かないにせよ、「リモートでも仕事ができる」という体験は、大きかったのではないだろうか?
「会社で仕事をする=出社する」という概念の一部が、壊れたのでは?と、考えるからだ。
とすれば、出産・育児や介護等で「出社」そのものが難しい、という状況にある社員に対して「(育休や介護休暇)等と併用してリモートワーク」という提案も、企業はできるようになるし、そのような働き方を選択する社員も登場するだろう。

もちろん、「仕事とプライベートの区別をつける難しさ」や「24時間職場と繋がっている感があり、逆に休めない」等の「リモートワーク」ならではの問題点も多々あることは事実だ。
それらの問題点を洗い出し、運用するための制度の検討はこれから本格的になっていくだろう。
そのようなステップを踏み「リモートワークと対面での仕事」というメリハリがつくようになるだろうし、そうなっていく可能性は高いと思う。

このように考えると、「その場に行かなくては感じ取れない感動」のようなモノに対しては、これまで以上の期待が出てくるだろう。
反面「リモートワーク」の様に、これまでの「当たり前」と思って疑わなかった「働き方」等は、働く側が「取捨選択」できるようになっていくかもしれない。
そしてもう一つ感じることは、「コロナ禍」によって「便利だと感じたサービス」等の利用は、益々増えてくるだろう、という点だ。
それがネット通販であったり、UberEast等のデリバリーサービスだ。
ただしデリバリーサービスに関しては、既に過当競争のような状況になっているのでは?と感じることがあり、サービスの向上等による「差別化」が進むのではないだろうか?

「新型コロナ」の感染拡大により、生活が大きく変っただけではなく「生活感」も大きく変化している。
感染症である「新型コロナ」を殲滅することはできないが、「With コロナ」という社会の考えがこれからの標準となっていくのでは?と、考えている。


AppleとGoogleが新しい機種を発表。そのキーとなるのはオリジナルチップ?

2021-10-20 15:42:39 | ビジネス

今日、PCを立ち上げポータルサイトとして利用しているGoogleを立ち上げたら、アイコンの下に「新登場!Googleストアで最新のデバイスをチェックしよう」と、表示された。
この時初めて、AppleStoreの様にGoogleにもStoreができたのか?と思い、さっそくアクセスする。
Google Store

確かに、Googleは「Google Chrome Book」と呼ばれる、タブレットとノートPCの間のような商品があった。
ただし「Google Chrome Book」は、様々なPC製造メーカーが製造・販売をしている。
その点ではAppleが発売しているノートPCやiPad、Amazonの「Fire」等と違っていた。

今回発表された商品は、Google自体が製造をしている。
特に注目すべき点は、スマートフォン等に搭載した半導体チップが、Googleオリジナルであるという点だろう。
拙ブログに来てくださる方ならご存じだと思うのだが、数年前位に某大学の公開講座に出かけた時、AppleやGoogle、Amazon等いわゆる「GAFA」と呼ばれる企業が、半導体に興味を示しており、豊富な資金を基に「オリジナル半導体」の製造をしようとしている、という話があった、という内容をエントリしたことがある。

元々日本は、半導体に関しては世界をリードしていたはずだった。
確かに1990年代までは、「半導体は、日本の主要産業の一つ」という印象がある。
しかし、携帯電話が登場し日本では「ユビキタス社会」を目指す!と官民が言っていた頃、Appleが「iPhone」を発表し、携帯電話市場を揺るがし始めた頃から、日本の半導体産業の失速が明らかになっていったような印象がある。
あくまでも、私の「印象・イメージ」でしかないので、本当のところは分からないのだが、「スマートフォン」と呼ばれる通信・デジタル機器が生活者の生活に溶け込むにつれ、日本の半導体産業からは、良いニュースを聞くことが亡くなったような印象を持っている。

代わりに半導体の中心となっていったのは、日本の下請けだったはずの台湾だった。
それを実感したのは、経営不振に陥っていた家電メーカー・シャープを台湾の企業・鴻海が買収をしたことだった。
多くの人は「下請けが、親会社を飲み込む」というような、イメージを持ったのではないだろうか?
それから数年の間で「半導体」をめぐる動きは、「GAFA」と呼ばれる企業にまで関係するようになっているのだ。

というのも、今回のGoogleの新機種発表の1日前には、Appleが新機種の発表を行っている。
そしてどちらの新機種に共通しているのは「オリジナル半導体チップ」によって、PCやスマートフォンを制御している、という点だろう。
「半導体は産業の米」と昔から言われていた。
だからこそ、AppleもGoogleも「オリジナル半導体チップ」をつくるコトによって、様々なソフトウェアとなるサービスの充実を図ろうとしているのだ。

もし、日本の「半導体産業」が衰退しているのだとすれば、それは「半導体」というチップでしか見ていない、という点なのかもしれない。
「半導体によって、どんなことをしたいのか?どんなことができるのか?」そんな夢を描こうとしているのでは?と感じるAppleとGoogleの新機種発表から感じるのだ。




選挙って、誰の為にあるのだろう?

2021-10-19 20:33:14 | アラカルト

今日、衆議院選挙の公示がされた。
公示直後から、与野党の党首の皆さんは街頭に出て、自分の政党の「公約」やこれまでの政治の実績や批判を訴えた。
そんな中、一つの動画が話題になっている。
VOICE PROJECT:投票はあなたの声

確かに、日本の投票率は下がり続け、特に若年層の投票率は低い。
元々投票率が低かった世代が、年月と共に年齢が上がってくるのだから、投票率が下がり続けるのは当然と言えば、当然だと言える。
若い時に政治に興味が無い人が、そのまま歳をとっていくのだから、老年期に成ったら政治に興味がわき、投票するということは考えにくい。
とすれば、今後の投票率を上げるためには、若い世代に「政治」に対して興味を持ってもらい、自分たちが「世論を作っている」という意識を持ち続けてもらう、という方法しかないだろう。
その意味で、今回の「投票はあなたの声」というタレントさん達が出演する動画は、それなりに若い世代に話題を与え、選挙に興味を持ってもらう切っ掛けとなるのでは?と期待している。

とはいうものの、日本では学校教育の中で「政治を知る」という授業は無いのでは?という気がしている。
それは「政治」を「教育」の中に取り込むコトで、「教育の中立性」が無くなるのでは?という、懸念があるからだと思う。
反面、自民党が推し進めてきている「道徳」等は、自民党の考えが色濃く反映されている、という指摘もある。
「学校教育と政治」は、ある部分では互いに影響し合う関係にある、ということだと思う。

もし学校で「政治」というモノを教えるとすれば、それは「政治とは何か?誰の為に政治は行われなくてはいけないのか?」と言った、「政治哲学」なのではないだろうか?
「哲学」といわれると、何か難しいように感じるのだが、哲学を分かりやすい平易な言葉で話をしていた哲学者・故池田晶子さんが言うように「哲学とは考えること」を出発点に考えれば、「政治は自分たちにとって、どんな影響を与えているのか?」とか「自分たちにとって、良い政治とはどんなものだろう?」ということに、辿りつくはずだ。
そのような「政治と自分たち・政治と自分たちの生活」という視点を、学校教育の中で考えるような時間があれば、また違ってくるのかもしれない。

ただ今の政治家にとって、そのような「考えること」は、都合が悪いのかもしれない。
むしろ「政治にはお金がかかる」と言いながら、大々的な「政治資金パーティー」を開き、特定の業界・業種にメリットのある政治をほのめかすことの方が重要で、それを「選挙公約」とすれば、業界団体や特定の業種の人たちにとっては、魅力的な「政策」の様に思えるだろう。

しかし「政治にお金がかかる」のではなく、「選挙をするのにお金がかかる」のでは?という指摘が、毎日新聞のWebサイトにあった(有料会員記事)
毎日新聞:選挙と財政 将来世代の利益はどうなるのか

有料記事なので、記事全体を読むことはできないのだが、以前から「政治にお金がかかるのは、選挙の為の準備にお金がかかるから」という指摘もされてきた。
実際、資金の出どころがあやふやになってしまった、2019年の参議院選挙・広島選挙区における「大規模買収事件」で自民党から提供された資金は1億5千万円だった。
「選挙資金として使っていない」等と関係者は、話しているが国民の多くはその言葉を信用していないはずだ。
逆に言えば、「選挙にはそのくらいお金がかかる」ということでもあると思う。

そのお金がかかる選挙をここ10年以上度々行っている、というのが日本の政治の現状でもある。
選挙は民意を反映するためにも、行う必要がある。
必要はあるが、度々多額の税金を投入して行うものではない、ということなのだ。

「税金」という名で「搾取されるお金」を、「無駄な選挙」に投入されないために、どうしたらよいのか?ということが、投票の第一歩なのかもしれない。


「能力主義」、「自己責任」・・・厳しい言葉ばかりでは、人の心は疲弊する

2021-10-17 21:39:53 | アラカルト

Huffpostに、以前NHKの「白熱教室・正義の話をしよう」で一躍有名になった、ハーバード大学のサンデル教授と作家の平野啓一郎さんの対談動画(youtube)が掲載されている。
Huffpost:「自己責任論」は日本特有の問題なのか?ハーバード大サンデル教授と話し合った

時間にして約1時間の動画なのだが、その内容はなかなか聴きごたえがあった。

おそらく日本で「自己責任」という言葉が、聞かれるようになったのは20年ほど前、渡航禁止されていた中近東の国に身の危険を顧みず入国し、テロリストに人質となった民間人のニュースが連日報道されるようになってからだったような気がしている。
確かに、政府は「渡航禁止」と発表し、実際渡航できないようになっていたにも関わらず、入国をし案の定テロリストにつかまり人質となり、テロリスト側から日本政府に人質解放の条件を出される、という一連の出来事は、「自己責任」と言えるかもしれない。
個人的には「人質となった渡航者とその家族の覚悟の問題」だと思っていたのだが、そのような状況になれば政府としても動かざる得ないことは確かだろう。
テロリスト側も日本政府からお金なり何かを引き出すために、人質を取っているのだから、その交渉を要求するのは当然だろうし、そこまでの「危険」を知った上で「自分の身をどうするのか?」という考えが、最初から必要だったという「自己責任論」は、一理あったかもしれない。

ただ、この「自己責任論」という言葉が、次第に様々なところで使われるようになる。
「就職氷河期」で正規雇用者として就職できなかったのも「自己責任」、「リストラの対象になるのも自己責任」というような使われ方までされると、「本当の自己責任とは何か?」という問題の本質が抜け落ち、個人ではどうしようもない問題であっても「努力が足りないから自己責任」というニュアンスで、様々な要素を持つ「弱者」を傷つけるようになっていった。

何より問題だと感じたのは、その「自己責任」と切り捨てるような発言をする人自身が、「切り捨てた弱者」に近い環境に置かれた人たちであった、ということだと思う。
言い換えれば「明日は我が身」という、不安を抱えた人達がこのような厳しい言葉を「弱者」となった人達に投げつけていたのだ。
そして本来であれば、手を差し伸べられるような環境にある社会を動かす力のある人達の多くが、見に見ぬふりをしてきた、という気がしている。
何故「見て見ぬふりをしてきたのか?」と、考えるとそこにはやはり「自己責任」という「努力をしないのが悪い」ということに集約されるのではないだろうか?

その「努力」というのが、「能力主義」と結びついたのがこの20年余りだった。
「能力主義」というよりも、「成果主義」と言ったほうが良いのかもしれない。
「成果が出ない=努力が足りない」ということであり、「能力主義」という評価の物差しによって、人を図るような社会的雰囲気があり、企業内においては正に「成果主義」によって、リストラの対象評価としてきたのではないだろうか?

このような社会では、生活者は常に「過度な緊張を強いられる社会」と、いえるのではないだろうか?
「過度な緊張を強いられる社会」の中で生まれた言葉の一つが「マウンティング」という、上下関係をつくる言葉が日常的に使われるようになったような気がするのだ。

それは、本来人が営む生活の姿なのだろうか?
丁度今、衆議院が解散し選挙が今月末に行われることが決まっている。
今のような、本来的な意味とは違う「自己責任」や「能力主義」そして「マウンティング」が平然と行われている社会は、人の心が疲弊する社会でもある。
その問題に政治家候補者たちは、どのように考えているのか?
この選挙期間は、それを見極める時間でもあるように感じている。


「リモートワーク」に、ネクタイは必要か?

2021-10-15 20:23:58 | アラカルト

日経新聞のwebサイトに、紳士服のAOKIの新しい戦略(?)「パジャマスーツ」についての動画があった。
日経新聞Web:家でも仕事でも「パジャマスーツ」AOKI、カジュアル強化

「コロナ禍」によって、会社に出社するという仕事から、必要に応じて「リモートで仕事の報告をしたり、会議をする」というスタイルに変わった方も多いと思う。
「仕事をする=出社する」という仕事のやり方ではなくなりつつあるのだ。
とはいうものの、今だに「基本出社」という企業は多いのでは?という気がしている。
出社が基本ということであれば、多くのビジネスマンはネクタイを締め、スーツを着ることになるだろう。
営業職であれば、営業先に失礼が無いようにスーツは必須だろうし、スーツであることが当然だという社会認識がされていると思う。

だが、「リモートワーク」となった場合、ネクタイを締める必要があるのだろうか?
「リモートワーク」の場合、スーツで仕事をする必要があるのだろうか?ということなのだ。
むしろ「お洒落な部屋着」という提案のほうが、生活者には受け入れられやすいように思うのだ。

随分前になるが、「カジュアルフライデー」なるモノがあった。
金曜日は、自由な服装で仕事をすることで、発想の転換や柔軟な考えを仕事に反映させよう、という米国のシリコンバレーで始まった考え方だったはずだが、日本では「日曜日のゴルフのオジサン」という服装の中間以上の管理職が続出し、結局数年で聞かれなくなったような記憶がある。

当時は、「週末、ゴルフを楽しみにしているおじさんに、いきなり自由におしゃれな恰好を求めること自体、無理があったのでは?」と言われたこともあった。
世代が若くなるにつれ、「自分で自分の着たい服を選ぶ」ということは、当たり前のことだと思う。
それがいつしか、奥さんに選んでもらい、奥さんが揃えた服を着て出かける、ということがあたりまえになり、結果「日曜日のゴルフに行くオジサンコーディネート」が出来上がってしまった、ということなのだ。
そう考えると、「リモートワーク」でもネクタイを締めている方がラク、という人はいるかもしれない。

しかし「リモートワーク」での会議等は、これまでと違う環境で行う会議だからこそ、柔軟な考えや発想の転換となるような思考力が、求められるのでは?と考えるのだ。
そのように考えると、「パジャマスーツ」という発想は面白いと思うのだが、どこかズレた印象を持ってしまうのだ。
おそらく「パジャマ」とネーミングをしたのは「リラックスできる服」という意味を込めているのだと思う。
そして「スーツ」と付けたのは「リモート会議でも、それなりのキチンと感がある服」ということを示したかったのだと思う。

とすると、取材撮影でもネクタイのある服ではなく、もっとリラックス感がありながら伸縮性があり、着心地の良さをアピールしたほうが分かりやすかったのでは?
「リモートワーク」があたりまえのワークスタイルになると、「ネクタイをし、スーツを着て出かける」ということが、特別なコトになるかもしれない。
その時、どれだけ紳士服店として顧客提案できるのか?
それが、今後の紳士服店で求められることになるのかもしれない。

余談だが、「リラックスウェア」としての、男物の着物があっても面白いのでは?と考えている。