日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「男子高校生もスカートをはく」時代が来るのか?

2019-05-24 22:02:40 | アラカルト

Huffpostを見ていたら、「そんな時代が来るのかな?」と思う記事があった。
Huffpsot:「スカート」男子もはきやすく「令和」の制服予想イラストに作者が込めた思い 

この記事を読んで「男子高校生がスカートの制服なんて、着るはずがない」と、思われた方のほうが多いと思う。
しかし、随分前に「スカート男子」と言う言葉が、ファッションの世界では注目をされていたことがあった。
JCASTニュース:原宿、青山おしゃれな街で「スカート男子」増殖中

この記事が掲載されたのが2009年なので、今から10年ほど前に「スカート男子」が(一部で)注目されていた、ということになる。
その後、どれほど定着したのか?という疑問が無いわけではないのだが、それでも年に1回くらいは名古屋の地下鉄でも「スカート男子」を見かけることがある。
もちろん、ロング丈なので違和感そのものはあまりなく、周囲もほとんど気にしていないように感じるのだが、何気なく「スカート男子」と遭遇した時には、やはりビックリした。
とすれば、案外このような「男子の制服にスカート」ということもありなのか?という気もしてくる。
ただし、スカート丈が長ければ、という条件付きだ。

イラスト作者が言うように、これから先の高校などの制服だけではなく、飲食店などでも「ジェンダーフリー」という考えの制服が中心になっていく可能性は高い。
服装で性別を決められる、ということに違和感を感じる世代が、徐々に増えているのでは?という実感もある。
というのも、冬場近隣の共学の高校に通う女子生徒が、ズボンを穿いている姿を見かけることが増えつつあるからだ。
「増えつつある」と言っても、2人くらいが4人くらいに増えているという程度なので、「増えている」と言えるのかは疑問ではあるのだが、周囲から自然に受け入れられている(と言うと大げさだが)様子がうかがえる。
もちろん、ズボンをはく女子生徒にも様々な理由があるのだろうな~という、気はしている。
ジェンダー的理由もある場合も十分に考えられるのだが、なんとなくだが、理由の一つには「付き合っている彼とお揃いにしたい」という感覚を持っているのでは?という気がしたからだ。
というのも、信号待ちなどで彼女たちの会話を何気なく(立ち)聞きしていると、どうやら付き合っているらしい彼(同級生)の話が頻繁に登場するだけではなく、単なる「恋バナ」というよりも、「同一感を求めている」ようなニュアンスが感じられるコトがあるのだ。
誤解のないように言うと、そば耳を立てているわけではなく、そのような会話が聞こえてくるのだ(ちなみに、そのような話をしている時の彼女たちはハイテンションで、声も大きい)。
とすれば当然、その逆もあるかもしれない。何といっても感性豊かな年齢で何かにつけ「個性を発揮したい」と思っている男子生徒がいても、おかしくはないだろう。

そうはいっても、現実として「制服としての男子のスカート」というのは、難しいだろう。
何故なら、制服には社会的制約のようなものがあるからだ。
ある程度のアレンジは、OKだとしても「制服」の一つとして認知されるには、社会的抵抗感があるような気がしている。

それよりもこの制服のイラストで注目する点は、ベストやジャケットが「右前」ということだろう。
「右前って何?」と思われるかもしれないが、女性と男性とでは前開きが逆になっている。
女性は、左前。男性は右前だ。女性はメンズの服を着ることは簡単だが、男性がレディースの服を着てボタンを留めるということは、なかなかできない。
むしろこのような前開きの統一のほうが、ジェンダーフリーへの近道のような気がするのだ。





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サービスに対する価値

2019-05-23 19:25:26 | ビジネス

GW中に読んだ「京大変人講座」の中に「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか」という、章がある。

私は、カウンターの目の前で寿司を握る昔ながらのお鮨屋さんも、回転するお寿司屋さんもほとんど縁が無い。
回転しないお寿司屋さんに行かない理由は、どのようにお鮨を注文したら良いのか、イマイチ分からないからだ。
以前、このようなお寿司屋さんに接待で行ったとき、シマアジなどを注文して相手の方の顔色を変えてしまって以来、逆に怖くなっていけなくなったのだ。
いわゆる「おまかせ」+のオプション的注文だったのだが、ものの値段を知らないというのは怖いことだな~と、痛感した。
逆に回転するお寿司屋さんに行かないのは、家族連れの中一人回転ずしを楽しむ心の余裕が無いからだ。
どちらも私に様々な余裕が無い為「寿司屋」の敷居が、とてつもなく高く上がってしまっているのだ。
だからこそ、この「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか?」というタイトルに興味が引かれたのだ。
内容については本を読んでいただくとして、日本の場合、回転しない鮨屋以外のサービス業に対する対価が安すぎるのでは?という、気がしたのだ。

同様の内容が、Huffpostにあった。
Huffpost:ヘアカット15万円?LAの人件費と物価に戦慄 辛酸なめ子の「LAエンタメ修行」

いわゆる日本での「高級ヘアサロン」と呼ばれる美容室のカットの値段は知らないが、さすがに15万はしないだろう。
カット代だけではなく、技術料や指名料を含めても3万円以内なのでは?
一時期話題となった「千円カット」と呼ばれる理容室(=床屋さん)などもあり、とすれば日本の理美容代というのは、総じて米国と比ではないくらい安い、ということになると思う。

ではなぜ、安いのか?
千円カットの理容室の場合、シャンプーや顔そりといったサービスはつかない(と聞いている)。
他にもこれまでの理容室とはずいぶん違う、という話は聞いているが、様々な経営努力の結果として千円カットが成り立っているだけではなく、理容師の持っている技術などに対して評価していない為なのではないだろうか?

日本の場合、製造業が産業の中心であったため、価格などの試算も製造業の試算を基本とする傾向がある。
しかし、一般的なサービス業は製造業のような「原価」+「工賃」という積み上げが、なかなかできない。
そのため、「業界価格」と呼べそうな基準となる価格が、暗黙の裡に設定されることになる。
ただ残念なことに、その基準となる価格が決して高く設定されていない、という点が問題なのだと思う。
これは理美容の業界だけではなく、クリエイティブ職を呼ばれるような業界であっても、同じだろう。
余り高い値段では、お客やクライアントが納得しないのでは?という、ところからの発想があり、お客やクライアント側もまた「値段がハッキリしないものに、高い金は出したくない」という、意識があるのでは?
だからこそ、サービスに対する価値が低めに設定され、それが固定化してしまっているのが、現状のような気がするのだ。

最初の「鮨屋のおやじ」の話だが、サービスの設定そのものを高くすることで、顧客を選び・その顧客と共に「お店の価値を作っている」という私見が述べられていた。
「お客様は神様」ではなく、「お客様はサービスをよりよくするためのパートナーであり、そのサービスは安いものではない」ということを体現しているのが「不愛想な鮨屋のおやじ」ということになるようだ。




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伝統ある地方の神事は、資源である

2019-05-20 21:02:31 | アラカルト

先日、実家の父から「墓じまいをして、永代供養にする」と連絡があり、帰省中だ。
これから先、我が家のような「墓じまいをし、永代供養でお寺にみてもらう」ようになる家庭は、多くなるだろう。
先祖供養そのものが、難しくなる時代になってきた、ということだろう。

今回の帰省では、JRを利用した。
理由は、いつも利用する高速バスの予約が取れなかったためだ。
在来線(伯備線)を利用する時、チョッとした楽しみがある。
それは車内に置かれているフリーペーパーを読むことだ(持ち帰り自由なので、持ち帰らせてもらっている)。
「春号」と書かれたフリーペーパーの表紙に、目を奪われた。
「ホーランエンヤ」の写真だった。

 

 「ホーランエンヤ」というのは松江城山稲荷神社の式年神幸祭の俗称で、10年に1度行われている。
公式HP:ホーランエンヤ2019
実は「ホーランエンヤ」という名前の船神事があることは知ってはいたのだが、実は一度も見たことが無い。
実家がある山陰で過ごしたのは高校時代だけで、10年ごとの神事を見ることは無く、その後名古屋へ進学・就職をしたため、この時期に帰省したことが無かったからだ。

改めてこの神事のいわれや華やかさなどをこのように紹介された記事で知ると、華やかさだけではなく地域の歴史や文化という魅力が感じられるのだ。
そしてこの「ホーランエンヤ」だけではなく、全国には同様の式年神事があるのでは?という気がしたのだ。
また、このような神事は地元の人たちの力で成り立っていることを考えると、人口減少などにより続けられなくなってしまっている地域もあるのでは?という気がしたのだ。
だからこそ、このような伝統的で地域に密着した神事などは、積極的に広く全国だけではなく世界に発信する必要があるのでは?と思ったのだ。
単なる観光資源という点だけではなく、文化的な重要性を発信することで、後継者となる若者たちが誇りを持ち、新たな情報発信者として地域活性化の原動力になるのではないだろうか。

youtbeにあった、今年の「ホーランエンヤ

 

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「男性育休」義務化を考える

2019-05-18 22:25:55 | ライフスタイル

Yahoo!のニューストピックスなどでも「男性育休義務化」と言う言葉を見るようになった。
その義務化に大きく関与している議員さんのインタビューが、Huffpostにあった。
Huffpost:「これじゃ日本の女性は輝けない」男性育休゛義務化”に自民・松川るい氏が込めた思い 

最近「男性育休」に関しては、以前から言われていたが、議員さんたちが語ることはなかったように思う。
とすれば、随分「男性育休」の考えも広がりつつあるのかな?という気がしている。
問題となるのは「育休期間中の生活の保障」と、「育休後の職場復帰」ということになるだろう。
大企業であれば問題の無いことでも、中小企業では大打撃となる可能性が高い。
日本の企業の多くが、大企業ではなく中小・零細企業であるということを考えると、男性が育休を取得すること自体、人的・経費的負担が大きいのでは?ということは、想像がつく。
そのための支援策を政府が打ち出しをするなり、業界団体がするなりしないと、机上の論で終わってしまう可能性もあると思う。

そのような問題とは別に「育休取得期間」についても、もっと幅を持たせる必要があるのでは?という、気がしている。
というのも、しばらく前にお笑いコンビ(と言っても、今は単独で活動をしているという印象を持っている)品川庄司の庄司智春さんが、Yahoo!ニュースのインタビューで興味深い話をされていたからだ。
Yahoo!ニュース:子どもが生まれた父親たちへ「そのうち出番はくる!」ー遊びも性教育も全力、庄司智春の育児論

このインタビューを読んで、確かに乳幼児と呼ばれる期間の子育ての中心は、母親なのでは?という気がした。
授乳などは、お母さんが中心になってしまうのは、ある意味仕方のないことだと思う。
問題は、その時お父さんのサポート力なのではないだろうか?
例えば、パンパースの「赤ちゃんの子守歌 キミにいちばんのこと」というCMにあるように、夜泣きをしている赤ちゃんをあやすのはお母さんだけがすることではなく、時にはお父さんの大きな胸に安心して赤ちゃんが眠ることもあるだろう。
とすれば、子育ての中心となるのはお母さんからお父さんへバトンタッチされる時期もあり、その時期に合わせた「育休取得」ということも検討する必要があると思うのだ。

もちろん、今の議論の中心はお父さんが夜泣きをしている赤ちゃんをそっと胸に抱き、眠らせるようなことができるような「育休取得」である、ということだとはわかるのだが、例えば子育ての3年間のうち、何回かに分けて取得できるような方法も併せて考えたほうが、庄司智春さんの言うような「お父さんの出番が必要な子育て」には、ならないのではないだろうか?



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「ファッション」という表現に苦しむグッチ

2019-05-17 19:37:29 | アラカルト

ファッション専門誌・WWD Japanに「グッチ」が発表した18-19秋冬コレクションで、「文化の盗用だ」として抗議を受け、謝罪を今年2月にしていたことが判明した、という記事があった。
WWD Japan:「グッチ」またも炎上 ターバン風ヘッドスカーフが物議を醸す  

このターバン風の帽子は「バラクラバ帽」という、名前らしい。
紹介記事の写真を見て「あ~~、インドの男性が被っている帽子」と、思う方も多いと思う。
実際、今回の「文化の盗用」として抗議をしたのもインドのシーク教徒の団体のようだ。
抗議の理由は、
「シーク教徒のターバンはファッション用のアクセサリーではなく、宗教的な信仰箇条を示す神聖なものだ。」
ということのようだ。

実は、パリ、ミラノなどの19-20秋冬のコレクションが発表されてから感じていたことの一つに「民族的」という印象があった。
「民族的=フォークロア調」というトレンドそのものは、過去にも何度かあり日本人デザイナーの高田賢三さんなどは、フォークロア調のファッションで一時代を築いたという気もしている。
と言っても、高田さんのデザインはあくまでも「フォークロア調」であり、ある特定の民族衣装などから影響を受けたというモノではなかった。
他にも、クリスチャン・ラクロワなどもフォークロア調の手の込んだ刺繍のデザインなどを、過去に発表をしていたと思う。
数多くのデザイナーが「民族的」なモノに影響を受け、それをファッションとして発表してきた、という歴史(というべきか?)はあるのだ。

しかし今回のグッチのように、炎上するようなことはなかった。
そしてグッチは今回のターバン風ヘッドスカーフだけではなく、黒人を侮蔑していると黒いタートルのセーターも、18-19秋冬コレクションで、炎上している。

これまでも「フォークロア調」のデザインは、数限りなくされてきたはずなのに、何故今炎上しているのだろう?
あくまでも想像の範囲になってしまうのだが、「(民族に対する)敬意や文化的背景の理解不足」ということのような気がするのだ。
そしてこのような「炎上デザイン」のファッションは、決してグッチだけの問題ではないような気がしている。
クリスチャン・ラクロワなどは、自身の出身アルル地方の民族的要素を積極的に取り入れていた。
高田賢三なども鮮やかな色合いなどには、民族的なニュアンスを感じさせながらも「高田賢三」というデザイナーの世界観を表現していたように思う。

インターネットの時代となり、様々な情報を得やすい時代になった。
それらの情報の中から、インスピレーションを受けファッションデザインを起こす、ということも以前より多くなってきたのかもしれない。
ただ、インスピレーションを受けるだけではなく、基となった文化的、社会的背景を知り、敬意を表するデザインでなくては、グッチのような炎上騒動が続くのかもしれない。




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私たちは「言葉」を疎かにしている?

2019-05-14 20:43:02 | 徒然

日経のコラム「COMEMO」は、日経の記事とは別によくチェックしている。
理由は、様々な立場や考えの人たちが自由に自分の考えなどを、コラムとして書いているからだ。
もちろん、コラムの中には日経新聞社絡みのイベント記事などもあるのだが、たとえそのような記事であっても実際に読んでみると「経済紙が考え・見ていること」などが分かる。

今日、そのCOMEMOをチェックしていたら、「なるほど!」と思う内容があった。
COMEMO:キレる日本人 松川行雄

「キレる」という言葉が、いつの頃から一般的に使われるようになったのだろう?
なんとなくだが、バブル経済が崩壊し、日本の経済全体が落ち込み始めた頃から使われ始めたのでは?という気がしている。
それから日本経済は、名目上は「好景気」と言われながら、生活者の多くは「景気実感が無い」という状態が続いている。
そして「キレる人」がより増え始めたのが、携帯電話やスマホでのメールやSNSの普及し始めた頃からかもしれない。
コラムにある通り、携帯電話やスマホのメールやSNSで作成される文は、文字数制限もありとても短い。
その短い文に絵文字やスタンプなどを加えることで、自分の気持ちを伝えることができるようになった。
いうなれば「感情表現」が「言葉から絵に変わってきている」ということに、なるのだろう。
作者の松川さんは、絵文字やスタンプでの感情表現を悪いと言っているのではないと思う。
ただ、感情表現を言葉に置き換える作業をする重要性を、述べているのだ。
そしてこのご意見に対して、納得できるのだ。

このコラムの中で興味深いのは、「面白いゲームをつくるためには、何が必要なのか?」という、ゲームを創られている方の言葉だ。
ゲームの世界観や登場人物像、背景となる時代や場所の設定などなど、表面的な情報だけでは面白いゲームを創ることができない、というのは、本当だろう。
そしてこのような考えは、マーケターにとっても必要なことだと思っている。
何故なら、数字の羅列のようなデータや図表から様々なモノやコトを読み取り、一つの「ストーリー」を創っていくこともまた、マーケターの仕事だからだ。

感情表現が豊かである、ということは決して悪いことではない。
しかし感情の赴くままの言葉は、人を傷つけ、周囲との軋轢を生み、自分自身をも傷つけることにもなる。
自分自身が自分の言葉で傷ついている、ということを理解(というよりも「実感」というべきか)できないことで、より自分自身を深く傷つけることにもなってしまっているのではないだろうか?
それが新たな人を傷つける言葉を生み、より社会をギスギスさせることになっているのでは?

私たちは「言葉」を疎かにすることによって、より「生きにくい社会」を自ら作りだしているのではないだろうか?

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「ふるさと納税」の意味を考える

2019-05-13 22:08:10 | アラカルト

「ふるさと納税」の返礼品に問題があるとして、4自治体が「ふるさと納税」税優遇の対象から外された。
日経新聞:ふるさと納税、泉佐野など4市町除外 6月から総務省

ふるさと納税が検討、実施をされた頃というのは、税収が減り続ける地方の自治体の財政健全化などの目的があったように思う。
そのため、ふるさと納税をした人は税の優遇の対象となっていた。
他にも納税をした自治体から「返礼品」として、地元の特産の品々が送られる、ということになっていた。
この「返礼品」によって、納税者には納税した自治体の特産品などを知ってもらい、産業の活性化という目的もあったと思っている。

しかし、都市部の自治体などは「地元の特産品」と呼べるようなモノが無く、「ふるさと納税」での税収が期待できないばかりが、「ふるさと納税」の税優遇により税収が減ってしまった、という自治体もあったと記憶している。
多くの自治体は、地元の特産品のPRと考えていたようだが、「返礼品」となる特産品以外のギフト券などを返礼品としていたことが、今回の措置となったようだ。

そこで一番話題になった(?)泉佐野市の「ふるさと納税」のサイトを見てみたのだが、全ての返礼品が問題になっているようなモノではなかった。
ただ返礼品の対象納税額が他の自治体よりも細かく、返礼品の種類も多すぎるのが、問題なのでは?という気がしたのだ。
多くの自治体は最低納税額が5千円以上で、5千円程度では「これは!」という返礼品も少ないように感じている。
ある程度の納税額にならなければ「(その地域の)特産品として欲しい」という、感覚にはなれなかった。
そして返礼品の種類そのものも、決して多いという気はしなかった。
逆に、自治体側の「厳選をした返礼品」という印象だった。

「選択の自由があり過ぎると、人は迷って決められない」ということが、ビジネスではよく言われることだ。
まさに泉佐野市の「返礼品」は、余りにも返礼品の種類が多すぎるのだ。
もっと「泉佐野」の産業などに力を入れた返礼品に絞った方が良いのでは?と、感じるほどなのだ。
例えば、泉佐野市は今「日本のタオルのふるさと」というキャッチフレーズで、まちおこしをしている。
「日本のタオル=今治」というイメージが定着している中で、新しい「タオル=泉佐野」というイメージづくりはとても難しいはずだ。
では、今治市が返礼品として扱っていないタオル製品は無いだろうか?という視点で探し、違うタオル製品を「返礼品」を柱にし、地元の農産物などを加える、というところから始めても良かったのではないだろうか?

というのも、「ふるさと納税」が始まった頃私の実家がある米子市の「返礼品」は、さほど魅力的だとは思えなかった。
それが今では、鳥取県内での「ふるさと納税」の額が、一番多い自治体となっている。
理由は「返礼品の見直し」により、地元でも美味しいと評判のハムのセットなどが加わったからだ。

「ふるさと納税」が始まった趣旨の一つには、自分が生まれ育った故郷の財政を支援しませんか?という目的があったように思う。
それが、災害により大きな被害が発生した時には、被災地への「ふるさと納税」者が、返礼品辞退で申し込みをするようになった。
縁もゆかりもない被災地であっても、直接的に自治体支援となるという考えから、このような納税者が増えたのだ。

「返礼品」という楽しみはとても大切な動機となると思うが、それがありふれた商品であれば魅力は半減するだろう。
地元に魅力的な返礼品が無い、のではなく「(ふるさと納税者といっしょになって)魅力的な返礼品をつくっていく」という発想が、地域の新たな産業の活性化にもつながるのではないだろうか?




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ミッシェル・オバマさんという存在

2019-05-12 22:17:58 | 徒然

今日は、母の日だ。
赤いカーネーションだけではなく、様々なメッセージが「お母さん」に届けられた1日だったのではないだろうか?
数多くのメッセージの中で、ミッシェル・オバマさんがSNSに投稿したメッセージが話題になっているようだ。
Huffpost:「母の日に、母親以外にも感謝を・・・」ミッシェル元大統領夫人のメッセージが必読すぎる

ご存じの方も多いと思うのだが、ミッシェル夫人は決して裕福な家庭の出身ではない。
むしろシカゴの中でも治安が悪い地区と、言われるサウスサイドの出身だ。
さかのぼれば、元奴隷というルーツであることも、分かっている。
ミッシェル夫人が子どもの頃は、人種差別という問題もあったはずだ。
そのような環境の中でミッシェル夫人は成長し、プリンストン大→ハーバード大学という、エリートと言われる道を歩んできた女性でもある。
アメリカという国が、ベトナム戦争や公民権運動などで大きく揺れ動いていた時代に、サウスサイドという治安の悪い地域であっても、ミッシェル夫人は、ご自分で人生を切り開いてきたのではないだろうか?
もちろん、父親が公務員であったために経済的な安定がある家庭であった、ということもまた重要な点ではあると思う。

ただ成長する中で、多くの(黒人)先輩女性たちの助けもあったのではないだろうか?
昨年公開された映画「Dream」でも、多くの優秀な黒人女性たちの活躍が、NASAを(陰ながら)支えていた。
彼女たちのような女性たちの活躍が、ミッシェル夫人にとっても大きな影響を与え、まさに「Dream」の先にある具現化する活力にもなったのでは?と、勝手に想像をしている。
だからこそ、ミッシェル夫人は今回「母親以外にも感謝を!」と、SNSで訴えたのではないだろうか?

そしてもう一つ感じることは、米国大統領夫人という社会的立場の役割だ。
今のトランプ大統領の夫人であるメラニアさんは、ミッシェル夫人ほどの社会的影響力を感じさせないが、親子で大統領になったブッシュ大統領の夫人は、お二人とも「米国のお母さん」と呼ばれたこともあったように思う。
クリントン大統領の夫人であり、大統領候補となったヒラリーさんも大統領夫人であった頃は、新しい時代のアメリカ大統領夫人というイメージがあった。
イギリスのような「王室」が無い米国では、大統領夫人が「妃殿下や王女」などの役割を果たしていたのでは?という気がしたのだ。

日本では元号が変り、新しい天皇陛下と皇后陛下となった。
その雅子妃殿下とミッシェル夫人はともに「教育」ということにご興味を持たれているようだ。
皇后陛下となられた雅子妃殿下は、ハーバード大の出身。
そう遠くない日に、ミッシェル夫人と雅子妃殿下がハーバード大の同窓生として、貧困などにより教育機会が奪われている子どもたちなどに対して、一緒に教育プログラムなどが語られる日があれば、もっと社会は変わるのではないか?という、期待をしてしまうのだ。



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「伝える」ことの難しさ

2019-05-10 21:20:52 | アラカルト

GW明けに大津市で起きた、保育園児を巻き込んだ交通事故。
この交通事故で2人の子どもが亡くなった。
それは、見通しの良い交差点で保育園のお散歩途中、園児たちが保育士さんといっしょに信号待ちをしていた時だった。
この状況をだけを見れば、保育園側の落ち度はないのでは?という気がするのだが、テレビなどを中心としたマスコミは容赦なくこの保育園と保育士さんに何等かの落ち度があったのでは?という、追求が保育園側が開いた記者会見であった。

このやり取りの場面をテレビなどで見ていない状況なので、私自身は実際どのような質問があったのか知る由もない。
ただ、断片的にネット上で報じられる画像や言葉を読むと、報道する側の態度や言葉に違和感を感じたのも確かだ。
結果、ネット上ではこの時のマスコミに対する批判が相当起きている。
ネット上だけではなく、同じマスコミの仲間であるはずのワイドショーのコメンテーターなどからも批判が起きている。

これまでマスコミ全体がどこかしら「伝えるプロ」として、上から目線で伝えてきた「(マスコミから見た)正義」というモノに、疑問を呈した事件でもあったのでは?という気がしている。
SNSなどが無かった時代は、そのような「マスコミから見た正義」の報道も、なんとなく世間的に容認されてきた部分はあったように思う。
しかし今は、マスコミそのものも社会の一つとして「晒される」という、時代になってきている。
Huffpost:大津・園児死亡事故でのマスコミ批判。

昭和から平成になって感じたことなのだが、マスコミというメディアが以前よりもまして、「マスコミから見た正義」というスクープを取りたがっているのでは?という気がしている。
保育園側の記者会見が遅くなれば遅くなったで、「保育園側は、(亡くなった園児のことを含め)事故にあった園児のことをなんとも思っていないのか?」という、マスコミの追求があったのでは?と、想像できる。
まだまだ事故直後で動揺を隠せず、事故の状況などもはっきりしていない時点でのメディア対応というのは、保育園側にとってとても難しいものだっただろう。
何よりも事故で無くなった園児と遺族のことを考えると、軽々な記者会見などは行えるはずもない。
しかし、メディアを通して(一部の)人たちが、そのような記者会見を望んでおり、会見を行わないコトで起きるであろう保育園叩きのようなモノを危惧したのではないだろうか?
そのような社会的風潮があることは、実感として否めないように感じるのだ。

そしてもう一つこのようなマスコミ不信の原因となっているのは、4月19日に起きた池袋での事故報道だろう。
この事故を起こした加害者は、「容疑者」という報道はされてはいない。
若いお母さんとお子さんが亡くなった事故であるにもかかわらず、事故を引き起こした加害者が怪我の為に入院中だとしても、マスコミの扱いは及び腰ではないか?という、社会的不満が渦巻いていたように感じている。
そのためこの事故を引き起こした加害者が、官僚出身で大手企業や関連団体に天下っていた為に「上級国民」だから、マスコミは忖度したような報道しかしてない、という論調がSNSを中心に渦巻いている。
讀賣新聞:容疑者ではなく元院長、加害者の呼び方を決めた理由

保育園側は被害者にもかかわらず、記者会見でのマスコミの追求の厳しさに対して、池袋の事件での事故を起こした加害者に対する忖度をしたような表現の違いなど、マスコミ側の言い分はあるにせよ、世間的な理解は「マスコミは信用できない」ということになるのだろう。

「伝える」ということは、スクープを取ることでも、被害者をセカンドレイプのように晒すことでもない。
だからこそ「幅広いコミュニケーション手段」という意味を持つ、マスコミは「伝える」ということに、配慮と苦慮をしなくてはならないと思う。
それはマスコミだけではなくSNSでも同じだが、社会的影響力というモノをマスコミそのものが考え、その報道に責任を取る覚悟のある「伝え方」を要求される時代になってきている、という自覚が必要だという気がしている。

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意外な組み合わせ?それともベストマッチ?

2019-05-09 20:31:06 | アラカルト

今日、スーパーに買い物に行ったとき、ふとアイスクリームのショーケースに見慣れたような、でもチョッと違うような???という、パッケージの氷菓子があった。
それが👇だ。


ご存じの井村屋のあずきバーのコーヒーバージョンだ。
あずきとコーヒーという組み合わせは、意外だと思われる方も多いかもしれないが、実は「あずきコーヒー」と呼ばれるコーヒーの飲み方が、名古屋を中心に認知されている。
現在は全国展開をしている名古屋発祥の「コメダ珈琲店」には、「小豆小町 葵」というメニューがある。
この「小豆小町シリーズ」には他にも「小豆小町 桜」、「小豆小町 菫」があり、桜は小豆+ミルクティー、菫は小豆+ミルクという組み合わせになった飲み物だ。

このメニューを見ると、名古屋人はどれだけ小豆好きなのか?と思われるかもしれないが、他の地域でもコーヒー+あずきという提案をしているお店がある。
我が家の菩提寺がある松江の老舗和菓子店・桂月堂は、看板商品の一つである「薄小倉」という和菓子にコーヒーを合わせる、という提案をしている。
桂月堂:薄小倉(うすおぐら)
日ごろほとんどコーヒーを飲まないのだが、一度実家に帰った時たまたまあった「薄小倉」でコーヒーを頂いたところ(実家の父が淹れたコーヒーだった)コーヒーの苦みや酸味に、小豆の雑味がなくシッカリとした甘さが、驚くほどあっていたのだ。
「和菓子にはお茶」とばかり思っていたが、意外な組み合わせも大いにアリだと実感したのだった。
このような数少ない味覚体験から、この「コーヒーあずきバー」も十分OKなのでは?という気がしている。

思考やファッションなどは、年齢と共に変化し新しモノ・コトに挑戦する抵抗感は、比較的少ないだろう。
しかし「味覚」となると、子どもの頃から慣れ親しんだ味、様々な情報から「美味しい」と言われているモノに対しての抵抗感が少ないが、それまでの既成概念的な組み合わせ以外や、情報が少ないと抵抗感が強くなる。
「それって、美味しいの?」と疑心暗鬼になってしまうのだ。
だからこそ、大手と言われる食品会社でも「新しい味」を出す時には、生活者の意識調査や試作品のブラインドテスト(別名「目隠しテスト」と呼ばれる、名前などテストに参加者には伏せて置き、先入観を持たせずに行う味覚や視聴テスト)」を何度も繰り返し、やっとの思いで市場に出す。
それほど「新しい味」に対しての抵抗感は高いのだ。

今回の「コーヒーあずきバー」は限定品として販売され、来年は発売されないかもしれない、という商品の可能性が高い。
定番化するためには、生活者の適切で前向きな反応が必要かもしれない。

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