日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「御料車」は、オールジャパンで・・・という発想はないのだろうか?

2018-11-21 17:10:00 | 徒然

「日産のゴーン会長逮捕」というセンセーショナルな事件後、「御料車」にも影響という趣旨の記事があった。
時事通信:祝宴簡素化、新天皇・皇后に配慮=自動車選定、ゴーン容疑者逮捕の影響も

今回購入が検討されている「御料車」は、来年の新天皇即位に伴うパレードなどに使う為のものだ。
30年前の即位の時に使われた「御料車」は、ロールスロイスで2回しか使われ無かったが、現在は修理を要する状態だという。
修理をするのも大変ということで、新車の購入が検討されている様だ。・
確かにこれまで、皇室に納入される国内車はトヨタか日産だったように記憶している。
そのうちの日産が今回の事件で、辞退せざる得ない状況にある、というのが記事の趣旨のようだ。

この記事を読んだとき、このような時だからこそ「オールジャパン」で「御料車をつくる」という発想はないのだろうか?と、思ったのだ。
今回のゴーン会長逮捕は、経営のトップが起こした事件ではあるが、日産がつくっている自動車の問題ではない。
製品としての「日産自動車」には、何ら問題はないのだ。
何より、皇室のメインで使われる自動車がトヨタ、日産に限られる理由は、一体なんだろう?という、疑問がある。

現在の天皇陛下が即位した時、ロールスルイスを選定した理由は何だったのだろう?
メインテナンスのことを考えれば、国内メーカーのほうがはるかに便利だっただろうし、今回のように修理が必要となったときでも対応は十二分にできるはずだ。
にもかかわらず、ロールスルイスが選ばれたのには、それなりの理由があるはずだ。
そして、この30年でクルマそのものの、進歩というものがある。
この30年でロールスルイスではなく、国産車を選定対象とするのは単に「世間からの批判をかわす」のが目的ではなく、ロールスルイスに求められた技術+αを日本の自動車メーカーが持てるようになった、ということもあるのでは?
その一つが「水素自動車」のような、日本独自のエンジンを搭載したクルマの登場だ。

「水素自動車」というと、トヨタの「ミライ」を思い浮かべる方も多いと思うのだが、「水素エンジン」の開発に成功したのは、ホンダだったように記憶している。
トヨタの「ミライ」とホンダの「クラリティ」とでは、どちらが優れているのかは分からないが、ホンダの水素エンジンを搭載し、欧州のクラシックカーを彷彿とさせる外装の光岡自動車などと、メーカーの垣根を超えた「御料車」があっても良いのでは?
シートで使用する素材は、日本の伝統的な織物を使うという発想があっても良いだろう。
最新のクルマ作りの技術と伝統と日本的なエレガンスさが融合されたクルマこそ「御料車」に、ふさわしいような気がするのだ。

それは、日本の自動車メーカーだけではなく、裾野の広い自動車産業だからこそ、クルマ作りに携わる人たちへのエールとなるような気がするのだ。
何故なら、「御料車」は皇室が使うクルマの中でも特別なのだから。

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利己心と利他

2018-11-20 20:43:24 | 徒然

衝撃的な日産の会長・カルロス・ゴーン氏の逮捕から、丸1日がたった。
丸1日という時間の経過で、ゴーン氏と今回の事件を主導したといわれる代表取締役グレッグ・ケリー氏が行った?と思われる事件の一部が、徐々にわかってきた。

報酬額50億円の過少記載、という内容は金額も大きくセンセーショナルではあるが、これまでミュシュランやルノーといった企業の経営に携わってきたゴーン氏が、自分の地位を危うくするような「虚偽記載」を何故するようになったのか?という、疑問はいまだに不明なままだ。
ただ、高額といわれ続けてきたゴーン氏(やおそらく代表取締役のグレッグ・ケリー氏も)の報酬額は、適正なものであったのか?というところから、検証していく必要があるような気がしている。

ここで問題になるのは「高額な報酬」だ。
よく、米国などのファンドマネージャーなどは「高額な報酬を得ている職業」といわれ、経済が落ち込むたびに問題視される。
しかし、彼らの「報酬」というのは、実際にどれだけ利益を上げたのか?というところから、試算される為大きな利益を上げれば上げるほど、その報酬額は高額なものとなり、世間一般の労働者の年収とは比べものにならないほどになる、といわれている。
もし、同様の考えからゴーン氏やケリー氏の報酬額が決められていた(「利益の何%を報酬とする」というような考え)であったとするなら、企業母体が大きければ大きいほど、受け取る報酬額は当然増えてくる。
一方、日本人取締役などが「報酬」ではなく、「給与」だとしたら試算される根本が変わってしまう。
「給与」は「賃金(=労働の対価)」であり、「報酬」とは全く違う考えで試算される、ということになる。

そのような「違い」を踏まえて、今回のことを考えてみると「利己心」という言葉を思い浮かべるのだ。
ファンドマネージャーなどを描いた映画「ウォールストリート」では、「強欲は善だ」という台詞が登場する。
映画であれば、笑って済ませられるような台詞であっても、いざ現実にそのような行動をする人をみると、多くのひとは「利己心の強い人」と、眉を顰めるだろう。
現実には、そのような「利己心の強い人」が世界中には数多くいて、そのような人たちが経済の一部を動かしている、ということも事実だ。

だが、そのような「利己心」的思考は、これから先社会から受け入れられなくなっていくだろう。
まして、日本では経営の神様と呼ばれた松下幸之助を信望する経営者は多い。
その松下幸之助は、経営には「利他」が必要である、と説いている。
「企業は社会の公器である」とも言っている。
企業が社会の公器であるためには、企業を経営する為には「利他の精神」が必要である、ということなのだ。

松下幸之助の考えは、いかにも日本的と言ってしまえばそれまでだが、今回のような事件が起きると改めて「企業とは何か?」ということを、経営者や企業のトップは問い続ける必要があるのでは?と、考えてしまうのだ。

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ゴーン氏の逮捕と日産

2018-11-19 20:11:09 | ビジネス

今日の夕方飛び込んできた、日産のゴーン会長逮捕状請求のニュース。

讀賣新聞:ゴーン日産会長を逮捕、金融商品取引法違反で
その後、逮捕というニュースに切り替わったが、ゴーン氏の逮捕は日産や三菱自動車だけではなく、ルノーなどの株価に与える影響は大きいだろう。
実際、取引が始まった欧州のルノー株は、値を下げているようだ。

ゴーン氏への逮捕状請求のニュースが出た時、何故?という印象があった。
ご存じの通り、ゴーン氏は、1990年代後半(=バブルが崩壊し、日本の様々な企業が経営危機に陥った頃)フランスの自動車メーカー・ルノーから日産きて、まさに日産のV字回復を主導した人物だったからだ。
そのような実績があるからこそ、高額な役員報酬であっても株主も世間も納得していたと思う。

初来日から20年近く経った今、ゴーン氏にとっては日本でのビジネスも十分熟知していただろうし、ルノーなどでの経営者としての経験から、このような行為が、自分自身だけではなく企業に与えるダメージも十分認識していたのでは?という気がしている。
にもかかわらず、会社のお金を私的に流用していた、というのは俄かに信じられなかったし、当初報道されていた報酬に対する過少申告に関しては、日産の担当の監査法人などが、キチンと管理したうえで報告書を作成しているのでは?という、疑問もあった。
そのような、当たり前のことが日産の中でできていなかった、とすれば、ゴーン氏だけの問題ではなく日産や日産の担当の監査法人の問題でもある。

一部報道では、内部からの告発があり数カ月前から内偵を進めていた、という話もあるので、証拠固めの時間を十分にとり、その上での逮捕だとは思うのだが、それでもどこか違和感を感じてしまうのだ。
違和感の理由は、上述したとおりゴーン氏が経営者として十分すぎる実績と経歴があり、これまでのインタビューなどから経営者としての心得やビジョンが明快にあったからだ。

明日の日産や三菱自動車の株価下落は、避けられないだろう。
しかし、株価とは別につくられる製品には、何の問題もない、ということを認識する必要はあると思う。
何故なら、経営者が製品をつくっているわけではないからだ。

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ネットユーザーは、ブランドを見る目が冷ややか?

2018-11-16 22:15:36 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに取り上げられている、「ゴディバ」の日本事業売却のニュース。
日経新聞:「ゴディバ」日本事業売却 強気の売値1000億円

「ゴディバ」といえば、バブル絶頂期の頃日本で大ブームとなり「高級チョコレート」の代名詞となった。
バブルが崩壊した後も「王室御用達」というと点で、今でも根強い人気洋菓子ブランドだ。
今現在は、創業家とは全く関係が無いトルコの製菓企業の傘下になっているのだが、今でも「ベルギー王室御用達」という水戸黄門の印籠並みのブランドパワーは、落ちてはいないのでは?と、思っている。

そのトルコの製菓企業が、日本事業を売却するということで、Yahoo!のニュースに取り上げられたのだが、このニュースに対するネットユーザーのコメントが、とても冷ややかなのだ。
Yahoo!トピックス: 「ゴディバ」日本事業売却へ=三菱商事が入札参加

圧倒的に多いコメントは、「日本の企業のチョコレートのほうがリーズナブルで、美味しい」だ。
具体的に企業名を挙げている人も少なくない。
確かに、日本の製菓企業のチョコレートは、美味しいと思う。
「日本人好みの味」と言ってしまえばそれまでだが、「The Chocolate」のようなビーン・トゥ・バーのチョコレートがコンビニでも買える、というほど、様々なチョコレートに親しむ環境があるのが、日本の市場だともいえるだろう。

だからこそ、特にチョコレートが大好き!!というほどではない人にとっても、当たり前のようにチョコレートの味について、いろいろ言えるのでは?と、考えている。
そのような市場の中で、「ゴディバ」というブランドは、それなりのステータスのような地位にあるチョコレートであるにもかかわらず、ネットユーザーのコメントは、とても厳しく、ポイントを突いている。

その一つが「コンビニでも買えるようになって、ブランド価値が下がった気がする」という趣旨のコメントだ。
事業拡大という狙いで、コンビニとのジョイント商品を「コンビニオリジナル」として発売したと思うのだが、逆にブランド価値を下げてしまった、というコメントなどは「数字」ではわからない「ブランド価値」に対する指摘のように思える。

海外の有名ブランド企業(例え実施的経営が、創業家とは全く関係が無くても)の「冠」となる言葉(=ゴディバの場合は『ベルギー王室ご用達』)の場合、海外で評価を受けているというのは、日本での事業戦略ではとても優位になる。
それらを理解しつつも「今の商品価値は違う」と、「ブランド力」に左右されない価値観を持つコメントができる人たちが数多くいる、ということは、それだけ鍛えられる市場、ということでもあるかもしれない。




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「(余命)告知」の難しさ

2018-11-14 21:12:10 | 徒然

先月、「余命告知」をされなかったため、残された時間を充実させることができなかった、として遺族が医師側を提訴する、ということがあった。
毎日新聞:損賠賠償 余命伝え酢医師を提訴「残りの人生違っていた」

この記事を読んだとき、ある種の違和感を感じた。
「がん」という病気と付き合うようになってから、幾人かのがん患者の友人を送った。
がん患者の友人たちの多くは、「余命告知」を受け、告げられた「余命宣告」よりも長く充実した時間を過ごし、人生を生き切ったという印象を持っている。もちろん、そんなに単純なわけではないし、亡くなられた方の中には無念な思いを残されただろう、と感じる方もいらっしゃった。
それでも「余命告知」というのは、患者自身の受け止め方の違いで随分変わるものだ、と亡くなったがん患者の友人たちは教えてくれたように思っている。

ただ、余命告知を受けたからと言って、残された時間を充実したものにすることができる患者さんそのものは、決して多くはないのでは?という、気がしている。
何故なら、上述したとおり「余命告知」に対して、告知された患者がどう受け止めるのか?という部分で、大きく変わってくるからだ。

「死の科学者」と言われたキューブラー・ロスの名著「死ぬ瞬間」は、まさにがん患者が「がん」という病気に対して、どう感じ・どう受け止め・どう生きたのか?ということをまとめた内容だが、実際には、5つのステップを順当に過ごすのではなく、人の心や意思はとても複雑で常に揺れ動くものだ、と余命告知よりも長く生きたがん患者であった友人の姿を見て感じている。
だからこそ、良心的な医療者は「余命告知を簡単にできないのでは?という、気がしている。
ヨミドクター:余命告知に医師ら苦慮…診断困難、「急変することも」

おそらくご遺族の方からすると、余命告知がされていれば旅行などの「思い出ができたかもしれない」など、様々な思いが交錯しているのだと思う。
しかし、「余命を告知」されても、それを受け止めるのは患者自身なのだ。
その患者が告知をどう感じ・受け止め・理解し・行動したのか?ということは、ご遺族であってもわからないだろう。

それだけではない。
今の医療の問題の一つに「医療者と患者のコミュニケーション」がある。
「がん告知」や「余命告知」などでは、患者やその家族では理解できない専門用語が使われる。
患者やその家族にとっては「外国語を聞いている」ような状況で、短い時間で十分な理解ができないまま判断を迫られる、という場合もある。
「余命告知」というは、「余命、後半年」というほど分かりやすいものではないし、おそらく今の医療従事者はそのような「余命告知」はされていないと思う。

「余命告知」というのは、医療者であっても難しい判断を要することだろうし、その「告知」通りではない、という事実も私たちは知る必要があるように思うのだ。

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AIが仕事を奪うよりも衝撃的なレポート

2018-11-13 13:53:38 | 徒然

Yahoo!のトピックスに「世の中は簡単なことができない人たちで溢れている」というタイトルが、気になった。
NEWSポストセブン:世の中は「簡単なこと」ができない人で溢れている

そして、記事を読むと気になるどころか、衝撃的な内容という気がした。

以前、拙ブログでも新井紀子さんの著書「AI VS 教科書が読めない子どもたち」について、書かせていただいたことがある。
数学の問題と言っても、数式を解くのではなく問題文を読解し、正しい回答を導き出すという今回OECDが実施した「国際成人力調査(PIAAC・ピアック)」とほぼ似た内容の問題だった。

この記事を読んで一つ日本が優秀なのではなく、もしかしたら「日本語」独特の漢字・ひらがな・カタカナという表記によって、読解力が助けられている(という表現はおかしいのだが)のでは?という気がしたのだ。
日本語を母語としない海外の方々からすれば、「日本語」そのものはとても難しい、と言われている。
それは漢字・ひらがな・カタカナという表記の仕方がある為だと言われている(もちろん、発音などの難しさもあるだろう)。
もちろん、英語を習得することは大変だし、女性名詞・男性名詞などがあるフランス語なども、日本人からすれば発音を含め習得することは、大変だ。

しかし「読解」ということだけを考えると、「漢字・ひらがな・カタカナ」という表記があるおかげで、全文を理解する前にある程度の手がかりを見つけ、理解することができる(と思っている)。
だからこそ、「国際成人力調査」でも、日本は成績が良かったのでは?

その「読解力」の助けとなるはずの「漢字・ひらがな・カタカナ」の理解ができなくなっているのでは?と、感じることもしばしばある。
「漢字を知らない」というよりも、SNSなどの普及によって文章そのものを組み立てることができなくなってきているのでは?と、感じるからだ。
「文章の組み立て」ができなければ、読解力も育たないように思われる場面に遭遇することが多くなった気がするのだ。

その一つが、「自分で調べるよりも人に聞く」という人が多くなってきていることだ。
老若男女を問わず、「自分で調べる」という労力を省くことで、効率が良いように思われるかもしれないのだが、結局理解を十分にされないまま、その場しのぎの理解になってしまっているのでは?と、いうことなのだ。
「調べる」にしても、今は「Wikipedia」などがあり簡単に調べることができる。
それすらもせずに、人に聞いているだけでは「(その人の)知の集積」にはならない。

もう一つの理由があるとすれば、戦後多くの人たちが地方から都会へと仕事を求めて「職業の移動」があった、ということも大きいのかもしれない。
米国のトランプ大統領の熱狂的支持者の多くは、祖父の代から「工場勤務」という人達が多い、と言われている。
新しい知識を得る必要が無い環境で、生活をし仕事に就いてきた、という人達でもあるのだ。
ところが、このような地域で起きたこととは「オートメーション化」による人員整理から始まり、社会環境の変化による「エネルギー需要の変化」などが次々とここ30~40年の間で起こったため、その社会変化に対応できないまま、取り残されてきた人たちでもあるのだ。
50年以上前の「日本が憧れるアメリカ」から変わることができない、という人達が数多くいるともいえる。

世界をリードしてきた米国であっても、そのような状況なのだ。
戦後70年余りの間、世界で次々に起きた紛争や戦争によって、「知識を得る機会」を失った人たちのほうが、世界では多いだろうし、そのような環境の人たちが、経済的に安定をしている欧米を目指し移民として、それらの国で定着しているとすれば、社会全体の「言語読解力」が、低くなってしまうということも理解できる。

日本が優秀なのではなく、たまたま日本は戦後恵まれた環境にあった、ということをこのレポートは教えてくれているような気がする。

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「中間選挙が終わったから」というのが理由なのかな?

2018-11-11 23:35:16 | アラカルト

米国のトランプ大統領が、戦没者追悼式典をドタキャンしたらしい。
Huffpost:トランプ大統領「雨だから」とドタキャン 戦没者追悼式典への欠席で批判殺到

「雨で、予定をしていたヘリコプターが飛ばなかったため、式典を欠席した」というのが、理由らしい。
第一次世界大戦の激戦地となったのは、欧州でありトランプさんからすれば、戦没者と言っても100年近く前の話で、現実感が無いということなのかもしれないが、歴代の大統領が出席をしてきた大事な追悼式典に理由はどうであれ、出席しなかったというのは、批判されても仕方ないだろ。

一つ気になったことがある。
それは「中間選挙前だったら?」という点だ。
米国の中間選挙が行われたのは、先週の火曜日。
既に、上院では与党である共和党が多数を占め、下院では野党の民主党が多数を占めることになった。
トランプさんとすれば、中間選挙において一定の評価を得た、と思ったのではないだろうか?
だからこそ、さほど興味のない(?)第一次世界大戦での戦没者追悼式典を欠席しても、問題はないと考えたのでは?という、気がしている。
逆にこれが中間選挙前だとしたら、トランプさんは雨降りでも出席をしたのでは?
理由は、「退役軍人会(のような組織)」に対する票取りだ。

トランプさん支持派の中には、共和党の大票田となっている「福音派」と呼ばれるキリスト教の団体(というのだろうか?)がある。
トランプさん独自?の熱狂的支持者は「穀倉地帯」と呼ばれる中西部の保守層だと、言われている。
もちろん熱狂的な支持の理由は、保護主義的経済において一番恩恵にあずかる可能性が高いからだ。
事実、トランプさんの貿易政策にはその傾向がみられる。

だが、共和党・民主党関係なく政治的な影響力を及ぼす団体がある。
その一つが「退役軍人」を支援する「米国在郷軍人会」や「海外派遣退役軍人会」だと言われている。
というのも、米国には「退役軍人省」という、退役軍人およびその家族のケアや年金給付などをする省庁がある。
それだけではなく、米国では第一次世界大戦が終結をした11月11日は「退役軍人の日」となっている。
AmericanCenterJapan:11月11日「退役軍人の日」
今でも第二次世界大戦から直近の退役軍人は、2500万人以上いると言われている。
その彼らにとって、どのような戦地で命を落としたとしても、自分たちの仲間が命を落とした場所で行われる追悼式典に時の大統領が「雨」という理由で、出席しなかったという事実は、屈辱的な感情を抱かせることくらい、トランプさんでもわかっているはずだと思う。

もちろん11月11日の「退役軍人の日」には、何等かのメッセージをトランプさんがTwitterなどで、つぶやくことはあるかもしれない。
しかし、第二次世界大戦の主要国のトップが追悼式に雨の中出席したのに、トランプさんだけが「雨」を理由に出席しなかった、という事実は、退役軍人の方々の支持を失った可能性はあるように思う。
にもかかわらず、「雨」を理由に欠席できたのは、中間選挙が終わりその結果として「自分が支持をされている」と自信をもっていたからなのでは?という気がする。

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工業化で、忘れてしまったこと

2018-11-09 20:25:33 | ビジネス

時々拝読させていただく、日経新聞のコラム・COMEMO。
その中でも「なるほど!」と、考えさせられるのが大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムだ。
COMEMO:とんちんかんな日本、つながりが悪い日本

今回のコラムを読んでいて、商品価格と商品価値の違いとは?と、考えてしまった。
京都の西陣織りや友禅など、人の手をかけてつくられた商品はとても値段が高い。
「値段が高い」というと、「銭金の話は下世話だ」と感じられる方もいらっしゃると思うのだが、事実高額な商品が多い。

高額な商品と言ったとき、思い浮かぶ「商品の値段」を決めるのは「人件費」だと思うだろう。
もちろん、素材そのものも逸品と言われるような素材を使っていることは、想像できる。
ただ、その場合想像できる範囲というのは、その「商品」をつくっている人や材料と言った部分にとどまってしまうことが多いのでは、無いだろうか?
確かに、そのような材料や人の手間なども重要な「価格要素」であることには違い無いのだが、その「商品」をつくるための道具や道具を作る人、道具をつくるための材料、というところまで想像することは難しいと思う。

しかし「伝統工芸品」と呼ばれるものだけではなく、様々な商品には目の前にある商品は、そのものをつくる人や材料、道具、道具をつくる人、道具の素材などが積み重なりあって出来上がっている。
そう考えると、自分が想像するよりも多くの人が関わり、関わる人達が使う道具があり、その道具の為の材料の価値が、価格となって反映されている、ということになる。

ところが、工業化によりそれらの過程の多くは、人の手から機械へと移り、道具も大量生産された均一の物へと変わっていった。
その結果、「商品の価値」ではなく「商品価格」で、商品の良し悪しを決める傾向が生まれてきたのではないだろうか?
もちろんそれが、戦後日本だけではなく世界の経済を発展させる原動力になったのは、間違いないだろう。
「大量生産・大量消費が良い」によって、日本は高度成長を成し遂げたのだ。

それが行き詰まり、バブル崩壊後経済的立ち直りができないまま30年近く経ってしまった。
今だに「高度成長期」のような、経済成長を目指すようなことを言われる方(特に政治家に多いような気がするのだが)もいるが、多くの人たちは「高度成長期」のような経済成長は無理だと、感じているはずだ。
むしろ「高度経済成長」ではない、経済の在り方をここ30年探し求めてきたともいえるのでは?

伝統工芸のような、素材や素材をつくるための道具を厳選し、手間と時間をかけて人がつくる商品が、市場に溢れるという時代ではないが、つくられる商品の価格ではなく価値を生み出すものは何か?という、想像からビジネスを考えることが必要かもしれない・・・という気がする。

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グローバル企業でなくても、人種や人権を考える時代になっている

2018-11-08 18:53:07 | アラカルト

AppleWatchのCMをご覧になった方は、多いと思う。
youtube:AppleWatch Series4-Hokey Pokey

このCMをご覧になって、気づいたことが無いだろうか?
実に様々な人々がCMに、登場している。
人種や宗教、障害を持っている人、高齢者などなど、今までCMに登場することが無かった様々な人たちが、いろいろな場面に登場し、AppleWatchを健康サポートのツールとして、楽しみながらスポーツやダンス、さりげない日常の場面などで使っている、という内容になっている。

これまでグローバル企業と呼ばれる企業CMあるいは商品CMには、様々な人種の人たちが登場する、というのが定番であった。
AppleWatchは、もう一歩・二歩踏み込んで、宗教や障害、高齢者など、これまでのCMや社会でタブー視?されるような人たちまで、登場させている。
「AppleWatchには、人種も障害も年齢も関係ない。人生を楽しむ人たち全てのツール」と、言うメッセージを謳っているかのようだ。
と同時に、このようなアプローチはいかにもAppleらしい、と感じた方も多かったのではないだろうか?

今や企業CMや商品CMには、このような「すべての人」にアピールできるような内容が、必要な時代になってきている。
それはAppleのような世界的な企業に限ったコトではない。
今日のHuffpostに、改めて人種ということを考えさせられる記事があった。

Huffpost:「バレエ史に残る歴史的瞬間だ」老舗メーカーが茶色のトウシューズを開発したわけ。

「バレエ史に残る歴史的瞬間」とは、大げさな!と思われる方も多いと思う。
私も大袈裟だな~と、最初思った。
しかし考えてみると、ここ20年ほどで日本人バレリーナが世界的コンクールで優勝するようにはなったが、それ以前は手足の長さや細さなどでは圧倒的に欧米の白人の独壇場だった。
むしろ、今のように日本人バレエダンサーがコンクールで優勝あるいは、優勝に次ぐような賞を受賞し、欧州の名門と呼ばれるバレエ団のトップダンサーとなることは、夢のまた夢のような世界だった。
まして、黒人のバレエダンサーとなれば、もっと厳しい状況だっただろう。

世界のバレエ界が、肌の色などで差別をしていたわけではないと思うのだが、どこかで黒人のバレエダンサーに対する評価は、白人のダンサーに比べ高いとは言えなかったのでは?と、感じている。
白人か日本人をはじめとするアジア人であれば、トウシューズはピンクや白で問題はなかったが、黒人のダンサーが増えれば、当然のことながらダンサーの肌の色に合わせる必要が出てくる。
英のメーカーがやっとそのコトに、気づき製造を始めた、ということは「バレエ史に残る」ような出来事だろう。

バレエのトウシューズそのものを製造・販売をしている企業そのものが、小さく・大きな規模ではないのだから、ある意味仕方のないことだろう。
しかし、今という時代だからこそ、世界的企業云々ではなく、様々な人種や人権などに考慮した情報を発信しなくては、社会から受け入れられない、ということのあらわれだろう。

 

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若者たちが求めているのは、どんな繋がり方なのだろう?

2018-11-02 21:26:33 | ライフスタイル

31日の渋谷をはじめとする、都市部の「ハロウィン騒動」の記事の中で、気になったコトがある。
それは、そのような騒ぎに乗じたい若者の中には、「誰かといっしょに写真を撮り、Instagramに上げたい」とインタビューに答えていたのだ。
そして「ハロウィンを一緒に楽しみたい」という理由で、渋谷や戎橋、名古屋ではオアシス21に来た若者が、少なからずいた、ということだった。

おそらく普段の生活の中では、学校や職場でも一緒にお昼ご飯を食べたり、おしゃべりをする相手がいない訳ではないのに、「誰かといっしょにいたい」という気持ちは、どこから来るのだろうか?
日常の中にある他人との関係性に満足できていないのか?日常とは別の人間関係を持ちたい、ということなのだろうか?
最近時々新聞などで話題になる「表の自分とは別にネット上で繋がる虚構を含めた自分」の中での繋がりを持ちたい、ということなのだろうか?
とすれば、その「繋がり」はとても刹那的で、連続性の無いもののように思う。

むしろそのようなイベントで一緒に写真を撮り、Instagramに上げたところでそれは一緒に撮っただけ、人との繋がりはないということくらい、よく理解しているだろう。
とすれば、Instagramで「いいね」をしてくれるフォロワーとの繋がりのために、ハロウィンで仮装をし、楽しんでいる自分を媒体にし、フォロワーと繋がっていることで、新しい人間関係をつくっていると思い込んでいるのではないだろうか?

Instagramで「キラキラした自分・素敵な自分」アピールのツールとして、ハロウィンの仮装があり、様々な意味で注目されているスポット・渋谷(あるいは戎橋)に集まり、騒いでいるとしたら、それは「(ひとり)ぼっちの辛さ」の裏返しのような気がするのだ。
それは日常生活での人間関係が、表面的でその場しのぎだと感じているからこそ、自分が話題の中心になれるSNS上での匿名性の高い人間関係に安心し、アピールできるのでは?

今の20代の多くは、生まれた時からインターネットがあり、面と向かった人との付き合い方以外のネット上の人との繋がりを持つようになった世代でもある。
むしろ、ネット上には様々な情報があり、自分と同じ思考や趣味の人を見つけることが簡単にできる。
そのような繋がりは、互いに共感性を持ちやすく、同一化しやすいはずだ。
だからこそ、ネット上の繋がりのほうが、自分らしさを持てる関係だと思い込んでしまっているのではないだろうか?

集団心理が働き、暴走する若者たちの姿は、その仲間に入ることで安心を求めているのかもしれないし、ネット上の知り合いに自分の凄さをアピールしているのかもしれない。
(ひとり)ぼっちは辛いが、深入りしない「ライト感覚な繋がり」を、求めているようにも思えるのだ。

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