日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

父の日は、何故地味なのか?

2019-06-16 21:50:09 | 徒然

今日は父の日だ。
毎年思うことなのだが、「母の日」に比べ「父の日」に対する世間の扱いが、随分違うような気がしている。
「母の日」ともなれば、花屋さんには赤いカーネーションが並び、百貨店に行けば「母の日ギフト」が様々なフロアーに登場する。
それに比べ「父の日」は、決まった花はなく、百貨店の売り場は大体お酒のコーナー(+おつまみ系お惣菜コーナー)かゴルフ関連の売り場や紳士服のフロアーくらいだろうか?
確かに、メンズ商品というのは、婦人服やバッグ、アクセサリー、化粧品関係に比べ、アイティムとなるモノは少ないだろう。
小売という点でも、「母の日の赤いカーネーション」のような、象徴的な贈り物アイティムが無い為、どうしても注目度は低くなってしまうのだろう。
言い換えれば「話題性」となる要素があまりなく、商業的なセールスポイントとなる部分もあまり感じられない、ということになるかもしれない。
それを無理やり商業ベースに乗せようとすると、やはりどこかで「無理感」が出てきてしまう、ということも考えられる。

でもそれだけだろうか?
なんとなくだが、日本の家庭における「父の存在感と家族との関係性」にあるのでは?という、気がするのだ。
高度成長期から今に至るまで、「頑張って働くお父さん」という存在ではあるのに、「父と子ども」という関係になると、育児参加率そのものが低いこともあり、父親と子どもとの親密度は高いとは言えないだろう。
昨今「イクメン」と言う言葉が定着し始めているが、その実「なんちゃってイクメン」とか「自称イクメン」ばかりが増えていて、本当に子育てに参加しているお父さんは、どれほどいるのだろう?
だからと言って、「仕事で頑張るお父さんたち」を批判する気はない。
何故なら、これまでの社会的な認識が「男が働き、家族を養う」だったからだ。
「働く」場所が生活の場所から離れていれば、子どもたちは「疲れ果てたお父さん」しか見ていないし、そのようなお父さんに親密度が上がるのかはなはだ疑問だ。

家族内での日ごろの親密度の違いが、「父の日」の存在を地味なものにしてしまっている、という部分も大きいように思えるのだ。

せっかくなので、父の日に合わせ↓の楽曲を・・・大学のマーチングバンドの指揮をしていた父へささげた、ダン・フォーゲルバーグの「バンドリーダーの贈り物」

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「時と経過」という発想

2019-06-14 22:51:28 | ビジネス

拙ブログでも度々紹介をさせていただく、日経新聞のコラムCOMEMO。
その中に、「まちの寿命」という内容のコラムがあった。
書かれているのは、拙ブログで何度も取り上げさせていただいている大阪ガス・エネルギー文化研究所の池永さんだ。
COMEMO:なぜまちの寿命が終わるのか

このコラムの中にあるように、「新しいもの=価値が高い、古いもの=価値が低い」という感覚は、日本人は特に強いと思う。
「新しモノ好き」という国民性、と言えるのかもしれない。
だからと言って、古いものに価値を見出していない訳ではないと思うし、「骨董ファン」と呼ばれる「古いからこそ価値がある」という人達もいる。
思うのだが、社会的注目を浴び、メディアがこぞって取り上げる話題というのは、やはり「新しいもの」という傾向は強いと思う。
それが「悪い」というわけではないのだが、「新しいもの」ばかりが話題の中心となっていくと、あたかも「新しいものにこそ、価値がある」という錯覚が植え付けられてしまう。
池永さんの指摘は、「話題によってつくられた価値の錯覚」ということのような気がしたのだ。

そしてハッとさせられるのが、物事の発想のスパンが短いという点だ。
コラムのタイトルになっている「まちの寿命」という点で考えれば、戦後各地にできた「ベットタウン」などは代表的なものなのかもしれない。
高度成長期に合わせ、サラリーマンが増え通勤圏に住宅を持つことが、一つの夢でもあった時代、各地に「ベットタウン」ができた。
その「ベットタウン」の象徴だったのが「大規模団地」であり、今や老朽化と共に生活者も高齢化し、居住者が減りつつある。
何より問題なのは、建物の老朽化と世帯の高齢化に対する対策がされないままにある、という点だろう。
団地に住んでいた子供たちは、成長し別世帯を他の場所に求め新たな家に住む、ということが当たり前になっている。
それに合わせたかのように、人口減少とは関係なく新築のマンションが次々と建てられる。
本当にそのようなことで良いのだろうか?という問いかけを、池永さんはされているように思うのだ。

確かに高度成長期には「大量生産、大量消費」が、生活者のライフスタイルの一つだった。
今のような低成長期が続く日本では、少なくとも「大量消費」という時代は、30年前に過ぎ去ってしまったはずなのだ。
「消費するだけ」であれば、その価値はとても低いものになってしまう。
これからは「時を経て磨かれる」ものに、生活や文化に価値を置く時代にならなくては、いつまでたっても「スクラップ&ビルト」の繰り返しで、これまでとは違う新しい価値を創造していくことはできないのではないだろうか?




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日本の医療政策に一石を投げる「クラウドファンディングによる治験」

2019-06-13 19:18:19 | アラカルト

毎日新聞に2日前「関西医科大学が治験の費用をクラウドファンディングで集める」という、記事があった。
毎日新聞:膵臓がん治験費用をクラウドファンディング 関西医科大学 国の補助金申請認められず決断

全国紙で報道されたこともあり、2日間で目標としていた一千万を超す資金を集めることに成功したようだ。
朝日新聞:膵臓がん治験の費用 ネット募金、2日で1千万円超す

この治験に関して、補助金がなぜ認められなかったのか?と言えば、記事にある通り「新薬を使った治験ではない」ということのようだ。

膵臓がんは、5年生存率がとても低いがんの一つで、膵臓がんと診断された時には既に相当進行している場合が多い。
膵臓がんの患者さんを助けるには、「早期で発見し、治療すること」なのだが、それ自体が難しい臓器でもある。
だからこそ、ある程度進行している患者さんであっても、治療ができるようになるよう、日々研究を重ねている医療者も多いはずだ。

政府のがん医療政策が「がんゲノム医療」へと転換している今、新薬の研究の中心は膵臓がんに限らず「ゲノム(遺伝子情報)を使ったもの」ということになる。
先月承認された急性白血病の治療薬「キムリア」は、まさに「CAR-T細胞療法」というゲノムを活用した治療薬だ。
その「キムリア」の薬価は約3400万円と、高額だ。

だからこそ、新薬とは別に現在一般的に使われている「抗がん剤」での活用、ということが望まれるはずなのだが、国としては「がんゲノム医療」に対して集中的に補助金を出す、という考えのようで、結果今回のようなことが起きてしまったようだ。

現在の「抗がん剤」の考え方は、がん種に対して〇〇という抗がん剤を使う、ということになっている。
しかし、ここ数年の間で特定のがん種に効果があるとされてきた「抗がん剤」が、他のがん種にも効果がある、ということが分かってきた。
判明した大きな理由は「がんゲノム解析」による、がん種ではなくゲノムレベルでの効果が、徐々に判明してきたからだ。
だからこそ、今回の関西医科大学が実施した「治験」ができるようになってきているのだ。

その一例は、昨年ノーベル賞を受賞された本庶佑先生が見つけられ、小野薬品工業が開発した「オプジーボ」だろう。
当初は皮膚がんの一種「黒色メラノーマ」に対する治療薬として承認されたが、その後「非小細胞肺がん」や難治がんの一種である「腎細胞がん」などにも適用されるようになった。

今後ますます医療費が膨れ上がることを考えると、関西医科大学が行った既存の医薬品での「治験」も積極的に行う必要があるのでは?
その期待値のあらわれが、わずか2日間でクラウドファンディングの目標額が集まった理由だろうし、新薬による医薬品市場の獲得だけが日本の開発力を示すわけではなく、逆に様々な国の医療に多大なメリットと日本がリードしていく力がある、というアピールにもなると思う。

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「ハラール」表示が、普及し始めている

2019-06-12 17:37:48 | ビジネス

丁度、食用油が切れていたのを思い出し、近所のスーパーへ買い物に行った。
ご存じの方も多いと思うのだが、最近の食用油の売り場は迷うほどの種類がある。
昔のように「サラダ油、ごま油」程度の種類ではない。
「コレステロール0」とか「キャノーラ油」と言った「サラダ油系」の食用油はもちろん、オリーブオイルやグレープシードオイル、昨今の健康ブームで「えごま油」や「亜麻油」、「ごま油」にしても複数の種類(メーカーではない)が、商品棚に並んでいる。
今回購入したのは「お試し価格」と銘打った「こめ油」だったのだが、家に帰って何気なく見たら↓のマークを見つけた。

表示が小さいので、拡大をしたものだが青い表示な何かお分かりだろうか?
「ハラール商品」という、表示だ。
この商品は、地元のスーパーのPB商品で、以前使っていた某有名食品メーカーの「こめ油」には、このような表示が無かった。
「ハラール商品」というのは、イスラム教徒の人たちが安心して食べられる食品のことだが、まさか!中部地区のローカルスーパーのPB商品に「ハラールマーク」が付くような時代になったのか?と、驚いたのだ。

ローカルスーパーと言えども「ハラールマーク」をつけるPB商品を出すようになった背景には、来年のオリンピック開催を考えてのことなのかもしれないのだが、これから先、外国人労働者を受け入れるということになると、ローカルなスーパーだからと言ってもこのような商品開発が必要になるのでは?という想像ができる。

イスラム教というと、中近東の宗教というイメージが強いが、東アジア諸国でもイスラム教徒が多い国は少なくない。
とすれば、東アジアの中でもイスラム教徒が多いインドネシアからの労働者を受け入れる、という場合も出てくるだろう。
今まで「ハラールマーク」を普及させる理由の一つは、東アジアからの観光客の受け入れだった。
しかし今年外国人労働者受け入れが認められたコトで、ローカルスーパーのPBブランドとは言えこのような対応をしてきたのだと考えると、「ハラール食」を提供するレストランなどが、観光地を中心に増えていかなくてはインバウンドに結びついてはいかない、ということだろう。

小さな「ハラールマーク」だが、このマークが表示されている食品が増えてくる、ということはこれまでとは違う「グローバル化」が身近にある、ということだと思う。

 

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AIの進歩は凄いけど・・・メイク顔からスッピン顔が本当にわかるのかな?

2019-06-11 22:45:04 | アラカルト

日経新聞のコラムCOMEMOに、興味深い内容があった。
COMEMO:引き算のAIでメイクを取る

おそらくこのようなAI技術が進歩していく理由の一つは、「生体認証」の普及への期待があるからだろう。
それは空港などでの入管手続きなどの簡便化などだけではなく、犯罪者や犯罪予備軍としてリストアップされている人物の入国チェックをしやすくする、という「国家安全策」という意味も含まれていると思う。
確かに、画期的な技術だと思う。

思うのだが、一時youtubeで話題になった「整形メイク」と呼ばれるほどの、別人に変身してしまうほどのメイクをしている人にも、有効なのだろうか?と、疑問に感じてしまったのだ。
コラムの元となっているサイトを見てみると、メイク顔そのものが突飛すぎるからだ。
AI-SCHOLAR:スッピンがバレる?GANによるメイクの取り外しと置き換えが可能に

パンクファッションが好きな若い女性であれば、このようなメイクをして街中を歩くかもしれないが、多くの女性(最近は男性もか?)はこれほど突飛なメイクはしていない。
むしろ、「整形メイク」と呼ばれるような、普通にどこにでもいそうな「可愛らしい(あるいは素敵な?)女の子」に盛ったメイクを外すことの方が、実用に向け必要なのでは?と思ったからだ。

「整形メイク」をすることが悪いわけではないし、それだけの技術を持ってメイクができる、ということは凄いことだと思う。
何より、そのようなメイクをすることで、「自信が持てる」とか「積極的になれる」などの効果があるのであれば、とても良いことだ。
その「整形メイク」も、「メイクしました」候ではなく「ナチュラルメイク」になっているようだ。
となると、先のサイトにあるような突飛なメイクではなく、ごくごく普通の女性が普通にしている「メイク顔」から「スッピン顔」へ、どこまで取り外すことができるのだろう?

AIの進歩は目覚ましい。
ただ「整形メイク」に代表されるような、「ナチュラルメイクの別人化」のような文化を持っているのは、欧米ではなく日本をはじめとするアジアだろう。
韓国のように「整形大国」と呼ばれる国になれば、「スッピン顔」そのもの定義(というべきか?)が変わってしまうかもしれない。
とすれば、日本をはじめとするアジアで実用化できるだけの精度が、必要な気がするのだ。

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問題の本質と解決策-アフターピルオンライン検診-

2019-06-10 22:55:02 | 徒然

「いやはや、議論の中心はそこじゃないでしょ!」と、思うような記事がHuffpostにあった。
Huffpost:「若い女性は知識が無い」「若い女性が悪用するかも」。アフターピルオンライン診療検討会で出た意見

アフターピルというのは、性的行為をした後に飲む緊急避妊薬のことだ。
レイプや望まない性的行為により、妊娠をするリスクを下げる、という目的の為に使われる避妊薬だ。

今回の「アフターピル」の会議に参加されている方々を見ると、議論の中心となっているのは中年の男性ばかりだ。
この方々の言われる「若い女性」というのは、おそらく20代の女性たちのことだろう。
しかし「アフターピル」を必要としているのは、20代の女性ばかりではない。
10代~30代、40代の女性が、必要としている医薬品なのだ。

にもかかわらず「若い女性」と言ってしまうのは、何故だろう?
それだけではなく一番の問題点は「アフターピル」がなぜ必要になってしまうのか?ということを議論の中で取り上げていない、という点だ。
そもそも「妊娠」ということになると、男性のほとんどは「自分とは関係の無いこと」と思うようだが、「妊娠」の前には「性的行為」がある。
全ては一つの行為から始まり、出産・子育てにまで繋がっていくことなのに、その理解が十分でない為に起こる悲劇を減らす為の「アフターピル」という議論が必要なはずなのだ。

日本の性教育そのものが、1970年代の頃(米国で盛んに「フリーセックス」という言葉が使われていた時代)よりも後退しているのでは?という気がしている。
というのも同じHuffpostに昨年秋、AVが性教育の教科書代わりとなっている、という記事が掲載されていたからだ。
Huffpost:1日に450人が”中絶”。性教育が浸透せず「教科書化」されるAVに、出演者たちが物申す

中絶をする女性の人数の多さにも驚くのだが、その背景にあるのは「性」に対する知識や教育がされていないからではないだろうか?
そしてこの数字を見ると「アフターピル」を必要としている女性は数多く、男性側も「性」が「生」に結びつく行為である、という認識と知識が無いのでは?という気がする。

そして、問題の解決策となるキーワードが、議論の中に出ている。
それは「知識が無い」という言葉だ。
「知識が無い」のであれば、男女関係なく「知識を得る機会をつくる」ことで、問題の半分は解決するはずだ。
「アフターピル」の問題は決して女性だけの問題ではなく、男性にも関わってくる問題でもあるはずなのだ。

オンライン検診に関しては、「アフターピル」だけの問題ではないと思う。
確かに緊急性が高い「アフターピル」だが、これから先の高齢化社会と地方の過疎化などの社会変化を考えれば、医療の充実の為には検討をしていく必要のある新しい医療サービスだろう。
それを「アフターピル」という医薬品の処方としてだけにとらえるのは、「オンライン診療」のあるべき姿が見えていないようにも思えるのだ。

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少子化と地方活性化を考える

2019-06-09 08:19:08 | ライフスタイル

昨日だったと思うのだが、日本の人口統計が発表された。
統計局HP:人口推計 平成30年12月確定、令和元年5月概算値
前年同期に比べると、全体では27万人の減少だが、唯一増えているのが65歳以上だ。
日本の高齢化社会が進んでいる、ということを実感させる統計だ。

この統計とは別に、女性が生涯で出産するお子さんの人数(=出生率)も発表され、1.42人だった。
このままでは、日本の人口が減り続けてしまう、ということが如実にわかるデータだ。
もっと驚いたのは、15歳以下の子どもの全国割合で「10人に1人が東京の子どもたち」というデータだった。
数字だけをと、とても驚くのだが「子どもも東京に集中する」という状況は、決して日本(の経済)にとって、プラスだとは思えない。
この問題に対して、日経スタイルのコラムで一つの対策案が、掲載されている。
日経スタイル:増えたのは東京だけ 14歳以下の子どもが一極集中

このコラムでも指摘されているのが、「女性の働く場所」だ。
ある程度の都市規模を持っているはずの名古屋でも、大卒の若い女性たちの流出が問題になってきている。
若い女性たちが行く先というのは、もちろん東京だ。
大学が名古屋であっても、東京へ転出する女性が多いのだ。
理由として挙げられるのが、「女性が働く場所が無い」というコラムでも指摘されている点だ。

「女性が働く場所」というと、何か特別な「場所」があるような印象があるが、そのような場所があるわけではない。
「性差なく働ける場所」の多くが、「本社」に集中しているため「本社」が集中している東京へと、若い女性が流出しているのでは?と、思っている。

コラムでは指摘をされていないが、「東京っ子」が10人に1人という数字には、「様々な選択肢を増やしたい」という親の考えも含まれているのではないだろうか?
「進学の選択肢」や「お稽古事の選択肢」などから「(整備された)遊びの選択肢」など、幼少期から様々な選択肢がある(であろう)東京は、保育園の待機児童の問題はあっても、問題以上の魅力があると感じる親もまた多いのでは?

そして高度成長期に東京に就職した祖父母世代が、そのまま東京に住み続ければ、当然親世代、孫世代は東京に住むことになる。
元々人口が集中している東京なのだから、少子化が進む他の中規模都市の子どもの数字よりも増えるのは、当然だろう。
「統計数字を読む」には、そのような社会的バックボーンを理解しておく必要もある。

以前から指摘されているが、このような状況が続けば日本の経済力そのものが弱体化していってしまう。
何故なら、東京は「(何かを)生産している都市ではない」からだ。
上述したように、東京に集中している企業の多くは「本社」であり、その「本社」が(グローバル化)により巨大化している。
男女の性差が関係の無い職種が多いのも、本社であることも多い。

とすれば、地方が活性化していくために「本社移転」ということを考える必要があるだろう。
平たく言えば「創業の地」に本社移転をする、ということだ。
今のようにインターネットが(ほぼ)どこでも使えるような環境になれば、今まで「本社でなくてはできない仕事」だと思い込んでいただけではないだろうか?
先日Tverでみた「ポツンと一軒家」では、東京と横浜に写真スタジオを展開している社長さんが、1人愛媛の山の中に移転し、インターネットを使い、東京や横浜の社員と会議をし、本社としての仕事をされていた。
もちろん、企業規模が小さいからできるスタイルだといえるのだが、そもそも高度成長期~バブル崩壊を経てを尚「本社」が巨大ビルの中にある必要があるのだろうか?という、疑問を持つ必要があるのでは?

これまで「地方活性化」というと、UターンやIターンなどで若者を対象に考え、地元の農業や六次産業などの就労を考えられてきたが、これからは企業のクリエイティブ部門丸ごと誘致する、というような発想が重要になっていくのではないだろうか?
また、これからのAI社会で活躍できる若者は、自然の中で十分遊ぶ経験をし、整備されていない環境の中で様々な経験をしてきた子供たちである、という指摘を考えると、地方活性化と少子化対策を一緒に十分考ることがポイントだと思う。

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「選ばれる」のではなく「選ぶ」時代

2019-06-06 22:00:29 | ライフスタイル

日経のコラムCOMEMOを読んでいたら、「適合不全社会」と言う言葉があった。
このコラムを書いていらしたのは、拙ブログでも何度か紹介をさせていただいている、大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんだ。
COMEMO:あなたは選ばれるかー適合不全社会から峻別社会へ

コラムの内容については、リンク先を読んでいただきたいのだが「適合不全社会」と言う言葉を目にした時、なんとなく「人が社会や企業に合わせている」という印象を持った。
確かに戦後の高度成長期以来、多くの生活者は「社会変化に合わせた暮らし」をしてきたと思う。
特に高度成長期のように「企業が提供する商品やサービス」を、ありがたく受けていたという時代もあった(と感じている)。
結果日本の生活者の多くは、収入を得るために「企業に合わせた暮らし方」を、選択してきたように思うのだ。
それが悪いわけではない。
日本の企業の多くは「終身雇用」を保証し、60歳までほぼ無条件に働く(=収入を得ること)を保証してきた。

それが今年、日本のエクセレントカンパニーの雄ともいえる「トヨタ自動車」の豊田章夫社長が、「終身雇用の保証は今後難しい」という趣旨の話をした。
プレジデントオンライン:トヨタ社長の”終身雇用発言”で透けた本音
他にも、これまで「副業禁止」とされてきたサラリーパーソンの副業を、推奨する企業の動きもある。
バブル経済崩壊後、数多くの企業がリストラという名前の「人員整理」をしてきたが、トヨタ自動車のような企業が「終身雇用」について言及したということは、一つの企業に所属していれば将来安泰、という時代ではなくなった、ということだろう。

とすれば、これからの生活者に必要なことは「選ばれる」ことではなく、「選ぶ」ことなのではないだろうか?
「選ばれる」のではなく、「選ぶ」ことになれば、当然そこには「責任」というものが発生する。
「責任」を取るために、様々なリスクも考えなくてはならない。
何より、他人の評価ではなく自分で評価をし、失敗した時は謙虚にその失敗を受け入れ、責任を負わなくてはならない。
それらのリスクを理解し、承知した上で「選ぶ」ということは、これまでのような「選ばれる」ことよりも、ハードルは高く、大変だ。
ただそれをしなくては、池永さんが書いていらっしゃる「峻別」されていくことになる。

そのような社会の変化に企業はついていけるのか?生活者の意識はどのように変わるのか?
ここ2,3年の社会変化を、敏感にキャッチする必要があると思う。





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ファッションの変遷は、面白い

2019-06-05 21:59:53 | ライフスタイル

夕方のニュースを見て「だったら、男性も1日パンプスを履いて過ごしてみたら?」と、毒気つきそうになった(笑)。
中日新聞:パンプス着用、社会通念で 厚労相、容認とも取れる発言

男性から見たパンプス(というよりもハイヒールだろうか?)を履いた女性の足元が、綺麗に見えると思う。
実際、鏡の前でパンプスを履くとそれなりに足がきれいに見える(錯覚かも知れないが)。
その反面、デザインによりけりだが総じてパンプスを履いて、1日過ごすというのは、案外苦行だ。
女性の足のトラブル「外反母趾」や「ハンマートゥ」は、パンプスを履き続けることによって起きる「足の変形」だ。
それ以外にも、女性の靴の多くが「履きやすさ」よりも「デザイン重視」であるために、多くの女性は「靴に合わせて、足を変形」させている。
もちろん、フルオーダーメイドで1足数万円以上もするパンプスとなれば、違うだろう。

その昔、パンプスそのものは「男性の靴だった」と言われると、驚かれるだろうか?
Googleなどで、検索していただければわかると思うのだが、フランスの「太陽王」と呼ばれたルイ14世は、大のオシャレ好きで「パンプスにタイツ、ブルマーを履いていた」という。
王様がそのようなファッションをするのであれば、当然取り巻きとなる王侯貴族たちは、ルイ14世のファッションをお手本にする。
ルイ14世の時代のメンズファッションの最先端は、「パンプスにタイツ、ブルマーを履き、肩から豪華なマントを羽織る」というものだったのだ。
その名残(?)として、男性用のフォーマルシューズ「オペラシューズ」がある。

それが女性用の靴となるのは、「産業革命」以降だ。
多くの男性が「仕事をし、お金を儲ける」ようになり、その地位や財力を示す一つの方法が、着飾った女性を伴い社交パーティーや観劇、音楽会などに出かける、ということだった。
当然伴う女性は、奥さんなどではない。歌劇「椿姫」のような女性たちだ。
彼女たちは、多くの男性から宝石や衣装、小間使いの少女たちまで与えられ、優雅な生活をしている。
ルイ14世の頃は、上流社会の男性たちが競い合うように着飾っていたのが、「産業革命」という新たな経済が起こることで、社交界は王侯貴族から企業家へと主役が変り、その華やかさの中心となったのが、「椿姫」のような女性たちだったのだ。
それ以降、経済の中心となる男性ではなく男性の地位や財力を示す女性のファッションの一部が定着した、ということになる。

ファッションそのものは、ココ・シャネルのように「働く女性たちのファッション」という考えが生まれ、戦争が起きれば女性たちも労働力として働くことになり、変わっていくのだが「靴」だけはさほど変わることが無かった。
強いて上げれば、1980年代「キャリア・ウーマン」と言う言葉が盛んに言われるようになると、スニーカーを履いて出勤するニューヨークの女性たちが話題になったりはしたが、オフィスに行けば、パンプスに履き替え颯爽と歩く姿が「キャリアウーマン」の姿のように言われた時代もあった。

このような「パンプス」の変遷を見てみると、女性がより活躍し自立する為の一つの象徴が「パンプスを履かない」ということなのかもしれない。

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メルケル首相の言葉に、耳を傾けよう

2019-06-04 19:16:06 | ビジネス

Huffpostに「さすがだな!」と思わせる記事があった。
Huffpost:メルケル氏がハーバード大で名スピーチ「不変に見えることも、本当は変わりうる」トランプ氏に釘を刺す

米国の有名大学の卒業式では、様々な分野で活躍をされる著名人がスピーチを行うことが多い。
有名なところでは、スタンフォード大でのスティーブ・ジョブス氏の「馬鹿であれ、貪欲であれ」というスピーチだろう。
そして今回のメルケル氏のスピーチは、トランプ氏云々ではなく自分たち社会で起きていること、として捉える必要もあるのでは?
もちろん、スピーチの中にはトランプ氏が推し進めている「保護主義」的な政策に対する批判も含まれてはいるようだが、むしろこのスピーチの中心となっているのは、「不変に見えることも、本当は変わりうる」という点ではないだろうか?

メルケル氏も、ベルリンの壁が崩壊する1989年の春ごろまでは、まさか壁が崩れ東西ドイツが統合する、などとは思わなかっただろう。
「壁があるのが当たり前」だったからだ。
ところがその年の秋、東西に分けていた「壁」は崩れた。
一時期的経済や社会の混乱は合ったものの、「壁」が無くなっただけではなく、「東西冷戦」の緊張感も全く別のものになってしまった。
そのような経験をしてきたメルケル氏だからこそ、「変わらない」と思い込んでいたものも「変わることができる」という言葉に説得力が生まれる。

では、実際にビジネスの場面ではどのようなものなのか?と、言えば「ロングセラー」と呼ばれる商品が、この「不変に見えることも、変化している」代表だろう。
「ふりかけ」の代名詞(?)である、丸美屋の「のりたま」のパッケージには、同様の一文がある。
他にも老舗と呼ばれる企業(やお店)なども、伝統を受け継ぎながらも、新しいモノ・コトを取り入れている。
「目に見えるような変化」ではないが、実は「目に見えない変化」だからこそ、多くの人は「変化を感じることなく、それらの商品やサービスを受け入れることができる」のだ。

共通して言えることは、「変化を受け入れる度量がある」企業や商品である、ということだろう。
だからこそ、「変化」に対する耐性(というべきか?)があり、むしろ積極的に「変わろう」とする力が、あるのではないだろうか?
何故ならそれが「成長」へと繋がっていくからだ。

もう一つは「当たり前を疑う」ということだろう。
上述した通り、ベルリンに壁があった時には「壁」による東西分断は、永久に続くのでは?と思われていただろうし、「東西統合」などは夢物語だと思っていたと思う。
しかし、米国と旧ソ連との関係が変り始めたことを敏感に感じた市民の力によって、「崩れることの無い壁」はあっという間に崩れ去ってしまった。
「当たり前」だと思い込んでいることは、「当たり前ではないかもしれない」そのような疑問を持ち続けることもまた、成長へと繋がっていく、ということもメルケル氏はご自身の体験から話されたのではないだろうか?

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