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日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「洋上風力発電計画」も見直しか?

2025-08-26 20:26:44 | ビジネス

拙ブログでも時折情報ソースとして取り上げる、米国の経済中心の情報メディア「Bloomberg」が、三菱商事などが展開している洋上風力発電計画からの撤退を検討している、と報じている。
Bloomberg:三菱商事など、国内3海域の洋上風力発電撤退で調整ー関係者 

Bloombergの報道を皮切りに、日本の大手メディアも次々と報道を始めているようだ。
NHK NEWS:三菱商事、洋上風力発電計画 撤退の方向で最終調整 

国内外の複数のメディアが、同じ報道を始めたということは、おそらく本決まりだろう。
このような状況になると、国策としての「脱炭素社会・自然エネルギーへの転換」に、待ったがかかった感じだろう。
昨日エントリをした「国立公園周辺でのメガソーラー建設」とは、問題の本質が違うと思うのだが、欧州で進められてきた自然エネルギーのシステムが、日本では適さないということが判明した、ということになると思う。

そもそも、欧州のように台風がほとんど襲来しない地域では、洋上風力発電は有効な自然エネルギーシステムと言えるかもしれない。
tenki.jp:フランスにも台風は来る?ヨーロッパの台風事情を解説 

台風だけが洋上風力発電システムに問題を引き起こすとは言えないし、冬場の大雪や吹雪という気象条件の厳しさはあると思う。
それでも、日本に毎年20個近く上陸する台風に比べると、海上に及ぼす影響は大きく違うのではないだろうか?
ましてここ数年は、線状降水帯が全国各地で発生をし、相当の被害をもたらしている。
メガソーラー建設についてもいえるのだが、このような気象条件を持つ日本に向いている「循環型自然エネルギー」という、当たり前の原点に戻って、考え直す必要があるのでは?

そしてこの「日本型循環型自然エネルギーシステム」は、アジア諸国にも向いているのでは?と、考えるのだ。
その理由は、気象条件が日本と似ている、という点が挙げられると思う。
「自然エネルギー」そのものは、気象条件などに左右されることで、「安定的エネルギー供給ができない」という指摘は、再三されてきた。
その視点で考えるのであれば、その土地・その地域にあった「自然エネルギーの在り方」を考える必要があるはずだ。

例えば、「潮力発電」と呼ばれるシステムなどは、干満の差がある地域に向いていると言われている。
他にも日本のような火山が多い地域では「地熱発電」という考えもあるし、急流が多い日本の山間部などでは「小規模水力発電」のように、少ない建設費で地域は限定されるが比較的安定した電力供給が可能である、ということも言われている。

「循環型自然エネルギー」先進国である欧州のシステムをそのまま導入するのではなく、その土地・地域にあった「自然エネルギーのつくりかた」を考える必要があるだろうし、昨日エントリしたように「自然エネルギーの基本は地産地消」である、と考え大規模なエネルギーネットワークの発想から脱却する必要があると思う。


自然環境を破壊する循環型自然エネルギー

2025-08-25 19:42:11 | ビジネス

ここ2年ほど、太陽光発電を巡っては様々な問題が起きている。
その一つが、国立公園周辺で建設されている「メガソーラー」だ。
確か、最初問題になったのは、阿蘇だった記憶がある。
それが今年になり、釧路湿原の近くで、メガソーラー発電の建設工事が始まった、と、XなどのSNSで取り上げられるようになった。

それぞれ別の太陽光発電の企業が、メガソーラーを企画・建設・運用をしており、株式会社エネウィル(旧JAG国際エナジー)だ。
聞きなれない企業名なので、一応Wikipediaで確認すると、「空間情報コンサルティング」と「グリーンエネルギー」を事業の柱としていた、日本アジアグループの「グリーンエネルギー」部門からスタートした企業のようだ。
Wikipedia:JAG国際エナジー 

そう考えると、循環型自然エネルギー事業を手掛ける企業なので、「グリーンエネルギーとは何か?」ということを、十分理解しているはずだと思うのだが、何故国立公園近くの土地を買いあさり、メガソーラーをつくるようになったのだろうか?

阿蘇の場合、買収された土地の以前の保有者は、阿蘇山の近くで牧畜を営む共同事業体だったようだ。
讀賣新聞:阿蘇の景観覆うメガソーラー…高齢化と後継者不足「野焼きできず草原荒れ果て売る道しか」 

阿蘇の場合、根本的な理由として浮かび上がってきたのが、牧畜に限らない「農業の問題」だった。
「高齢化と後継者不足」は、今や農業就労に関する一番の問題であり、この問題が解決されない限り、日本の農業(だけではなく第一次産業全て)が衰退していく、と再三指摘されてきた問題でもある。
この根本となる問題解決がされない限り、このようなメガソーラーが起きてくるだろう。
とすれば、今は自然環境保護という観点も含めた「農政」を考えるターニングポイントになっている、とも考えられる。

一方、釧路の場合は全く別の問題のような気がする。
というのも釧路湿原周辺は、元々農業などに適した場所ではなく、逆に「ラムサール条約」により保護される地域に隣接しているような場所だ。
もちろん、個人の地権者が誰に何の目的で土地を売買しようと、口出しすることはできないにしても、安易な「太陽光発電事業計画」に行政を含め乗ってしまったのでは?という気がしている。

もちろん、地方行政だけの問題と言い切れない部分はあると思う。
それは地方財政という問題だ。
地方財政が厳しい中、行政側にとって手間を掛けずに一定の税収が見込める、として「メガソーラーの建設を認めた」とすれば、安易すぎると批判はできるが、現実の行政予算を担保することは無い。
これもまた、地方に次々とつくられる「循環型自然エネルギー」を受け売れるジレンマなのかもしれない。

元々「メガソーラー」の建設地に向いているのは、1960年代~1970年代に開発をされながら、企業誘致に失敗した「工業団地」のような場所であり、自然を壊してまで造るモノではない。
というのも、自然豊かな場所に循環型自然エネルギーシステムを造ると、その為のメンテナンスコスト(下草狩りや雨などによる土砂の週出を防ぐ為の土留め)などが必要で、建設をしたら勝手に利益を出してくれる、というシステムではないからだ。
また、発電ロスや直流から交流に変換し送電する為に起きる送電ロス、ということを考えると、太陽光発電をはじめとする「循環型自然エネルギーシステム」は、地産地消が原則である、ということがわかる。

これまでのような「大型発電所」を建設し、日本全土に網の目のような送電線を張り巡らせる、という発想そのものが、「循環型自然エネルギー」には、似つかわしくないのだ。
「エネルギー政策」においても、大胆な発想の転換が求められている、ということを考える必要があると思う。




「ブルシットジョブ」の行方

2025-08-22 18:37:48 | ビジネス

先日、FM番組を聴いていたら、面白い話題があった。
米国では既に「高収入だけどブルシットジョブ(=くそどうでも良い仕事)から、社会的インフラを支えるブルーワーカーへと職業を変える人たちが出始めている」という、話題だった。

ここでいう「高収入だけどブルシットジョブ」と言われる仕事とは、いわゆる「コンサルティング業」などのことを指すらしい。
そして何故、「高収入で社会的にも高い地位を得ていそうな仕事」を手放すのか?という理由が、いかにも「今」という時代を象徴しているな~と、感じたのだ。

理由は「ブルシットジョブと言われる仕事こそ、今後AIに取って代わられるリスクがある」ということのようだ。
事実、世界トップクラスのコンサルティングファームと呼ばれている、米国のマッキンゼーは相当の危機感を持っているようだ。
Diamondon-line:AIでコンサル激変、マッキンゼーの存続かけた変革

もちろん、先手を打つように「AIではできないコンサルティングの仕事」を目指す人達も、数多くいらっしゃると思う。
そしてこのような「AIに取って代わられるようなコンサルティング」をしているのは、米国よりも日本の方が多いのでは?という、気がしている。
というのも、日本の場合クライアントである企業の依頼者が求める「コンサルティング」とは、「know-how」の提供であったり、「How-to」といった、「手法ややり方」だからだ。
しかも、それらの手法ややり方をすれば、企業は大丈夫という思い込みから始まっている感がある(と感じることが多々あったからだ)。
しかし今時のChatGTPなどに聞けば、ある程度の解答は即座に出てくる。
何も高いお金を出して、コンサルティングをしてもらう必要など無くなりつつある。
それを懸念し、変革をしようとしているのが、マッキンゼーの今なのかもしれない。

逆に、いわゆる「ブルーワーカー」と呼ばれる人たちの中には、社会インフラを支える人たちが数多くいて、その仕事の多くはAIでは対応することができない。
AIがいくら進化しても、人の手・人力にはかなわないという分野の仕事が、数多く存在しているのも事実だ。
それだけではなく、このようなAIがかなわない分野の仕事は、恒常的な人手不足状態になっている。
人財的需要と供給のバランスが悪い状況にある、というのも現実でありその最大の理由は「待遇面と給与」だ。
それを解消するためには、社会的投資として、経済的負担は当然という考えになるのでは?

と同時に、ブルーワーカーと呼ばれる仕事であっても「ハイブリッド化」をしていく必要があると思う。
それは「言われた仕事を淡々とこなす」のではなく、積極的で創造性のある「ヒューマンタッチ」な仕事であったり、「匠」と呼ばれるAIでは太刀打ちできない「人間の感性による技術」だろう。
日本における「宮大工」のような技術や日本の腕時計の中でも最高峰と言われる「グランドセイコー」などは、「匠」と称されるような熟練工の人たちが、一つひとつ丁寧に創り上げている。
これからは、そのような人達に対し「敬意」されると同時に、その「敬意」に似合うだけの報酬の提供がされていくのでは?ということなのだ。

今は「ブルシットジョブ」と言われている仕事であっても、AIの登場が大きく変えようとしている。
であれば、「ブルシットジョブ」ではない、仕事をしていくような創造性とヒューマニズムに基づく発想が、ますます必要になってくるのでは?と、想像している。


「ポケモンカード」の失敗から、マクドナルドは何を学ぶのか?

2025-08-21 12:10:03 | ビジネス

昨夜、マクドナルドが発売予定をしていた「ハッピーセットのワンピースカードの中止」を、発表した。
ご存じの通り、この中止を決定することになったのは、その前の「ポケモンカード」による問題があったからだ。
「ポケモンカード」と同様に、人気のある漫画(アニメ)の「ワンピース」。
そのゲームカードとなれば、再びハッピーセットの大量購入・大量廃棄が起こり、オマケであるカードが高値で転売される、ということが予測できる。
そのような状況を再び起こさない為の措置、ということだろう。

ここで一つの疑問が出てくる。
マクドナルドの「ハッピーセット」そのものは、30年位前に登場した「お子様向けのセット商品」だったと思う。
当時は、プラスチック製のおもちゃなどが主体で、人気キャラクターのカードなどではなかったはずだ。
女性であれば経験があると思うのだが、実は「ハッピーセット」は、女性のランチにも向くボリューム感なのだ。
その為、当時は若い女性も「ハッピーセット」をランチ時に購入し、店内で食べている光景を何度か見たことがある。
その女性たちにとってのオマケのおもちゃは、かさばるし貰ってもな~という、微妙な扱いだった。
その為、「オマケを回収してくれれば良いのに」と、思ったコトもあった。
むしろ、小学校の高学年になると「ハッピーセット」では物足りなくなるのでは?と、感じることもあったし、商品の購入対象者は小学校低学年くらいまでなのだろう、という気がしていた。
だからこそ、オマケのおもちゃもあのような感じだったのでは?という、印象があった。

それがいつしか、人気キャラのカードやおもちゃへと変わっていった。
その度に、今回と同様に騒動があったように思うのだが、ポケモンカードそのものが転売ヤーやオークションサイトなどで高額取引されるようなモノになっていたことが、この問題を表面化させたのでは?という、気がしている。

そう考えると、マクドナルドは今一度「ハッピーセット」の原点に戻る必要があるだろう。
「ハッピーセットを食べてもらいたい層」を改めて、考え直しその顧客層にあった「オマケ」を検討する、という当たり前のことだ。
それだけではなく、プラスチック製のおもちゃではなく、間伐材を利用した木製のおもちゃなどを検討してみても良いのでは?
当然「オマケ(=おもちゃ)が要らない」という場合はオマケを回収し、現在マクドナルドが全国の大規模病院に展開をしている「小児がんなどで長期の治療を必要としている子どもやその家族が一時期過ごせる『ドナルド・マクドナルド・ハウス』」に寄付をするとか、保護施設に寄付をする、という方法もあるのでは?
そのほうが、社会貢献としてもSDG’sという観点からも、良いサイクルが生まれるのではないだろうか?

「ハッピーセット」という、「幸せのセット」を提供するのであれば、オマケとなるおもちゃも、子供たちに幸せを提供する存在であって欲しい。
その視点を持てば、今後は違う展開が出てくるのではないだろうか?


マクドナルドの「ハッピーセット」のオマケ考

2025-08-19 19:25:06 | ビジネス

お盆の頃から、ズ~~~ッと話題になっている、マクドナルドの「ハッピーセット」の問題。
問題となっているのは、2つの理由がある。
一つは、オマケ目的で購入制限のあるハッピーセットをグループ買いをし、ハッピーセットそのものを食べずに、廃棄するという行為。
もう一つは、オマケであるマクドナルド限定のポケモンカードを、転売し不当な利益を得ている。
という2点だ。

まず、「オマケ目的で購入する」という行為は、「ビックリマンチョコ」についているカード目的で購入し、チョコを食べずに捨てる、という行為が社会的問題になった頃から、その本質は全く変わっていない、ということになると思う。
このような現象が起きる背景には、オマケとしてついているカードが食べ物限定のモノで、そのモノを買わなくては手に入らない、ということがあるだろう。
しかも、「レアアイティム」と呼ばれる、なかなか引き当てることができないモノは、それを持っているだけで「ヒーロー」のように、仲間たちから一目置かれる存在になれる。
と同時に「コレクター(収集家)」という意味も含まれているはずだ。
オマケとなるカードを絵柄違い(というべきか?)で数多く持っている方が勝ち!みたいな雰囲気もあるのでは?

それを儲けの道具として扱ったのが、2番目の「転売目的での購入」ということになる。
どちらも「食べる」目的ではないので、ハンバーガーやポテトなどには、興味が無い。
食べる気も無いのだから、当然だろう。
にも拘わらず、購入をする為のチームをつくり、並ばせ、限定数量以上の商品を購入するための資金を準備し、転売をし儲ける様にしている。
ここでYahoo‼のトピックスに「カンテレ」の取材記事として、今回の騒動の要因となった「転売ヤー」のインタビューの記事があった。
カンテレ8: “利益10万円”「ハッピーセット」買い占め“転売ヤー”独自取材「あれはマックが悪い もう1回やって」 

インタビューに応えているのは、20代の大学生のようだが、「マックが悪い」と言っても、自分たちの転売行為は「ビジネスだから許される」と、解釈をしているようだ。
そもそもビジネスとは何か?ということが分かっていないと思うのだが、気になったのは彼は友人たちを使い相当数の「ハッピーセット」を購入している。
ビジネスというのであれば、その為に集めた友人たちの人件費、拘束時間、ハッピーセットの購入代金、転売をする為に係った時間と労力などを差し引いて、利益が10万円ということなのだろうか?
おそらく「転売して手にした金額が10万円」ということなのでは?という、気がしている。
その10万円を得るために使われた様々な諸費用は、どのように計算しているのだろう?

昨今の最低賃金×人数×時間と考えると、その時には見えないお金が発生しているはずなのだ。
もちろん、グループで手分けして仲間内でやっているので、そのような事は考えてはいないと思うのだが、商学部の学生なら当然その程度の知識はあるはずだし、友人たちもハッピーセット購入の為の時間と労力を、転売ヤーである仲間に請求しても問題は無いだろう。
利益=売上-(購入資金+購入の為の人件費+フリマサイトへの手数料+発送費+転売ヤー自身の労力と時間)だと考えると、本当に10万円の利益になるのだろうか?

今回のような「オマケ商法」によるトラブルで「誰が悪いのか?」と言えば、「転売ヤーが悪い」と世間は考えている、ということが分かっていないのだろう。
その理由は、社会的なマナーや商習慣に反した行為だと、分かっていなからだ。
もちろん、このようなことが予測できなかったマクドナルド側にも問題はある。
かつてのような「おもちゃ」であれば、このような騒動にはならなかっただろうし、「転売ヤー」に目を付けられることも無かっただろう。
「ハッピーセット」は、子ども達が楽しく食べられる機会をつくるセットのはずだ。
その目的から大きく外れてしまっていることは、マクドナルド社もまた「自己利益中心の企業である」と、見られても仕方ないかもしれない。
マクドナルド社が全国に展開している「長期入院治療中の病気のこどもと家族のためのドナルドマクドナルドハウス」の理念が、生かされていないことを残念に思う。


政治家のことばと支持率

2025-08-18 15:30:46 | アラカルト

8月も終盤に入りつつある。
ご存じの通り、8月は「慰霊の月」でもある。
6日の広島原爆の日、9日長崎原爆の日そして15日の終戦記念日だ。
この3回の慰霊の場面で、石破首相のことばが様々な波紋(と言っては大袈裟かもしれない)を読んでいる。
特に、15日の日本武道館で行われた「全国戦没者追悼式」での「反省」という「ことば」に対して、Yahoo!コメの一部では10年前の「安倍談話」を持ち出したコメントも数多く見られた。
日経新聞:戦後70年、安倍首相談話の全文 

確かに故安倍元首相は「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んでしまいました」という一文はあるが、「反省」ということばは無い。
この時の談話で「日本はやっと謝罪から解放された」と感じた方々も多くいたと思う。
そのことについてあれこれ言う気はない。
ただ、この3回の慰霊の式典を通して、石破首相への見方が変わったことも確かなのではないだろうか?
それを示すのが、世論調査だ。
NHK News:(NHK 選挙Web)NHK世論調査 

このNHKの世論調査の中で「石破首相 続投賛否(リンク先の記事を下にスクロールしてください)」を見ると、続投を支持する人達が49%と高い数字を出しているのだ。
他社の同様の調査でも、同じような結果が出ていることを見ると、8月の「慰霊式」などで石破首相の「ことば」に対して、肯定的というよりも、共感した人達が多かった、ということが伺える。

と同時に、これらの式典で石破首相の語った「ことば」について、もっと注目してみる必要があるのではないだろうか?
「政治家にとって『ことば』とは?」ということが、如実に表れたのがこれまでの「自民党党首であり首相であった人物」との違いなのではないだろうか?
故安倍元首相、菅元首相、岸田前首相と3人の文章は、どことなく「使回し」的な印象があった。
菅元首相に関しては「奉書に書かれた文章を読み飛ばす」ということもあり、その時「糊がくっついていた」という、言い訳にならないようなことを話していた。
そして広島市民を一番ガッカリさせたのは、広島市を選挙区にしている岸田前首相だったかもしれない。
「首相として、自分たちの痛みを一番わかってくれているのでは?」と、期待していたにもかかわらず、通り一遍のような内容だったからだ。

それに対して、石破首相の「ことば」には、人の血が通っているような印象を与えている。
結びとして被爆地の歌人や医療者のことばを引用することで、被爆地に心を寄せている、と伝える内容となっていたからだ。
このようなステップを踏みながら、15日の「戦没者追悼式」に繋がっていくという、全体のストーリーとことばが、「石破続投支持」へと繋がっているのでは?と、感じるのだ。

何となくだが、戦後生まれの議員さん達が増えたことで、「戦争とは何か?」ということが、美化されてしまった感がある。
「耐えがたきを耐え、高度成長に導いたスゴイゾ!日本人」という、部分をクローズアップさせることで、本来持っている「日本の美徳とその美徳を支える文化や歴史」を理解することなく、都合よく一部を切り取ることで世間を煽ってきた政治家という姿があったのではないだろうか?
だからこそ、改めて「政治家のことば」に注目する必要があるような気がしている。


戦後80年に思う

2025-08-15 18:36:12 | 徒然

今日、戦後80年という日を迎えた。
日本武道館では、例年通りの「全国戦没者追悼式」が行われ、その席で石破首相が「反省」という言葉をのべた、と話題になっている。
日経新聞:石破茂首相の式辞全文 全国戦没者追悼式 

全国戦没者追悼式において、時の首相が「反省」という言葉を使ったのは、実に13年ぶりだったという。
13年前に「反省」という言葉を使ったのは、現在の立憲民主党の野田代表だったようだ。
ということは、自民党が政権を奪取してからの13年間、故安倍元首相も、菅元首相も、岸田前首相も「反省」という言葉を使ってきていない、ということになる。

そして今、この「反省」という言葉を巡って、いわゆる「保守派(あるいは右派)」と言われる人たちから、「戦後80年も経っているのに、いつまで日本は反省をするのか?」という声が上がっている。
実際Yahoo!コメなどを見て見ると、そのようなコメントが数多くある。

問題なのは、何故「反省」という言葉を石破首相が使ったのか?
それは「何に対して反省をする」ということなのか?という点なのではないだろうか?

ここで思い出して欲しいのは、昭和天皇の「玉音放送」の内容だ。
どうしても「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び・・・」という部分だけが、切り取られてしまいがちなのだが、公開されている全文を読む限り、「なぜ耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶのか?それは誰なのか?」ということが分かってくる。
朝日新聞 GLOBE:終戦の日(8月15日)に読みたい玉音放送(終戦の詔書)の原文と現代語訳 

原文そのものは、漢文で書かれ、その漢文を基に玉音放送されたため、とても分かりにくい内容であった、ということは想像に難くない。
実際、亡くなった私の母などは「ラジオの音声も悪かったけど、(言葉が難しすぎて)何を話しているのかわからなかった」と言っていた。
それほど、身近ではない言葉で書かれているので、メディア的にわかりやすい一部分を切取り、使われてしまったのが「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び・・・」という部分である、ということが全文を読むことで分かる。

ではこの「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶのは誰なのか?」というと、それはアジアを含む多くの人たちを戦禍に巻き込んでしまった昭和天皇自身である、と読み解くことができる(のではないだろうか?)
そこから考えると、今回の石破首相の「反省」は、「何に対して反省」と言っているのか?ということを考える必要があると思う。
石破首相の追悼文から読み取れるのは「戦争を推し進めることとなった当時の政治や社会に対して、反省をしそれを教訓に二度と戦争を選ばない日本を創っていく」と、私には読み取れるのだ。

「反省から学ぶ」ということは、ビジネスの世界ではよく言われることだ。
まさに「戦争へと突き進んでしまった日本の在り方を反省する」ということは、先の参院選で「核保有は安い防衛」と言い放った政党が出現したり、極右的動きが見え始めたと感じる今だからこそ、そのブレーキとなる「反省を促す」必要があるのではないだろうか?

今朝FMを聞いていたら「戦後80年を経過し、国民の半数以上が戦後生まれ」という話をしていた。
それは日本にとっても、第二次世界大戦で戦禍に巻き込んだアジアの国々にとっても、良い意味のある80年なのではないだろうか?
1970年に、きたやまおさむさんが書いた「戦争を知らない子供たち」という楽曲がヒットした。
それから55年が経過し、「戦争を知らない子供たち」が国民の大多数になっていったことを、誇りに思うべきだと思う。
ただ、誇りに思うだけではなく「どこで道を誤り、戦禍へと突き進んでいったのか?」という検証と反省は、続けていく必要があるのでは?
それが「戦争を知らない子供たち」を増やしていく力となると、考えている。


「盆踊り」が変える、社会と世界

2025-08-13 20:11:43 | アラカルト

先日、私のXに面白いポストが投稿された。
それが、東京・中野で行われた「盆踊り」についてだった。
ルミアーチ:75,000人が熱狂する盆踊り!『ナカボン』から広がる「地方創生」の輪 

以前「盆踊り」で話題になったのは、「サイレント盆踊り」だった気がする。
産経新聞: 【トレンド日本】イヤホン耳に無音で盆踊り・・・「不気味」でも「踊りに没頭できる」

盆踊りの音がうるさい!という近隣住民からのクレームに対応するため、踊る人がイヤモニをつけて踊る、という盆踊りだった。
イヤモニをつけて踊るため、踊り手には音は聞こえるが、周囲には音が聞こえないということで「サイレント盆踊り」というネーミングが付いた、という訳だ。
この「サイレント盆踊り」の話題があったのは、2,015年頃でその後「コロナ禍」があり、「人との繋がり」という社会的な重要性が問われるようになった。
その後に登場したのが、東京・中野の「盆踊り=ナカボン」ということになる。

そもそも「盆踊り」は、「精霊(仏教的意味の「しょうりょう」を指す)」という意味もあったのではないだろうか?
というのも「盆踊り」の原型となっているのが、空也上人の「念仏踊り」ということも言われているからだ。
今でも東北の一部では、お盆に念仏踊りをする地域があると言われているし、沖縄のエイサーは沖縄舞踊と念仏踊りが一つになったとも言われている。
KOZA WEB:エイサー豆知識 

このように、盆踊りを多角的に視ていくと上述したように「亡くなった(大切な)人を思う」一つの在り方という姿が見えてくる。
それは、カタチを変え世界的にみられ、シャーマニズムなどはその一つなのではないだろうか?
オカルト的な意味ではなく、亡くなった人を思うだけではなく、残された人達にとってもその行為は、心の安らぎをもたらすモノのような気がするからだ。

一方、岐阜県の「郡上踊り」のように、踊り手を限定するのではなく、様々な人が飛び入り参加できることで、地域全体が盛り上がるという側面も持っている。
この現代バージョンに発展した、と言えるのが上述した「ナカボン」なのではないだろうか?
「郡上踊り」は、踊りこそ決まっているが浴衣を着て、下駄をはいていれば、誰もが参加自由という、盆踊りだ。
「サイレント盆踊り」のように、踊り手が固定されている訳ではない。
「ナカボン」のように、時には米国のロックバンド・ボンジョビの「Livin’ On Prayer」を使うことも、現代的なのかもしれない。
ちなみに、この「Livin’ On Prayer」の「Prayer=祈り」という意味なので、歌詞の内容を考えると盆踊りと親和性があるかもしれない。
動画を見る限りでは、もはやライブ会場、フェス状態ではあるが…。
Youtube:盆ジョビ 仲野駅前第盆踊り大会2025 

そしてこのような動画を見て感じることは、日本の「盆踊り」は上述したように「精霊」という意味を含み、それが全国でカタチを変え地域で発展をしていった。
この「精霊」という考えを持っている「盆踊り」の意味と精神性は、日本独特でありながら世界に「平和」を訴える、新しい提案ツールになるのではないだろうか?


猛暑の原因は、人災だった

2025-08-11 22:03:58 | ライフスタイル

今年の夏は、例年よりも暴力的なようだ。
連日の殺暑の後には、線状降水帯による豪雨。
毎日のような異常気象状態で、体調管理も例年以上に気を遣う方は多いと思う。

そのような「異常気象」について、先日注目するような記事があった。
共同通信社:7月の記録的猛暑は人為的温暖化 東大、京大の研究者ら分析 

これまでの異常気象というと「ラニーニャ現象・エルニーニョ現象」と呼ばれる、太平洋赤道付近の異常な水温によって発生する、と言われている。
その影響が、日本の気象に大きく関わっている、ということが言われてきた。
他にも、インドネシアやフィリピンなどの火山噴火などが原因で、冷夏になったということもあった。
それが、今年に限ってはそのような「自然現象による原因」らしきものが、無かったのだ。
気象庁:エルニーニョ監視速報 2025年6月の実況と2025年7月~2026年1月の見通し 

そのような状況から、改めて分析をした結果が共同通信社の記事なのだ。
都市部における「ヒートアイランド現象」や都市部で続くタワーマンションの建設。それに伴う緑地の減少などが複合的に重なり、今年の異常気象へと繋がっている、ということになるのだろう。
そう考えると、先週だっただろうか?TBSの安住アナウンサーがいった「タワーマンション解体」という話は、「ヒートアイランド現象を止める策」として有効なのだ。

そう考えると、現在進行している都市部における「タワーマンション建築計画」は、地球温暖化という視点だけではなく生活者の健康という視点でも、必要なのか?と、考え直す時期に来ているのではないだろうか?
しかも夏の高温傾向は、タワーマンション建築が予定されている都市部ではなく、その周辺地域になっている。
この様な傾向を見れば、タワーマンションや都市部のヒートアイランド化による熱が、周辺地域に影響を与えているということになるのでは?と思われる。
都市部の高温化がより、周辺地域の温暖化を進めているとすれば、都市部の都市計画は周辺地域の自然環境にも大きな影響を及ぼしている、ということになるのでは?

これからの都市計画は、一都市だけの問題ではなく、周辺地域の自然環境・温暖化対策を検討することが、重要になっていくのではないだろうか?





SNSとメディア‐広陵高校2回戦辞退

2025-08-10 21:05:42 | アラカルト

野球そのものにさほど興味が無い為、最近話題となっていた広島県代表の広陵高校野球部に関する話題について、ほとんど知らなかった。
ただX(旧ツイッター)のおすすめの中に、「広陵高校は、甲子園を辞退すべき」という趣旨のポストが何度か表示されたので、広陵高校で何か問題があったのだな、程度に思っていた。

先日1回戦で対戦した高校の野球部員の中には、試合後の握手を拒否した、というニュースもあったので、世間的な注目は「対戦相手の高校生が、試合後の握手をしないのは、スポーツマンとしてどうなのか?」というコメントよりも、「握手を拒否した生徒の気持ちもわかる」という内容が多かったことも、広陵高校野球部内で起きた出来事の重大さを感じた。

そして今日、広陵高校側から2回戦以降の試合を辞退する、と高野連に対して申し入れがあり、高野連側も受け入れたということになったようだ。
朝日新聞:広陵、高校野球選手権大会の出場辞退「暴力の情報、重く受け止め」 

この記事を読んでいくと、SNS上で広陵高校野球部員の中に暴力沙汰を起こした生徒がいる、という話題が拡散され、それが誹謗中傷となり学校側が対応に苦慮し、出場を辞退するに至った、とも読める。
一読すると、「学校も高野連も出場に対しての判断は間違っていないが、SNSで暴力沙汰が拡散され、誹謗中傷を受けたため、生徒を守る為に辞退するに至った」と、読めるのだ。

しかし、もう少し詳しく読んでみると、この暴力沙汰は夏の地方大会が始まる前に発覚している。
何故この時点で、広陵高校側から地方大会への出場辞退の申し入れをしなかったのだろうか?
そして、この問題が発覚した後の高野連側の対応にも疑問が残る。
これまで、野球部員の喫煙や飲酒といった問題が発覚した時、多くの場合その部員が所属する学校側から出場辞退の申し入れがあり、それを高野連側も受け入れていたような印象がある。
しかも今回は、喫煙や飲酒よりも問題性としては大きい暴力沙汰なのに、学校側も高野連側も認識が甘いように感じるのだ。

もし、地方大会が始まる前に発覚し、辞退していればおそらくSNS上で問題視されることは、無かったと思う。
何故なら、地元はともかく、全国的に有名な強豪校であったとしても、よほどの高校野球ファンでない限り、地方大会まで注目をしていないからだ。
おそらく多くの人にとって「今大会の広島県代表は、広陵高校ではないんだな~」程度のことで、部員がどれほど酷い暴力沙汰を起こしていたのか、という注目までされることは無かったのではないだろうか?

逆に言えば、SNSで情報発信はそれなりの「話題性」が無くては、世間の注目にはならないという側面を持っている、ということでもある。
それを、SNSで拡散され誹謗中傷…というのは、ちょっと違う気がするのだ。

なにより、暴力に対して高校側も高野連側も「鈍感」であった、ということに驚いている。
その背景にあるのは、いまだに「気合と根性」で「強くなるためには、暴力を振るうような指導があっても仕方ない」という、認識があったのでは?という、気がしている。
思わず「昭和か!」と、突っ込みたくなる方もいらっしゃると思うのだが、現実にはこの「昭和的勝利至上主義指導」が、メディアを含め認めているからこそ、上述したようなSNSで拡散され、誹謗中傷を受けたという、「被害者的思考」になっていくのではないだろうか?

確かにSNS上で発信される内容は「玉石混交」だ。
だからこそ、「玉なのか?石なのか?」見極める力が必要になる。
その「仕分け」をする前に、被害者的な内容をメディアとして発信してしまうのは、どうなのだろう?