『沈まぬ太陽』はアフリカ篇をもう少しで読み終えるところ。アフリカを舞台にした小説って、いいね。『野生のエルザ』を読みたくなりました。
山崎豊子さんは、戦争中、工場で爆弾をつくっていたそうです。わたしはなぜこんな道具をつくっているのか、という疑問が小説家への道へすすませた、と読んだことがあります。
今年のサッカーアジア杯は、東南アジアで行われ、イラクが優勝しました。感動的な試合だったと記事で読みました。
前回、3年前に中国で開催されたアジア杯をおぼえていますか。ジーコ率いる日本が優勝しました。中国の観客の激しいブーイングと、試合内容が興奮させました。とくに準々決勝の日本ーヨルダン戦。1-1でPK戦になりました。日本は俊介、三都主がはずし、大ピンチ! ところがその後がすごかった。川口能活のスーパーなセービング! 忘れられない試合です。
あのヨルダン戦は試合開始から、「異様な空気」がたちこめていました。あの「空気」が主役だったのかもしれません。
あの地が、「重慶」です。
ゲルニカ空爆、東京大空襲、沖縄戦をこのブログでは書いてきました。それらを書いておいて、「重慶」のことを書かないでおくのは、変だと思います。それで、大急ぎでこの記事を書いています。不勉強な点があるかと思いますが。
「重慶」は中国・長江(揚子江)の奥にある大都市です。人口1200万人ですから、東京と同じくらい。この都市を、日本軍が「無差別爆撃」したのです。空爆したのは重慶だけではないのですが、代表的なのがこの地なんですね。
日中戦争は1937年7月に始まりました。
長江の河が海に注いでいる地が、上海です。そこから長江を上流にのぼっていくと、南京、武漢、そして重慶とたどりつきます。戦争当時、上海を制圧した日本軍は蒋介石のいる首都・南京を攻めます。南京を落としたら日本の勝ちだ、そう思っていたみたいですね。日本軍は南京攻略に成功します。でも蒋介石は降伏しませんでした。武漢に逃げました。日本はこんどは武漢を攻めました。それでも蒋介石は「負けた」と言ってくれない。蒋介石は重慶に逃げたのです。
日本としては、本音をいえば、そろそろ戦争を終わりにしたかったでしょう。だから中国に「負けた」と言ってほしいのです。戦争を中止にしようという声もあったでしょう。でも、結局「強硬派」の意見が通ります。日本はさらに兵を中国に送ります。このころの中国での日本兵は(満州を除いて)85万人と推定されています。
重慶を攻めるのは大変です。そこで「空爆」が大々的に行われることになります。表向きには「主要施設をねらって」となりますが、現実は「無差別爆撃」です。重慶の地は、霧や雲の出ている日が多いのです。
重慶への爆撃は、1939年から1941年までの間、合計218回行われています。死者の数は、約1万2千人。
1941年6月5日には、大防空壕の中で悲劇が起こっています。それは一八梯防空洞で起こりました。日本軍の空襲がくるというので、1万人の住民がその大空洞に入ったのですが、なんとほぼ全員が窒息死してしまったのです。施設の不備のせいですが、息苦しくなった人々はパニックになりました。外に出ようとしましたが、扉が内開きでした。落ち着いて開けば開くところを、パニックになった人達が扉の方向へと押してきてどうにもなりませんでした。
重慶の都市は長江の中洲にあります。そこにはアメリカの軍艦も来ていました。
アメリカのルーズベルト大統領は報告を聞いて、「日本はひどすぎる。一般市民まで爆撃で傷つけるとは、ゆるせない」と、日本本土へのB29による空爆の計画を推進することにしました。まだ日米が開戦する1年前、1940年12月のことです。
あのアジア杯で騒いだ中国の若者達は、あの試合を楽しむために、日本チームを「悪役」にしただけなのかもしれません。スポーツに政治をもちこんではいけない… それはそうですが、僕はおかげであのときに「重慶」の文字を胸に刻んだのでした。知ってよかったと思います。
重慶では、自転車をほとんど見かけないそうです。
山崎豊子さんは、戦争中、工場で爆弾をつくっていたそうです。わたしはなぜこんな道具をつくっているのか、という疑問が小説家への道へすすませた、と読んだことがあります。
今年のサッカーアジア杯は、東南アジアで行われ、イラクが優勝しました。感動的な試合だったと記事で読みました。
前回、3年前に中国で開催されたアジア杯をおぼえていますか。ジーコ率いる日本が優勝しました。中国の観客の激しいブーイングと、試合内容が興奮させました。とくに準々決勝の日本ーヨルダン戦。1-1でPK戦になりました。日本は俊介、三都主がはずし、大ピンチ! ところがその後がすごかった。川口能活のスーパーなセービング! 忘れられない試合です。
あのヨルダン戦は試合開始から、「異様な空気」がたちこめていました。あの「空気」が主役だったのかもしれません。
あの地が、「重慶」です。
ゲルニカ空爆、東京大空襲、沖縄戦をこのブログでは書いてきました。それらを書いておいて、「重慶」のことを書かないでおくのは、変だと思います。それで、大急ぎでこの記事を書いています。不勉強な点があるかと思いますが。
「重慶」は中国・長江(揚子江)の奥にある大都市です。人口1200万人ですから、東京と同じくらい。この都市を、日本軍が「無差別爆撃」したのです。空爆したのは重慶だけではないのですが、代表的なのがこの地なんですね。
日中戦争は1937年7月に始まりました。
長江の河が海に注いでいる地が、上海です。そこから長江を上流にのぼっていくと、南京、武漢、そして重慶とたどりつきます。戦争当時、上海を制圧した日本軍は蒋介石のいる首都・南京を攻めます。南京を落としたら日本の勝ちだ、そう思っていたみたいですね。日本軍は南京攻略に成功します。でも蒋介石は降伏しませんでした。武漢に逃げました。日本はこんどは武漢を攻めました。それでも蒋介石は「負けた」と言ってくれない。蒋介石は重慶に逃げたのです。
日本としては、本音をいえば、そろそろ戦争を終わりにしたかったでしょう。だから中国に「負けた」と言ってほしいのです。戦争を中止にしようという声もあったでしょう。でも、結局「強硬派」の意見が通ります。日本はさらに兵を中国に送ります。このころの中国での日本兵は(満州を除いて)85万人と推定されています。
重慶を攻めるのは大変です。そこで「空爆」が大々的に行われることになります。表向きには「主要施設をねらって」となりますが、現実は「無差別爆撃」です。重慶の地は、霧や雲の出ている日が多いのです。
重慶への爆撃は、1939年から1941年までの間、合計218回行われています。死者の数は、約1万2千人。
1941年6月5日には、大防空壕の中で悲劇が起こっています。それは一八梯防空洞で起こりました。日本軍の空襲がくるというので、1万人の住民がその大空洞に入ったのですが、なんとほぼ全員が窒息死してしまったのです。施設の不備のせいですが、息苦しくなった人々はパニックになりました。外に出ようとしましたが、扉が内開きでした。落ち着いて開けば開くところを、パニックになった人達が扉の方向へと押してきてどうにもなりませんでした。
重慶の都市は長江の中洲にあります。そこにはアメリカの軍艦も来ていました。
アメリカのルーズベルト大統領は報告を聞いて、「日本はひどすぎる。一般市民まで爆撃で傷つけるとは、ゆるせない」と、日本本土へのB29による空爆の計画を推進することにしました。まだ日米が開戦する1年前、1940年12月のことです。
あのアジア杯で騒いだ中国の若者達は、あの試合を楽しむために、日本チームを「悪役」にしただけなのかもしれません。スポーツに政治をもちこんではいけない… それはそうですが、僕はおかげであのときに「重慶」の文字を胸に刻んだのでした。知ってよかったと思います。
重慶では、自転車をほとんど見かけないそうです。