はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

新宿中村屋のクリームパン

2007年08月11日 | はなし
 PCだけでなく複合プリンターもいかれていることが判明。(写真の台になっているやつがそれ) 紙づまりを放っておくとだめになるらしい。ああ! とりあえずPCをなんとかせよ。
 というわけで昨日新宿さくらやまでPCを持っていく。見積もりの連絡まで3週間もかかるって!? そんな~! 
 てわけでこの記事はネットカフェから打ってます。(写真を使うのは反則か)

 そのあと新宿中村屋本店に(初めて)寄り、クリームパンとかりんとうを買う。電車に乗ってある駅で降り、古い友人のオケさんに会い、まずお土産のかりんとうを渡す。(クリームパンは自分用。) 中村屋の話はいずれまたするとして、オケさんのこと。オケさんはイラストレーターで、会うのは3年ぶりだ。この前、マンガで専門書を描いた、それを出したらTVが取材に来てTVにでるよと連絡をくれた。で、僕はそのTV番組を見て、本も読んだ。(僕は彼のことを普段はオケさんなんて呼ばないが、ブログ用に愛称をつくってみた)

 でも僕がオケさんに会いたいと言って会いに行ったキッカケは「ぞうのはな子」だ。オケさんが三鷹に住んでいたときに泊まらせてもらい、その時に井の頭公園の動物園に行って、そこにぞうのはな子がいたのだ。7年前だったかな。最近、そのはな子のことをブログに書こうと思い、調べたら、もう、泣けてきて泣けてきて、オケさんにも会いたくなったというわけだ。
 でも、オケさんは、「あの動物園ね。でも、ぞう…いたっけ? おぼえているのは猿とリスと…」というので、僕は、ぞうのはな子の物語を一から説明。しゃべっているうちに、また、感涙(笑)。

 複合プリンターの故障の話をするとオケさん「ああ、スキャナーはめったに故障しないけど、プリンターはすぐ故障する。だから複合プリンターは買わないで、スキャナーと分けて買うほうがいいんだよ」 なるほど。将来の参考にいたします(泣)。 そのあと、オケさんの出した本の話、TV取材の話、今の仕事の話をしたり。そしてオケさんは、自分の子ども時代がいかに生き辛かったか(引越しが多かったとか)というような話をした。
 僕は、「オケさん、子どものとき…20歳くらいまでいつでもいいけど、ふりかえってみて、オトナとの印象的な出会いってある?」と聞いた。そしたら彼は、「うん。中学のときにね、美術の先生がね、女の先生なんだけど、こんな工作を作ったらね…」オケさんは絵を描き始めた。「うわ、グロイ絵!」と僕。「うん、そうでしょ。これをねえ、すごく誉めてくれたんだよ。で、めちゃくちゃな作品つくるんだけど、それをみな、誉めてくれる。俺、『○○中のピカソ』って呼ばれちゃって。ボクは『ダリ』のほうがよかったんだけど」

 二人とも酒はあまり飲まない。沖縄料理店へ行く。

 オケさんは、「ボク、小松崎茂に会ったことがあるよ」という! 「そりゃすごい! 小松崎さん、もう亡くなってますよね、会ったのいつ頃ですか?」と僕が聞くと、小松崎氏が亡くなる2年前頃のことだそうだ。
 「柏の自宅に行ってね。奥さんがいいひとでね、にぎりの松竹梅ってあるじゃない、松をとってくれてね、3時間くらい話したね。小松崎さんは食べなかったね、タバコをね、ほらピース缶ってあるじゃない、アレを吸いながら。だいたい小松崎さんがしゃべっていたけど。知識の量がすごかった。ボクは仕事で描いた三国志の絵を見せたんだ、そしたらこの時代の中国の馬はこうじゃないとか、馬の解説をするんだよ。B29のエンジンのこととか。なんでも詳しく知っていたなあ。すごかったよ。でも『君は筋がいい』って誉めてもくれたよ」
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「 」お「 」がうえない

2007年08月08日 | はなし
「 」お「 」がうえません。PCのキーボードがこそうしましあ。
すうりに出さねば。      
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金魚×2

2007年08月06日 | はなし
 暑い夏になりました。でも、窓の外から風が吹いてきて心地良いです。

 みなさん「夕凪の街 桜の国」は観ましたか? 僕は先週、観に行きましたよ。渋谷の地味~な映画館で。客席は100席くらいで、客は半分くらいでした。
 あの映画の中で、皆実(麻生久美子)がハンカチを選ぶシーンがあるのですが、その図柄が2匹の金魚なんですね。「あれは、原作ではどうだったか?」なんてことが気になって、家にかえって原作の漫画でチェック。原作どおりでしたね~。
 旭役(青年時代)の伊崎充則という俳優がでてきたとき、僕は(イナモトかよ!)と心の中でツッコミましたよ。サッカーの稲本潤一に似ていませんか。伊崎充則さん、はじめて見ましたがいい感じでした。(ああ! 黒澤映画『夢』の「第2話・桃畑」の子役がこの人だったのか! あれは美しい映像だった! )
 その旭青年の広島生活時代に、2匹の金魚を飼っているシーンもあるんだけど、これは原作にはなかったね。どうして金魚にこだわるかって? 映画に行く前日にね、森絵都の『にんきもののはつこい』ってのを読んだんだけどね、これが2匹の金魚を飼うことで仲良くなる、という(小学生の)はなしだったわけ。
 偶然マニアのワタシとしては、見逃せないわけよ。(ほとんどビョーキ←ふるいぞ!) 
 ワタシャなにしろ、こうの女史と原爆資料館へ行った男(16年前?)ですからね、見よ、この偶然力! こんなの自慢しはじめたらおしまいだけどね、いいのサ。結局このブログって、ワシの「偶然力自慢のためのブログ」って気がするね。それくらいしか自慢することないのかねェ…。 ←タダだからゆるしてちょ。
 『にんきもののはつこい』は、「私のしょうらいの夢は、ましょうの女になってたくさんの男をけらいにすること」という女の子が、金魚好きの男の子に恋をするはなしです。 キンキンっていうんです、その男の子は。この「キンキン」の愛称は彼が自分でつけたんですけどね。まじめ(顔よし、勉強もスポーツもできて性格もよし)なので、いつも「○○君」と苗字で呼ばれる。それで「自分もみんなのようにあだながほしい」と思った彼は、学級委員を降りて、「金魚係りになります。だからぼくのことは今日から『キンキン』とよんでください!」とおもいきって言ったのです。そのキンキンを好きになって女の子が告白します。するとキンキン「僕はいま、金魚のことしか考えられないので、つきあうなんてできない」と交際をことわります。女の子、ショック! だけどそのあとのキンキンのセリフがすばらしい! 「つきあうことは無理だけど、いっしょに金魚を育てることならできるとおもう」
 キンキンで思い出したけど、僕の祖母は「キン」という名でした。ある日僕は祖母に聞いてみました。「子供のとき、キンタマとかって、かもわれたことがあるか」と。 …あるそうです。やっぱりね。スマンばあちゃん、いやなことを聞いてしもうた。でも、一回は聞いときたかったんじゃ。 (「かもう」というのは「からかう」とか「いじめる」という意味です。「あんたあ、こまい子を、そねいに、かもうちゃあ、いけんよ」みたいな使い方をします)
 将棋には二枚金(金無双)という囲いがあって…  ←そのへんでやめとけ~!

 涼しく、みじかく書くつもりが、こんなあつくるしい長文に…。
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『ゲルニカ』の旅

2007年08月04日 | はなし
 ピカソ作『ゲルニカ』は、1937年パリ万博スペイン館で発表された。その後『ゲルニカ』は北欧を旅し、イギリスへ行き、アメリカへと「亡命」する。
 ピカソは1973年、91歳で没した。
 そして1981年、『ゲルニカ』はついに、スペインへ戻った。現在はマドリードのプラド美術館に収められている。(バスクの人々は、ピカソの『ゲルニカ』は、バスクの都市ゲルニカにあるべきだと主張している。)


 僕たちが目にする『ゲルニカ』は、紙の上の小さな写真である。しかしこれが実物の壁画だったら、ずいぶん迫力のあるものだろうと思う。絵にとって、「大きさ」は重要な要素だ。
 それにしても、この『ゲルニカ』、よく観ればずいぶんコミカルだ。この牛男、そして馬の顔…。見れば見るほどマンガチック。たしかに深い「悲しみ」は伝わってくる絵だが、ほんとうにこれ、空爆を描いた絵なのか?


 僕はこう思う。『ゲルニカ』は「生きる力」を描いた絵だ、と。
 「生きる力」は、「破壊する力」でもあり(「創造する力」でもあり)、悲しみを生み出す(よろこびも)。


 ピカソは「性欲」の男である。
 しかし、性欲ってなんだろう? それは、確かに、「生きる力」ではあるだろう。ないと困る。が、有りすぎても、こまる。「生きる力」は「破壊力」でもあるから。「性欲」は爆発的である。
 ピカソの中には、過剰なほどの「生きる力」があった。それを女で満たし、絵を描いた。「過剰な生きる力」は、外に溢れれば「暴力」となり、内で暴れれば「自己破壊」になる。内へ向かうピカソの生命エネルギーは、ピカソの内部であばれまわり、それがピカソの画風をどんどん変化させたのではないか。また、ピカソの場合は、内面に向かい自己破壊へむかうその破壊力を、絵に表すことでその過剰エネルギーを外にのがしていたのだ、とはいえないか。

 ほしいものは手に入れる、それが男である。
 あの女がほしい、それでピカソはまっすぐ女にむかっていく。

 ヒトラーは、外にむかってその過剰な「生きる力」を放出した。
 たくさんのものを破壊して、新しいもの(武器や戦術やテロ政治思想)を創った。
 彼は「オーストリアをほしい」と思ったから、それを力ずくで手に入れた。「チェコスロバキアもほしい! ポーランドもほしい!」それで手に入れた。「ソ連はきらいだ」と思ったから、ソ連をやっつけようとした。

 ヒトラーも、ピカソも、その内側に、『牛の顔を持つ男』をもっている。たぶん私たちも。

 『ゲルニカ』は、ピカソの内面の「攻撃性」=「生きる力」を表現したものではないだろうか。それと、ヒトラーが世界に向けて発する「攻撃性」が重なって生まれたのが、『ゲルニカ』ではないかと思う。ヒトラーの持っている攻撃性・破壊性が、「俺の中のもあるんだよな、ああ、苦しい」とピカソが言っているように、僕の眼には見えるのだが。
 だからあれを「民主主義のシンボル」として扱うのは、違う気がする。でも、そこがおもしろい、とは言える。民主主義を唱える個々の人々の中にも、「破壊性」はあるのだし。


 ドラ・マールはこう言っている。
「彼はしばしば、『俺は神だ。俺は神なんだ』と叫ぶことがあった。でも本当の神様なら、私が神ですなどと言う必要はないのだと気づくと、それじゃピカソは、もう一方のアレではないのかしらと思ってしまう。」
「もう一方のアレ」とは悪魔のことだ。


 1939年にアメリカ入りした『ゲルニカ』は、ニューヨーク近代美術館にずっと収められていた。そこで忘れ去られようとしていたが、アメリカ軍によるベトナム戦争への批判とともに、『ゲルニカ』がクローズアップされてゆく。
 「アメリカ軍はベトナムで、ゲルニカ爆撃と同じことをやっているじゃないか。ベトナム戦争を中止すべきだ。そうでなければ、アメリカ合衆国が『ゲルニカ』を所有すべきではない。」
 『ゲルニカ』という絵は、かくも政治的な存在なのである。(牛男と馬と女を描いた絵なのだけどねえ。)

 アメリカは、ヒトラー・ドイツのゲルニカ空爆戦術を見て、それを学んだ。空爆のための爆撃機と爆弾・焼夷弾を開発し、それを日本への空襲でも展開した。そして大戦後は、ベトナムを焼き払うナパーム弾…。ヒトラーが生んだ「空爆」という戦術がここに生きている。
 そして「空爆」が生き続けることで、『ゲルニカ』も政治的に存在感を示していくのである。


 ニューヨーク近代美術館に『ゲルニカ』があったとき、日本でのピカソ展のために、『ゲルニカ』を日本に持って行けないか、と考えた人がいる。まずピカソに打診すると、「日本も原爆を受けた国だからな」とピカソは即座に了解したという。しかし美術館が「それは無理だ」(損傷が防げないから)と、実現しなかった。
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樫の木のある街

2007年08月03日 | はなし
 ピカソの名を知らない日本人はほとんどいないだろう。しかし、ピカソの顔まで知っている人は少ないのでは?
 それでは、この人、フランシスコ・ザビエルはどうか。そう、教科書に載っているあの顔! きっとだれもが知っている♪ ザビエルは日本では超有名な外国人なのだ!
 ザビエルは1549年に日本へ来て、1552年中国で亡くなっている。(46歳) このザビエルがバスク人なのである。

 「バスク」という民族がヨーロッパのピレネー山脈に住んでいる。北はフランス領で、南はスペインだ。豊かな地であるらしい。バスク人は、欧州の他の民族と異なる言語をもっているという。司馬遼太郎は短編『奇妙な剣士』の中で、日本人を見たいというだけの理由でポルトガル船で平戸までやってきたバスク人剣士(フェンシングの達人)を描いている。彼は、日本人たちが黒い瞳黒い髪をもつということを聞き、バスクと同じだ、ということで会いたくなったのだ。
 ゲルニカの町には、広場に樫の木(オーク)があり、これはバスクの人々の自由の象徴とされている。スペイン側バスクの古くからの首都がゲルニカである。
 このバスクの地がスペイン内戦の戦場となり、「ゲルニカ空爆」の舞台となった。その無差別爆撃はドイツ空軍の爆撃の実験場になったと言われている。なぜ、スペイン内戦なのに、ドイツ空軍が出てくるのか。なぜゲルニカだったのか。


 スペイン内戦とは、1936年から39年にかけて起きた国内の戦争のことである。
 きっかけは「左派」である人民戦線が選挙によって初めて政権を握ったこと。これが共和国政府をつくり、その中には共産党も含まれる。これは「右派」にとっては信じれれぬ出来事である。「それは許せん!」とクーデターを起こしたのがフランコ将軍の率いる反乱軍である。
 つまり左派政権の樹立に反発するアレルギー反応のような戦争で、この時期の国々はこのような構図が多い。ドイツのヒトラー政権の誕生の下地にも、これに似たものがある。
 反乱はスペイン領モロッコから始まり、南部からスペイン全土に広がっていく。人民戦線(共和国政府)はソ連が後押ししているが、反乱軍フランコは、イタリアとドイツに支援を求めた。イタリアとドイツはその要請を受け、フランコ軍を支持する。
 このとき、日本の新聞はフランコ軍を支持する記事を載せているそうだ。イギリス、フランスでも、新聞はフランコ軍支持が多数派だったようである。

 この戦いは、基本的にはイタリアとドイツの援護を受けた反乱軍が優勢だったようだが、人民戦線もよく戦った。すぐに陥落すると思ったマドリードがなかなか落ちず、フランコもドイツ・イタリアも焦った。マドリードは長期戦になりそうだということで、フランコ反乱軍は北方のバスクの地を先に手に入れようということになった。バスクの都市ビルバオの工場とバスクの豊かな鉄鉱資源が魅力だったからだ。そのビルバオのすぐとなりにゲルニカの町があった。
 反乱軍のスペイン北方の指揮を担当したのがドイツ空軍で、コンドル軍団と呼ばれた。その指揮のもと、ゲルニカ空爆が実行された。1937年4月26日のことである。
 ゲルニカは当時約6千人の町であったが、ドイツ・コンドル軍団とイタリア空軍による無差別爆撃により、約1600人の民間人が死亡したと言われている。ただし、その数は確かではない。政治的意図によって数が正確に発表されないためだ。ただ、それがドイツ空軍の指揮による無差別爆撃であることは事実である。


 このゲルニカ爆撃は世界に報じられ、大いに非難された。それはロンドン『タイムズ』誌のスティヤ記者の詳細な描写(誇張もあるとされている)によるところが大きく、ゲルニカは政治的論争の中心となった。それまでは保守的な立場からフランコ寄りだった各国(アメリカ、フランス、イギリスなど)で、議論が巻き起こった。(と同時に世界は、「空爆」という新戦略の威力を知った。)
 フランスにいたピカソは、壁画の製作に取り掛かっていたが、そのニュースを聞いて怒り、その怒りを壁画制作の題材にすることにした。それが『ゲルニカ』である。5月1日、ピカソは『ゲルニカ』のための最初のスケッチを描いた。そして6月4日、完成した。ドラ・マールがその傍らにいて、『ゲルニカ』の製作過程を写真に収めた。

 世界が大騒ぎしたこのゲルニカ爆撃のニュースを、日本では、なぜか、新聞は報じていないという。(その数ヶ月後に、日中戦争が起きる)

 スペイン内戦は3年続き、フランコ軍が勝利した。以後、フランコ政権となり、1975年まで続く。
 ピカソは、スペイン共和国政府(人民戦線)に依頼されて壁画『ゲルニカ』を描いた。フランスで生まれた『ゲルニカ』は、スペインに帰るはずであった。
 ところがその所有者である共和国政府は、フランコ勝利によって、消滅した。それで、所有者を失ったピカソの大作『ゲルニカ』は、放浪の旅に出ることになる。
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泣く女

2007年08月02日 | はなし
 ピカソの愛人だった女、ドラ・マールについて書こうとおもう。去年2006年5月、ピカソの絵が108億円で落札されてニュースになったようだ。(僕は今、知った) この絵が『ドラ・マールと猫』
 まあ、観てください。どうですか、この絵! 少なくとも「感じのいい絵」ではないよね。「魔女」っぽいよ。肩に黒猫がいるし。

 はじめに断っておかねばならない。以前にも書いたが、僕はピカソがそれほど好きじゃないし、よく知らない。去年美術館に行ったあとに、少しだけ調べてみたくらい。あとは、昨日書いた、ピカソの好きな従妹の話を聞く… 僕のピカソ知識はその程度。だけど今回調べていくうちに、だんだんと好きになってきた。
 少ない知識を多量の想像力で補って、ピカソとドラ・マールについて書いてみます。(きっと偏っているだろうが、ご勘弁!) それにしても、ドラ・マールを描いたピカソの絵は、本当に、ひどい(笑)。もう、笑うしかない。

 「ドラ・マール」と名乗っていた女の本名はドラ・マルコビィッチ。アルゼンチンに育ったユーゴスラビア人。写真家。
 ピカソとは1936年にフランス・サンジェルマンのカフェで出会う。ドラはピカソがあの有名な壁画『ゲルニカ』を製作するときに傍らにいて、その製作過程を写真に残している。

 ピカソがその女を始めて見たとき、ドラ・マールは奇妙なゲームに夢中になっていた。ドラは、小さな紅い薔薇の刺繍のアップリケのついた黒手袋を手から外すと、指をテーブルの上にひろげて、先の光ったナイフを取り上げると、それを指の間に順番に突きたててゆき、どれくらい早くできるか試み始めたのである。彼女はほんのわずかのところで時々失敗し、その遊びをやめるときには、手は血に染まっていた。ピカソは、彼女のその黒手袋をほしいと申し出ると、その夜それを彼の宝物の箱にしまいこんでおいたのだという。

 ピカソは生涯に数多くの女を愛人にしている。女がないと生きられない、女がないと絵が描けない、という男であった。女に愛してもらいたいのではない。ピカソが女を愛すために必要なのだった。愛すとは、この場合、性欲の対象として。
 ピカソ=性欲=描く、といってもいいほどにこの男は荒々しく女を求める。それは作品の中で、「ミノタウロス(牛の顔をもつ男)」として表されている。ピカソがドラ・マールと出会ったときには、マリー・テレーズというかわいい愛人がいたが彼女は後年、「ピカソは、女を陵辱した後で仕事をした」と語っている。マリー・テレーズはピカソの娘を産んだが、ピカソにとって画のために(生きるために)必要なのは「女」であり、母ではない。女に母性がうまれると、次の愛人が必要になるのだ。
 黒髪に黒い瞳のドラ・マールは、金髪・青灰色の瞳のマリー・テレーズと対照的であった。

 そのドラとマリーが、ピカソのアトリエでかちあったことがある。
 二人は言い合ったあと、ピカソに詰め寄った。ピカソは、「どちらかに決めるつもりはない。闘え」といった。すると二人は、絵の具や絵筆の散乱する床の上で大格闘のケンカを始めた。ピカソは大満悦だった。やがてドラは、彼女のカメラが壊されることを恐れ、格闘をやめた。マリーは静かに、ゆっくりと出て行った。

 ドラ・マールの次に愛人となったフランソワーズ・ジローは、「ドラ・マールは彼(ピカソ)をよく理解した芸術家」と評している。ドラ・マールは知性をそなえた猛女というような表現をされることが多い。個性的な女であるのは間違いないようだ。
 一方でピカソは、「ドラは本質的に泣く女だった」と言っている。

 ドラとピカソがつきあった時代というのは、ドイツでヒトラーが台頭して、世界大戦への道をすすんでいる時代であった。ピカソの母国スペインでは内戦が起こっている。ドイツがポーランドに侵攻し、ドラとピカソの住むフランスがドイツに宣戦布告するのが1939年。しかしフランスがドイツとの戦いに敗れ、ピカソは住まいを追われたり困窮する。カフェというカフェがドイツ軍によって閉鎖され息苦しくなってゆく。しかしそのような状況でドラ・マールはたくましかった。彼女は物資を探してくる名人であり、ドイツ人をあしらうことがうまかった。
 しかしドラは「泣く女」であった。この時代、ピカソもよく泣いたようである。ドラは感性の敏感な女性だったのではないか。ピカソの他の愛人にはないドラの「知性」は、政治的な出来事に敏感に反応した。彼女の感性は、そのような、「世界の不安定さ」をそのまま受け入れて、泣いていたのではないだろうか。

 ピカソの絵を見ると、政治的要素は少ない。ほとんどが女性との関係から生じて洞察された自分自身の「内面」のイメージを描いている。
 ただ『ゲルニカ』がある。これほど「政治的」に注目される絵は他にないといっていい。これはピカソの母国スペインの内戦への怒りを表したものだとされ、ピカソ本人もそう言っている。だが、この政治的な絵でさえ、よくよくみればピカソの「内面」の表現のようにみえる。そこには、爆弾も銃も描かれてはおらず、やっぱり、牛男と馬と女たちが描かれている。
 もともとピカソはそういう画家(つまり内面を描くというタイプ)であって、政治的な男ではないのではないか、というのが僕の意見である。ただ、この、政治的な不安に揺れる時代にドラ・マールとつきあった、そのことが彼に『ゲルニカ』を描かせたのではないか。

 ドラ・マールは「政治的なこと」に泣き、怒り、不安になる。その敏感な感性を持つ身体を抱いて、シンクロして、ピカソもまた、泣き、怒る。いつものように、ピカソは、女と、自己の内面を描く。そこにいたのがドラ・マールだったから、あの時期にピカソの絵は、世界に向けてひらかれて、「政治的」な絵を描いたのではないだろうか。ドラ・マールは、内面的なピカソと「世界」とをつなぐアンテナだったのではないだろうか。

 こうしてみると、ドラ・マールは『ゲルニカ』を描かせるためにピカソの前に現われた魔女である、と思えてくる。これはちょっと大仰すぎる表現とは思う。だけどピカソの描いた『ドラ・マールと猫』などドラを描いた絵を観ると、ほんとうにそういう女だったように思えてくる。愛人を、あんなにグロく描かんでも…、と。(これに比べるとマリー・テレーズを描いた絵はものすごくかわいく見える)

 ドラ・マールは、1997年パリでひっそりとその長い生涯を終えた。90歳だった。ピカソと別れた後、ピカソやその絵についてまったく語ることがなかったそうだ。(そこがまた神秘的だネ) 
 ドラの死後、ピカソが彼女のために描いた絵が公開された。ほとんどがドラの肖像画で、その中で最も有名なものは、『泣く女』だろう。

 いま、『泣く女』の習作からながめているが… ひどいよねえ、この絵は。うわー…。 あ、でも、だんだん慣れてきた。
 あ、オレ、ピカソ、好きかも(笑)。 
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饅頭、その後のこと

2007年08月01日 | はなし
 饅頭のはなしの続きをしよう。
 空襲の話をしたばあさんの店で饅頭を買って、僕は実家に帰り、その饅頭を持って親戚へ行った。高齢になってきた一人暮らしの父をよろしく頼みますと挨拶し、自分の電話番号を書いたメモを渡した。

 さて、それから1年後のこと。ある日、深夜1時に携帯に電話が入った。見知らぬ電話番号で、しかし親戚からでもないようだ。「アヤシイ」と思った僕はその電話に出なかった。基本的に僕は、知らない番号からの電話には出ない。(しかも深夜1時だぜ)
 ところが1週間して、また同じ番号からかかってきた。今度は夜9時だ。僕はやっぱり出なかった。「初めにかかってきたのが深夜1時だからなあ…」僕は警戒した。架空請求だったらいやだし…。
 数日して、土曜日の夕方、うたた寝をしているときに3度目が、かかってきた。このときは反射的に僕は出てしまった! (別の電話を待っていたという事情もある)
 すると女の明るい声。「○○くん?」と、名前をくん付け。 …え???
 「だれ?」
と聞くと、女は名前を言った。それは7歳年下の従妹だった。「え? ああ! ○○ちゃんか!」 従妹は主婦になり、千葉に住んでいる。 「このまえ実家に帰ったの」と彼女。「ああそれで…。えーびっくり! ちょっと声がちがうなあ…。あ、前に会ったのはばあちゃんが死んだ時だから、9年ぶり?」と僕。 彼女は僕に「映画に行かない? なにかいい映画あったら…」と誘ってきた。まあそういうことで、僕は従妹と東京で会うことになった。

 ふしぎだった。
 その従兄妹とは子供時代に遊んだこともないし、大人になって遊んだこともない。だいたい電話番号おしえていない。なぜ彼女が僕の番号を知っていたか、それは、あれだ、饅頭だ。あのときに親戚に教えた僕の番号を、彼女が実家に帰ったときに聞いたのだ。それにしてもいきなり東京で映画とは…、主婦なんだろ? ヒマなのか? なぜオレ? いきなり深夜1時に電話するって、そういう女だったのか? それにあの声…なぜ声が以前とちがって聞こえるのか?
 好奇心はわいた。
 会ってみると、僕と従妹は、昔から親しかったみたいに自然だった。しかも従妹の身なりは全身真っ黒で「かわいい魔女」のようだった。スパスパ煙草を吸っている。〔こいつはほんとに魔女なのではないか〕とそのときの僕は思ったのだ。
 「魔女」である従妹は、携帯の待受け画面をある女の写真にしていた。その女の名は「ドラ・マール」。(ドラ・マールの話は別稿で)

 しかしなぜ「魔女」はやってきたのか。
 彼女からの電話が入るすこし前、僕はある女性を映画に誘って、渋谷でまちあわせたが、当日にキャンセルされた。結局その日は一人で映画を見た。映画はとても面白かったが、〔次は誰かと観たいなあ〕とは思った。そういうタイミングで「魔女」が現われて映画に誘う… ユング先生! これはどういうことですか!? …もしもあいつが「魔女」ならば、いきなりの深夜1時の電話も納得できるというものだ。
 その「魔女」は絵を描くのが趣味だという。そして魔女は「おねがいがあるの。映画のあとはカラオケ連れて行ってくれない? 歌いたいの~」という。
 …「魔女」の言うことは素直にしたがうべし。カラオケは4年ぶりだった。

 そのあと僕は考えたのだ。「魔女」はなぜ現われたのか、について。

 僕は絵を描けるようになりたい、と願っていた。だれかと映画に行きたいと思っていた。そこに絵を描くのが好きな従妹が魔女の姿で出現し、映画に行こう、歌いたい、と言った。これはどういうことか。
 それをきっかけに、僕は「歌」を習うことに決めたのだった。笑われることを承知で告白するが、僕は「絵をうまくなりたい。そのために歌を習おう」と本気で思ったのである。
 それまで、僕の人生は、音楽とはほとんど接点がない、と思っていた。今でも、部屋で音楽を聴く時間をもつことは少ない。(キカイの音は好きじゃない) でも、「歌うこと」は続けている。従妹が映画に行こうと言ったから、僕は音楽とつながっている。(饅頭を買ったから、でもある) 従妹とは電話でピカソの話をしたりもする。
 そして、自分が歌う練習をしていたから、練習に行った帰りに、□崎K子が街で歌っていたのを見て、立ち止まった。「この子はどんな声で歌うんだろう」と興味を持って聴く事をはじめたのだ。その□崎K子が、ブログの中で一度だけ「絵」を描いたことがある。それを見て僕は「おっ、gooブログは絵も描けるのか。それならちょっとオレも描いてみるか」と始めたのがこのブログである。(まだ描きつづけている。いつまでやるつもり?) 饅頭と映画とピカソと歌とブログは、僕の中でこのようにつながっている。
 世の中、いろいろなもの、いろいろなひとが繋がっている。そんなの考えるときりがないぜ、と言われれば、たしかに、そのとうりである。

 さて次回は、ドラ・マールのことを書こう。ドラ・マールとはどんな女か。
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