ピカソ作『ゲルニカ』は、1937年パリ万博スペイン館で発表された。その後『ゲルニカ』は北欧を旅し、イギリスへ行き、アメリカへと「亡命」する。
ピカソは1973年、91歳で没した。
そして1981年、『ゲルニカ』はついに、スペインへ戻った。現在はマドリードのプラド美術館に収められている。(バスクの人々は、ピカソの『ゲルニカ』は、バスクの都市ゲルニカにあるべきだと主張している。)
僕たちが目にする『ゲルニカ』は、紙の上の小さな写真である。しかしこれが実物の壁画だったら、ずいぶん迫力のあるものだろうと思う。絵にとって、「大きさ」は重要な要素だ。
それにしても、この『ゲルニカ』、よく観ればずいぶんコミカルだ。この牛男、そして馬の顔…。見れば見るほどマンガチック。たしかに深い「悲しみ」は伝わってくる絵だが、ほんとうにこれ、空爆を描いた絵なのか?
僕はこう思う。『ゲルニカ』は「生きる力」を描いた絵だ、と。
「生きる力」は、「破壊する力」でもあり(「創造する力」でもあり)、悲しみを生み出す(よろこびも)。
ピカソは「性欲」の男である。
しかし、性欲ってなんだろう? それは、確かに、「生きる力」ではあるだろう。ないと困る。が、有りすぎても、こまる。「生きる力」は「破壊力」でもあるから。「性欲」は爆発的である。
ピカソの中には、過剰なほどの「生きる力」があった。それを女で満たし、絵を描いた。「過剰な生きる力」は、外に溢れれば「暴力」となり、内で暴れれば「自己破壊」になる。内へ向かうピカソの生命エネルギーは、ピカソの内部であばれまわり、それがピカソの画風をどんどん変化させたのではないか。また、ピカソの場合は、内面に向かい自己破壊へむかうその破壊力を、絵に表すことでその過剰エネルギーを外にのがしていたのだ、とはいえないか。
ほしいものは手に入れる、それが男である。
あの女がほしい、それでピカソはまっすぐ女にむかっていく。
ヒトラーは、外にむかってその過剰な「生きる力」を放出した。
たくさんのものを破壊して、新しいもの(武器や戦術やテロ政治思想)を創った。
彼は「オーストリアをほしい」と思ったから、それを力ずくで手に入れた。「チェコスロバキアもほしい! ポーランドもほしい!」それで手に入れた。「ソ連はきらいだ」と思ったから、ソ連をやっつけようとした。
ヒトラーも、ピカソも、その内側に、『牛の顔を持つ男』をもっている。たぶん私たちも。
『ゲルニカ』は、ピカソの内面の「攻撃性」=「生きる力」を表現したものではないだろうか。それと、ヒトラーが世界に向けて発する「攻撃性」が重なって生まれたのが、『ゲルニカ』ではないかと思う。ヒトラーの持っている攻撃性・破壊性が、「俺の中のもあるんだよな、ああ、苦しい」とピカソが言っているように、僕の眼には見えるのだが。
だからあれを「民主主義のシンボル」として扱うのは、違う気がする。でも、そこがおもしろい、とは言える。民主主義を唱える個々の人々の中にも、「破壊性」はあるのだし。
ドラ・マールはこう言っている。
「彼はしばしば、『俺は神だ。俺は神なんだ』と叫ぶことがあった。でも本当の神様なら、私が神ですなどと言う必要はないのだと気づくと、それじゃピカソは、もう一方のアレではないのかしらと思ってしまう。」
「もう一方のアレ」とは悪魔のことだ。
1939年にアメリカ入りした『ゲルニカ』は、ニューヨーク近代美術館にずっと収められていた。そこで忘れ去られようとしていたが、アメリカ軍によるベトナム戦争への批判とともに、『ゲルニカ』がクローズアップされてゆく。
「アメリカ軍はベトナムで、ゲルニカ爆撃と同じことをやっているじゃないか。ベトナム戦争を中止すべきだ。そうでなければ、アメリカ合衆国が『ゲルニカ』を所有すべきではない。」
『ゲルニカ』という絵は、かくも政治的な存在なのである。(牛男と馬と女を描いた絵なのだけどねえ。)
アメリカは、ヒトラー・ドイツのゲルニカ空爆戦術を見て、それを学んだ。空爆のための爆撃機と爆弾・焼夷弾を開発し、それを日本への空襲でも展開した。そして大戦後は、ベトナムを焼き払うナパーム弾…。ヒトラーが生んだ「空爆」という戦術がここに生きている。
そして「空爆」が生き続けることで、『ゲルニカ』も政治的に存在感を示していくのである。
ニューヨーク近代美術館に『ゲルニカ』があったとき、日本でのピカソ展のために、『ゲルニカ』を日本に持って行けないか、と考えた人がいる。まずピカソに打診すると、「日本も原爆を受けた国だからな」とピカソは即座に了解したという。しかし美術館が「それは無理だ」(損傷が防げないから)と、実現しなかった。
ピカソは1973年、91歳で没した。
そして1981年、『ゲルニカ』はついに、スペインへ戻った。現在はマドリードのプラド美術館に収められている。(バスクの人々は、ピカソの『ゲルニカ』は、バスクの都市ゲルニカにあるべきだと主張している。)
僕たちが目にする『ゲルニカ』は、紙の上の小さな写真である。しかしこれが実物の壁画だったら、ずいぶん迫力のあるものだろうと思う。絵にとって、「大きさ」は重要な要素だ。
それにしても、この『ゲルニカ』、よく観ればずいぶんコミカルだ。この牛男、そして馬の顔…。見れば見るほどマンガチック。たしかに深い「悲しみ」は伝わってくる絵だが、ほんとうにこれ、空爆を描いた絵なのか?
僕はこう思う。『ゲルニカ』は「生きる力」を描いた絵だ、と。
「生きる力」は、「破壊する力」でもあり(「創造する力」でもあり)、悲しみを生み出す(よろこびも)。
ピカソは「性欲」の男である。
しかし、性欲ってなんだろう? それは、確かに、「生きる力」ではあるだろう。ないと困る。が、有りすぎても、こまる。「生きる力」は「破壊力」でもあるから。「性欲」は爆発的である。
ピカソの中には、過剰なほどの「生きる力」があった。それを女で満たし、絵を描いた。「過剰な生きる力」は、外に溢れれば「暴力」となり、内で暴れれば「自己破壊」になる。内へ向かうピカソの生命エネルギーは、ピカソの内部であばれまわり、それがピカソの画風をどんどん変化させたのではないか。また、ピカソの場合は、内面に向かい自己破壊へむかうその破壊力を、絵に表すことでその過剰エネルギーを外にのがしていたのだ、とはいえないか。
ほしいものは手に入れる、それが男である。
あの女がほしい、それでピカソはまっすぐ女にむかっていく。
ヒトラーは、外にむかってその過剰な「生きる力」を放出した。
たくさんのものを破壊して、新しいもの(武器や戦術やテロ政治思想)を創った。
彼は「オーストリアをほしい」と思ったから、それを力ずくで手に入れた。「チェコスロバキアもほしい! ポーランドもほしい!」それで手に入れた。「ソ連はきらいだ」と思ったから、ソ連をやっつけようとした。
ヒトラーも、ピカソも、その内側に、『牛の顔を持つ男』をもっている。たぶん私たちも。
『ゲルニカ』は、ピカソの内面の「攻撃性」=「生きる力」を表現したものではないだろうか。それと、ヒトラーが世界に向けて発する「攻撃性」が重なって生まれたのが、『ゲルニカ』ではないかと思う。ヒトラーの持っている攻撃性・破壊性が、「俺の中のもあるんだよな、ああ、苦しい」とピカソが言っているように、僕の眼には見えるのだが。
だからあれを「民主主義のシンボル」として扱うのは、違う気がする。でも、そこがおもしろい、とは言える。民主主義を唱える個々の人々の中にも、「破壊性」はあるのだし。
ドラ・マールはこう言っている。
「彼はしばしば、『俺は神だ。俺は神なんだ』と叫ぶことがあった。でも本当の神様なら、私が神ですなどと言う必要はないのだと気づくと、それじゃピカソは、もう一方のアレではないのかしらと思ってしまう。」
「もう一方のアレ」とは悪魔のことだ。
1939年にアメリカ入りした『ゲルニカ』は、ニューヨーク近代美術館にずっと収められていた。そこで忘れ去られようとしていたが、アメリカ軍によるベトナム戦争への批判とともに、『ゲルニカ』がクローズアップされてゆく。
「アメリカ軍はベトナムで、ゲルニカ爆撃と同じことをやっているじゃないか。ベトナム戦争を中止すべきだ。そうでなければ、アメリカ合衆国が『ゲルニカ』を所有すべきではない。」
『ゲルニカ』という絵は、かくも政治的な存在なのである。(牛男と馬と女を描いた絵なのだけどねえ。)
アメリカは、ヒトラー・ドイツのゲルニカ空爆戦術を見て、それを学んだ。空爆のための爆撃機と爆弾・焼夷弾を開発し、それを日本への空襲でも展開した。そして大戦後は、ベトナムを焼き払うナパーム弾…。ヒトラーが生んだ「空爆」という戦術がここに生きている。
そして「空爆」が生き続けることで、『ゲルニカ』も政治的に存在感を示していくのである。
ニューヨーク近代美術館に『ゲルニカ』があったとき、日本でのピカソ展のために、『ゲルニカ』を日本に持って行けないか、と考えた人がいる。まずピカソに打診すると、「日本も原爆を受けた国だからな」とピカソは即座に了解したという。しかし美術館が「それは無理だ」(損傷が防げないから)と、実現しなかった。