はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

新名人、その男の名は塚田正夫

2012年11月26日 | 横歩取りスタディ

 これは塚田正夫作5手詰の詰将棋。
 こういうシンプルな詰将棋は“新風”を感じさせ、「塚田流」と呼ばれました。
 僕もこの詰将棋本は持ち歩いて解きました。おかげて本はボロボロです。


 1947年、塚田正夫が、1938年から9年間、名人位に座していた木村義雄を降し、新しい名人となりました。その決定局、第6期名人戦第7局を前回記事より紹介している途中です。
 戦型は「後手5五歩位取りvs先手横歩取り 超急戦」です。

 初手より▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5五歩 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △3二金 ▲3四飛 △5二飛 ▲2四飛

 3四飛と横歩を取った飛車を、13手目「2四飛」と戻したことによって、ここから「5六歩」と後手が決戦するのが“超急戦”。(2四飛のかわりに3六飛なら別の展開になるが、できれば先手は2四飛としたい。)

上図より△5六歩 ▲同歩 △8八角成 ▲同銀 △3三角 ▲2一飛成 △8八角成 ▲7七角 △8九馬 ▲1一角成  △5七桂


<5七桂図>


 さてここまでが前回の記事で進めたこと。今日はここからです。
 24手目「5七桂」がこの当時最有力手とされました。
 この<5七桂図>と同じに進んだ将棋は、名人戦第7局の「塚田-木村戦」の前に、5つほどあります。
  (ア)1935年 加藤治郎-市川一郎戦 61手、加藤勝ち
  (イ)1942年 加藤治郎-木村義雄戦 74手、木村勝ち
  (ウ)1942年 加藤治郎-木村義雄戦 68手、木村勝ち
  (エ)1942年 加藤治郎-木村義雄戦 59手、加藤勝ち
  (オ)1946年 塚田正夫-木村義雄戦 38手、木村勝ち
 この5つ。(他にもあるかもしれません。) さすがに“超急戦”、すべて短手数で決着していますね。(ア)加藤治郎-市川一郎戦は前回すでに紹介しました。
 (イ)(ウ)(エ)は、すべて1942年の12月に行われています。これは朝日番付戦の東西決戦三番勝負。これは初めの2つを木村名人が勝利したのにもかかわらず、第3戦が行われています。(なぜなのか。) それと、3戦ともに加藤治郎先手になっています。(相手は名人だからでしょう。加藤治郎は七段。) このあたりの正確な事情は不明です。ともかく、加藤治郎は、木村名人を相手に、3度続けてこの戦型での戦いを挑んでいるのです。
 余談ですが、加藤治郎は「ガッチャン銀」の命名者ですね。真部一男の師匠でもあります。

 この5つの棋譜は、全て24手目「△5七桂」までは同一に進んでいます。これらの将棋を一つ一つ見ていきます。


 さて、それでは(イ)から――。



(イ)1942年 加藤治郎-木村義雄戦 朝日番付戦決勝第1局
 1935年の加藤ー市川戦で、先手の加藤は「5八金左」として勝っているのだが、その加藤が手を変えました。
 
<5七桂図>より、▲6八金 △4九桂成 ▲同玉 △7九馬 ▲7七馬 △6二玉 ▲5九香 △7二玉 ▲2八龍 △6九金となって下図。

 「6八金」が加藤の工夫。しかしこれは後手の△7九馬の金取りが先手になる。加藤は▲7七馬。後手の攻めに、先手は馬と竜を引っ張って防戦。

 後手は3二の金を進出させる。先手は7五桂から攻め味をつくる。力のこもった中央での勢力争い。△5六銀▲6三桂成△同玉▲7五桂△7二玉▲5六馬△同金▲同龍△5五馬…。
 このあたり、印象としては互角の戦いかと見えるが…。 

 ▲8四銀に、△7二金▲同金△同銀▲6三金△3六香▲7二金△同玉▲6三銀となって――
投了図。
 △6一玉まで74手で、木村名人の勝ち。
 この展開になると、後手の「金銀」の多さが最後には生きてくるようです。先手の攻めは息切れしました。

 25手目「6八金」は、先手が受け身になる。後手の3二金まで働かせることになり、先手あまり面白くない。



(ウ)さて、加藤治郎-木村義雄の第2戦。またしても同じ“超急戦”に。
<5七桂図>より、▲5八金左 △5六飛 ▲4八銀

 ▲5八金左△5六飛までは「加藤-市川戦」と同じ。そこで加藤は「▲4八銀」と指した。この手はどうか? 4九桂成、同玉となれば先手玉は自然に右に逃げられる。
  加藤治郎は、後手の次の手を7九馬として読んでいた。7九馬、5七銀、同馬、6八桂。木村義雄名人もそれを読んだが、どうもそれでは後手が負けになると感じた。「何か良い手はないか…」
 木村義雄名人、ここで「6九桂成」とただで捨てる手をを発見した。

 △6九桂成 ▲同玉 △7八銀。
 「△6九桂成」は加藤もまったく読んでいない手だった。7八銀に5九玉は7九馬で負けだ。加藤は6八玉~7七玉と逃げた。

 図の6九馬は8七銀成の1手詰。加藤はこれを▲7九桂△同銀成▲5七歩と凌ぐ。
投了図
 しかし結局、捕まった。 加藤治郎、木村義雄に“横歩取り超急戦型”で2連敗。

 27手目「4八銀」は、6九桂成~7八銀で後手の勝ち。


(エ)加藤治郎-木村義雄、第3戦。
 またしても加藤は“横歩取り超急戦”を木村に挑みました。
 <5七桂図>より、▲5八金左  △5六飛 ▲6八桂と進んだ。

 これは1935年「加藤治郎-市川一郎戦」に初めてこの“超急戦”が現れたときに指された手順と同じ。加藤は「原点」に戻ったのである。そもそもこれで勝っていたのだから。
 以下、△4九桂成 ▲同玉△5七歩▲5六桂△5八歩成 ▲同玉△6二玉▲5三歩△7二玉▲6六馬で下図。

 こうなってみると6六馬が攻防によく働いている。次の先手の狙いは8六香である。
 しかし先手は見かけほど安全ではない。なにしろ8枚の金銀の内、7枚までは後手のものになっているのだから。 △7九馬▲8六香△5一歩▲4九玉…

 どうやら先手勝ちになった。図以下△6四金打▲同桂△同金▲8六香△8四歩▲同香
まで59手、先手加藤治郎の勝ち。
 この将棋でも「加藤-市川戦」と同じく、27手目に打った「6八桂」が「5六桂」と飛車をとり、最後には寄せに働いている。

 どうやら25手目「5八金左~6八桂」が最善手らしい。 すると“横歩取り超急戦”は先手良しなのか?



(オ)さて、戦争が明けて1946年。塚田正夫-木村義雄戦。
 今度は塚田正夫が、名人木村義雄に“横歩取り超急戦”を挑みました。
 ところで、塚田正夫の師匠は花田長太郎です。花田は、第1期の名人戦のレースで木村に迫ったが敗れ、また1941年に前回記事でお伝えしているように、木村名人を相手にこの型の将棋を挑み、21手目「2四桂」と新手を指したが、名人の対応がそれを上回っていたという経緯があります。その花田の弟子の塚田が、木村相手にこの“超急戦”の将棋を挑んだのです。 
 塚田は27手目、「6八桂」とは指さなかった。

 塚田の手は、27手目「4八金上」だった。
 以下、7九馬、5七金直、同馬、4九玉、5八金、同金、同馬、3八玉、2六歩、2七歩、4八銀まで、
投了図
 38手、木村の完勝だった。あまりにあっさりと、塚田は土俵を割った。

 27手目「4八金上」は7九馬以下、後手の勝ち。



■ところで、この「塚田-木村戦」より前、戦時中1943年に『将棋世界』誌にこの「後手5五歩位取りvs先手横歩取り 超急戦」の研究が掲載され(誰の研究かわからないのですが)、過去に指されたこの型での手順(加藤-市川戦、加藤-木村戦第3局)を再検討し、30手目に△5七歩と指していたが、これは△5八飛成の方がよいことを指摘していたようです。その方が同じ飛車金交換なら、「1歩」を渡さないで得だし、6八の桂を5六に跳ばさせない方が良いという。
研究図
 つまり、<5七桂図>より、5八金左、5六飛、6八桂、4九桂成、同玉、5八飛成、同玉、6二玉、5三歩、7二玉、6六馬 、7八馬(研究図)で「後手良し」ではないか、というのがその研究の結論だったらしいのです。この研究図で、もし先手が8六香と前例のように攻めると、6九銀、5七玉、6八馬、これに同玉なら、5八金、7七玉、7八金で、なんと詰んでしまう。
 そういう「研究発表」があって、さらには1946年の「塚田-木村戦」の後手木村勝利があり、この形はどうやら後手が勝ちなのではないか、というのが1947年の大勢だったようです。
 とはいえ、将棋はそんなに簡単に結論が出せるゲームでないことは皆さんも知っている通り。一度この型で38手で破れている塚田が、もう一度同じ型の戦いを望んで飛び込んでいるのですから木村名人も不気味だったことでしょうね。決戦の「5六歩」(14手目)に4時間以上考えたというのも無理のないことだとも言えます。 



――というような長い前置きを終えて、ではその、第6期名人戦第7局塚田正夫vs木村義雄」の棋譜の続きに進みましょう。(ようやく‘本線’に戻りました。)


▲5八金左 △5六飛 ▲6八桂

 やはり、5八金左。 


△4九桂成 ▲同玉 △5八飛成

 そして、やっぱりこの手、「6八桂」。
 6八桂に、後手飛車を引いたりする手はいけません。5二飛には、5六香や5三歩があります。


▲5八同玉 △6二玉 ▲5三歩 △7二玉 ▲5五馬

 なので飛車を切る。(△5七歩よりこの方が優るというのが先ほどの「研究」。)
 先手の5三歩という手は加藤治郎が最初に指した手。ここでもやはりこの手がいいらしい。
 後手7二玉に、そこで塚田八段の新手が出ました。


△5四歩 ▲同馬 △6四金 ▲3六馬 △5七歩 ▲同玉 △8二玉 ▲6六香

 5五馬。これが塚田正夫の指したい手でした。この手に1時間半を消費しました。
 5五馬の狙いは、中央を安全にしつつ、次に8六香や7五桂をねらうこと。
 名人もこれは読んでいなかったようです。同じく約1時間半苦吟して、5四歩、同馬、6四金。


△5九銀 ▲6四香 △同歩 ▲7五桂 △7二銀 ▲6三金 △同銀
▲同馬 △7二金打 ▲5二歩成


 6六香と先手に打たれてみると、しかし6四金は逆用された感がある。
 木村名人も5九銀と先手玉に迫る。だが塚田八段の攻めがより激しく… 


△6三金 ▲6一と △3五角 ▲4六歩 △7九馬 ▲3二龍 まで59手で先手塚田の勝ち

 塚田、押し切る。

投了図

 こうして、1947年6月7日、新しい名人が誕生しました。
 塚田正夫は、“横歩取り”で名人位奪取を決めたのです。32歳、木村義雄が名人になったのと同じ年齢でした。
 この第6期名人戦、最初塚田は2連敗したのですが、その頃に木村名人から「君、将棋は勝たなくちゃだめだよ」と言われ、その言葉に刺激されたという。塚田正夫が自分の揮毫する色紙に『勝つことはえらいことだ』と書くようになったのは、数年後、ちょっと勝てなくなっていた時期からのことだったようです。


 第6期名人戦木村義雄名人vs塚田正夫八段に関する記事。
  『「端攻め時代」の曙光 2』 第1~5局
  『「端攻め時代」の曙光 3』 第6局
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り』 第7局(24手目まで)
  『新名人、その男の名は塚田正夫』 第7局(本記事)




 この対局により、この将棋「後手5五歩位取りvs先手横歩取り 超急戦」は、「先手横歩を取って良し」の認識になりました
 24手目5七桂に対しては、この塚田正夫の対応で先手良しが今でも結論のようです。

 しかし「本当にそうだろうか?」。 そう思ったかどうかはわかりませんが、5七桂の代わりに別の有力手を発見し、試した棋士がいました。
 京須行男(きょうすゆきお)。  森内俊之現名人のおじいさんです。(→『京須八段の駒』)

 京須行男は24手目「4四桂」を2度、指しているようです。その2つの対局に京須行男が敗れたことでこの“京須新手”は目立ちませんでしたが、「これで後手良しなのではないか」、そういう意見がじわっと広がっていたのでした。実際、その二つの将棋は京須行男が途中まで優勢でしたから。 
 しかし、本当にそうなのでしょうか? これは重大な問題です。もしそうならば、この「5五歩位取り型横歩取り超急戦」の戦型は、“横歩をとってはいけない”ということになるのですが――。

 この話は次回に。
 


・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
  『高野山の決戦は「横歩取り」だった
  『「錯覚いけないよく見るよろし」
  『「端攻め時代」の曙光 1』 
  『「端攻め時代」の曙光 2
  『「端攻め時代」の曙光 3
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫

・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
  『京須新手4四桂は是か非か
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)
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