幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

ピカソのクッション

2014年01月17日 23時17分04秒 | 暮らし
 ピカソの絵が織られたクッションを買った。
コンランショップでソルドアウトになる寸前
ようやく手に入れた。

新居の白いソファーのポイントになっている。

   



 昔、ピカソの何がいいのかさっぱりわからなかった。

けれど、今は
「ピカソはやっぱりすごい!!」
と思うようになった。


特に
ラフに書かれた一筆書きのような物達が好きなのだが
どう頑張ってもあの「線」をまねることはできない。
如何にも簡単な
子どもの落書きのような「線」なのに
やっぱりそこにピカソの素晴らしさがあることを認めざる負えないのだ。


 ・・・・・と、
そんなことを最近思っていたら
昨日読んだ「もうひとりの熊谷守一」に
彼が自著「青蠅」の中で


〝好きな絵も尊敬する絵描きもいませんが
 ピカソは好きな方です。
 ピカソの絵はどこにあってもピカソだからです”

と言っていると書かれていた。


「青蠅」は20年も前に読んでいたのに
この言葉は全く印象に残らなかった。


その頃の私にはピカソの良さがわかっていなかったからだろう。


好きな熊谷守一が
同じようにピカソを好きだと言っているのがわかって嬉しい。





 たかだかクッションなのだが
それは毎日、紛れもなく私を幸せにしてくれている。





 

成長は止まる?

2014年01月17日 22時29分57秒 | ひとりごと
 あるメンターに言われた。

上に伸びようとする意欲を待たないと成長は止まってしまう、と。
満たされていることに満足してしまうと
そこでストップしてしまう、と。


・・・そうだろうか。
人はそのままに生きるだけでは成長できないのだろうか。


最近読んだ堀文子の言葉にこんなのがある。


〝優劣のつけ難いたくさんの価値を抱えた矛盾だらけの自分に逆らわず
 流れのままに生きていこうと決め、私は楽になった”


〝90の年を迎えた今
 逆らうことを忘れ
 成り行きのままに生きる安らぎの時が
 いつの間にか来たようだ”

                   「 ひとりで生きる 」より


成長したいとも思うし、魂を浄化したいとも思う。
それを日々心がけて生きねば、などと考えたりもする。

けれど、それ自体が
「自我」であり「エゴ」であり「煩悩」なのではないだろうか。
 

同じ本の中にこんな言葉もあった。

〝先を争って地に還っていく落ち葉の美しさはたとえようもない。
 傷一つないしあわせだったもの。
 患ったもの。
 虫に食われあなだらけのもの。
 神はどの葉にもへだてなく
 その生きた姿を褒め称え美しい装いを与えて終焉を飾ってくださるのだ”

〝自然は生きた日の恨みつらみを消し
 決して老残の醜さを見せない。
 死を迎えるときの、あの紅葉の華やぎは命の輪廻を讃える神の仕業だと思う。
 無心に生きるものには幸せも不幸もない。
 私もやっと、苦しみ傷ついたものの美しさに気付く時がきたようだ”



患ったり、傷つけたり
憎んだり、喜んだり
自分の中の矛盾さえ受け入れて
達観した老人でなくとも
流れのままに生きてもよいのではないだろうか。

ことさらに成長しようと頑張らなくても
目の前に訪れることを受け入れ、
なさねばならぬことを心を込めてこなしていけば
必ずその人なりの人生の目的へのステップが潜んでいるように思うのだ。
とりたてて意識しなくても
今日を生きるだけでも
何かを学び
成長すると思えるのだ。



あるがままに
来るがままに
焦らず
受け入れ
でも
自分はちゃんと導かれ守られていることを信じ
穏やかに
感謝に満ちて暮らそうと
今は思う。


今年私は57

死ぬにはまだ早いかもしれないし
「欲」を持たなくなるには早すぎるかもしれない。
それでも
ながれのままに
心穏やかに生きるというのも
また、一つの生き方だと思うのである。