幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

試食はお持ち帰りできる?????

2010年07月31日 08時35分29秒 | 暮らし
 先回の「正しさ」を書くきっかけの事件を
ご紹介いたしましょう。


娘がバイトをしているパンやさん。 


      

全国展開している
有名店で
たくさんの種類があります。   


しかも支店ごとに
オリジナルを開発する事が許されているので
しばしば新商品が出されたりするそうです。



そんな品々の試食がたくさんあるのです。



昨日
あるご婦人が

「あの試食を袋に入れて」

と娘にお申し付けになられたそうな。



「試食は店内で味見する物」
と決め込んでいる娘にとっては

「 !! 」





「申し訳ございません。
 できかねます」 

と即答したらしい。





「どうして?!
 いつもしてもらっているわよ」 



「試食は店内で味をお試しいただくために
 ご用意させていただいております」


と、バトルしてしまったらしい。





そして、

「まったく
 おばさんは図々しい   

と怒りに満ちて話したのです。




彼女の若さと「正しさ」は
そのご婦人の行為をどうしても許せないらしいのです。


しかも
そのご婦人の申し出を
今まで、
素直に聞き入れていた他の店員の行為さえも許せないのです。








このできごと、

あなたはどうお思いになりますか?






あなたがもしこのご婦人だったら、

あなたが娘の立場だったら

そしてあなたが店長だったら・・・








「試食です」
といって、
自ら配ってくださるお店もあります。


「お試し」と書いて同送されてくる商品だって
たくさんあります。




店内用にと置いてあっても
快くお持ち帰りいただき
おいしかったから次回にお買い求めいただく、
と言う流れを作るほうが
お店にとっても得策でしょう。



私が店長であれば
むしろそちらを店員に指示いたします。

もちろん娘には

「教育的指導」
をするでしょう。





が、
「店内用の試食を持ち帰る」
のは
「全く図々しいにもほどがある!!」
と考える娘はまちがっているのでしょうか。




ある見方をすればそれも間違ってはいないような気がします。

すくなくとも
私には試食を袋詰めにしてくれとお願いする事はできませんから・・・。








しかし
ご婦人の立場に立って考えれば
何らかの事情があって
その場では
お召し上りになれないのかもしれません。



でも
試してみて気に入れば次回に買おう
とお考えになったのかもしれません。
(いつも、そうしてもらっている・・・というところに「?」がつきもしますが・・・)





何よりも
お店にとって
お客様に好印象を残すことは
とても大切です。





そのことに
娘は気づいていません。

そして自分の見方において
「まちがっている」相手の行為
を許せずにいるのです。




自分の狭い「正しさ」が
「怒り」というマイナスのエネルギーを出して
相手はもちろん
自分をも不愉快にしているのです。



にこっと笑って

承知いたしました。
 他にもいくつか入れておきますね」
と言えたなら
きっと娘自身も気持ちが良かっただろうと、

そんなふうに
育ててあげられなかった自分を
反省するばかりです    








正しさ

2010年07月31日 07時08分24秒 | ひとりごと
  正しいことを言うときは

  少しひかえめにするほうがいい

  正しいことを言う時は

  相手を傷つけやすいものだと

  気づいている方がいい



              吉野弘 祝婚歌  より




私の大好きな吉野弘の詩の中にあることばです。




この詩を初めて目にしたのは
10年ほど前ですが
「そうよね・・・」
とは思うものの
それを実行する事が
如何に難しいかをその後ずっと感じてきました。



昔から言葉がきつく
性格もはっきりしている私は
そのことによって随分損をしてきました。


かつ人様を傷つけてきたに違いありません。




そうして、
たくさんの大切な人を失ってきました。


そのたびに、悲しい思いをし
どうして私はこんななのだろうと
自己嫌悪に陥りました。


やがて
人様も自分も傷つけないために
思うことを飲み込みこんで
本当の自分を隠し
鎧を着込むようになりました。


自分が鎧を着込めば
相手も身構えるのだと言う事に気づきませんでした。



人を疲れさせ
やがては
自分を疲弊させていきました。


そして益々自分を嫌いになっていきました。






幼い頃から
私の中にはいつも
「正しいこと」がうずまいていました。

自分も正しくあらねばならない代わりに
人様もみな
まちがっていてはいけないのです。


もちろん
「どちらともつかない」ことなどは存在しませんでした。

いえ、存在させてはいけないと思っていたのかもしれません。
いつも
自他共に正しくあらねばなりませんでした。





今、多少なりとも
歳を重ね、
経験を積み、
「本当に正しい事」などは
有り得ないのだと思うようになりました。


歴史をみても分かるように
「正義」は
立場によって変わるのです。

誰がみても人として間違っている事は
ごくごくまれで
世の中の多くのトラブルは
立場による「正しさ」の違いから生じているのです。


しかもその立場の違いや物の見方は
裏表などという単純な物ではなく
360度、しかも球体で
ありとあらゆる方向に存在しているのです。

それは
無限といっても良いかもしれません。



だから、
「正しい」と思うとき
それはあくまでもその無限分の一の見方からすれば・・・
なのだということを
承知している必要があるのです。



そして無限分の一に過ぎないと知っていれば
もし
その「正しさ」を優先せざるを得ないときがあっても
自ずと控えめになり、
他を思いやることができるような気がするのです。





他を思いやっての正しさは
相手を傷つける事はもちろん
自分をも傷つけずに済むようになるのではないでしょうか。





さらに
少しずつ、
少しずつ
「あいまいなこと」の大切さも
知るようになりました。



世の中には
はっきりさせない方が良い事も
たくさんあるのです。


はっきりさせないほうが
相手も自分も傷つけないですむ・・・
または
今、無理してはっきりさせなくても
やがて
時が解決してくれると言う事も
たくさん知りました。



むしろ
その「グレー」の部分こそが大切な時だってあるのです。




思春期の頃
「NOといえない日本人」が
いかにも良くないと言うような感覚を
メディアから貰った気がします。


そしてそんな日本が
「だめだ」、「恥ずかしい」
と思い込んできました。




けれど
今は
だからこそ、
自分を主張するばかりの欧米人と違って
「和」を保てる日本人に成り得るのだと
自信を持っていえるような気がしています。




「和」を保つために
あえて「グレー」を選択する・・・

「良心」はそれを許してくれるはずです。

伊勢白山道氏は
「死ぬまでに己の良心をどれだけ育てられるか」
が一番大切だと書いています。



「良心」と「正しさ」は似て非なるもなのだと言う事を
この頃しみじみ思っています。