go の let's goシニア

リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

古いお話

2020年03月10日 | インポート
1945(昭和20)年の今日3月10日は東京大空襲のあった日です、木造住居に焼夷弾が雨あられのように落され、一面焼野原になった日です。
犠牲者や負傷者も多数出たようです、毎年この日に合わせて追悼慰霊祭を行っていますが、今年は新型コロナウイルスの蔓延により東京都が行う
追悼慰霊祭の式典はは中止になるようですが、改めて犠牲所のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

私は戦前に生まれて物心ついたころに終戦になりました、生まれたところが信州ですので1945年3月の時点では自分の住んでいるところに空襲は
来ませんでした、戦局が悪化して8月ごろになると地方の都市にも空襲がされるようになりました。
私の住んでいた信州の上田の千曲川河川敷にあった軍の飛行場も8月13日に空襲されたり、養蚕の研究施設「小県蚕業学校」が空襲で
焼かれたりで地方にも空襲の手が伸びてきていました。
そんな戦争の様子を孫に伝えるために覚えのあることを略図にして説明しました。
覚えていることは終戦の一日前のことです、信州の私が住んでいた町は近くに山があり山すそには神社がいくつかありました、空襲はいつ来るか
わからないので山手に疎開しました、8月14日の晩は山で野宿をしました、夏のことでやぶ蚊がいるので蚊帳をつって寝ました、


蚊帳の中に根子と言って稲や麦を脱穀するときに使うムシロを厚くして大きくしたものを敷きそのうえで食事をしてしたりごろ寝をしました。
子供心にはキャンプをしているようで面白かったですが、大人の父や母はどうだったのでしょうか。

P1250785 (2)
P1250785 (2) posted by (C)

その晩は雨が降りませんでしたが、雨が降ったら蚊帳を吊っただけではしのげませんので、大人たちが相談して自宅の庭にあった
自転車小屋を移築することになりました。
8月15日の午前中に小屋を分解して何人かの大人の人が坂道を一生懸命に運んできたことを覚えています。
屋根の部分を運び終えてみんなが神社の階段横の石垣に腰かけて休んでいるとき、この日8月15日は正午から天皇陛下のお言葉が放送
されることになっていましたので大人の一人が放送を聞きに麓の集落に行っていた人が登ってきました、皆さんは天皇陛下のお言葉は
「最後の一兵までがんばれ」との内容と予想をしていましたが、登ってきた人が聞いてきた内容に愕然としていました、あの時の大人たちの
ことは今も忘れません、どこを見ているか焦点の定まらない視線が今もはっきり覚えています。


この時の天皇の玉音放送は、要約すると堪え難きを堪え、忍び難きをしのび、ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をする、
これで戦争は終わったのです、その晩は家に帰り灯火管制することもなく明かりの下で家族が団らんしましたが、大人たちはこの後の
日本がどう変わっていくか心配の様子でした。
(灯火管制=照明の傘に布などをかけて家の外に光が漏れないようにする)

この日の父はアルバムを出して戦争で大陸に行った時の写真をことごとく手あぶり火鉢で燃やしました。
ある意味日本も大陸で一般市民の平和を生活を脅かしていたのではないか?、国策という名の下で平和な市民を不幸におとしいれて
いたのでしょうか?。
現在、中東で戦争(紛争)で逃げ惑う避難民を見ると戦争のために犠牲になる市民の姿がいたわしい、いつの時代も犠牲に
なるのは罪のない人たちです。
戦争のない世界が訪れることを望みます、私の経験から世界で民族同士が争うような戦争が起こらないことを望みます。
戦後に生まれた人には山で野宿をした戦争経験はわかりません、私の兄弟でその時家族だった兄弟、姉妹はなくなっていますので
この経験を子供や孫に伝えるのは私だけになったので下手な略図を書いて説明しました。
今では信じがたい私の経験をブログにしてみました、つたないブログを最後まで読んでいただいてありがとうございます。