赤い彷徨 part II

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こんにちは、アジア王者です。↑お星さまが増えました。

四国ならぬ三国の旅(10)  宇和島城Ⅰ

2016-05-06 22:52:10 | アウェイじゃないけどぶらり旅
前回からのつづき)

こちら宇和島城ですが、戦国時代の1543年に家藤監物(けんもつ)という人物が入城したというのが「板島丸串城」としての最初の記録だそうです。



その後伊予国が小早川氏の所領となるなど紆余曲折あった後、豊臣秀吉(真田丸風に言えば「とよとみ『の』ひでよし」ですかねw)から伊予7万石を与えられた築城の名手・藤堂高虎の手により1595年から1601年にかけて築城されたといいます。



その後1608年にその藤堂高虎が今治藩に転封となり、富田信高が入城するもほどなく改易、その後江戸幕府直轄となり、また藤堂氏預かりとなった後に1614年にかの伊達政宗の長男である秀宗が伊予10万石として封じられ、翌15年に入城します。そしてその入城の後にその名を「宇和島城」と改められたそうです。そしてその後宇和島は伊達10万石の城下町として栄えていきます。



さて、桑折長屋門の登城口から反時計回りに進んでくると長門丸跡が広がり、左手は児童公園で管理事務所もこちらにありました。右手にはご覧のとおり些か趣のありそうな水道施設(貯水池)がありました。



更に歩を進め、雷門跡に続く石段を見上げます。以降、こちら宇和島城の石段や石垣の草生し苔生す感じは個人的にすごく印象的でした。



さらに石段を登って行きます。こちらの石段は上で右に曲がっており、雷門跡はその奥になります。



このあたりの様子は苔ファンとしても純粋にたまらないものが(笑)



さて雷門跡を過ぎると左側に白い建物が見えてきますが、こちらはほぼ幕末の頃に建てられたいわゆる武器庫である山里倉庫、現在は郷土博物館として利用されている建物があります。確か入場無料で、実に地味な展示ですが宇和島やお城をめぐる薀蓄がある程度得られますのでお時間があれば(自分は城を下りる際に立ち寄りましたので後程少々)。



二の門、そして三の門を目指して草深い道を進んでいきます。何と申しましょうか、この「手入れされ過ぎていない」感じ、これが実にいい。



「薄気味悪い」などとのたまう細君を尻目にひとりわくわくしつつ、突き当たって右にある三の門跡への石段を上がります。



石段は更に右へ。しつこいようですがこの草深い、荒れた感じがたまりません。



本丸石垣を見上げます。こちらの石段はぐるっと曲がる形になっていますが、敵軍を迎え撃つための設計ということでしょうか。



この上はいよいよ二の丸ということで、期待はもう高まるばかり。



(つづく)

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