ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

クローサー(ネタバレ)

2005年06月18日 | 映画
地元の映画館でやるようになったので、行って来ました。ただし、朝一番か深夜(12時すぎから!)しかなくて、やむを得ず朝一番で観て来ました。
普段なら決して観ないジャンルなんですが(汗)ナタリー・ポートマンがゴールデングローブ獲ったりアカデミー賞ノミネートされたりしてたんで、どんなかなあと。
今さっきまでトニー賞の授賞式を見ていたのですが、監督のマイク・ニコルズって今年のトニー賞獲った「モンティ・パイソンのステマロット」の演出家でもあったんですね~。自身も演出賞獲っていてびっくりでした。いやタイムリーだったんで(笑)
話の筋としては、なんだか誰の気持ちも理解できなかったので(汗)あまり面白くなりませんでしたが、でも映画としてはいい出来なんだろうなあと思います。
音楽の使い方も絶妙だったし。エロエロチャットのバックにオペラが格調高く流れていたりするのとか・・・(汗)あそこはしかめ面で悪戯書き込みをしているジュード・ロウもシュールだった・・・
人物の気持ちが理解できなかったと書きましたが、特に男性2人がよくわからん(汗)その中でもジュード・ロウ扮するダンがな~、よくわかんなかったです(汗)
一緒に行った友達にも男性陣不評で、ジュード・ロウまでスケベオヤジ呼ばわりされてました・・・(汗)そりゃちょっとかわいそうでは・・・(汗)
しかし、クライヴ・オーウェン、「キングアーサー」に続いて印象悪い役を続いて見てしまってあれなんですが、でもやっぱりちょっと・・・です(汗)ちょっと若ぶった?ような私服が全然似合ってなかったのが一番マイナスでした・・・なんか無理してる~、という感じで(汗)
ずっと淡々と話を見てしまったのですが、最後にちょっとどんでん返し?があってほう、と思いました。
アリスが、ラリーと寝た、と言ったのは嘘だったんだなあ、と後で気がつきました。ラリーも当然、嫌がらせ・・・というかダンに対する復讐?のために嘘を言ったんですよね。
アリスがダンを「もう愛せない」と言ったのは、ラリーが嘘を信じたから、ということでしょうか。
そして、アリスが名前を偽っていたということ。ストリッパーをしていた時には本名を名乗っていて、ダンと一緒にいる時には嘘の名前を名乗っていたこと。
この心理はよくわからないんですが(汗)ラリーもダンも、「嘘はつけない、真実が知りたい」と迫っていたし、「男は真実を欲し、女は嘘をついても真実は知りたがらない」ということでしょうか。
まあ、どちらにしても、結構男視点の話だなあ、と思ったのは私だけでしょうか・・・(汗)
もともと戯曲だそうですが、直接のベッドシーンは一切出てこないのに、しっかりR-15指定になるだけの表現をしていて、なんか意味もなくベッドシーンが出てくる映画について考えさせられてしまいましたが(笑)
お目当てのナタリー・ポートマンは、なんというか色っぽい場面でもとてもカワイイというか子供っぽいというか・・・(汗)すっぴんでTシャツ着ていた場面なんか子供にしか見えなかった・・・
何かの批評で、「ナタリー・ポートマンの少女性がいい結果に出た」みたいなことが書いてあったのが印象に残っていたのですが、なるほどなあと思いましたよ。
子供っぽさが残ったナタリー・ポートマンが、アリスの不思議さを上手く出していたように思います。
そうそう、主題歌のバックのギターのフレーズがなんとなくイギリスのプログレバンドMostry Autumnの「指輪物語」のアルバムの曲と似てるなあと思っていたら、後でパンフレット見たら、アイルランドのアーティストだったので、なんだか納得。
してみると、あのフレーズってアイルランド民謡とかと関連あるんでしょうか? なんてちょっと気になったのでした。
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「『指輪物語』世界を読む-我らが祖父トールキン」その5

2005年06月18日 | 指輪物語&トールキン
全部読み終わってから書こうと思っていたのですが、ネタがないんで・・・(苦笑)まあ、全部読んでないと言っても最後の鼎談だけなんですが。
オーソン・スコット・カード氏の衝撃発言?のあとは、最後の二人の女性作家の話が印象的でした。
二人とも、トールキンが憂いた、妖精物語が子供部屋に追いやられた=子供向けにされて矮小化された、という問題に触れつつ、「指輪物語」について書いています。
まず、リサ・ゴールドスタイン氏は、神話という観点から「指輪物語」について説いています。
印象的だったのは、「指輪物語」の影響を受けた・・・というよりも、ほとんど真似しているような作品が、しかも結構売れたということについて、当時は憤慨していたけれど、今は違うことを考えている、というくだりでした。
トールキンが神話を作りたいと思って物語ったように、その模倣作品の作者もまた、「指輪物語」に刺激されて、同じような神話・物語を語りたいと思ったのだろう、そして、語り手の能力不足で物語がトールキンよりもつまらないものになってしまうのは当たり前のことなのだと。
続くテリ・ウィンドリング氏は、神話よりも「妖精物語」としての側面について語っていました。
結構過酷な少女時代を送ったウィンドリング氏は、実際に妖精物語が生きていく力になったことを語り、トールキンの「妖精物語について」に深く共鳴したと書いていました。
「妖精物語について」、読まないといけないですねえ。これも買ってはあるんですが・・・次は読むぞ~。
というわけで、まだ全部は読み終わっていないのですが、なかなか面白い本でした。人によって様々な読み取り方をするのだなあということも判ったし、そんな中でもうなずける意見が結構たくさんあったのが嬉しかったです。
そして、なんだか「指輪物語」をどう評価したらいいのか、ということもわかって来たような気がします。
初めて読んだ時に、とても面白かったけれど、文学としてはどうなんだろう・・・ということは思っていました。
でも、この本を読んで、なんとなくつかめて来ました。最後の方の、カード氏、そして今回書いたゴールドスタイン氏、ウィンドリング氏のエッセイが、特にヒントを与えてくれました。
トールキンは、シェイクスピアすら嫌いというくらい、近代文学に全くといっていいほど興味がなかったようです。そのために、近代文学のような手法-主人公の心理を描写したり、主題を物語の中に込めたりすること、は全くしていないのですね。
トールキンが模範としたのは古代、中世の神話、叙事詩、そして妖精物語であって、それを近現代文学のように読み解こうとしたりするのはそもそも間違いなんですよね。
この本を読んだおかげで、「指輪物語」が好きだと、より大手を振って言えるようになった気がします(笑)
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