ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

ノイミュンスターのホテル続報?

2005年06月09日 | 旅行
ノイミュンスターのBEST WESTERN HOTEL PRISMAが満室だ~、と騒いでいたのですが、その後必死に検索して、なんとか他にもホテルがあることが判明しました。その1軒しかなかったら嫌ですが・・・(汗)ネットにひっかからないだけで他にもあるのかな。
そのホテルは駅から近くて、ホールから歩いて帰れるかどうかは途中の道の治安状態次第という感じですが。どうかなー、うーん。
メールフォームで予約もできるみたいで、抑えてしまうか考え中です。というか、そこも満室という可能性なきにしもあらずですよね・・・
と思いながらまたBEST WESTERNの空きを調べてみたら、この間まで満室だった8/6が空室ありになってる! ということはもう少し粘れば8/13も空くかな・・・
というわけでもう少し粘ってみようかと思います。そうこうするうちにもう1軒も満室になっちゃったりして・・・と不安はあるのですが。
まあ、こんな大きなホテルがあるんだから、他にもホテルはあるかなあ・・・と思いつつも、ちょっとドキドキです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「『指輪物語』世界を読む-我らが祖父トールキン」その3

2005年06月09日 | 指輪物語&トールキン
またまた「我らが祖父トールキン」の話です。
前回書いた時に、ル=グインのエッセイは前に読んだから、と早合点でさっさと感想を書いたのですが、今回読んでみたら全く印象が違ったのでびっくりでした。まだ原作2回読んだかどうか、というところだったからでしょうか。映画もFotRしか見てなかったし。
最初の方の、文章のリズムの話はやっぱりよくわからなかったのですが(汗)その後、物語自体にも「リズム」があるという話にはほほう、と思いました。
トールキンは、緊張と緩和、恐怖と安堵・・・といった反対の要素を繰り返し描いていて、ある種のリズムを生んでいる、というのです。
このリズムは、しばしば物語が停滞しているような印象も与えるかもしれない、とも書いていました。時代が進むにつれて、緊張の連続でどんどん進んでいく物語が好まれるようになっているから、と。
これを読んで、FotRで物語の流れが途切れるからロリアンの場面はカットしてしまいたかった、とPJが言っていたのを思い出しました・・・
ル=グインは、このリズムのパターンは、長い物語を読者が一緒に歩いていくペースだというようなことを書いていて、なんだかそれに感じ入ってしまいました。
確かに、戦いの後の仲間たちの再会にホッとし、黒門前の緊張の後にはイシリアンの美しい光景とファラミアとの出会いがあり・・・私は結構時間をかけて読んだものですから、余計にそのゆったりペースと一緒に「歩いた」という印象があるのかもしれません。
このリズムの説明をするのに、例としてあげられているのが塚山丘陵の話の章で、私としては「『指輪物語』の中で一番つまらない章は?」と言われたらおそらくあげるであろうあの章を・・・と、ル=グインの造詣???に感心してしまいました。(いや、メリーの剣の話が出てきたりとか、重要だというのはわかってるんですけど)

その次、ダイアン・デュアン氏の「いちばん長い日曜日」は、なぜか「旅の仲間」「二つの塔」の2冊だけを買ってしまって土曜の夜に読み終わり、続きが読みたいのに日曜でどこも本屋が開いていなくてまる一日半以上お預けをくらった、という話でした。
金曜の夜から日曜の朝までで二冊を読んでしまったというのにも驚きですが、そこまで進んでおいて続きがお預けなんて、若い頃にはものすごい苦痛?だったと思います。
でも、その長い時間、あれこれと考えたことは、その後二度とないような貴重な時間だったかもしれないですよね。ご当人はそんなことは書いてませんが。
とても印象的だったのは、サムが倒れてフロドが捕まった状態のまま待っている間に彼女が感じた予感でした。
若きデュアン氏にとっては、この物語のある種の無慈悲さが心を打ったというのです。
無慈悲さ・・・作者自身の意図ではなく、「中つ国自身の予定」どおりに物語が進んでいるだけなのだと感じたそうです。そして、その「中つ国自身の予定」は、作者にも読者にもハッピーエンドなど望んでいないのではないか、そんな恐怖があったと言います。
これ、日本の読者にはあり得ないことかもなあと思います。「旅の仲間」の訳者あとがきで、指輪棄却の使命は達成されると書いてありますから。あまつさえガンダルフの復活まで書いてあるのはいかがなものか、と思うんですけど(汗)まあ、そんな大筋を知っていたとしても、実際に最後まで読んだ時の衝撃と感動は薄れはしませんでしたが。
デュアン氏が感じた「無慈悲さ」は、物語を高みから、ある意味「神の視点」(この場合は宗教的な神のことではなく、客観的に世界を見下ろしているという意味ですが)から描いていることによるのかな、と思います。
トールキンは、登場人物の心理をくどくどと描写するような「文学」とは違う、神話に倣った「叙事詩」的な物語の書き方をしていると思いますが、それがそんな印象を与えるのではないかと思いました。
私自身、登場人物をちょっと突き放したような客観的な描写をする小説が好きなので、「指輪物語」はとてもしっくり来ました。そして、デュアン氏が打たれたという「無慈悲さ」という言葉にも感じ入るところがありました。
でも、実のところ、トールキンが描く「神の視点」は、無慈悲でいてどこかに暖かさも孕んでいると思いますが。本物の古代神話のように、神々が人間に対して全く無慈悲なのとは違う、やはりどこかにキリスト教精神を感じるような「神の視点」だと思います。
それでも、もっと押し付けがましい「善なる神」の存在が感じられたりしないスマートさは、敬虔なクリスチャンでありながら、古代神話にも魅力を感じていたトールキンらしいのかもしれませんね。

この後に、問題の!?オーソン・スコット・カード氏のエッセイがあって、少し読み始めているのですが、意外に(?)面白いです。まだ最初の方だけですが・・・
明日までにはカード氏のところだけでも読み終わって、面白かったら感想書きたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする