ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

トールキンにとってのドワーフ(とホビット)

2016年04月06日 | 指輪物語&トールキン
Tolkien Writing Dayの企画参加で書いた記事です。(最近こんなことでもないとブログ更新しなくなってますが(汗))

ここ数年ずっと気になっていたことなんですが、ちょっとまだ私が書くのは早いかなと思いつつ、そんなこと言ってると永久に書けないので、見切り発車で書いてみることにしました。
ちょっと各方面で炎上しかねない内容かもしれませんが…(^^;)
しかも、この内容を考えている最中、昨年猪熊葉子辺見葉子先生の講座でトールキンのドワーフの変遷のような内容があったそうで…それ聞いてないでこんなもの書いていいのかというのもありますが(汗)
HoMEにもドワーフについて書かれたものあるみたいだし、本来なら原典にあたってよく調べてから書くべきところなんでしょうが、あちこちから入って来た情報の切れ端から思いついたことを書いてますので、そのあたりもお含みいただければと…(最初から逃げ口上(^^;))
あと、昨年参加させていただいた(というか用意していただいた訳文を読んでただけですが…)HoME読書会のアスラベスの回が今回の内容を考えるにあたって非常に参考になりましたので、申し添えさせていただきます。

トールキンのドワーフの扱いがひどい(?)ということは、ホビット映画公開以降、ドワーフ好きの方々からよく聞かれるようになったように思います。
私も、トールキンは指輪物語→ホビット→シルマリルの順で読んだので、特にシルマリルの第一紀のドワーフの扱いには「えっ?」と思ったものです。(シルマリルはエルフ視点で書かれているから、という意見もありますが…)
そもそも、ドワーフはアウレがこっそり作ってしまったというのがすごい設定だなと…。最初に読んだ時は「ふーん」と思った程度でしたが、トールキンについて、特に敬虔なカトリックであることを知ってからは、これひどいなと。だって「神の子」じゃないわけですよ……。
どうしてトールキンがドワーフにこんな仕打ち(汗)をしたのかと考えるに、ドワーフの性質のことが思い当たります。
金銀財宝に強い欲望を持ち、受けた仕打ちは決して忘れずに復讐心が強い。ドワーフのカッコいい部分でもありますが、キリスト教精神から言うと、あまり誉められた性質ではないなあと。(キリスト教について詳しく知っているわけではないのでイメージですが)
悪ではない、けれどその性質は必ずしも誉められたものではない、ということで、エルが作ったのでない、という設定にしたのではないかと…。
ではなぜわざわざそんな存在であるドワーフを登場させたのかということですが。
トールキンのドワーフの名前が古エッダから多く取られているのは良く知られています。私は北欧神話やケルト神話に詳しくはないですが、トールキンの描くドワーフの性質、黄金への渇望や激しい復讐心などは、そういう神話・古伝承によく出て来るモチーフだと認識しています。
これは全くの私の想像ですが、トールキンはキリスト教精神からは外れると思いつつも、そういう神話に出て来る粗野なモチーフに惹かれる部分もあったのではないでしょうか…。
私が初めてアザヌルビザールの戦いについて読んだ時、その凄絶さに絶句し、同時に、大きな犠牲を払いながらも鉄のように復讐を貫徹したドワーフたちに強く惹かれました。
そんなエピソードを考えたトールキン自身が、ドワーフの性質をただ神の御心に添わない良くないもの、とだけ考えていたとは思えないのですよね…。
トールキンが考える「ドワーフ的なもの」に魅力を感じつつも、キリスト教精神から言うと認められない、そんな葛藤から、ドワーフのあの設定が生まれたのではないかと。そして、初期のドワーフの扱いがひどいのもそのせいではないかなと。私は今のところそんな風に考えています。

ここでちょっと話が逸れますが、それではホビットは何なのか、ということですが。
ホビットについては謎が多く、はっきりエルが作ったという記述は残っていないようですが、まあ逆にエル以外が作ったというのは考えにくいので、エルが作った、と考えて良いのかなと。
ただ、理想の神の第一子であるエルフ、それを引き継ぐ運命を持った人間(このあたりアスラベスに出て来た内容から拝借しています)、というようなドラマチックな運命は、どうもホビットには与えられていないように思います。
ホビットと言えば、素朴で、賢くはないし、諍いもないわけではないけれど、基本盗みも殺人もない平和な世界に生きている種族です。
これも私の想像ですが、トールキンにとってのホビットは、キリスト教精神に照らして庶民レベルで理想的な存在、なのではないでしょうか。「神の存在を知る前の素朴な存在」という感じかもしれません。
そんなホビットの中から、西に向かうことを許された、ビルボ、フロド、サムは、ホビットの中から出た聖人のような存在なのではないかなと思います。

「ホビット」では、そんな存在であるホビットとドワーフが一緒に旅をします。ビルボは最初は理解できないと思っていたドワーフたちにいつしか親愛の情を抱くようになり、ドワーフたちも次第にドワーフとは全く違うホビットであるビルボを受け入れ、尊敬するようになって行きます。
その最高潮が、トーリンとビルボの別れの場面にあると思います。
スマウグの黄金に心乱されたトーリンは、最後の時になり、こう言います。
「わしはもう、ありとある金銀をすてて、そのようなものの役立たぬところへおもむくのじゃから、心をこめてあなたとわかれたいと思う。―もしわしらがみな、ためこまれた黄金以上に、よい食べものとよろこびの声と楽しい歌をたっとんでおったら、なんとこの世はたのしかったじゃろう。-」
キリスト教精神から離れた存在であったドワーフが、ホビットの存在によってキリスト教的な価値観に目覚める場面、とも言えるように思います。(異論のある方もいらっしゃると思いますが…(^^;)
五軍の戦い以降、ドワーフの間ではビルボは尊敬される存在となります。そしてそんな風にビルボが尊敬されるようになって以降成人した若いドワーフたちの中から、ギムリが登場する訳です。(ドワーフの成人何歳かよくわかりませんけど…)
ギムリはビルボの行いについては良く知っていて、ビルボに対してもホビットたちに対して既に敬意を持っていました。(フロドたちについては、尊敬というよりも護らねばならない存在と思っていたようですが。)
そんなギムリは、一人異種族の中で旅をするうち、奥方を崇拝し、レゴラスやアラゴルンと友情を結ぶなど、ドワーフとしては驚くほど開放的な存在となります。
そのギムリに、奥方はこんな預言をしています。「そなたの手には黄金が満ちあふれるでありましょう。しかもそなたは黄金に心を奪われることはありませぬ。」と。
確かに、「指輪物語」本編の中で、ギムリはドワーフの性質としての金銀財宝への欲望というものをほとんど見せません。最初に「指輪物語」を読んでいたので、その後「ホビット」やシルマリルのドワーフの性質を知って、逆にギムリの財宝に対する潔癖さ?に違和感というか不思議な気もしていました。
これは、ギムリが、自らの種族の殻を破り、他者を受け入れることによって、ドワーフの運命の呪縛から解き放たれた、ということにはならないでしょうか。
ギムリがドワーフとしては異例として西に渡ることを許されたのも、そのためということも考えられるんじゃないかなと思うのです。トールキンにとってのドワーフの完成形?がギムリなのではないかと。

というのが、今の時点で私が考えるトールキンにとってのドワーフ像とその変遷、です。
結局はギムリ最高、という結論になっているような気がしなくもないですが…(^^;)
コメント (2)
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