ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

「『指輪物語』世界を読む-我らが祖父トールキン」その4 英雄って・・・

2005年06月14日 | 指輪物語&トールキン
さて、今日はいよいよ!?「我らが祖父トールキン」の中の問題発言???オーソン・スコット・カード氏のエッセイについて、です。
実はカード氏の説について、以前躍る子兎亭さんで話題になったことがあって、いつか原文(というか訳文ですけど)を読まねば、と思ったのがそもそもこの本を買うきっかけでした。その割には何年経ってから買ってるんだ、という感じですが・・・(汗)
当時の議論は掲示板過去ログの3にありますので、興味ある方は読んでみてくださいませ。指輪日記の中でも管理人のままかさんが2004/9/4付けでフロドファンの視点から興味深いことを書いていらっしゃいます。
というわけで気合を入れて?読み始めたのですが、最初はトールキンと寓意のことなどを書いていて、なかなか面白かったです。
カード氏によると、文学を書く時に物語の中になんらかのシンボルやアレゴリーを埋め込むという手法、そして読者は文学を読むときにその中のシンボルやアレゴリーを読み取って解読するという行為は、実は物語をとても単純にしているといいます。作者が用意した答えが一つしかないのだから、ある意味そのとおりかもしれませんね。(まあ、作者は一つの答えしか意図していないのに、読者によって様々に解釈されるこということはあると思うんですが)
一方で、物語の中に具体的なシンボルやアレゴリーを埋め込むことをせず、純粋に「物語」を綴った「指輪物語」のような作品は、逆に読む人によって様々に感じ取られ、かえって複雑で奥深いものになるというのです。
カード氏は「指輪物語」のような作品を「現実逃避の文学」と呼ぶのですが、こういう「現実逃避の文学」は、分析して解読することには意味がなく、ただ物語の中に入り込んで一緒に物語を体験することでしか味わうことができないといいます。
だから、「指輪物語」の中の何かの事象に何か意味がある、と説いている人を見ると、「スープ用スプーンでマッシュポテトを食べている人を見た時のようにそっと顔をそむけてしまう」とちょっと皮肉っぽく書いていました。(まあカード氏の文章は基本的に皮肉っぽいんですが・・・)
これを読んで、確かル=グインが書いていた言葉を思い出しました。「指輪物語」は、分析しようとして細かく分解してしまうと、何も残らないというのです。タペストリーを解いてみたら糸だけが残って何も出てこなかったというように、と。
私自身、「指輪物語」について様々な解釈を述べた本などを読むとなんだか違和感を感じてしまうので、このカード氏の話にはうなずくところが多々ありました。
ただ、なんとなく皮肉で声高な書き方に反感を感じないでもないのは、後に何が書かれているか知っていたからでしょうか・・・いやでも、同じようなことを書いていたマイクル・スワンウィック氏の文章にはそんなこと感じなかったですけど。訳者は同じ人ですから、これってやっぱり原文の雰囲気の違いなのでは・・・
そして、カード氏は人によってその体験は決して同じものにはならないと書いているのですが、ここからが問題の発言です・・・(汗)
カード氏は、自分は少数派だといいながら、真の英雄はフロドではなくサムだと思う、と書いているのです。
氏曰く、指輪を実際に運んだのはフロドではなくサムだ、サムだけが指輪の誘惑を撥ね退けることができた、何の後悔もない完全なる指輪の担い手になった、というのです。
確かにそういう面もあるかもしれないけど、サムが指輪を持ってたのってわずかな間だったし、フロドに返す時ちょっと返すの嫌になってたじゃん、サムがずっと持ってたらどうなってたかわからないし、そもそもサム一人だったら指輪を棄てに行くことにもならなかったんじゃ・・・
とか考えながらはたと思ったのですが、これって映画しか見てない人が「サムが指輪を持ってけばよかったのに」と言っているのに対して思ってしまうのと同じことではと・・・(汗)
さすがにカード氏は原作のサムについて言っているので、サムの素朴さ、主人のことばかりを考えていたがために「より偉大さが増している」とか書いてはいるのですが。
ちょうど「躍る子兎亭」さんで話題になっていた時も、TTTのサムについてひっかかっていた頃だったものですから、私はどうしてもこのカード氏の言う「サムが真の英雄」という考えと、映画のサムを重ね合わせてしまったのでした。映画のサムも、カード氏と同じような読み取り方の元で生まれたのではないかと・・・
まあPJはさかんに「主人公はフロド」と言ってますが、それもカード氏が「自分は少数派だと思うが」と基本的にはフロドが主人公だと言っているのと同じように感じてしまうのは邪推ですかね・・・(汗)
カード氏の言葉でさらにひっかかるのが、フロドが旅立ったことでサムはようやく「完全な自分を取り戻し、自ら主人となった」とか書いているのですよね。
確かに、フロドに盲目的に尽くすサムにとって、フロドの存在が彼自身の真価を発揮する妨げになっていたかも、というのはあるかもしれません。
でも、ひとつ大事なことが忘れられているような。サムのフロドへの愛情のことが抜け落ちているように思いました。サムは自分が英雄になったり、袋小路屋敷の主人になったりすることよりも、フロドに一緒にいて欲しかったのだと思うんですよね。
サムにとってフロドと別れることがどんなに辛いことだったか。そのことを無視されているようで、なんだか納得行きません。私にとっては初読時あの灰色港の別れで一番悲しかったのは、サムがフロドと離れなければならないという事実だったので・・・
まあ、これもまた体験する人によって感じ取り方も様々、の一例なのかもしれませんが・・・
それにしても、フロドがいなくなったことでサムが完全な自分を取り戻す、というくだりは、自然と映画のラスト、袋枝道三番地に戻って幸せそうなサムの映像を思い起こさせました。
私にとっては、映画のサムがあまりにも何のかげりもなく幸せそうなのが納得いかなくて・・・もっと「フロドとの別れの辛さを家族によって癒された」という感じが欲しかったのです。
なんだか、邪推だとは思うのですが、PJの感覚ってカード氏と似ているのでは、と思ってしまうのでした・・・
そして、カード氏のサムについての説で一番違和感を感じるのは、実は「真の英雄」という言葉だったりします。
「指輪物語」の中で、「英雄」って言葉は出てきてましたかねえ。あまり意識して読んだことないので、実は思いっきり出て来ていたかもしれませんが(汗)私にはあまり「英雄」という単語を見た記憶はないんですよね。
英雄、英語で言ったらHEROですか。こんなストレートな言葉、トールキンの趣味からいってあまり使わないんじゃないかと思うんですが・・・ましてやホビットに対しては。ホビットほど「英雄」という言葉が似合わない人々もないような気がします。(とか言って思いっきり使われてたら大笑いですが・・・(汗))ガンダルフも最後に「あんたがたは偉大なものたちの数に入っておる」と言っていましたが、決して「英雄」なんて言ってませんでしたよ?
そんなこんなで、うなずくところもありつつも色々と反発も覚えたカード氏のエッセイでしたが、本当にカード氏が言うとおり、読む人によって受け取り方も様々なんだな、と実感しましたです。
コメント
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