ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

「『指輪物語』世界を読む-我らが祖父トールキン」その2

2005年06月05日 | 指輪物語&トールキン
全部読み終わってから感想書くつもりだったのですが、ネタがないので全然読み進まないままの感想第二弾です(汗)
マイクル・スワンウィック氏の章に感動した後、またいくつか読んだのですが、スワンウィック氏ほど心に迫るエッセイはないです、今のところ。やっぱりあれが一番いい章だったのかな。
色んな人が色んなアプローチで書いているのですが、結構「自分にとって『指輪物語』がどんなに大切か、どんなに出会いが衝撃的だったか」を熱く書いているのよりも、一歩引いているようで、それでいて静かに愛情を注いでいるような文章が「いいなあ」と思うみたいです。プロの作家が書いていると思うからかな。普通のファンサイトなんかだと熱く語っているのを読むのは楽しいものですが。
今、ル=グィンの章の途中ですが、ル=グィンのこのエッセイは以前「ユリイカ」増刊号で読んだことがあるので先に感想書いちゃいます。
ル=グィンのエッセイは、指輪物語の中での文章のリズムを論じたもので、物語の精神性とかそういう類の話は一切なく、ちょっと肩すかしを食らうような気もします。(ル=グィンがどんなこと書いているのか楽しみにしていたので(汗))
でも逆に、ル=グィンにとって「指輪物語」が偉大な作品であることが分かりきった前提になっているかのようなものを感じたりします。残念ながら原文で読んでないのでさっぱり理解できないのですが・・・(原文で読んでいてもわからないと思う・・・(汗))
その他でちょっと気になったのは、ハリイ・タートルダヴという人のエッセイです。
この人は、アマチュア時代に、第四紀のゴンドールを舞台にした物語を考えて書いていたのだそうです。第四紀の、衰退し始めたゴンドールの治世にアングマールの魔王が甦るというストーリーだそうです。
タートルダヴ氏は、エオウィンが魔王を倒した時の「この世界のこの時代では二度と(その叫び声は)聞かれることがありませんでした」の「この時代」を第三紀と読み取り、更に、他の8人のナズグルは滅びの山の噴火に巻き込まれたけれど、魔王だけはエオウィンに倒されたが故に噴火には巻き込まれなかった、というのをよりどころに、そういう話を考えたのだそうです。
「指輪物語」に衝撃を受けると、たいていの人が「他に同じような物語はないのか」と探し求め、更に物語を作る能力のある人は、自分で中つ国に近い世界、あるいは「指輪物語」に似たような物語を作りたいと思うようですね。この本に書いている人のほとんどがそういう人のようです。
タートルダヴ氏もそういった一人のようですが、実際にプロの作家としてファンタジーを書くことになった時、さすがに「指輪物語」の続編を書くのではまずいので(汗)トールキンを感じさせる要素は極力排したそうです。
そして、彼にとっての第四紀のゴンドールのイメージ=ビザンティン帝国、という世界を作り上げたそうです。フードを被ったナズグルのような敵のイメージも、すでに変更不可能になっていたので、トールキンが書いたナズグルとは違う理由でフードを被っているという設定を作り上げたのだとか。
タートルダヴ氏は、トールキンに敬意を払うがために、トールキンの描いたものをそのまま拝借することは決してしてはならないことだ、と説きます。その理由は、著作権とかそれ以前に(汗)トールキンの作品を矮小化することに他ならないからだと言います。
例として、あるかなり売れたらしい冒険ファンタジーものの作品の作者が、「『指輪物語』から難しいことを取り除いて、冒険的な部分だけピックアップして書いた」と公言していたことを批判していました。(この話を読んでちらっと映画のことが頭をよぎりました・・・(汗))
でも、現在巷で「ファンタジー」と呼ばれている作品たちを見ると、結局はそういうことが行われてきた結果かな、と思ってしまいますが・・・
私が初めて「指輪物語」を読んで衝撃を受けたのは、主人公が何の力もない小さなホビットだということでした。指輪の棄てられ方にも衝撃を受けたものです。
そして、「指輪物語」はファンタジーの元祖と言われている作品なのに、その後のファンタジーはどうしてこの最も衝撃的な部分は真似しなかったんだろう、と不思議に思ったものでした。まあ、そのおかげで今読んでも新鮮なのですが。
結局はタートルダヴ氏が危惧し、大事に思っていたことはあっさりと踏みにじられて現在に至っているのかな、と思ってしまいますが・・・
このエッセイを読んで、タートルダヴ氏の「第四紀のゴンドール=ビザンティン帝国」を舞台にした作品をとても読んでみたくなったのですが、邦訳はされてないみたいですね。残念。
あと印象的だったのは、ロビン・ホップのエッセイで、「指輪物語」では、登場人物よりも風景の方が圧倒的な印象を持っていた。自分にとっては風景が主人公だった、と書いてあったことになんだか頷いてしまいました。
そう言えば確かに、私も登場人物たちの姿に対するはっきりとしたイメージは持っていなかったのですが、風景は浮かんで来てました・・・。
映画化に際して、登場人物たちのイメージにはほとんど違和感なかったのですが(まあキャスティングが良かったとは思いますが。さすがにエルロンドとかケレボルンはイメージ違いましたし(汗))、風景には違和感があったんですよね。なんか違うって。
登場人物のイメージが湧かないのって私の視覚的イメージが貧困だからかと思ってたんですが、確かにそれもあるとは思いますが、それにしても風景の描写は見事ですもんね。その描写の差が原因だったのか、と今さらながらに納得。
まあ、人物に関しては、敢えて細かく描写しなかったのだとも思いますが。感情の描写をこと細かにしていないのと同じように。そのあたりもまた「指輪物語」の特異な点かもしれませんね。
コメント
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