ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

ガルシア=マルケスの訃報

2014年04月21日 | 読書
もう3日ほど経ってしまいましたが、4月18日にガブリエル・ガルシア=マルケス氏が、自宅のあるメキシコで亡くなられたそうです。
87歳だったそうです。
(追記:亡くなったのは17日だったそうです)
数年前から認知症の噂もあり、もう創作活動はしないのだろうな…とは思っていましたが、いざいなくなってしまうとやはり寂しいですね…
遺作として「八月に会おう」という作品を執筆していたそうですが、出版されるかどうかはわからないとか。
正直、「わが悲しき娼婦たちの思い出」も、全盛期とはほど遠いな…と思ってましたから、あまり期待はしていないですけど…

ガルシア=マルケスとの出会いはまだ学生の頃、趣味で観ていたNHKのスペイン語講座で、おすすめのスペイン語映画として「エレンディラ」が紹介されていたことがきっかけでした。
当時の講師が野谷文昭先生でしたからね。
映画館まで観に行くことはなかったのですが、たまたま深夜に何回かテレビ放映されていたのを観て、その幻想的な世界にすっかり虜になってしまいました。
すぐに原作を読み、そこからガルシア=マルケスの世界にハマって行ったのですね。
他にも映画化された作品は「予告された殺人の記録」や「コレラの時代の愛」などありますが、やはり「エレンディラ」には遠く及びませんね。脚本がガルシア=マルケス本人だというのもあると思いますが。
DVD化なんでされないのかなあ…
その後蜷川幸雄演出の舞台もありましたが、脚本は気に入らなかったのですが(汗)エレンディラを演じた美波さんが素晴らしくエレンディラそのもので、すっかりファンになってしまったのでした。
ガルシア=マルケスと出会ってなかったら彼女にも出会ってなかったのかと思うと不思議な気がします。
そう言えば「愛その他の悪霊について」も映画化されて、DVDになってたんだけど、欲しいものリストに入れたまま買ってなかった…あれはどうだったんだろう。

邦訳された小説はすべて読みましたが、(講演やエッセイは一部読んでません…)特に好きだったのは、やはり「エレンディラ-」や、「予告された殺人の記録」のような中編でした。
特に「予告された殺人の記録」が大好きですね。
ガルシア=マルケスの作品は、短編だと幻想の世界が強すぎて理解しづらくなり、逆に長編になると現実の世界が強くなる気がします。(いや「百年の孤独」のどこが?と言われるかもしれませんが私的には…)
私にとっては、中編が、幻想と現実の世界の融合加減が一番いい比率?で混在しているように思えるんですね。ガルシア=マルケス本人も、「予告された-」のことを完璧にコントロールできた作品だと言っていたそうです。
まあ、この作品については、実際の事件を扱った作品ということで、いろいろ物議も醸したようですが…そのあたりを書いたこんな本も出てましたけど。
まあ、どんな由来があるにしても、よくできた作品であるとには変わりないと、私は思ってますけど。

「百年の孤独」はもちろん好きですが、文庫になっていないせいであまり回数を読んでない…(汗)
一方、最初から文庫だったおかげで、「族長の秋」は何回も読んで、好きですね。長編の部類に入る長さかもしれませんが、段落が続いたまま綿々と続く場面に、中編に近いような幻想の強さを感じるんですね。
あとは「愛その他の悪霊について」も好きだなあ。
日本では「百年の孤独」が一番人気らしいですが、他の海外の国ではたいてい「コレラの時代の愛」が一番人気なんだそうで。
なぜかずっと邦訳されなくて、2006年にようやく読めた「コレラの時代の愛」ですが、私はそれほど好きではないかなー(汗)かなり現実が濃くて幻想の要素が少ないからというのもあると思いますが。
そう言えば、「コレラの時代の愛」に出て来る、結婚式の席次が突風で入れ替わってしまう、というエピソード、ジョナサン・サフラン・フォアのエブリシング・イズ・イルミネイテッドで使われていましたね。

他にも「ママ・グランデの葬儀」や「大きな翼を持った老人」などの短編の傑作もありますね。
ガルシア=マルケスの幻想的な世界観と、カルタヘナ由来の気怠い熱気を帯びた現実の描写は、今では私には懐かしい思い出のような光景になっています。
本を読めばいつでも戻れるはずなのですが、ご本人が逝かれてしまったことで、本当に手の届かない幻想の世界になってしまったような、そんな気もしています。

コロンビア、一度行ってみたいと思いつつ、治安が悪くてなかなか行けなかったのですが、最近は情勢も落ち着きつつあるようで、観光にも力を入れ始めているようです。
いつか、ガルシア=マルケスの世界を生んだカルタヘナに行ってみたいですね。
メデジンのエスコバルのお墓参りもいつかしたい…
そう言えばお墓はメキシコになるんでしょうかね。それとも故郷に戻るのでしょうか?
今から不謹慎かもしれないけど、お墓参りもいつか行きたいです。
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転移

2010年01月04日 | 読書

これも昨年の感想の積み残し・・・
栗本薫こと中島梓さんの最後の闘病日記「転移」を読みました。
あまりにもストレートでらしくないタイトルなので、没後につけられたものなのかと思ったら、本人によるものだったんですね。意外でした。
しかし、amazonのレビューを見たら、作品を読んだことのないお医者さんがタイトルにひかれて読んだとか書いてあったので、インパクトのあるタイトルなのかな・・・やっぱりさすが、なのかもしれません。

この本を読むに当たって、すごく気になっていたことがありました。
ホームページとか、亡くなるかなり直前に書いたグイン127巻のあとがきなどを読んでも、なんだかあまりにも「いつもの感じ」で、拍子抜けしたんですよね。
あれが本音なのか、それとも外向けに明るく書いていたのか、そこのところが知りたかったのです。
冒頭のプロローグで、最初はエッセイ風に書こうと思っていたけれど日記形式にした、と書いてありましたが、実際日記形式にした方が、本音に近いものが書かれていたように思いました。
「ガン病棟のピーターラビット」もそうでしたし、後書きやホームページの日記もそうですが、どうも人に読まれることを前提とした、営業っぽい書き方・・・と言ってしまったら言い過ぎですが、本心とは違う、外向けのこと書いてるかな、と思えるところがありました。
確かに、日記形式になって、「外向け」な感じがやや薄くはなってましたが、本当にこれが本音なのかな・・・という疑問は残りましたね。結局は出版されるつもりで書いていたんだろうし。
時々、旦那さんに向かって当たってしまった、というようなことが書いてあったりして、やっぱり本当に鬱々としたり取り乱してしまった時には書いてないんだろうな・・・と思いました。ある程度体調も気持ちも落ち着いた、「書く気」になった時に書いていたんだろうなと。
最初のうちはほぼ毎日書かれていて、まだ体調もさほど悪くないのか、書いていることも以前のエッセイと似たような感じがあります。
読んでいて、とにかく食べることに執着していることに驚いたのですが・・・これは「ガン病棟のピーターラビット」でもそうでしたが。
少しでも食べられるものを試行錯誤して食べようとするのは、生きようとする執念なのかもしれませんが・・・
でも、ちょっと調子が良くなるとステーキとか焼きそばとか食べようと思うのがすごいなーと(汗)「今日はこんなものが食べられた」ということが書いてあると、「病人がそんなこってりしたものを?」というような料理が挙げてあってびっくりです・・・
多分、食べるのがとても好きで、食べられなくなったことが相当ショックだったのかなあと思いました。「ガン病棟のピーターラビット」でも、自分が食べられないのに病院の向かいの築地市場ではグルメを求める人たちが群がっていて・・・なんて書いてましたが、自分が具合が悪くなって食べられなくなった数少ない経験を思い起こしても、食べられない時には食べ物のことなんか考えたくもなかったけどなあ・・・父も食べられなくなっても全然食べ物には固執してなかったし。
ご本人も摂食障害が・・・と書いてましたが、拒食方面にも過食方面にもそういうのがあったのかなあと思いました・・・
そんなこんなで前半の日記は、まださほど悲愴感もなく、ご本人も前向きに書いていて、その分鼻につくところもあったりして・・・多分、本当に自分が死ぬかも、という実感はなかったのかもしれません。
しかし、2009年が明けて検査の結果がかなり悪かったあたりから、いよいよ本当に死を覚悟したような悲愴感が漂いだし、読んでいて胸がつまりました。
ほぼ毎日書いていたのが、次第に間隔が空くようになり、その間隔がどんどん広くなり・・・書くのは全く苦じゃない人でしょうから、相当体調が悪かったことが窺われます。
それでも日々好きな着物を出来るだけ着て、できれば好きなところへお出かけして、ライヴをやって、料理をして、部屋を飾り、針仕事をし・・・一日一日を、出来る限り自分らしく生きようとする姿に、生きたいという壮絶な気持ちを見るようで、胸がつまりました。
最後に入院するかなり直前までライヴをやっていたのはホームページで知っていましたが、まさかあんな体調でライヴやっていたとは・・・びっくりしました。
それにしても不思議な闘病記だなあ、と思います。死を覚悟した人の悲愴感漂う手記でもなければ(それでもさすがにそれなりの悲愴感はありますが)、死を嘆くお涙ちょうだいの手記でもない。
正直、作家の最後の闘病記ということで、死を目の前にしての哲学的な思索とか、そんなものが読めるのかなと思っていたのですが・・・
その点では確かに拍子抜け、だったかもしれませんが、ああ、中島梓という人にとっての生きるということはこういうことだったのか、ということがひしひしと感じられる、ある意味壮絶な闘病記とも言えるな、と思いました。書いていることは淡々とした日々のことではあるけれど。
これは年末の記事にも書いたのですが、一昨年あたりから、中島梓さんもそうだし、樋口宗孝さんもそうですが、今までずっと「いて当たり前」だった方たちが早逝され、「生きる」ということについて考えるようになりました。
この闘病記は、その一つの答えを与えてくれたような気がします。一日一日を、自分らしく生きていくことが、生きていることの証なんだと。
以前飼っていた犬や猫のことを思い出すと、彼らには病気や死の概念がないので、体が動く限りはできるだけいつもと同じように過ごそうとするんですよね。本当に動けなくなるほんの前日まで普段どおりにしていたりするんです。
少し具合が良くなると、また少しでもいつもと同じことをしようとして・・・
人間は死への恐怖も、病気への恐怖も知っているから、その分生きていくのが辛いよな、と思います。それでも、一日一日を懸命に生きることが、生きていくということなんだなあ・・・と思いました。
そういう視点で読んでいると、死を見つめながらも嘆くこともなくもがくこともなく、日々を懸命に生きようとしていたこの人は、とても強い人だったのかもしれない、とも思いました。(楽観的な性質もあったとは思いますが・・・)
それにしても、ちょっと気になるのは、見事に自分のことしか書いてないな・・・ということですが・・・旦那さんや息子さんへの思いのようなことも少しは書いてあるのですが、大部分が自分自身のことなんですよね。陳腐なお涙頂戴の闘病記にしたくないという思いもあったかもしれませんが、どうも自分自身が一番大事な人だったんだな、と思えてしまいますが・・・
それとも、本当に死を目前にすると、皆そういうものなのでしょうか・・・
そう言えばamazonのレビューでも、ファンのことは全然考えてくれてなかったのがショックだった、と書いている人がいますが、確かにそうなんですよね・・・グインのラストまでのプロットを残しておくとか、そういうことは全くしようともしていない。
実際、結構いきあたりばったりで書いていたようなので、プロットの残しようもなかったのかもしれませんが。それとも、そういう形で自分の死を認めたくなかったのかも・・・
とにかく、死を前にして、自分が生きるということを何よりも優先していたのだな、なんてことも思いました・・・
入院してからは、ちゃんとした日記は1回しか書けず、手書きの判読し難い日記を2ページ、さいごにはPCで「ま」という一文字だけを残していました。その壮絶さにさすがに泣けてしまいました・・・最後の最後まで書こうとしていたんだなと。
最後の長文の日記の中で、いよいよ余命を宣告されたことを書き、「でもこれからこそ書かなければ」と書いていたのが胸を衝きました。
それでも、それ以上書けなかったのですね・・・朝日新聞に追悼の記事が載った時、ご主人の今岡清さんが「ノートに手書きで書き始めたけれど2ページで断念し、書くことができなくなってとても悔しがっていた」と言っていたと書いてありました。さぞ無念だったでしょう。私も本当に死を覚悟した、そこからの日記を読みたかったです・・・
読後には色々な感想が錯綜する感じではありますが、紛れもなく一人の人間が死を目前にするまでを綴った、壮絶な記録だと思いました。
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トーベ・ヤンソン ムーミン童話シリーズ

2009年06月04日 | 読書
実はゲド戦記の「さいはての島へ」と「帰還」の間にムーミンシリーズ読んでいたのですが。
このシリーズ、初めて読んだのは結構最近で、ほんの数年前でした。
読んでみて、面白くてびっくりでした。昔見てたアニメとは全然違う(笑)
コミックもあるようですが、ちらっと読んだ感じでは特に読みたいと思いませんでした。この童話シリーズが好きですねえ。
読んでみてびっくりしたのは、「本当は怖い~童話」じゃないけど、結構暗い話だったことです。
描かれている登場人物たちも実に後ろ向きだし。
意外にシニカルな話なのでびっくりしました。
その一方で、児童文学らしいというか、子供らしい心理がかわいく描かれているところももちろん魅力だと思いますが。
ムーミントロールのスナフキンに心酔する様が、年上の友達に憧れる子供らしい心理をよく表してるなーとか思うし。
スノークのおじょうさんの目先のことしか見えないところは女の子の愚かさとかわいさをよく表していると思います。トーベ・ヤンソン自身はそういう女の子だったとは全く思われませんが、よくわかってるなあと。
そんな愚かしくもかわいい女の子を好きだと思うムーミントロールの心理もまたよく書けてるなあと。この二人は子供の幼い初恋(それも幼稚園か小学校低学年の)の感じがよく出てるなあと思います。
そして、男の子らしく勇ましそうでいて、なんでもママが解決してくれると信じきっているムーミントロールがまたかわいいですねー。子供の頃ってそうだよなあと。
こういうあたりはまさに児童文学の魅力、と思うんですよね。
一方で、洪水が起きたり彗星が衝突しそうになったり・・・という物語の暗さについては、訳者あとがきでも、戦争が時代背景にあるということを言っていて、それはそうだろうなあと思います。
けれど、あとがきでは、こういう暗さは成功していない、だから後に明るい作風になった、というのですが、後期のムーミンパパ海へいくでもわかるように、暗さは影をひそめていただけで、実際には暗い方が本来の姿なんじゃないかと思うんですが・・・
私は青い鳥文庫で読んでますが、どうもこのあとがき、一面では確かに・・・と思うんですが、このシリーズの暗黒面???を無視して、良い子なところしか評価していない気がして、違和感があってならないです。
物語の背景の暗さもありますが、なんといっても暗いと思うのは、ムーミンパパが妻子を置いて、あるいは無理やり引き連れて放浪したがる性癖がある、というところですね。
このあたりあとがきでどう解説してるだろう・・・と思ったら、思いっきり避けて通られていたのでがっかり、でした。
このムーミンパパの放浪癖、ムーミンママの家庭的すぎる?ところと比較して、トーベ・ヤンソンの男女観を描いているようでとても興味深いと思うんですが。
後にトールキンの「終わらざりし物語」で「アルダリオンとエレンディス」を読んで、このムーミンパパとムーミンママのことを思いだしたものです。
どちらも、自由でありたいと、常に気持ちが外に向かうのが男、家庭を守りたいと気持ちが内側に向かうのが女、みたいな、男と女の根本的な違いによるすれ違いを描いているように思えるんですね。
ただ、トーベ・ヤンソン自身はムーミンママやスノークのおじょうさんのようなタイプの女性だったとは思えないし、ミムラやミイやおしゃまさんのような女の子たちも登場してますから、単純な男女観ではなく、一つの例かなーとは思いますが。
この「ムーミンパパ海へ行く」、暗くて嫌いという人も多いようですが、私は暗さの中にも何がしかの暖かさを感じます。
小さなトロールと大きな洪水では妻子を置き去りにして放浪していたムーミンパパが、今度は無理やりでも家族一緒に行こうとした、ということに、ちょっと感動したりもするのです。
一見無理やりだけれど、それでももう家族と離れまいと思ったんだなあと・・・
ムーミンママも、それがわかっていて、本当は家を離れたくないけれど、パパとも離れたくないから、愚痴ひとつ言わずについて行くんですね。
その結果ホームシックになって心のバランスを崩す様は見ていて怖かったですけど・・・(汗)
放浪癖と言えばスナフキンですが(笑)昔アニメで見ていたときはカッコイイ印象でしたが、原作では結構いい加減男ですよねスナフキン・・・(汗)
ただ、ムーミントロールの慰め方とか、ムーミン谷の仲間たちの中のエピソードで、小さい竜が自分になついてしまった時の処し方とか、結構悟ってるところもあったりして、そういうところは大人だなあと思ったりもしますが。
しかし、スナフキンの父親のヨクサルはただのいい加減な怠け者だと思う・・・スナフキンがこの父親似だとすると(いや間違いなくそうだけど)うーむ、ですが(汗)
そう言えば、ムーミンパパの思い出で、若き日のムーミンパパがスナフキンやスニフの父親と一緒に旅をしていた話をするけれど、どうも眉唾な気がしてならない・・・スナフキンともスニフとも偶然出会っているのに、その父親たちとパパが仲間だったなんて。
どうも、スナフキンやスニフのためにパパが作り話をしているのでは、という気がするんですよね。なので、最後にその両親たちが現れるのが、物語が本当になったみたいで、なんだかちょっと不思議なあったかい気持ちになったりします。もしかしたら彼らが見た幻想なのかも、とも思って。
あと、登場人物たちに、すごく後ろ向きで変わった人たちが多いのも印象的です。
弱虫で欲張りでヤキモチやきなスニフはまあ子供らしいとしても、ミーサとかホムサとかフィリフヨンカとか、面白いくらいに被害妄想で後ろ向きな登場人物が出てきますね。
その後ろ向きなキャラクターたちを否定せず、彼らなりの彼ららしい気持ちの落ち着き先を見つけて描いているところに、トーベ・ヤンソンの優しさと懐の広さを感じます。
特にそれを感じるのがムーミン谷の十一月ですね。ムーミン一家に会いたいとムーミン谷にやってきた人たちが、不在のムーミン一家が帰ってくる前に、自分たちで自分自身の気持ちの整理をつけて去って行くというこの物語、とても好きです。
皆が皆あくせく前向きに頑張らなくてもいいんだよ、後ろ向きな人だって自分らしく生きていいんだよ、と言っているようで、なんかすごく癒されるんですよね・・・。モモなんかもそうなんですが。
そんな中、私が一番の傑作だと思うのはムーミン谷の冬ですね!
フィンランドの厳しい冬の描写と、一人目覚めてしまったムーミントロールの自立していく様子が見事に描かれていると思います。
今回読んでいて、雪うまが子りすを乗せて走り去っていくところは泣けてしまった・・・
冬の描写もすばらしいけど、春の訪れの描写もまた素晴らしいんですよね。本当に名作だと思います。
そうそう、キャラクターではミイが一番好きですねー。昔アニメを見ていた時は、ミイって意地悪だから嫌い、と思ってたんですが、さすがに大人になったんだなあと(笑)
笑うか怒るしかしない、というのもすごいですが、ちょっとそんなに強くなってみたいな・・・という点でも憧れたりもしますが、やっぱり子供らしくてかわいいんですよね。
そう言えば、作品が進むごとに、最初一緒にいたスニフがいなくなったり、スノークのおじょうさんがムーミン屋敷に住んでなかったり・・・と微妙な変化があるんですが、このあたりはどうなってるのかなあ。
スニフは両親が見つかったからその後両親と住むようになった、とかならいいんですが、とか思ってしまいます。
しかしスニフの両親、「大掃除の日にいなくなった」ってどんな行方不明だ・・・(笑)
というわけでとりとめもなく長い感想になってしまいました。2冊ずつくらいに分けて感想書けばよかったかなあ・・・





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ゲド戦記「ドラゴンフライ-アースシーの五つの物語」「アースシーの風」

2009年06月02日 | 読書

ハードカバーも持ってるけど、文庫を持ち歩きたくて岩波少年文庫を買ってしまった2冊。
最初に邦訳された当時はまず「アースシーの風」が出て、その後に「ゲド戦記外伝」という形で今の「アースシーの五つの物語」が出たのですが、タイトルまで変わったんですねー。
訳も、比較はしてませんが少し変わってるようですね。「カワウソ」の中でのアニエブの台詞が変わってるのに気がつきました。
アイリアンの名前も、トンボと訳されていたのにご自身でも違和感があったそうで、ドラゴンフライと変えられてました。確かに名前の中にドラゴンとフライがあることがアイリアンの存在を示唆しているので、トンボだと違う気がしてしまうでしょうが、女性の名前でドラゴンフライというのもちょっと違和感ある気もしますが。
本のタイトルも、「アースシーの五つの物語」だけでも良かったような気もしないでもないですが。
で、その元外伝、現在は「ドラゴンフライ-アースシーの五つの物語」の感想から。
まず「カワウソ」は、「帰還」で提示されだした、女性がなぜ魔法にかかわらなくなったのか、という原因の萌芽が現れるまでの物語で、まだ女性も魔法にかかわっていた時代の話。女性にも大きな力を持っている者がいたことが、アニエブやモエサシの存在からわかります。
女性だけでなく、カワウソが得意としたものさがしの術がその後ロークの長から外されたりと、次第にロークが変化して行ったことも示唆されています。
この話と、最後の「ドラゴンフライ」は特に、最終巻「アースシーの風」で書くことの前段階、準備のように感じるのですが(いやでも他の話も考えてみればそうだな)、「ドラゴンフライ」は先のことを考えて書いたわけではないとのことなので、このあたりの話を書きつつ、最終巻の構想を固めて行ったのかなあなんて思います。
初読時はアニエブのエピソードがとにかく強烈で印象に残ってました。今回もそうではあったんですが、今回はもう少し話の本質にちかづいて読めた・・・かな?
またしばらくしたら再読してみたいです。
「ダークローズとダイヤモンド」「地の骨」については初読時と印象かわらず。
「湿原にて」は、すっかり話を忘れていて、イリオスが実はゲドなのでは、とか思ってしまった(汗)考えてみたら顔に傷ないですよね・・・(汗)
ゲドが大賢人時代とか、もっと若い時でも、活躍する外伝みたいな話がもっとあってもいいのになあ、なんてちょっと思ってしまいました。
「ドラゴンフライ」は、これで読むのは3回目なんですが、ようやく話が飲み込めて来ました(汗)
外伝がハードカバーで出る前に、文庫のアンソロジーに入っているのを読んだことがあるのですが、その時は本当にちんぷんかんぷんで・・・(汗)特にロークの長が色々出てくるんだけど、誰が誰やらよくわからなかったんですよね(汗)
今回は、「さいはての島へ」や「帰還」の記憶も新たなうちに読んだので、やっと話が通じた気がします(汗)
アイリアンは、ロークの魔法使いの世界をぶち壊す存在だと思いますが、それが女性だというのが面白い・・・というか、だからこそ女性なのだろうと思いますが。
テハヌーもそうですが、「アースシーの風」で重要な人物に選ばれたハンノキも、物を修繕する力という、ロークでは軽視されている力の持ち主なところが、世界が壊されて変わって行く徴なんだろうなあと思いました。

で、最終巻「アースシーの風」です。
初読時にはゲドの出番がすごく少ないな・・・と思いましたが、今回読んだら少ないなりになかなか印象的で良かったな、と思いました。
しかし、相変わらずアレン=レバンネンの気持ちがよくわからないなあ・・・
セセラクのヴェールが、当時よく取り沙汰されていた、アフガン地方のブルカをもろに思わせるのはちょっと・・・ですが(汗)
ずっと世間の目を気にして縮こまって生きてきたテハヌーが、ドラゴンになることで自由に空を飛び回る姿はやはり感動的ですね。
テハヌーを思ってル・アルビから西の空を見るテナーとゲドの姿も。最後のシーンが二人のなんてことはない会話なのもいいなあと思います。
全体としては、「帰還」で消化不良気味だったドラゴンのこと、アースシーの魔法のこと、などが上手いこと収束されているなあと感じました。まあ、これからアースシーの魔法がどうなるかまでは書かれていませんが・・・
ところで、以前琥珀の望遠鏡を読んだ時に、死者たちの開放があまりにも「アースシーの風」と似ていたのでびっくりしたんですが、ライラの冒険シリーズの方が先なんですね。ル=グインはあのシリーズは知ってたんでしょうか?
「ライラ-」では死者の魂を閉じ込めていたのは宗教だった、と書いてしまったので教会から大顰蹙をかったようですが・・・
「ゲド」では、死者を閉じ込めてしまったのは「永遠に生きたい」と願う魔法のせいだったわけなので、違うと言えば違うのかもしれませんが、人間の思想?が作り上げたものだった、という点ではやはりかなり共通点を感じます。外に出たとたんに溶ける様に消滅して行くという点も、閉じ込められていることが死者たちにとって苦痛であるという点も。
初読時には、ドラゴンたちが西へ行ってしまうことで魔法も失われていく、というあたりにトールキンとの類似をすごく感じたのですが、今回はこっちの方が気になりました。

というわけでゲド戦記シリーズ再読終わりましたが、なんだかんだと間が少し空いたりしたので、まだシリーズ通しての感想にはならないなー。まあ、作品自体途中かなり間を空けて書かれていますが。
文庫も手に入ったことだし、またそのうちシリーズ通し読みしたいです。
やっぱりル=グインのファンタジーは面白いなあ。やっぱり今度「西のはての年代記」シリーズも読もう。
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ゲド戦記「さいはての島へ」「帰還」

2009年06月01日 | 読書

なかなか書く暇がなかったのですが、ゲド戦記シリーズ再読終わっていたので、感想を。
なんとなく2冊ずつ書いて来たのでこの2冊の感想を書きますが、この2冊をまとめて、というのは何か違うような・・・(汗)物語の時間軸としてはほぼ続いているんですけどね。

まずは「さいはての島へ」。
1,2巻の感想を書いた時に、ハイタカは1巻のあと主役を降りている、と書いたんですが、あらためてこの3巻を読んだら、実はやっぱりハイタカが主役じゃ・・・と思えました。
というのも、初読時からそうだったんですが、どうもアレンに感情移入できないというか、何考えてるんだかよくわからないというか・・・
一見王になるアレンが主人公に思えるんですが、どうもアレンはむしろハイタカの最後の活躍を見守る語り部として登場させられているような気がしてならない・・・ハイタカの魔法使いとしての最後を見届けさせる存在として。
話の筋としては、以前読んだ時も筏の民と出会ってからが面白かったような記憶があったんですが、やっぱりそうでした。
ソレグの子孫の兄妹とか、自らを犠牲にして死者の国への道を開いたオーム・エンバーとか、終盤には結構感動的なエピソードが詰まっていて、素直に面白かったです。
そして、自分の力を棄てて世界を救うハイタカと、ハイタカを支えて生の国への辛い道を辿るアレンと。
ただ、この3巻を最高傑作とする人も多いようですが、私はあんまりピンと来ないというか・・・やっぱりアレンがよくわからないからかなあ(汗)

で、「帰還」です。
この4巻以降は、「ファンタジーに現実のフェミニズムを持ち込むな」みたいな感じで批判している人も多いようで、確かにそうかなあと思う面もあるのですが、私は結構好きだったんですよね、この話。
今回読み返してみて、やっぱり単純に面白く読めました。ファンタジーとしてどうとかではなく、一つの物語として。そういう意味では1~3巻よりもずっと面白かったかも。
虐待された子供であるテルーと、そのテルーに愛情を感じてやまないテナーのエピソードだけでも感動的ですし。
フェミニズムについては、確かに家事をやるのがどうとか、ロークの長たちが女だというだけで話を聞かないとか、現代でもまだ残っているような問題(?)が出てくるとちょっと引いてしまうのですが、古代からどうやって女性が社会から排除されてきたのか、なんてあたりを示唆していると思われるあたりの話は、なるほどなあと興味深く読めました。
2巻でテナーを登場させた時は、そこまで描こうとは考えていなかったと思いますが、テナーの存在があってこそ書けた話だなあと思ったりもしました。
テナーとテルーのエピソードはもちろん、コケぱぱと心を通い合わせるようになるあたりも良いですね。ごく普通の中年女性になったテナーの心情を細やかに描いていたのが、素直に感情移入できたし、面白く読めました。
ただ、ハイタカが力を失ってあまりにも抜け殻になってしまっているのに違和感が・・・。そのくらい覚悟してやったのだと思っていたのだけれど。そのあたりが3巻から続けて読むと違和感あったかな。
最後にテルーが竜だとわかるあたりの爽快な感動もいいですね。

もっといろいろ思うところがあったような気がするのですが、時間が経ったので忘れてしまったなあ・・・(汗)
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世にも不幸なできごと13 終わり(ネタバレ)

2009年03月22日 | 読書

昨年、草思社が倒産、というニュースを聞いた時、「レモニー・スニケットあと1巻で終わるのに~!」とあせったものでした・・・(汗)
このままあと1冊を残して邦訳未完で終わるのか、と心配しつつ、いつ出るか・・・とちょくちょくチェックしていたのですが、私が忙しくなってチェックしなくなった10月に出ていたとは(笑)
というわけで、2月にようやく最終巻を読みました。
12巻までの展開で、一体あと1巻でどうやって謎が解かれるのか、決着が着くのか・・・と思っていましたが、冒頭からまた新しい展開が。今までの謎が集約されるべく、今まで出てきた人たちがどんどん出てきたりとか、舞台が最初の方に戻ったりとか、そういうのが全くなく、新たな13個目のエピソードが展開されて行くのにちょっとびっくり・・・
三姉弟妹の両親の過去らしきものがちらっと出ては来ますが・・・
で、結局謎はほとんど解明されませんでした! ええ~!(笑)
そして大団円でもないし。このあたり、訳者あとがきにもありましたが、ありきたりのハッピーエンドにはしない、と宣言していた作者の意思かもしれませんが・・・
物語には本当は始まりも終わりもない、物語の前にもできごとは続いているし、物語の後にも続いて行く、という考え方には納得もするのですが。
まあ、オラフ伯爵との追いかけっこには終止符が打たれましたけど・・・そういう意味ではこのシリーズが終わり、とは言えるかな。
なんだか煙に巻かれた気分にはなりますが・・・アメリカ本国での評判はどうだったのかな。
この13巻で書かれているテーマは、身近な人から与えられるストレス「ピア・プレッシャー」についてとか、文明が進化すると争いが起こるけれど、果たして文明を放棄すれば平和になるのか、それが正しいのか、という、結構重いテーマについても描かれてましたね。このあたりは深いかなと思いましたが。
まあともかく、13巻までようやく読み終えることができました。
ここまで訳して来られた宇佐川晶子さんに拍手。言葉遊びで笑わせるところの多い、難しい翻訳を絶妙に訳されていたと思います。特にサニーの台詞の訳し方が好きでした。
もうサニーに会えないと思うとちょっと寂しいかな。ま、寂しくなったら映画のかわいいサニーでも観て和むことにします(笑)
コメント (2)
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ゲド戦記「影との戦い」「こわれた腕輪」

2009年01月24日 | 読書

思い立ってかなり久々に「ゲド戦記」を読み返しています。いやー「ファウストゥス博士」を読んだ後だとなんて読みやすいことか(笑)(「ファウストゥス博士の成立」はまだ読み終わってません・・・(汗))
数年前にソフトカバー版が出た時に、持ち歩き用に・・・と3巻まで買ってたのですが、今amazonでみたらもうユーズドしかない!? えー、この間まで本屋に置いてあったけど・・・
と思って本屋に行ったら、なんと岩波少年文庫版が出てる!? 今のところ影とのの戦いこわれた腕環しか出てないみたいですが、いずれ全部出るのでは。
がーん。文庫の方が小さくていいのに・・・しかもこのソフトカバー版、なぜか訳者あとがきがついてないのですが、文庫はちゃんとあった・・・
なんか悲しくなりましたが、4巻以降は文庫出てから買おう・・・
で、結局ソフトカバー版は買ったものの全然読み返していなくて、本当に文庫出るまで待ってれば良かったのに・・・状態なのですが(汗)本当に何年ぶりかの再読です。今「さいはての島へ」を読み始めたところです。
読んでいて面白かった・・・というか、今回初めてきがついたことなのですが、宮崎駿氏はやっぱりゲドの影響を受けてたんだなあ・・・という思う部分が結構ありました。
これ、宮崎氏が昔ル=グィンに「ゲド」のアニメ化を申し込んで断られていた、という話を聞いていたからこそ思ったことだと思いますが。
「ハウル」で、あまり変身していると元に戻れなくなる、という設定、どこかで聞いたような・・・でもよくある話かなあ、と思っていたのですが、「ゲド」からだったか・・・。
ル=グィンが「ゲド」を宮崎アニメでやって欲しいと思ったのがどの作品を見てだかはわかりませんが、ハウルのあれを観たら、ちょっとこの人に作って欲しいかな・・・という気になるかもなあと思いました。
というか、私が観たくなったのですよ、宮崎駿監督の「ゲド戦記」をね・・・色々と残念です。昔ル=グィンが断ってなかったら観られてたかもしれませんけどね。
「影との戦い」は、最初は結構さくさくと話が進んでたんですね。終盤の、影を追いつめるようになってからの話が本題だったんだな、と思いました。
この「影との戦い」、ハリポタと色々似てるなあと思ってまして、ハリポタは「影との戦い」と同じことを7巻かけてやってたのかな、なんて思っていたのですが、やっぱ全然違うな、とも思いました(汗)重さが違うな・・・
ハイタカは、自らの慢心から招いた失敗を、結局一生をかけて償うことになったのかなあと・・・
2巻目以降のハイタカは、魔法使いとして栄光を極めますが、自らを厳しく律している様は、自分の過ちを決して忘れていないことを窺わせます。ここまでの厳しさはハリポタにはさすがになかったですね。
終盤のカラスノエンドウとノコギリソウのあたたかさはホッとしますね。(LotROでノコギリソウをみかけるとちょっと嬉しくなります(笑))
「こわれた腕環」は、なんか思ってたよりももっとストレートにハイタカとテナーが恋に落ちてるように書いてあったなあと。4巻以降の展開を知っていて読んだからかもしれませんが・・・いや、3巻でテナーが出てこなかったので、「気のせいだったかな」と思っていたのかも(汗)
実はハイタカは既に主人公ではなく、テナーが主人公なのも面白いなあと改めて思いました。「さいはての島へ」ではアレンが主人公だし。ハイタカの物語は「影との戦い」で終わってたんだなあと・・・(いや終わりではないけれど、主人公としては)
そう言えば、成田美名子さんのコミックス「CIPHER」で、アニスが車の中で眠るサイファを見ながら、昔読んだ童話の一節を思い出す場面があるんですが、その童話というのがこういうのなんですよ。
「のぞき穴から洞窟を見下ろすと若い魔法使いが迷い込んでいる/ぼろぼろにやつれた頃助け出して/自分しか知らない場所に閉じ込めるんだ」
これって「こわれた腕環」だよなあ・・・。成田美名子さんゲド好きなんですかねえ。
CIPHERを読んでいた時は「ゲド」読んでなかったので気がつかなかったのですが、後に読み返していて気がついた事実でした。
てなわけで毎度ながら雑駁な感想ですが・・・
ああでも、文庫出るかもと思うと4巻から先が買えないので、続き読み返せないかなあ。(実は「帰還」だけ持ってないんですよね・・・)今ちょっと自分の中で盛り上がってるのでちょっと残念・・・
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ファウストゥス博士

2009年01月03日 | 読書
やっと読み終わった・・・何年越しで読んでたんだか・・・
いや~、読み終わる日が来るとは思えないくらい苦戦しましたが、ついに読み終わりましたねえ・・・
まだ同時収録の「『ファウストゥス博士』の成立」が残ってまして、これ読んでから感想書いた方が良さそうなんですが、これがまた結構長い・・・これまた同時収録の短編「マーリオと魔術師」よりずっと長い(汗)
というわけで、、「『ファウストゥス博士』の成立」を読んでからだと感想も忘れそうなので(汗)今、読む前の状態で本編の「ファウストゥス博士」の感想を書いてみようと思います。
これ、何年越しかというと・・・そもそも最初に読み始めたのは大学生の時でした。(何年前かは追及しないでください・・・(笑))
高校生の時に「魔の山」でトーマス・マンにハマった私は、大学時代に入手できるトーマス・マンの邦訳作品は全て買ったのですが、当時すでに一般には入手できない作品がありまして。
大学の図書館に、これもすでに絶版の「トーマス・マン全集」というのがあって、空き時間にちまちまと手に入らない作品を読んでました。(借りて帰っても、とても貸し出し期間に読み終えるようなものではなかったので・・・)
まず「詐欺師フェリクス・クルルの告白」を読み始め、それは読み終わったのですが、その次の「ファウストゥス博士」を読んでる途中で卒業しちゃったんですね~(汗)
これでもう読めないのかなあ・・・と思っていたら、数年後(何年後で今から何年前かは秘密(笑))、書店の店頭で「新潮世界文学」の中に「ファウストゥス博士」が入っているのを発見! 即購入したのでした。(この本も今は売ってないですね・・・やっぱ見かけたらすぐ買っとかないと)
で、読み始めたんですが・・・読みにくいんですわこの作品・・・(汗)
トーマス・マンは、「魔の山」や「ブッデンブローク家の人びと」だってすらすらとは読めないんですが、それにしても・・・なんですよね。
「ファウストゥス博士」はトーマス・マンとしては渾身の一作だったようで、実際技術的にはかなり高度な作品だというのもわかるんですが、それでも「魔の山」のように日本であまりメジャーにならなかったのは、この読みにくさにあるのかなあと。
トーマス・マンがすらすらと読めないのは、長編になると、余計なお喋り・・・と言ったらなんですが(汗)話が脇道に逸れて延々と議論が続いたり、地の文で長々と一つの思想について述べられたり、という部分がちょくちょく出てくるから、だと思います(汗)
しかし、他の作品の「脇道」は、そこそこ内容が理解できたりして、まあ読めるんですが、この作品についてはどうも話の内容が頭に入らないんですよね・・・
音楽理論についての部分がわかりにくい、という人もいるようですが、私はそのあたりはそんなに気になりませんでした。(いや音楽理論が理解できた訳ではなく、なんとなく雰囲気で読めてしまっただけなのですが)
それよりも、「ドイツ人によるドイツ論」が読みづらかったですね~。なんか、さっぱり話が頭に入らなくて・・・
あと、25章の悪魔との対話ですね・・・(汗)
大学の図書館では20章くらいまでは読んでいたようなんですが(全体の3分の1くらい)、買ってから最初から読み直したのかどうかの記憶はあまりないんですが・・・多分最初から読み直したのかな。
かなりゆっくり読み進んで、それでも25章くらいまでは行ったのですが、この25章の悪魔との対話のところでついに挫折、そのまま何年も寝かされてました・・・
が、昨年末に思い立って、とにかく頑張って一日2ページずつ読もう、ということでこつこつ読み進んでいったら、終盤話が進んだこともあり、ついに読み終わったのでした・・・!
全部読み終わってみると、終盤一気に進む悲劇に心を動かされるので、それまでとかなり印象が変わりました。
なんだかもう一度最初から読んでみたくなりましたが、なかなか難しいかな・・・(汗)いつか挑戦してみたいですけど。

前置きが長くなりましたが(汗)そんなわけで最後まで読んでみての感想です。
最後まで読まなくても、この話の主題が、「トニオ・クレーゲル」以来の、芸術家としての苦悩、芸術とは罪なのか、実生活との両立はできないのか、という二極論にあるということ、そして、ドイツ人として第二次大戦でのドイツの罪をどう考えるか・・・ということにあるのはわかります。
それに、トーマス・マン自身造詣の深い音楽を、ついに前面に出して来たなーと。
(実際には音楽理論についてはかなり取材したり教示を受けたりしていたようですが、それでももともとの音楽に対する理解がなければ書けなかったでしょう)
とまあそういう話だなと、読みながら思っていて、実際最後まで読んでいても、まあそういう話だったなーとは思いました。
ただ、終盤、そのあたりが一気に収束してきて、心を動かすまで持って来たのは、さすがだなあと思いましたね。
芸術に没頭することを悪魔との契約だと思っていたレーヴァーキューンが、それでも最後に、誰かに見守ってもらいたいと願って、皆をプファイフェリングに呼び集める件にはほろっと来ましたね。ああ、トーマス・マンらしいヒューマニズムだなあと。
ピアノの前で倒れ伏すレーヴァーキューンの姿には、ミュージカルで何ですが「モーツァルト!」のラストもちょっと重なって、悲しかったです。
それでも、晩年になって、芸術に奉仕することが悪魔と契約することだ、愛する者を全て奪い去らなければないほどのものなのだというような、ネガティブな作風になったことは、ちょっとショックかなあ・・・。晩年に向けて明るい作風になる人も多いのに。(不遇な晩年を送った人はまた別ですが)
ただ、音楽に例えれば、交響曲の終楽章が華やかに歓喜に満ちて終わるものは多いけれど、むしろ第一楽章の苦悩と絶望の方が好きな私としては、こういう終楽章の方が好きかもしれません。
(もっともトーマス・マン自身は特に絶望した晩年ではなく、恵まれて栄誉にも包まれた生活を送っていたようですし、この作品も別に遺作ではないですが)
音楽については、レーヴァーキューンが世代的に私が好きなバルトークとかプロコフィエフとかと同時代の作曲家ということで、彼の作る音楽についての描写を読みながら、どんな音楽なんだろう、聴いてみたいなあ・・・と単純にワクワクしました。
トーマス・マンの音楽への造詣は、もう「ブッデンブローク家の人びと」でも出てきますが、「ブッデンブローク-」にしても「魔の山」にしても、時代が時代なので、せいぜいワーグナーとかまでしか出てこなくて(「魔の山」にはドビュッシーも出てきたけど)、やや物足りない感じはしたのですが、今度は二十世紀の音楽が題材ですから、いよいよ本領発揮、といったところでしょうか。
まあ、この時代の音楽、聴いてみたら訳分かりませんでした、ということもありがちですが・・・(汗)特にシェーンベルクの十二音技法をレーヴァーキューンのものとして拝借した、と本文末尾にも注釈がありますが、シェーンベルクみたいな音楽なら多分私はよくわからない・・・(汗)
それでも、文章による描写で「聴いてみたい」と思わせる、トーマス・マンの描写力と音楽への造詣の深さはさすがだな、と思いました。特に「黙示録オラトリオ」はすごく聴いてみたいですね。
あと、はからずもこの作品は、今まで読んだ中で一番、トーマス・マンのホモ・セクシュアリティーを感じたかなーとも思いました。いや、「ヴェニスに死す」を読めばわかるでしょ、と言われそうですが・・・(汗)「魔の山」でも「トニオ・クレーゲル」でもそういうのありますし。
でも、この作品の中で、語り手のツァイトブロームが、奥さんも子供もいるのに、多分レーヴァーキューンのことを一番大切に思っていただろうと思われる言動に、なんか今までで一番そういうのを感じてしまいました。ゲイとまでは言わないけれど、奥さんよりも男の友情(というにはこの場合は一方的ですが)の方が大切、みたいな・・・
こういうの、ちょっとトールキンにもあるよな・・・というのも思いましたが(汗)まあ、例えば明らかに女好きなガルシア=マルケスとかとは違うんですよね、何かが(笑)
そうそう、後は「ドイツ人にとっての第二次大戦のドイツ」ということですが・・・レーヴァーキューンが正気を失ってしまうのがナチスが政権を取るより前のことなので、レーヴァーキューンの存在自体はドイツ論とはあまり関係ない・・・のかな。
このあたりちょっと拍子抜けだったんですが。まあ、実際にはトーマス・マンは早い段階で亡命しているので、渦中のドイツにはいなかったわけですが・・・。年譜を見たらちょうどレーヴァーキューンの昏倒の年に亡命してることになるんですね。
その後のドイツについては、ドイツに留まりつつナチスに反対していたらしい語り手のツァイトブロームが現在進行形で少しずつ語っているのですが、最後の方で、自分が反対したがために、同胞たちと同じ苦しみを味わうことから逃げてしまった、というようなことを書いているのを読んで、ああ、トーマス・マンも早くに亡命したことで、そういう負い目を持っていたのかな・・・とはっとするものがありました。
もっとそのあたりの心境を読みたかった気がしましたが・・・そこまで生々しい話を書くつもりはなかったということなのかな。

というわけで、読んでいるうちにはあまりピンと来ませんでしたが、最後まで読んでいたら色々と思うところも出てきました。そして、こういういくつかの素材を一つの作品に埋め込むテクニックはやはり老練の、という言葉がふさわしいと思いました。やっぱりすごい作品だな・・・と思いましたね。
でも、一般受けはしないな・・・というのも実感しましたけどね(汗)
いつかまた読み返してみたいとは思いますが・・・難しいなあ・・・(汗)文庫でもあれば・・・(昔は岩波文庫から出てたらしいですが・・・amazonでもユーズドが出てますけど、うーむ)
また「『ファウストゥス博士』の成立」を読んだら色々と違う感想も出てくると思うので、また感想書きたいと思います。
コメント (4)
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ガン病棟のピーターラビット

2008年12月20日 | 読書

今年の初めの方だったか、「グインサーガ」の新刊のあとがきを読んでいたら、栗本薫こと中島梓さんが胆管ガンのため12月に手術すると書いてあってびっくり。(本が出た時点では手術終わってたと思いますが)
昔乳がんの手術をされた時も、「グイン途中で終わっちゃったらどうしよう」なんて思ったりしたものでしたが、無事に手術も済み、再発も全くないようですっかり安心していましたが、また違うガンになってしまうとは・・・
その後のグインのあとがきで、無事退院もされているようですが、抗がん剤治療も続けているようで、「時間との戦いになってきた」なんて書かれていたので、転移してたのかもしくは取りきれなかったんだろうなあというのは感じていました。はっきりとは書いてなかったけれど。
その後の経過も知りたかったし、入院されていた病院にうちの父も入院してたりしたので親近感もあったりして、読んでみました。父は1階下の17階だったんですよね。(時期は重なってませんが)18階が特別病棟だなんて知らなかった。ちょっとのぞいてみればよかったなあ(笑)
乳がんの時の闘病記「アマゾネスのように」は読まなかったんですが・・・
読み終わったあとでしたが、樋口宗孝さんも癌でなくなり、いろいろと考えさせられるものがあります。最近の公式サイトの日記では、食べた後お腹が痛くて苦しんでらっしゃるようで、心配です・・・うちの父もそうだったから。原因が同じとは限りませんけど。
そんな中島梓さんの、黄疸の症状が出て、実は胆管のガンが原因だったことが判明するあたりから、入院、手術、手術後の経過と、つれづれの気持ちを書きとめたエッセイ集です。書き口が相変わらず読みやすいので、するすると読めました。
ピーターラビットってイメージじゃないなあ・・・(失礼(汗))と思っていたら、ご主人が入院中のお見舞いに持ってきた置物の人形のことだったんですね。
小説家としてたくさんの人間を殺して来たし、身近な人の死も経験していながらも、やはり実際に死を意識させられる大病の経験というのは大きかったようで・・・「生きたい」という切実な思いをひしひしと感じました。
死ぬかもしれないという思いを見つめつつ、その時々の思いを書きとめている様子には、胸を衝かれますね・・・
一方で、お嬢様なんだなあ、と思わせるような率直なことも書いていて、ああ、こういう人なんだ、だから嫌われたり攻撃されちゃうんだなあ、なんてことも思ってしまいました(汗)
例えば、告知についての考え方も、私自身は全く同意見ではあるんですが、告知されても死ぬかもしれないという現実を受け止められない人というのも存在するわけで・・・
皆があなたのように頭が良いわけではないんだけどな、とつい反感を持ってしまう部分もありました。
非常に頭の良い人で、弱い人間の心理も理解しているけれど、どこかで弱かったり愚かだったりしている人々を見下している・・・わけではないんだけれど、ある意味お姫様が下々を理解できないような(汗)そんな感じがしてしまうんですね。
そういう意味では、やっぱりリンダは彼女の分身だなあと思ったりします。リンダはそんなに頭が良くないので(汗)許せてしまうんだけど。
そういうところが、「グイン」の登場人物でも、一部の人々への扱いの酷さにつながってるような気がして、どうも作者にしいだけられているキャラ(レムスとかシルヴィアとかアムネリスとか)が好きな私としては「彼女の作品のこういうところが好きになれないんだよな・・・」と思ってしまったりもしました。
ただ、自身でも「マザーテレサコンプレックス」と書いていて、人のために尽くすことはできないタイプで、そのことに罪悪感を感じる、と率直に書いているあたり、正直な人だなあとも思います。
きっと頭はいいけど不器用な人で、それで反感を買う人からは反感を買うんだろうなあ・・・なんてことを思ってしまいました。
だいたい、ネットで攻撃されて反撃するなんて、なんて馬鹿なことをするんだろう・・・と私などは思ってしまうのですが(汗)実名vs.匿名の多数の人たちの戦いなんて分の悪いこと、するだけ無駄だと思うんだけど・・・それでも反論せずにはいられない、そういう真っ正直で不器用な人なんだなあ、と思いました。
なんて、一介の読者に色々勝手に分析されてしまって、物書きというのは大変な職業だなあ、と思ったりもしますが(汗)
あと、実際の手術や治療の経過のことも当然書いていて、父の病気のこともあったので色々と興味深く読みました。
手術するというのは大変なことだ、次にもう一度手術をすると言われたら考えてしまう、というのは共感しますね。
私自身のことではないけれど、手術後にほとんど身動きもできず、回復にもかなりかかった父の姿を見ていて、手術なんてするもんじゃないな、私だったら放射線治療を選択するな、と思ったものです。
手術後に出てくる「せん妄」という症状(頭が混乱して認知症のような状態になる)についても、なるほど、と思うところがありました。父もなったのですが、なぜそういうことになるのかがわからなかったので・・・
手術直後には身体からたくさんの管が出ていて、そういう通常と違う状態にあるというショックから、一時的にせん妄状態になる人が多いそうです。
中島梓さんはせん妄にはならなかったそうで、精神的に強いということのようでした。なるほど、自分の状態を精神的に受け入れられないとせん妄になるんだなあと。
父は、手術後だけでなく、最後の方もせん妄状態になったのですが、痛み止めのモルヒネのせいなのかと思っていたのですが、お医者さんは「病気がさせていたことだと思いますが」と言っていて、薬のせいではなかったようです。
中島梓さんのせん妄についての話を読んでいて、ああ、父は自分が死ぬという事実を受け入れられなくてせん妄状態になったんだなあ、と思いました。
人間の心って上手くできているんですね。精神的に現状を受け入れられなくなったら、バランスを取るように出来ているんだなあ・・・。
中島梓さんは、自分で自分がわからなくなってしまうような状態になることは物書きとして耐えられない、と書いてましたが、こうやってその時々の自分の思いを見つめている彼女のことだから、きっと最後までしっかりと意識を保った状態でいるのではないかなあと思いました。
最後にあとがきで、肝臓への転移が見つかったことなどが書いてあって、引き続き闘病されていると書いてありました。その後の経過は、グインの後書きとか、ホームページの経過報告で見ることができますが。随時闘病記も書いてらっしゃるようなので、そのうちまたエッセイ集が出るかもしれません。
樋口さんのこともあるし、今後の経過も心配ですが・・・
でも、がんが全身に転移しながら何年も頑張った絵門ゆう子さんのような方もいらっしゃるし、それを思えばそこまで転移しているわけではないわけだし・・・
治療が上手く行って、回復される日が来ることを祈ります。
抗がん剤治療はかなり辛いようで、「ガンで死ぬか抗がん剤で死ぬか」と書いていたのは(これはホームページの経過報告ですが)わかりますが・・・。父もそうだったし。樋口さんもそういう感じだったのかなあ、なんてことも考えてしまいました。
何はともあれ、闘病生活が少しでも楽になり、回復されるようにお祈りします。
そして、また無理をせずとも思う存分執筆できる状態になられますように・・・
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ジェダイ・クエスト7,8,9,10(ネタバレ)

2008年11月17日 | 読書




すっかり感想書く暇がないうちに、シリーズ最終巻まで読んでしまいました・・・

まずは7巻。要約すると、それまで数巻にわたって溝が深まっていたアナキンとオビ=ワンの関係が、アナキンが素直に苦悩を打ち明けたことで解消、という感じ。
なんだ、そんな簡単なことだったのか・・・とちょっと思わないでもないですが(汗)ようやくEP2の設定に近づいて来た感じです。
そうそう、EP2冒頭のオビ=ワンの台詞にあった「ガンタークの巣に落っこちた」というエピソードがでてきて、おお、という感じ。でも、ガンタークってなんか鳥みたいなイメージだったんですが、こんな人間型のモンスターだったんだ・・・なんかやだなあ。

そして8巻。ジェナ・ザン・アーバーを追って犯罪者をかくまう惑星に乗り込んだオビ=ワン、アナキン、シーリ、フェラス。アナキンが一皮剥けてフェラスと結構上手くやれるようになっているのにおお、という感じ。
今まで、アナキンが悪くてフェラスが正しい・・・という図式だったんですが、この巻ではオビ=ワンもフェラスの堅物ぶりにちょっといらだったり、フェラスよりもアナキンの方が友達が多いということもわかったりして、ちょっとアナキンの株が上がった?
でも終盤、堅物すぎると思われていたフェラスの考え方がやはり正しかったのでは・・・というニュアンスを含んで終わるのが、やっぱりなーという感じではありましたが。

9巻の内容をあまりおぼえていなかったりして(汗)
メインの話は、オビ=ワンの友人のアストリとの悲しい決別と、元老院議員の友人のなんとかさん(名前忘れてるし・・・)の死というあたりでしたが、ジェダイ・アプレンティスシリーズ読んでないし、特に感慨はなかったりしました(汗)
パルパティーンがアナキンに接触しだしたのがこのあたり、というのもちょっと面白かったですかね。まあまださわりだけ、という感じでしたが。

そして最終巻の10巻。久々に1巻に出てきたマスター&アプレンティスの4組が揃うのが、懐かしくも終末を予感させて悲しくなります。
最終的にどうなるのかは、スターウォーズ全史でわかっているはずだった・・・のですが、トゥルーが死ぬのかと思ってた・・・その意味ではちょっと衝撃でした。ダラ好きだったのになあ・・・
トゥルーがアナキンから離れてしまう理由は、わからないでもないけどちょっと厳しすぎるような気がしましたが・・・誰にだって過ちはあるし、それが許されないとなると・・・
まあ、友人の死につながってしまったという点では、取り返しの付かない過ちではあるのですが。
それとも、ジェダイだからこそ許されない、のかな。それもまた厳しすぎる気がしますが。
オビ=ワンも、この事実を知ったらアナキンを受け入れられたかどうか。
親友を失い、一人になりつつも、そういう感情を切り捨ててひとつ成長・・・というか強くなった、という結末は、ちょっとあっさりしすぎな気もしましたが。
しかし、この後にEP2でパドメと再会して、ああいう結果になるわけだから、このラストとはちょっとつながらないような気もしますが・・・
そういやグランタ・オメガ死んでましたが、なんかクローンウォーズのコミックスで出てきてたような気がするんだけど・・・?

とまあ、多少のつながらないなーというところはありましたが、子供だったアナキンが自尊心とジェダイとしての節制の間で揺れながら、EP2に登場する自信過剰な若者の姿になるまでの過程として、なかなか上手く描いていたかなーと思いました。
でも、こんなに長々と書く話でもなかった気もしますが・・・(汗)まあ、ファンサービスもあるのかな。
個人的には、ちょっとアナキンに冷たい設定かなーと思ったのですが。ダークサイドに堕ちたのは結局アナキンが悪かったという解釈なんだろうなあ。なんかラスト・オブ・ジェダイの解釈が好きになれなかったもんで・・・
フェラスがもうちょっと好きになれれば、ラスト・オブ・ジェダイシリーズも読むんだけどなあ・・・
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