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佐藤優『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』小学館、2006

2006-08-29 23:32:08 | 日本近現代史
 大川の『米英東亜侵略史』の本文と、それに対する佐藤の評論で構成した本。佐藤の文章はさすがにレベルが高いが、同意できない点が多い。
 大川を、そして同書を高く評価し、同書の論理を法廷で展開すれば有効な反撃になっただろうという。そして、大川が精神鑑定の結果正常と判断されてからも法廷に戻されなかったことについて、「アメリカ人が怖じ気づいたのだと筆者は見ている」というが、そうだろうか。
 既に大正時代に近衛文麿が「英米本位の平和主義を排す」を発表していることからもわかるように、『米英東亜侵略史』のような見方(言ってみれば、現代の大東亜戦争肯定論のようなもの)はある程度当時の国民の基本認識であったのではないか。そして、そうした論理を法廷で明らかにしたとしても、何ら有効性はなかったと思われる。現に、法廷では、清瀬一郎をはじめとして、弁護人たちはこの裁判の有効性を問うさまざまな論理を展開している。しかし、それらは裁判で一顧だにされていない。なぜから、これはあらかじめ結論が決まっている政治裁判であるからだ。仮に大川が出廷していたとしても、それを覆せた、あるいは有効に反撃できたとは思えない。
 大川が法廷に復帰しなかったのは、結局のところ大川自身の戦争への関与が低かったからであろう。大川は、ナチスのローゼンベルグのような存在ではなかったということが判明したからではないか。
 また、日本やドイツ、イタリアは「棲み分け」を主張したのだとしているが、そうだろうか。ドイツのチェコ併合、ポーランド侵攻、日本の仏印進駐は「棲み分け」の範囲を超えていたのではないか。
 また、大東亜共栄圏を「あなたを苦痛から解放するために、当面あなたの苦痛はもっと大きくなりますが、我慢してください」という善意の論理によるものとしているが、たしかに理念としてはそうかもしれないが、実際の朝鮮・台湾や占領地での日本のふるまいは違うのではないか。韓国や中国にしてみれば、大川著と全く同様の「日本東亜侵略史」が記述できると思うが。
 思うに、佐藤は、本文中にもあるように、収監されてから、同じく収監歴を持つ大川周明に本格的に着目したのだろう。そして、大川の著作が、日本ファシズムのイデオローグというイメージと異なり、学術的、理論的であることに驚いたのだろう。また、欧米列強の侵略に対するアジアの解放という主張も、それ自体としては誤っているとは言えないことに新鮮味を感じたのだろう。おそらく、それまでは戦前・戦中期の日本の外交や戦争について、あまりかえりみることがなかったのではないか。しかし、その見方は一面的すぎる。
 あとがきで、日本人としての国家観を確立するための書として、大川の『日本二千六百年史』や北畠親房『神皇正統記』、文部省『國體の本義』などを「一切の偏見を排して、テキストとして」読むことを薦めているのだが、大丈夫かという気がする。このうち『國體の本義』は目にしたことがあるが、あんなもの、それこそ獄中でなければ読めたものではないと思うが。「それによって私たちが日本人であることの魂(大和魂)が甦ってくるのである」って・・・。いろいろ模索しているのだろうし、右傾化の進む昨今ではそれなりに評価されるのかもしれないが、何か方向性を間違えているのではと心配になる。
 大川や『國體の本義』が読まれた世相を推し進めた結果が、敗戦だったのである。佐藤氏はその点に対する見方が甘いのではないか。また、「一切の偏見を排して、テキストとして」読むことに、あまり意味があるとは思えない。何故なら、著作物というものは所詮時代の制約の中で書かれたものであり、時代背景を抜きにして「読み解く」ことは誤読につながりかねないからだ。


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