A級戦犯のうち文官で唯一死刑になった広田弘毅を描いた小説として、城山三郎の『落日燃ゆ』(新潮文庫)があり、評価が高い。私も昔読んで感動した。
しかし、昭和史についての知識を深めるに伴い、果たしてこれは真実の広田像なのか、疑問に思うようになった。
というのは、広田は玄洋社と関係が深く、頭山満の葬儀委員長を務めるなど、右翼色の強い人物ではないかと思われるからだ。たしかに松岡や白鳥などとは違うタイプのようだが、少なくとも軍部や右翼方面には受けがいいから起用されたのではないか。そしてそれが、死刑に処されたことに大きく影響しているのではないだろうか。
『落日燃ゆ』では時代の制約の中で軍部に抗した政治家として描かれているが、それは正しい見方だろうか。抵抗らしい抵抗を見せなかったというのが、正確なところではないだろうか。当時の世相や、明治憲法下の制約を考えると、厳しい言い方ではあるだろうが。
広田の人物像やその役割について、今後も考察していきたいと思う。
ただ、『落日燃ゆ』のラストシーンについて、強調しておきたいことがある。
処刑される際、広田らの前の組が「天皇陛下万歳」を唱えた。それを聞いた広田は、教誨師の花山信勝に言った。
(以下引用)
「今、マンザイをやっていたんでしょう」
「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも、聞えたのではありませんか」
仏間に入って読経のあと、広田がまたいった。
「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」
花山はそれが万歳のことだと思い、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といい、「それでは、ここでどうぞ」
と促した。
だが、広田は首を横に振り、板垣に
「あなた、おやりなさい」
板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。
広田は、意識して「マンザイ」といった。広田の最後の痛烈な冗談であった。
万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。
(引用終わり)
初めて読んだとき、この箇所にも感動したものだ。
しかし、これは城山の創作ではないのか。
というのは、城山が参考資料に挙げている、花山信勝の著書『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』(朝日新聞社、S24)によると、「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」までのやりとりは同じだが、
(以下引用)
「それでは、ここでどうぞ」
というと、広田さんが板垣さんに、
「あなた、おやりなさい」
とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。もちろん、手はあげられない。それから、仏間の入口に並んで、みなにブドー酒を飲んでもらった。このときは、米兵の助けをからず、私がコップを持って、一人々々全部に飲ませてあげた。広田さんも、おいしそうに最後の一滴まで飲まれたし、板垣さんの如きは、グッと元気よく一気に飲みほされた。
(引用終わり。ただし、旧字は新字に直した)
とあるからだ。そして刑場に入り、処刑されたと。
万歳を「マンザイ」と読む読み方もあり、広田はそれにならっただけで、万歳を皮肉る気持ちなどなかったという説を聞いたことがある。花山によると、広田もそれに加わったのだから、そう考えるのが妥当ではないかと私も思う。
しかし、城山は自分の描きたい広田像に合わせて、事実を改変した。その直前まで『平和の発見』からの引用が何箇所もある(脚注で明記されている)のだから、読者はこの箇所も同書に基づく事実だと誤解しかねないにもかかわらず。
いかに小説とはいえ、このような書きぶりが許されるのだろうか。私のように、『落日燃ゆ』のように広田は天皇陛下万歳を拒否して死んだのだと信じている読者は多いだろう。私が、同書の広田像の見直しが必要ではないかと考えるのは、まず何よりもこの問題があるからだ。
(以下2009.3.26追記)
『落日燃ゆ』のラストシーンが『平和の発見』と異なるのではないかという疑問は、両書を併読した者なら誰しもがもつことだろう。
小谷野敦のブログによると、『落日燃ゆ』の刊行当時に、既に平川祐弘がこの点について批判しているという。
しかし、昭和史についての知識を深めるに伴い、果たしてこれは真実の広田像なのか、疑問に思うようになった。
というのは、広田は玄洋社と関係が深く、頭山満の葬儀委員長を務めるなど、右翼色の強い人物ではないかと思われるからだ。たしかに松岡や白鳥などとは違うタイプのようだが、少なくとも軍部や右翼方面には受けがいいから起用されたのではないか。そしてそれが、死刑に処されたことに大きく影響しているのではないだろうか。
『落日燃ゆ』では時代の制約の中で軍部に抗した政治家として描かれているが、それは正しい見方だろうか。抵抗らしい抵抗を見せなかったというのが、正確なところではないだろうか。当時の世相や、明治憲法下の制約を考えると、厳しい言い方ではあるだろうが。
広田の人物像やその役割について、今後も考察していきたいと思う。
ただ、『落日燃ゆ』のラストシーンについて、強調しておきたいことがある。
処刑される際、広田らの前の組が「天皇陛下万歳」を唱えた。それを聞いた広田は、教誨師の花山信勝に言った。
(以下引用)
「今、マンザイをやっていたんでしょう」
「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも、聞えたのではありませんか」
仏間に入って読経のあと、広田がまたいった。
「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」
花山はそれが万歳のことだと思い、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といい、「それでは、ここでどうぞ」
と促した。
だが、広田は首を横に振り、板垣に
「あなた、おやりなさい」
板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。
広田は、意識して「マンザイ」といった。広田の最後の痛烈な冗談であった。
万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。
(引用終わり)
初めて読んだとき、この箇所にも感動したものだ。
しかし、これは城山の創作ではないのか。
というのは、城山が参考資料に挙げている、花山信勝の著書『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』(朝日新聞社、S24)によると、「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」までのやりとりは同じだが、
(以下引用)
「それでは、ここでどうぞ」
というと、広田さんが板垣さんに、
「あなた、おやりなさい」
とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。もちろん、手はあげられない。それから、仏間の入口に並んで、みなにブドー酒を飲んでもらった。このときは、米兵の助けをからず、私がコップを持って、一人々々全部に飲ませてあげた。広田さんも、おいしそうに最後の一滴まで飲まれたし、板垣さんの如きは、グッと元気よく一気に飲みほされた。
(引用終わり。ただし、旧字は新字に直した)
とあるからだ。そして刑場に入り、処刑されたと。
万歳を「マンザイ」と読む読み方もあり、広田はそれにならっただけで、万歳を皮肉る気持ちなどなかったという説を聞いたことがある。花山によると、広田もそれに加わったのだから、そう考えるのが妥当ではないかと私も思う。
しかし、城山は自分の描きたい広田像に合わせて、事実を改変した。その直前まで『平和の発見』からの引用が何箇所もある(脚注で明記されている)のだから、読者はこの箇所も同書に基づく事実だと誤解しかねないにもかかわらず。
いかに小説とはいえ、このような書きぶりが許されるのだろうか。私のように、『落日燃ゆ』のように広田は天皇陛下万歳を拒否して死んだのだと信じている読者は多いだろう。私が、同書の広田像の見直しが必要ではないかと考えるのは、まず何よりもこの問題があるからだ。
(以下2009.3.26追記)
『落日燃ゆ』のラストシーンが『平和の発見』と異なるのではないかという疑問は、両書を併読した者なら誰しもがもつことだろう。
小谷野敦のブログによると、『落日燃ゆ』の刊行当時に、既に平川祐弘がこの点について批判しているという。